想いのたどりつく処 −27
僅かに、カカシは動揺した。 イルカの注意も一瞬、カカシの方に逸れる。 その、ほんの一瞬の隙に男は行動を起こした。 イルカの持つクナイに、自らぶつかり頬を切らせて血を滴らせ、眼にも留まらぬ速さでサンダルを脱ぎ捨てると、裸足の足裏を血の飛び散った地面に叩きつけたのだ。 「口寄せッ!」 「イルカ先生!」 男とカカシは同時に叫んだ。 イルカは反射的に男から跳び退き、カカシも後ろに跳んで距離をとる。 (足裏に術式を仕込んであったとは―――!) 盲点だった。武装を解除させ、拘束してそれで万全だと思っていたわけではないが、男がそういう手で来るとは予想外だった。 ドンッと衝撃音がして、何かが姿を現わす。 サクラが驚いて眼を瞠った。 「な、何あれっ」 そこに現れたのは、彼女が見た事も無い―――いや、カカシやイルカでさえ、文献でしか知らない生き物だったのだ。大きさは馬の二倍程で、その姿は伝説の龍によく似ていた。蛇の身体に四肢が生え、頭にはツノを持っている。 口寄せの勢いを借りて手足の拘束を解いた男は、ニヤリと笑って立ち上がった。 「下がれ、蛟だ! ナルト、イナリ君とサクラを護れ!」 突然現れたわけのわからない生き物に呆然としていたナルトは、イルカの声で我に返った。 急いで玉をサクラに渡し、影分身を数対出現させてサクラ達の盾になる。 「逃げろ、サクラちゃんッ!」 「イナリ君、こっち! 早く!」 サクラはナルトの言う通り、イナリの手を引いて走り出した。イナリや自分がいては、戦いの邪魔にしかならないし、第一危険だ。 「お姉ちゃん、何あのお化けッ」 「蛟よ!」 「ミズチ?」 イルカの『蛟だ』という一言で、サクラは己の記憶から知識を掘り起こしていた。 以前、本で読んだ事がある。あれが本当に蛟ならば、相当に厄介な相手かもしれない。 「術で生み出された、一種の妖怪よ! あんなものと契約しているなんて!」 イナリとサクラが避難した事を視界の隅で捉えつつ、カカシは叫んだ。 「サスケ! 火遁!」 やはり蛟の出現に度肝を抜かれていたサスケも、その声に反応して素早く印を結ぶ。 「豪火球!」 サスケの豪火球が蛟を襲う。が、龍の眷属たる蛟はその程度では怯まない。カッと口を開き、水遁よろしく大量の水を勢いよく吐き出して火球を相殺する。 「チッ…効かないか」 サスケは苦々しげに顔を歪めた。あの蛟とやらは、硬そうな鱗でびっしりと身体を覆っている。クナイや手裏剣が効く相手とは思えない。火遁の術が効かないなら、どうやって倒すか――― イルカは、蛟に関する事柄を懸命に思い出そうとして―――そして、ハッとして叫ぶ。 「サスケ、ナルト、下がっていろ! 蛟は毒を吐く!」 「でもよっ………先生!」 「来い! ウスラトンカチ!」 サスケはナルトの襟首を引っつかみ、有無を言わさず風上に向かって駆け出した。 「サスケ!」 「いいから、離れるんだ! オレらはまだ耐毒訓練してないだろ!」 霧の男は、逃げるサスケとナルトにはまるで眼をくれず、イルカに視線を向けた。 イルカの一撃で鼻骨を折られた男の眼には、暗い憎悪が宿っている。 「アンタには借りがあったな。………蛟竜! 先ずは黒髪の男を殺れ!」 男の命令に従い、蛟の頭がぐるりと廻ってイルカに向いた。 蛟が襲い掛かってくるのと同時に、イルカも地面を蹴って更に後ろに跳ぶ。が、森の中である以上、避けて跳ぶのにも距離に限界があった。イルカは小刻みに方向を変えつつ、蛟の顎から逃れるより他無い。 「イルカ先生!」 カカシは、何とか蛟に有効な一撃を加えられないものかと唇を噛む。 イルカと蛟の動きを眼で追っていたカカシは、男が戦闘を蛟に任せて身を翻したのに気づいた。 (アイツ、蛟に足止めさせて逃げる気―――いや、あの方向は!) サクラとイナリが逃げた方角だ。 嫌な予感がした。 だが、反射的に男を追おうと踏み出しかけたカカシの足が止まる。 男の後を追いたかったが、イルカ一人を蛟と戦わせるわけにはいかない―――そんなカカシの迷いを吹き飛ばすようにイルカが怒鳴った。 「行って! カカシさん!」 「イルカ先生!」 「あの男を逃がしたらいけない!」 瞬間、イルカとカカシの視線が絡み合う。 何の為にここまで来たのか、とイルカの眼が言っていた。 落成式への招待は、都合の良い口実になったに過ぎない。イルカとカカシの真の目的は、カカシが奪われた記憶とスキルを取り戻す手段、その手掛かりを捜すことだ。 あの男は、重要な手掛かりになる。目的を考えれば、逃がすわけにはいかなかった。 イルカの強い視線に押されるように、カカシは走り出した。 要は、あの男を速やかに捕らえて、再び拘束すればいいのだ。 そうすればまたイルカの加勢に戻れる。 記憶を取り戻したいという気持ちは強い。だが、それ以上にイルカを失う事が怖かった。 (オレが記憶を取り戻せたって……アンタがいなきゃ意味無いんだ!) サクラは必死に走っていた。自分一人ならばもっと早く走れるが、足を怪我しているイナリを連れているので思うように進めない。 ひたすら、イナリを戦いから遠ざける事だけを考えて走る。 (…大丈夫…大丈夫よ、先生達なら、蛟なんかに負けやしない…! サスケ君だっているんだもの…!) と、その時背後から迫る気配に気づき、思わずサクラは足をもつれさせそうになる。 「大丈夫? お姉ちゃん!」 「へ、平気よ!」 (………誰か追って来ている………まさか、あの男?) 無意識のうちに、サクラはナルトが寄越した玉をぎゅっと握り締めた。 「もうちょっと頑張ってね、イナリ君!」 そう言いざま、後ろに向かって牽制の手裏剣を放つ。 「見当違いだな、小娘!」 (ウソ………ッ) サクラの眼前に男が立ちふさがった。 サクラは慌ててイナリを引き寄せ、方向転換した。 森の木と自分達の小柄さを利用して、何とか男の追跡を振り切ろうと努力する。 「小娘! その玉を寄越せ! そうすれば命までは取らぬ!」 サクラはハッとして、自分が握り締めている玉を見た。 (…これ…? これが欲しくて追って来たの? アイツは。そういえば、ナルトが出して見せた途端に反応した………しらばっくれていたけど、やっぱり何かあるんだ、これ!) サクラは逃げながらイナリに問い質す。 「イナリ君、これアンタがナルトにあげたんだよね。元々アンタのだったの?」 「玉の事? 拾ったんだよ!」 「何処で?」 「橋の近くの草むら!」 ―――橋。 間違いない、とサクラは確信した。 (これ、あの術と関係ある…! カカシ先生の記憶と………!!) ならば、絶対に渡せない。 「イナリ君、あいつ、この玉を狙ってる…! アンタはこのまま一人で逃げなさい! 人の大勢いる方へ行くのよ!」 イナリは何か言おうと口を開きかけたが、サクラの意図を悟って唇を噛み、頷いた。 「気をつけてね、お姉ちゃん!」 「アンタもね!」 イナリを逃がし、サクラはイナリとは反対の方向に走る。 案の定、男はイナリを無視してサクラを追って来た。 (アイツ、先生達を蛟で足止めしたんだわ…! なら逆に―――!) サクラは、小屋の方へ足を向けた。 蛟の方へ戻る事になるが、自分一人ではいずれ追いつかれてしまうだろう。そうなれば、この玉を守りきる自信は無い。 「待て! 小娘!」 「誰がッ!」 (―――待つか、しゃーンなろォォォッ!) サクラは心の中で雄叫びを上げ、がむしゃらに走った。 「ええい、ちょこまかと!」 業を煮やした男は、チャクラを練り上げる。 「土遁! 裂土転掌!」 「きゃあぁぁっ!」 足場を崩されたサクラは悲鳴をあげた。 そのサクラ目掛けて男が飛び掛かる。 男の手が、サクラに迫ってきたその時。 「サクラ!」 「カカシ先生!」 男の背後にカカシの姿を認めたサクラは、思い切った行動に出た。 逃げるのではなく、男に体当たりしたのだ。 「ぐっ!」 「先生! これっ!」 サクラは男に組み付いたまま、男の脇から玉をカカシの方へ投げる。 玉はキラキラと虹色に光りながら、カカシの手に吸い寄せられるように軌跡を描いて飛んだ。 反射的に差し伸べたカカシの手、その指先に玉が触れた瞬間。 音も無く玉が砕け、光の破片となって四散する。 「―――え………っ………」 光の破片は、驚いて眼を瞠ったカカシの身体中―――額、眼、胸、手、足―――に、吸い込まれていった。 渇いて、渇いて、渇いて。 渇ききった身体に、水がしみ込んでいくような感覚をカカシは覚える。 (………ああ………そうだ………………オレは、あの時………………) ―――奪われたくない。 奪われるものか、と抵抗した。 大切な、大切な、もの。 愛しいモノの記憶を、己が生きた証を。 すべて奪われてたまるものかと………――― ガクン、と膝から力が抜け、カカシはその場に頽れた。 「カカシ先生!」 サクラが悲鳴をあげる。 「ええい、邪魔だ小娘ッ!」 「キャッ」 男はサクラを振りほどき、腕を掴んで乱暴に放り投げた。 少女の軽い身体は、簡単に宙を飛んで木に叩きつけられる。ゴホッとむせ返ったサクラは、生理的な涙をこぼした。 「………………カシせん……せ………」 「ちくしょう、玉は………」 慌てて振り向いた男が目にしたのは―――きっちりと巴紋様が三つ揃った紅い写輪眼。 明らかに、ついさっき男が目にした紋様ではなかった。男は本能的に、今対峙しているのが先程までのカカシとは『違う』のだということを悟る。 「………ま、まさか………そんな、バカな………術式も無しで………」 色違いの双眸が、狼狽する男を睨んだ。 「………サクラに何してくれてんだ………貴様」 カカシの変化にサクラも気づき、不安と期待の入り混じった声で彼女を呼ぶ。 「カカシ先生………ッ!」 その声に応じるように、ゆらり、とカカシは立ち上がった。 「心配かけたな………サクラ」 頭を一振りし、大きく息をついたカカシの眼が優しく微笑う。 「―――もう、大丈夫だ」 |
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