想いのたどりつく処 −22

 

ヨネの言葉に甘えて、イルカとカカシは火影屋敷で夕食をご馳走になり、夜遅くに帰宅し
た。
その帰り道、カカシはずっと何かを考えているように黙って歩いていた。
イルカはそんな彼女の心中を推し量る。
実はイルカは、もしかしたらカカシが子供に対して拒否反応を起こすのではないかと危惧
していたのだ。
子供は敏感だ。
もしもカカシが子供に嫌悪感を抱いてしまったら、どう取り繕ってもチドリにはわかって
しまうだろうと思う。だから、カカシが自分から言い出すまで、イルカは彼女を無理に子
供に逢わせようとはしなかった。
今日も、自分から言い出した事とは言え、やはりカカシがチドリを受け入れられないとい
うことは十分にあり得ると思っていたのである。
だが、ヨネを呼んだ後しばらくして階下に降りてきたカカシはイルカの心配をよそに、チ
ドリをあやしたり抱っこしたりと、ごく普通に接していた。その様子には、無理をしてい
るようなところがなくて、イルカは少し安心したのだ。
チドリを抱き上げたカカシが、切羽詰った顔でヨネを呼んで来てくれと頼んできた後の事
は、イルカが訊いても女二人は首を振るだけで「何でもない」と教えてくれなかったのだ
が。
「………カカシさん」
「…え? ………何?」
「大丈夫、でしたか。………その………」
ああ、とカカシは微笑む。
「………ん。………意外とね。思ってたよりも………大丈夫、だった」
「良かった」
言葉少なに応えるイルカの顔を、カカシは見上げる。
「………心配、してた?」
「…少し」
「うん。………オレも。………これがお前の子供だって言われてさ……大丈夫かな、オレ
って。………産んだコト覚えてないわけじゃない。だから、気味悪く思っちゃうかもって。
………でもね、案外平気…平気って言い方、ヘンかな。…大丈夫だったんだ。…抱っこし
たらさ、可愛いなって…そう、思えた」
「………良かった」
会話が途切れ、しばらく二人は暗い道を黙々と歩く。
「………ねえ」
「はい?」
「………………オレ、あの子のお母さんなんだよね」
「…………カカシさん?」
カカシの足が止まった。
「このまま、記憶が取り戻せなかったとして。…オレに、あの子の母親を名乗る資格があ
るんだろうか」
数歩先に行き過ぎたイルカが、足を止めて振り返った。
「………産んだ記憶が無くとも、貴女がチドリの母親だという事実は変わりません。……
…貴女の人生からあの子を切り捨てるか、捨てないかは、貴女自身の心ひとつでしょう。
…資格があるとか無いの問題ではありませんよ。………貴女、次第です」
カカシは俯き、肩を竦めた。
この男、カカシを甘やかすかと思えば、こうして結構厳しい事も言う。だがそれは事実だ
った。
これは、カカシの心の問題なのだ。
「…そう、だね。………オレ次第なんだよね」
「カカシさん」
「………ん?」
「…結論を急ぐ必要はありませんよ。………俺は今日、貴女がチドリを拒絶しなかった…
……拒否反応を起こさなかっただけでも嬉しいんです。………親に忌まれるほど、子供に
とって悲しい事はないですから」
うん、とカカシも頷く。
「オレも、嬉しい。あの子の存在を否定するような感情を自分が持たなかった事に、ホッ
とした。………忘れちゃっただけでも、相当酷いお母さんなのにね」
十四歳の少女に、産んだ記憶も無い子供の母としての自覚を持てという方が無理である。
彼女は自分に妊娠出産経験があると聞かされた途端に、精神的ショックと嫌悪のあまり嘔
吐してしまったのだと、紅からイルカは聞かされていた。
そんなカカシに『母』である事を無理強いする気はない。カカシ自身が言うように、子供
の存在を否定するような感情を持たなかっただけでも上等だと思う。
「酷くないですよ。…貴女は、ちゃんと逢いに行ったじゃないですか。抱っこもしてあげ
て、チドリはとても喜んでいました」
カカシの目許にさっと朱が差した。
「う…うん。…まあ、ね………」
きっと、記憶を失う前はこの男の前でも平気で子供に乳を与えていたのだろうが。今のカ
カシには『実はお乳もあげました』とは恥ずかしくて言えない。
だが、このお乳を与えるという行為が、カカシの心を更に大きく動かしていた。
「………イルカ先生」
「はい?」
カカシは顔を上げ、イルカと視線を合わせる。
「オレ、波の国に行く」





「………なるほど。実際に術が行使された現場を見たいというわけじゃな?」
三代目は難しい顔であご鬚を撫でた。
「少し時間は経過してしまっていますが、手掛かりがつかめるかもしれません。ほんの僅
かな可能性ですが。………お願いです、三代目。…オレを波の国に行かせてください」
そう言って下げられたカカシの頭を、老人は意外な心地で見ていた。
主治医である石榴、世話係に任命した紅、時折様子を見に行っているアスマ、七班の担当
教官である環。彼らの『カカシに関する報告』を聞く限り、カカシは今の自分に必要な情
報以外は、過去に対して関心を示す素振りをあまり見せなかったという。
彼女は、失った十二年の歳月から意識的にか無意識にか、眼を逸らしていたのだ。
己の心を守る為の自衛手段だろう。
だが、ここ数日のカカシは。
特別資料室の閲覧許可を求めた時あたりから、明らかに変化してきていた。
失った過去を積極的に取り戻そうとしているように見える。
悪い事ではない、と三代目は思った。
十二年という、決して短くは無い年月の記憶。自分の生きた証に対して関心を見せない方
が不自然なのだ。それは、記憶を取り戻せるとか、取り戻せないとか、そういう可能性云々
以前の問題である。
「…しかしな。現場を見ると言っても、おぬしは何処が戦闘の現場かも知らぬであろう」
カカシは一瞬言葉を詰まらせる。
「………現場を知っている下忍に、詳しく聞いてから参ります。…そういう状況での調査
は珍しくありません」
三代目は重々しく頷いた。
「なるほどな。ま、そこまで言うならばよかろう。………実は、お前に波の国から招待状
が来ておる」
「…は? 招待状、ですか? 依頼状じゃなくて?」
「…お前が記憶を失った時に携わっておった依頼の件に関しては、聞いておるだろう?」
「はあ………大まかには。………橋造りの名人とやらを波の国まで護衛して、橋が完成す
るまでそのジイ様を護ること…でしたか」
「うむ。諸事情で伸びておった橋の落成式に、お前達…つまり、環ら七班とお前を招待し
たいとな。その時の依頼人、タズナ氏から文が届いておるのじゃ。なんでも、タズナ氏の
お孫さんがえらくナルトに懐いて、そのお孫さんの意見で橋の名前が『なると大橋』にな
ってしまったらしいのだな。由来になった人物を招待するというのは、まあ頷ける話じゃ。
それに、お前らが行かなかったら、橋の完成どころか御自分の命も無かったと、えらく感
謝されておる。…タズナ氏個人の招待であって、国同士の外交ではないが、こうした招待
を断るのは先方に失礼というもの。…だが、環には指名の任務が入っておるので、どうし
たものかと思っておったのだ。…ちょうど良いわ、カカシ。お前、七班の下忍達を連れて
行っておいで」
一人で行ってくるつもりだったカカシは、眉間にシワを寄せた。
「………オレ…が、あいつらを、ですか?」
声に『気が進まない。イヤだ』がにじみ出ている。三代目は苦笑した。
こういう内面の声を気取らせてしまうカカシの幼さが懐かしく、愛しく思える。『大人』に
なった彼女は自分の心を隠すのが上手くなってしまい、三代目としては少し寂しく思って
いたのだ。もっとも、それが忍者というものだと言われればその通りなのだが。
「…ま、今のお前にあの三人のお守りは荷が重かろうな。………環の代理として、イルカ
に行ってもらおう。それならば、どうじゃ? イルカはアカデミーで子供らの担任だった。
手綱の取り方は心得ておるよ。あのナルトも、イルカの言う事ならば素直に聞くしのぅ」
カカシの表情が、途端に安心したように緩んだ。
「イルカ…先生に? ……そうですね。それなら………」
実際の所は、事件の目撃者である七班の子供達に一緒に来てもらった方がいいに決まって
いた。
ナルトはともかく、サクラは記憶力がいい。
ついでにサスケの『眼』も何かの助けになるかもしれない。写輪眼は、チャクラを視る特
殊な『天眼』だ。
「では、この招待、正式に受けよう。…これも任務じゃ。行っておいで、カカシ」
「…はい。ありがとうございます、三代目」

こうして、カカシは再度波の国に足を踏み入れる事となったのである。




また波の国に行く事になったと聞いた七班の面々は、それぞれが複雑な顔をした。
仲良くなったタズナ一家にまた会えるのが嬉しいという気持ちが半分、カカシが記憶を失
い、サスケが死にかけた縁起の悪い国にまた行くのかという後ろ向きな気持ちが半分。
「ラクセイシキってさ、橋が完成したお祝いなんだろ? なら、出来たらすぐやるんじゃ
ねーの? 何でこんな遅くなったんかな」
首を捻るナルトに、イルカが説明してやった。
「………式典の準備に時間がかかったんだろうな。お前達、向こうの様子を直に見て知っ
ているんだろう? あの国…町は、ガトーの所為で困窮していたって話じゃないか。橋が
出来たからといって、すぐに町が活性化して立て直せるってものでもないだろう。本来は
華々しい落成式なんかをやる余裕は無いんだと思う。でも、式典は復興の景気づけにした
いからやるんだろうな」
そうね、とサクラが頷く。
「お店に商品が全然無いって状態だったもの。…ガトーの妨害が無くなったおかげで、た
ぶん船による交易も復活しているはずだけど、あの町を立て直すのは大変だと私も思う。
……でも逆を言えば、私達を招待して町を見て欲しいって思うくらいには復興したのかも」
「………だな」
サスケが珍しく、短いながらも相槌を打った。
えへ、とナルトも笑う。
「だといいってばよ!」
カカシは皆から数歩遅れ、黙って歩いていた。
時々、イルカが気遣わしげに振り返る。
カカシはもう大丈夫だ、快復したと言い張るが、主治医の石榴はこの『任務』にいい顔は
しなかった。
確かに身体に負った怪我は、一応の治癒はしている。
しかし、まだ精神的な不安定さが見られるので、長旅によるストレスで体調を崩す懸念が
あると言うのだ。
イルカが同行すると聞いて、渋々ながらも『里外任務』の許可を出してくれたのである。
(俺が、気をつけなければ………カカシさんはすぐに無理をするから)
カカシの身を案じる一方、イルカは心の片隅で自分が喜んでいることにも気づいていた。
偶然ではあるが環に任務が入っていて、自分にこの波の国行きのお役目が回ってきた事に。
こんな状態の彼女を、他の男に護ってもらわねばならないとなったら、自分は心穏やかで
はいられないだろう。
環の事は信用している。彼はカカシに対して邪な気持ちは抱いていないし、おそらくは全
力で護ってくれるはずだ。
それでも、彼女を護るのは自分でありたい。彼女の身も、心も。
(………まったく。俺はこんな男だったのか………)
彼女に対して理解のある男でありたいと思うのに、この独占欲はなんだろう。
振り返ったイルカと眼が合ったカカシが、「大丈夫」と言うようにふわっと微笑った。
 

      

 



 

 

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