想いのたどりつく処 −21

 

イルカとカカシは、毎日のように一緒に特別資料室で調べ物をするようになった。
やはり、一人よりも二人の方が効率いいとカカシも判断したからだ。
仕事の後に保管庫の入り口で待ち合わせて、カカシが掛けられた術について何か手掛かり
が無いか探し回った後、一緒に帰宅する。遅くなると、どこかで食事をしてから帰る事も
多くなった。
もちろん、二人きりであったとしても、イルカはカカシに過度に触れるような事はしてい
ない。
衝動的なキスで彼女を怯えさせてしまった事を、イルカはとても後悔していた。
何故、衝動を抑えられなかったのか。
唇に直に触れこそしなかったが、あんな事をいきなりすれば、カカシにショックを与える
であろうことはわかりきっていたのに。
何故か彼女は抵抗せず、逃げもしなかったが、イルカを受け入れてくれたわけではない。
おそらくカカシは、必死に我慢していただけ。
その理由をイルカは想像するしかなかったが、彼女が自分を好きになってきてくれている
のではないかと自惚れる事は、到底出来なかった。
あんなに怯えた眼で、身体を強張らせて。
可哀想なことをしてしまった。
イルカがすぐに謝罪し、それからはなるべく身体的な接触は避けるように心がけたので、
カカシは今も逃げずに彼の傍にいてくれるのだと思う。
だが、あれ以来イルカは時折不安になった。
今のカカシの心は子供なのだと自分に言い聞かせる事で理性を保ってきたが、自分はいつ
まで辛抱出来るのか。
カカシを手放したくない。
縛るつもりは無い、と口では言いながら、正直な気持ちを言えば彼女と離れたくなどなか
った。
カカシが自分の眼の届くところにいてくれると安心するし、嬉しい。
だが、同じ屋根の下で暮らすうち、いつか自分は彼女を襲ってしまうのではないだろうか。
衝動に負けて、彼女を抱いてしまったなら―――そこで終わりだ。
彼女は二度とイルカに心を開かないだろう。
最悪の場合、イルカの命は無い。
自分のバカな行動の所為で、両親共に失う事にでもなったらチドリが不憫過ぎる。
「………しっかりしろ、俺」
イルカはゴン、と壁に頭をぶつけた。
「イルカ先生、今何かすごい音がしたけど………大丈夫?」
書架の向こう側から、カカシがひょいと顔を覗かせた。
「あ、すみません。大丈夫です。…ちょっと眠気がしたもんですから、自分にカツを入れ
てました」
カカシは心配そうに眉根を寄せる。
「………疲れているんじゃないか? 今日はもうやめよう」
イルカは懐から時計を引っ張り出した。
「…もうこんな時間ですか。…そうですね、今日はもう終わりにしましょう。………あの、
すみませんが俺は帰りに火影様のお屋敷に寄って、チドリの様子を見てきます。カカシさ
んは先にお戻りなっていてください。メシは俺が何か調達して帰りますから」
「え…あ、うん…」
書架に資料を戻し、イルカとカカシは保管庫を出る。
と、イルカはカカシが何やらモジモジしているのに気づいた。
「………カカシさん? どうかしましたか?」
カカシはビクッと身を竦ませ、落ち着き無く視線を彷徨わせる。
「あ………そ、その………」
「ああ、お腹がすいているなら先に召し上がっていてくださっても………」
慌ててカカシは首を振った。
「ち、違うって! そんなコトじゃ………」
イルカは黙って彼女の言葉を待った。
「………あの………オレ………オレ、も………一緒に行って………いい………かな?」
イルカは眼を見開く。
「お屋敷に?」
「う、うん………あの、こ……こ………子供、の顔………見てみたいかなって……………」
カカシは俯いてボソボソと歯切れ悪く、呟くような声を押し出した。
ようやく自分の産んだ子供に逢ってみる気になったらしい。
何があったのかわからないが、記憶を取り戻す手段を積極的に探す気になったりと、どう
やら彼女の中で様々な心境の変化が起きたようだ。
イルカがその申し出を拒むはずが無い。
「ええ。…一緒に行きましょう。………もし、貴女さえ嫌じゃなかったら、抱っこしてあ
げてください。チドリは、貴女が………お母さんが大好きなんです。…ずっと逢えなくて、
寂しがっているでしょうから。…喜びます」
カカシはぎくしゃくと頷く。
「わ、わかった………抱っこね。抱っこ。………そ、それくらいなら出来…ると思う」




 
「あらあらあら、まぁま! お久しぶりですこと、カカシ様。…任務で負傷なさったと聞
きましたが、もうお身体の方はよろしいのですか?」
火影屋敷の女中頭であり、三代目の孫達のばあやでもあるヨネが両手を広げてカカシ達を
出迎えてくれた。
「あ………うん、もう大丈夫。久しぶり、おヨネさん」
ス、とイルカが前に出た。
「ヨネさん、火影様はいらっしゃいますか? はたけ上忍は、火影様にご報告することが
おありだそうです」
ここへ来る道々、カカシはイルカから『はたけカカシ』と『イルカの妻』は大抵の場所で
別人として振舞っている、と教えられていた。忍服で出歩いている時は、カカシはあくま
でも『写輪眼のカカシ』なのだと。
それはこの火影屋敷においても同じだった。屋敷の警備をしている忍達や他の使用人達は、
カカシが女性だという事を知らないのである。
ヨネは全てを知っている数少ない人間の一人だ。察しの良い女性で、臨機応変にイルカ達
の事情に合わせてくれる。
「………いえ、旦那様はまだお戻りになっておりません。…よろしければ、こちらでお待
ちになってくださいませ、カカシ様。すぐにお茶をお持ち致します」
「ありがとう、おヨネさん」
ヨネは何気なさを装って、イルカに微笑みかける。
「イルカちゃんは、チドリちゃんのご機嫌伺いかしら?」
「ええ。すみません、いつも息子がお世話になってしまって。………はたけ上忍、失礼致
します」
カカシは胸をドキドキさせながら、イルカの子供に興味を持った風を装った。
「………イルカ先生、お子さんがこちらにいるの? ………あの、オレも…息子さんの顔
…見てもいい…かなあ?」
イルカは子煩悩な父親の顔でニッコリと笑った。
「もちろんです。…良かったら、抱いてやってください。………貴方の、強さにあやかれ
ますように」
カカシの記憶が戻ったわけではないのだと気づいたヨネは、そっと顔をそむけた。
救いは、チドリがまだ赤ん坊で、母親に忘れられているとは気づきもしない事だろう。
カカシは、イルカの後について階段を昇った。
三階の客間の戸を開けると、乳呑み児特有の甘い匂いがした。
ベビーベッドの中に赤ん坊がちょこんと座り、オモチャで一人遊びをしている。
「チドリ」
イルカの呼び掛けに、子供は振り返ってにこーっと笑った。
そして、カカシの姿に気づくとベビーベッドの柵に片手でつかまり、柵の外にもう片方の
手を伸ばす。
「アー………」
「………カカシさん」
カカシは、戸口で固まったように立ち尽くしていた。
ふわふわした頭髪と瞳の色は、イルカの遺伝なのか少し黒っぽい。だが、肌の色の白さ、
そして顔立ちは―――
(………オレに………似ている………?)
赤ん坊は母親の姿に喜び、無邪気に手を伸ばして彼女を求めている。
(オレが、産んだ………子供)
ふら、とカカシは足を踏み出した。
(―――オレの子………)
震える手を伸ばすと、小さな指が力強くカカシの指先を握る。
心臓が、跳ねた。
うるさいくらいに鼓動が早くなる。
カカシはベビーベッドの上に屈み込んだ。
抱っこをねだって両手を差し出している赤ん坊の脇に、そっと両手を入れて小さな身体を
持ち上げる。
見た目よりも赤ん坊は重かった。
カカシは戸惑いながらも、胸に抱いてみる。
「………チド、リ………」
自分は何を思ってこの子にこの名前をつけたのだろう。カカシは眼を閉じ、子供の存在を
全身で感じてみた。
甘い、ミルクの匂い。
温かい柔らかな肌。
愛しい重み。
(―――え………?)
カカシは眼を見開く。
驚いた。
今の自分にとっては初対面の赤ん坊を、『愛しい』と感じるとは思わなかった。
そして、抱き上げた子供にすり寄られているうちに、乳房が張ってきた事に気づいて更に
カカシは驚愕する。
(どどど、どうしよう………やだ、胸がおかしい。………何で? 眼は…写輪眼は修行を
始める前の状態に戻っちゃったらしいのに、何でオレの身体は『母親』のままなんだよ…
……っ………)
記憶が無いのに、自分の身体は勝手に子供に反応する。
カカシは泣きたくなった。
どうしたらいいのかわからない。
「イ…イルカ先生………」
黙って彼女を見守っていたイルカが、その様子に気づく。
「どうしました? カカシさん」
「………ごめんなさい。………おヨネさんを…呼んできて…もらえる………?」
お乳が張って苦しいだなんて、イルカには言えない。
ここで頼れそうなのはヨネしかいないのだ。
イルカは何か言いたそうに手を浮かせたが、「わかりました」と言い置いて部屋から出て行
った。
カカシは、腕に抱いた子供の顔を改めてゆっくりと見る。
小さい手足。無垢な瞳。
無防備に己の存在を預けてくる赤ん坊が、可愛い。
(やだ………オレったら………)
産んだ覚えも無い子供が可愛いだなんて。
これが、母性本能というものなのだろうか。
(………オレみたいに戦うことしか能の無い、女らしくも無い人間にも、そんなモンがあ
るのってのか………?)
まだ、恋も知らないのに。
女としての目覚めとか、恋愛とかそういう段階をすっ飛ばした『結果』だけが現実にこの
腕の中にいるという不思議。
トントン、とノックの音がしてヨネが顔を覗かせる。
「カカシ様、どうかなさいましたか」
「………あの………」
ごく、と唾液を飲み込む。
「おヨネさんだけ…だよね? イルカ先生、そこにいないよね?」
ヨネはチラ、と後ろを振り返ってから自分だけ室内に入ると、扉を閉めた。
「私だけでございます。…何でしょう?」
「………ヨネさんは……知っているのだろう? オレの事………」
ええ、とヨネは頷く。
「カカシ様がチドリちゃんをご出産なさる時、お手伝いさせて頂きました。………そして、
カカシ様が今………その事を覚えていらっしゃらないのだという事も」
カカシは顔を伏せる。
「そう…か。………色々と世話になったんだろうな。………ごめん。………オレ、覚えて
なくて。…あの、それでね。………オレ………やっと、この子に逢ってみる気になって…
……来てみたんだけど………いざ抱っこしたら………その………」
カカシはカァッと赤くなった。
「む、胸が………おかしいんだ。この子、抱っこしているうちに………あの………」
ヨネは一瞬驚いたように眼を瞠ったが、ふわりと微笑を浮かべた。
「………お乳が、張ってきたんですね………?」
カカシはこくんと頷いた。
「条件反射のようなものです。珍しい事ではございませんから、心配なさらなくても大丈
夫ですよ」
「でも…どうしたら…いいんだ………?」
「そうですね………一番いいのは、チドリちゃんにおっぱいをあげる事ですけど。………
カカシ様、お出来になりますか?」
ウッとカカシは呻く。
(………お、お、おっぱいって………胸、吸わせるん…だよな……?)
「それが無理なようでしたら、搾乳して哺乳瓶に移してからチドリちゃんにあげるという
方法もあります。…私が触るのは大丈夫でしょうか?」
カカシは考えた。
(…搾乳って……お乳搾る…ってコト? ………牛とかヤギみたいに………?)
自分だけで上手く乳搾りする自信は無い。
他人の手を借りて乳を搾ってもらうのと、記憶はなくとも自分が産んだ我が子に直に乳を
含ませるのと、どちらの精神的苦痛が大きいだろうか。
妊娠出産過程の記憶が無いカカシには、どっちもどっちに思えた。
(………なら、いっそのこと思い切ってこの子にお乳…あげてみる………とか)
恥ずかしいし、少し怖いけど、この子を忘れてしまったお詫びに、それくらいの事は我慢
すべきではなかろうか。
失いたくて失ったわけではないが、記憶を喪失した責任は自分にある。
記憶喪失という状態を認識した時、忘れられた方の辛さを少しも考えなかった自分の身勝
手さをカカシは悔いていた。自分の事でいっぱいいっぱいだったカカシを、陰日向から見
守り、辛抱強く支えてくれたイルカ。
出来る事なら、少しでも彼の気持ちに応えたくて、あの時彼が何をしようとしているのか
気づいても逃げずに頑張ってみたのだが―――あのキスは、布越しだったということもあ
って、何とか逃げずに堪えられた。
しかし、あの程度の接触でも身体が竦んでしまった自分には、恋人や夫婦としてイルカと
接触する事などまだ無理だと悟ったのだ。
だが、母親として子供に接するのはどうだろう。
やってみなければ、本当に『ダメ』かどうかなど、わからないではないか。
だから、来たのだ。
実際に抱き上げたら、可愛いと、愛しいと思えた。
―――なら、出来るかもしれない。
この子を産んだのは、自分なのだ。
「あの…わざわざ搾ってから哺乳瓶に移すってのも………面倒くさいって言うか………え
っと、おヨネさんに搾ってもらうのも…恥ずかしい………気が」
ヨネは困ったように頬に手を当てた。
「……そうですねえ。…カカシ様がそうお思いになるのも、わかるような気が致しますよ。
…どうしましょうかねえ………」
チドリはカカシの腕の中で、安心したような微笑を浮かべて大人しく抱かれている。
その小さな手が、ぎゅっとカカシの袖をつかんでいた。もう離さないでくれと言うように。
「………オレ、自分が子供を産んだなんて…信じられなくて。この子に逢うのも怖くて、
逃げていたんだ。…………オレが、記憶を失ったのは…この子を忘れたのは…オレの責任
なのに」
「…カカシ様………」
ふ、とカカシは苦笑を浮かべる。
「………オレ、本当にこの子のお母さんだったんだね。………オレ自身は覚えていないの
に…オレは…オレの身体は………母親だって事を忘れていないなんて………」
皮肉な事だと思った。
だが。
この子から『母親』を奪う権利が自分にあるだろうか。
カカシは、覚悟を決めた。
「………おヨネさん。………お乳って、どうやって飲ませるんだ?」
 

      

 



 

 

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