想いのたどりつく処 −20

 

任務終了の報告に戻るという環達と別れ、カカシは堤防の上を歩いていた。
沈みかけた夕日が、里の中を赤く染めている。
こんな感じのぽってりとした赤い夕日を見ると、幼い頃を思い出す。
たしか、何日もかかった任務の帰り道だった。
疲れ果て、痛くて重い足を必死に動かして里に戻ろうとしている自分の隣には、まだ四代
目を襲名していなかった先生がいて。
足を引きずっているカカシに手を貸してやりたいのを我慢しながら、同じようにゆっくり
と歩いてくれた。彼にしてみれば、さっさとおぶうなり、抱き上げるなりした方が楽だっ
ただろうに。頑張って歩こうとしている子供の気持ちをくんでくれたのである。
そして、自分の足で帰り着いたカカシの頭を撫で、よく頑張ったね、とほめてくれた。
嬉しかった。
先生がほめてくれるなら。笑ってくれるなら。
自分は何だって出来る、とカカシは思ったのだ。
「………先生………」
彼の記憶は、こんなにも鮮やかなのに。
まるで昨日の事のように思い出せるのに。
「………イルカ、先生………」
恋人から夫になった彼との間にも、こんな風に夕日にまつわる思い出があるのだろうか。
もしかしたら、一緒に夕日を見ながらこの幼い頃の思い出を彼に語ったのかもしれない。
カカシは立ち止まり、建物の間に沈んでいく夕日をじっと眺める。
その赤い色を見ているうちに、カカシは唐突に『思い出したい』と思った。
今までカカシは、忍としてこの十二年の間に培ってきた能力を失ってしまったという衝撃
的な事実を、『仕方が無い』事として諦めようとしていた。
過ぎた事を嘆いても始まらないと、冷静に過去を切り捨てたつもりでいた。振り返らず、
前だけを見る事。それが、忍として正しいと思ったからだ。
だが実際は、簡単に切り捨てられなどしなかった。
『今までの自分』を知れば知るほど、焦燥感や不安、どこかに穴があいたような喪失感が
襲ってきて、カカシを苦しめる。
何故か。
確かに、忍としての技量は自分の努力如何で取り戻す事が可能かもしれないが、それでは
絶対に取り戻せないものがあるからだ。
そしてそれが、自分にとって何より『大事な宝』だったと―――今更ながらにカカシは痛
感したのである。
―――あの、小さな女の子は。
この広い堤防でなくした小さな宝物を、諦めなかったではないか。
見つかるわけが無い、と最初から諦め捜そうともしなかったら、あの可愛い綺麗な宝物は、
彼女の手に戻る事はなかった。
「………オレは、何をしているんだ………」
普通の記憶喪失ではないから、思い出せるわけがないと。
そう決めつけ、取り戻す方法を捜そうともしないで嘆いていただなんて。
先生―――四代目だったら、何と言うか。
『捜すだけ、捜してみようよ、カカシ。何もしないで泣いているなんて、お前らしくもな
いね。………一生懸命に捜してもダメかもしれないけれど。でも、泣くのはそれからでも
いいだろう?』
彼の声が聞こえるようだった。
カカシの唇がほころぶ。
「………はい、先生………」
カカシは踵を返し、イルカの家とは別の方角に向かって歩き始めた。




アカデミーの地下は、生徒立ち入り禁止だ。
と、いうよりも子供達はその存在すら知らないだろう。
そこには、初代火影の時代からの膨大な資料が保管してある。
カカシは、三代目のもとに出向いて資料閲覧の許可を求めた。
三代目はすんなりと許可をくれたが、鍵は今此処には無いという。
「…………今日は使う者がいるはずだから、鍵が開いていたら先客に断りを入れろ、か」
あんなカビくさい場所で仕事をしなければならないなんて気の毒なことだ、と思いながら
カカシは地下に下りる。
特別資料室のある保管庫は、廊下を何度も曲がった奥の方にある。この地下は同じ様な壁
と廊下が続くので、忍者でも迷う者が多い。
だが、以前に何度も四代目のお供をして来ていたカカシは、正しい道順を覚えていた。
対侵入者用のカラクリも以前と同じで、カカシは苦笑を浮かべる。
(………案外怠慢だね、三代目も。………仕掛けくらい変わっているかと思ったのに)
保管庫の扉には、鍵が掛かっていた。
「…まだ来ていないのか」
仕方ない。鍵を持つその人間が来るまで待とう、とカカシは扉の脇に座り込んだ。
難しい術ではなかったものの、今日は結構チャクラを使ったので身体がだるい。
少しだけ空腹感も覚えたが、イルカが帰宅するまでまだ2、3時間はあるはずだから。
それまではここで調べ物が出来るはず。
ふと、空気が動いた。
地下に下りて来た誰かが、一瞬緊張したように足を止める。
(………へえ、まだここまでだいぶあるのに、オレの存在に気づいたか。…結構カンのい
いヤツじゃない)
おそらくはこの扉の鍵を持っているであろうその人物は、すぐに歩き始めた。『敵』ではな
いと、判断したのだろう。どんどん、近づいてくる。
(………………あれ? この気配は………)
最後の角を曲がった所で、彼は立ち止まった。
「………もしかして、カカシさんですか?」
「イルカ先生………だったんだ。…ここ、使う人って」
カカシは立ち上がり、ぱんぱん、と衣服のホコリを払う。
扉の所にいたのがカカシだと確認したイルカは、足早に寄って来た。ポケットから鍵を取
り出し、開錠する。
「………カカシさんは…どうして、ここに?」
「あの………ちょっと、調べ物………あの、オレ………」
ぱちん、とスイッチの音がして明かりが灯った。
「………もしかして、貴女から記憶を奪った術について?」
「……………………そう。今頃、だけど。………調べてみる気に…なって。…あの、アン
タの仕事の邪魔はしないから………」
イルカは微かに首を振る。
「いえ、邪魔だなどと、とんでもない。…俺も、貴女と同じ目的でここに来ておりますか
ら」
え、とカカシが眼を見開いた。
「三代目に許可を頂き、何か手掛かりは無いか………探しておりました」
では、とカカシは思った。
この男の帰宅がいつも遅いのは、この地下でずっと調べ物をしていた所為か。
「………オレの………記憶を、取り戻す手段を………?」
はい、とイルカは頷く。
「可能性は限りなくゼロに近いと言われても。…何もしないではいられなかったのです。
探しもしないで、諦めるのだけは嫌だった。………貴女と手合わせをしてから、その思い
は強くなりました。貴女の、忍としての十二年間の重さを、実感したから」
「………あんな短い手合わせで…わかってしまう程、オレの力が落ちていたっていうこと
………?」
イルカは、一瞬迷うように視線を下に落とした。
「それも、あります。…貴女は、十二で上忍になった実力の持ち主です。本来なら、十四
歳当時まで力が戻ってしまったところで、忍としては何の問題も無い。……今のアンバラ
ンスさは、時が解決するでしょう。…が、簡単に諦めてもいいほど、貴女が失ったものは
軽くはないんです。………貴女は、もっと強かった。…そして………あ、いや………」
口篭もったイルカを、カカシは少し不安そうな面持ちで見上げた。
「何? 言って」
イルカの眼が、辛そうに眇められた。
「………これは貴女には告げまいと思っておりましたが………ここに貴女が来た、という
事はご自分の今の状態に正面から向き合うお覚悟がおありだと判断して申し上げます」
ス、とイルカの手が上がり、カカシの左頬に添えられる。
「…この間、看病して頂いた時に気づいたのです。………貴女の、眼。………写輪眼の文
様が、俺の知っているものとは違っていました。………欠けているんです」
カカシは思わず息を呑んだ。
「貴女は、当時まだ不完全だった写輪眼を移植されたのだそうですね。…でも、貴女はご
自分の力で、その眼を育てたのです。俺が知っているのは、その巴のような文様がきちん
と三つ揃った完全なものでした。………ウチハの直系でもない貴女が能力を使いこなせる
ようになるまでには、想像を絶する努力が必要だったはずです。…必要とあらば、その努
力を再び貴女はするのでしょう。………しかし………」
カカシは額当ての上から、自分の左眼をおさえた。
「………そう。…オレ、この眼…育てられたんだ。…オビトの代わりに、ちゃんと眼が使
えるようになっていたんだ………」
カカシは微笑んだ。
「………教えてくれて、ありがとう。…オレに眼を育てる事が出来るんだってわかって、
嬉しい」
「カカシさん………」
カカシの微笑が苦笑に変わる。
「振り出しに戻っちゃったのは、悔しいけどね。………ねえ、イルカ先生」
「はい」
「………アンタは今、オレの忍としての能力の事しか言わなかったけれど。………アンタ、
自分の事は思い出して欲しいと思っていないの?」
イルカの顔にも苦笑が浮かぶ。
「…もちろん、それが望ましいですよ。…俺との事、チドリの事。…出来るならば思い出
して欲しい。………だけど、今の貴女が取り戻したいのはそういう記憶ではないのではな
いかと思っただけです。…実際、失ったことで支障が多いのは忍者としてのスキルの方で
すから。貴女の生命にかかわる大事です」
カカシは額当てに掛けていた手をそのまま下ろした。額当てが咽喉元まで落ち、左眼が露
わになる。
「………正直に言うね。………オレね、自分が持っていた巻物とか見て、愕然としたわけ。
……オレって、こんなに高度な術を使えるようになっていたんだって…他にも、色々ね。
やっぱり、無くした十二年の大きさってものをひしひしと実感させられるたび、言い様も
無い焦りとか……悔しさとか感じて、どうしようもなく辛かったの。………でも、違うん
だってわかった。………オレが辛いのは…なくした事が辛いのは、そんな事じゃなかった
んだ。………思い出したいのは、そんな事じゃなかった」
色違いの、どこか幼い双眸がイルカを見上げる。
「オレ、オレが記憶をなくしたのは自分のミスだってわかっているし、どこかで仕方ない
って思ってたんだ。…アンタの言う通り時間が解決する事柄もあるし、眼が移植当時に戻
ってしまったのならもう一度、育て直せばいいって、忘れた術はまた覚えればいいんだっ
て、そんな風に。………でも………オレ…忍としてじゃないオレの記憶は………?」
「………カカシさん………」
「………オレ、アンタとどんな話をした? アンタと一緒に何を見た? ………今日みた
いな夕日を見て、思い出すのはどんなこと?」
イルカの顔が、泣きそうに一瞬歪んだ。
「………………思い出したいんだ………オレ」
ふいに一歩踏み出したイルカの腕が、カカシを抱きしめる。カカシさん、と呼ぶイルカの
声が掠れた。
「………許してください。………辛抱、出来ない………」
それでも、イルカはカカシの口布を下ろすまではしなかった。
ただ、布越しに口づける。
唇でカカシの唇を確かめ、そっと一度だけ軽く吸って、イルカは唇を離した。
黙って口づけを受けたカカシの身体が強張っているのに気づいたイルカは、彼女から手を
離した。
「すみません。…貴女を、怖がらせるつもりはなかったのですが」
カカシは黙ったまま、首を振る。
まだ、彼を『そういう風に』は受け入れられない。現に、布越しとはいえいきなりキスさ
れた事に身体も感情もついていかなかった。
ただ、彼がどんなに自制し、男としての衝動を我慢してきたのかを垣間見た気がしたカカ
シは、申し訳なくて胸が痛くなってしまったのである。
今まで彼は、男女の肉体的な関係を窺わせるような真似は一切しなかったし、口にもしな
かった。
それは、彼の優しさ。
カカシの精神状態が未成熟だと承知しているからだ。セックスに発展するような恋愛感情
を持てるまで、心が成長していないと知っているから。
だが、同じ家で寝起きしながら、妻であるカカシに触れられない彼の精神的苦痛は如何ば
かりなものだっただろうか。
アスマに匂わせられ、環に忠告されても。
それがどんな事か、自分にはあまりわかっていなかったのだと、カカシはようやく気づい
たのだ。
気づいても、カカシにはどうする事も出来なかった。
彼には悪いと思う。甘えていると思う。
思うが、今の自分にはまだ無理だ。
この優しい男を受け入れられない事も、気持ちを返す事が出来ないのも辛い。
カカシはただ俯いて、唇を噛んでいた。

      

 



 

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