想いのたどりつく処 −18
堤防には、既にアスマをはじめとする十班のメンバーが到着していた。結構大掛かりな補 修作業らしく、十班と七班の下忍チームの他にも幾人かの中忍の姿がそこかしこに見えた。 もちろん、本職の土木作業員も来ている。 七班が現場に到着すると、それを目敏く見つけた十班の紅一点、山中いのが嬉しそうに手 を振って駆け寄ってきた。 「サッスケく〜んッ! 今日は一緒の任務ね! よっろしくぅッ」 と、いのがサスケに抱きつく前に、サッとサクラが間に入る。 結果、サクラに抱きついてしまったいのは、「げっ」と顔を顰めた。 「何すんのよ、このデコは」 「ああら、張り切ってンのねー、いの。…合同任務、よろしくね」 そそくさとサクラ達から離れるサスケと、彼女達がツノつき合せる光景を、カカシは珍し そうに眺めていた。 一瞥しただけで、サクラと、あのイノという少女がサスケをめぐって火花を散らしている のだという事はわかる。自分には無縁の、『恋のさやあて』というヤツだろう、と。 本人達は真剣かもしれないが、傍で見ていると険悪と言うよりも楽しげなやり取りだ。陰 湿さが無い。なんと無邪気かつオープンな『恋』なのだろう。 子供が、大好きなお菓子を取り合っているとの変わらないようにカカシには思えた。 (………何て言うんだ? こういう………空気。…暢気………いや、平和?) これが、亡き師が求めていたものなのだろうか。 長期にわたる過酷な戦場生活において、精神的に未熟な少女が、周囲の仲間の死と、敵を 屠らねばならない事に耐えるには、心を凍らせるしかなかった。 彼女の心はまだ、その現実をしっかりと受け入れられるほどには強くなかったので。 感情を麻痺させ、笑う事を忘れ、硬く暗い瞳をしたカカシを痛ましそうに胸に抱き寄せ、 彼女の師匠である青年は呟いたのだ。 『ごめん………ごめんよ、カカシ。もう少し。…もう少しの辛抱だからね。………私が、 もっと平和な…皆が笑って毎日を過ごせるような里に………するから。………君の手を、 こんなにも血まみれにさせてしまった私を………許しておくれ………』 彼が、何を謝っているのか、カカシにはわからなかった。 忍は、その持てる力を尽くして任務を全うするものだ。与えられた任務が、敵と戦って勝 つ事であるなら、そうするだけ。 それよりも、自分が戦場で火影である師匠の横に立てるのが、誇らしかった。 彼の背中を守るだけの力を備える事が出来たのが、嬉しかった。 彼を守る為なら、どれだけ自分の手が敵の血で汚れても構わない。もしも、自分の命を盾 にする事で彼が守れるのなら、迷いも無くそうした。 だが、『あの時』。 自分には、彼の命を守れるだけの力は、無かったのだ。 (………結局、オレはあの人に守られていた…だけだったんだ―――………) 「………カカシせんせ? どっか、痛いのか?」 物思いに沈んでいたカカシは、ハッと現実に引き戻された。 ナルトの、子供らしい大きな青い目が、心配そうにカカシを見上げている。 「…いや…大丈夫」 「でも何か、痛そうな顔、してたってばよ?」 カカシは、自分を見上げている子供の顔をまじまじと見た。 確か、この子は妖狐九尾の器だったはず。 最凶の妖魔を身の内に飼う、子供。 あの、とんでもない災厄の日に生まれ落ちたのがこの子の不運だったのだ。 カカシにとって、それは遠い日の出来事ではない。 悪夢としか思えないあの災厄は、彼女の中ではたった数ヶ月前の出来事だ。 生々しい、記憶。 里長、四代目火影の留守を狙ったかのように、その災厄は木ノ葉を襲った。 敵うはずもない九尾の妖獣に立ち向かい、力及ばず死んでいく忍達。 里を襲う妖狐九尾の力は圧倒的で、自分達の力が通用する相手ではないように思えた。 カカシですら、恐怖と絶望に打ちのめされ、力尽きていく同胞を抱きかかえている事しか 出来なかったのだ。 だが木ノ葉の忍達の、必死の反撃は、妖獣に少しずつだがダメージを与えることに成功し ていたのである。そして、荒れ狂う九尾に致命的な一撃を与えたのは、里の危機を知って 疾風のごとく帰還した四代目火影であった。 だが、その攻撃を喰らった九尾の妖狐は、己の身を守る為に生まれたての無垢な赤子の内 に逃げ込んでしまったのだ。 そこで四代目は、英断を下す。 彼は、赤子に逃げ込んだ九尾をその子ごと始末するのではなく、赤子の存在をもって封印 するという方法を選んだ。赤子に逃げ込んだ九尾をそのまま封印するという事は、尾獣を 人の内に取り入れて『人柱力』を作り出すという禁術に他ならなかったが、生まれたての 赤子を人身御供として殺すことは、彼の忍道に背く行為だったのだろう。 本来、尾獣を人に封じ込める術は、周到な準備と、諸々の条件を調える必要がある。 それらの手順を踏むことなく行った封印の禁術は、歴代火影最強と謳われていた彼の力を もってしても、恐ろしく危険な行為で―――結果、恐ろしい『バケモノ』を身の内に封印 された子供が誕生するのと引き換えに、四代目は命を落としたのだ。 カカシは、自分の最愛の師匠が命懸けで『産んだ』子供をじっと見下ろした。 あの時の子が、こんなにも普通の子供に育っているとは、思わなかった。 この子の身の内に棲む九尾は、憎い。 だが、この子自身に罪は無いのだと、むしろ、この子も被害者なのだと理性では理解して いる。 九尾は天災と同じだ。人の力は及ばず、考えも理も通じない。 人を超越している、人とは違う世界のものを恨んでも意味は無いのだと。 ただ、カカシにとって、この世で唯一の存在であった青年を亡くした、その喪失感と絶望 は別のこと。 それは、そう簡単に癒える痛みでも傷でもない。 だから、正直なところカカシはこの子に会うのが怖かった。自分の心が、どう反応するの かわからなくて、怖かったのだ。 だが先刻、実際に顔を合わせた時。拍子抜けするくらい、カカシは何も感じなかったので ある。 バケモノの存在など、微塵も感じさせない素直な明るい眼。 くるくるとよく変わる表情。 自分などよりも、この子の方がよほど『子供らしい子供』だとカカシは思った。 この子が、何の物怖じもせずに話しかけて来るだけではなく、こちらの体調を気遣う素振 りまで見せるという事は、二十六歳になった自分がこの九尾の子供を忌み嫌わず、普通に 接しているから―――なのだろう。 先生が、命を懸けて守った、『命』。 思わずカカシは手をあげて、ポンポン、と子供の頭を軽く撫でてやっていた。 彼女にとっては、子犬の頭を撫でてやるのと同じ感覚。 途端にナルトは、驚きと喜びが混じった、くすぐったそうな顔をして笑う。 反応も、子犬と一緒だ。もしもこの子にシッポがあったら、思いっきりプルプルと振って いるのだろう。 カカシも、少しだけ目許を和ませた。 「………大丈夫、だよ」 「そーかぁ? なら、いいんだけどよ」 カカシを見上げているナルトの笑顔が、少し曇った。 「………カカシ、先生、さ………」 「…ん?」 ナルトはス、と視線を地面に落とした。 「あの………本当、に………忘れちゃった………んか? オレ…のこと…とか」 辛そうなその子供の表情に、何故かカカシは夫であるはずのイルカや、友人だという紅達 に対するよりも『忘れた』事に罪悪感を覚える。 「………ごめん。………覚えて、ない」 うめくようなカカシの声に、ナルトは慌てて首を振った。 「あ、謝ったりしないでくれってばよ! ………オ………オレ………謝るのは、オレの方 なんだからッ!」 そう叫ぶなり、ナルトは堤防を駆け上がっていった。 「………どしたの? あいつ」 後に残されたカカシは首を傾げた。 いつの間にか、いのから離れてこちらに来ていたサクラが、呟くような小さい声で説明す る。 「…ナルトは、カカシ先生………カカシさんの記憶が奪われたのは、自分の所為だと思っ ているのよ。………自分を庇ったりしなかったら、カカシさんが敵の術にかかる事はなか ったんじゃないかって、思っているの」 カカシは、微かに眉を顰めた。 「それは、アイツの思い込み? それとも、客観的に見てもそういう状況だったのか?」 サクラは肩を竦める。 「…環先生は、ナルトの所為じゃないって言ったわ。………私自身は、何とも言えない。 敵のターゲットがまだ依頼人のおじさんだと思われるような状況で、現場は混乱していた から。………でも、敵の方へ飛び出したナルトを、カカシ先生がつかまえて安全圏へ投げ たのは、本当。その所為で、敵の仕掛けた術に先生が対処するのがほんの一瞬でも遅れた のも、事実だと思う」 カカシは、サクラの言葉を頭の中で反芻し、状況を思い描いてみた。 「………なるほど。じゃあ、環が言う通りだな。………オレのミスだろう。アレの所為じ ゃない」 サクラは、驚いて眼を瞠った。 今、ここにいるのは、十四歳まで心が戻ってしまったカカシだ。精神的には、自分達下忍 とそう年齢は変わらないのに。 己の事を冷静に、客観的に判断し、その非を認める潔さ。 やはりこの人は上忍なのだ、とサクラは改めて認識した。 アスマと打合わせをしていた環が、堤防の上から手を振って合図をしているのに気づいた カカシは、サクラの肩を軽く叩いた。 「行こう」 「あ、ハイ」 目の前を歩くカカシの背中を見ながら、サクラは『自分だったら』と想像してみた。 ある朝目覚めたら、すっかり大人の身体になっていて、いつの間にか顔も知らない男と結 婚していて、その男の子供をお前は産んだのだ、と言われる。 自分の心だけが時に置き去りにされている現実を、受け入れられるだろうか。 サクラは、思わずぶるっと身体を震わせた。 (………ダメ………考えただけで………おかしくなりそう………) きっと、慣れるまで―――現実を受け入れられるまで、随分と時間がかかるだろう。 いくらカカシが既に上忍としての心構えが出来ているとはいえ、それとこれは別だと思う。 (………本当に…もう、ダメなのかしら………カカシさんの記憶は…………) イルカが眼の下にクマを作っている理由を、サクラは知っている。 アカデミーや受付所の仕事を終えてから、毎日のように遅くまで書庫で調べ物をしている からだ。カカシの記憶を、彼女が十二年かけて得た大切な『宝』を、取り戻す可能性を懸 命に探っているのである。 サクラに出来る事といえば、アカデミーのイルカの机の上に、そっと差し入れを置いてく るくらいのものだ。 それに気づいて礼を言うイルカに、サクラは彼の身体の方を気遣い、無理をしないように 言ったのだが。 イルカは静かに首を振った。 『…無駄な事をしている、往生際が悪い。………そう、自分でも思う事があるよ。積み上 げてきたものが崩れたのなら、また積み直せばいい。切れてしまった想いなら、また繋い で育み直せばいい。………それは、わかっているんだ。………でも、先生な………そんな に簡単に諦められないんだよ。………チドリの事もあるけれど………何より、カカシさん が、今まで懸命に頑張って体得した術や技は、そんなに簡単に諦めていいものじゃない。 またやり直せばいいさ、と簡単には言えないんだよ………』 それにな、とイルカは微笑んだ。 『自分の大事な女房が、大切にしてきた宝物を奪われて泣いていたら、取り返す努力をす るのが男ってもんだろう?』 もう、サクラには何も言えなかった。 ふーっとサクラは息をつく。 結婚する前にイルカが婚約者のことを語った時は、単純に『いいなぁ』と思った。彼が、 結婚相手の彼女のことをどんなに大切に想っているかが、子供のサクラにも伝わってきた からだ。あんなに愛してくれている人と結婚するお嫁さんが、羨ましかった。 だが今は、イルカの想いの深さがかえって悲しい。 (…ダメ。私が泣いたりしちゃ、ダメ。………辛いのは、イルカ先生と…カカシさんなん だから………) サクラは、トボトボと堤防を登っていった。 ふと、草むらの中に何か光るものを見つけて手を伸ばす。草の下に隠れていたのは、小さ なビー玉だった。 拾って日の光にかざすと、キラキラと虹色に輝く。 「…綺麗………」 そうだ。 もっと小さな子供の頃は、こんなビー玉が宝物だった。 小さなビー玉を見ていると、その頃の事が懐かしく甦ってくる。 時間が経つのも忘れて友達と遊んだ楽しさ。暗くなった道を急いで家に帰る途中で、心配 して探しに来ていた父親に見つかり、怒られたこと。でも、泣きべそをかいたら、お母さ んには内緒だよ、と駄菓子屋で赤い飴玉を買ってくれたこと。繋いだ手の、温かさ。 それもこれも、サクラの大事な思い出だ。 そういう小さな出来事、時間の積み重ねが、今のサクラに繋がっている。 それを、誰かの勝手で奪われたくは無い。 サクラは唇をきゅっと噛み、ポケットの中にビー玉をそっと落とし込んだ。 |
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え〜、申し訳ありません。 |