想いのたどりつく処 −16
台所で茶の支度をしているイルカを、アスマは廊下へ引っ張り出した。 「………どーゆーコトだ? こりゃ」 「…どう、と仰られましても………まあ、ご覧の通りです」 アスマはチラリと居間の方へ視線を走らせる。 「アレは、お前が亭主だって事を受け入れたってワケか?」 イルカは頭を振った。 「いいえ。………まさか、そこまでは。…ただ、一応の信用はしてくれたと見るべきでし ょうかね。俺の作ったものをちゃんと食べてくれるという事は」 「ソコじゃねえだろ。…アイツ、ここ何日か泊まってるみたいじゃねーか」 ああ、とイルカは苦笑する。 「泊まっているといっても、別々の部屋で寝ていますし。…そもそも、彼女がここに滞在 したのは、体調を崩した俺が熱なんか出した所為なんですから」 「お前の体調が悪そうだってのは三代目から聞いていたから、お前が珍しくも熱なんぞ出 したって所までは、まー頷けるとして。………カカシがその看病をしたってのが驚きなん だよ」 「………そう…ですね。…俺の事なんか殆ど知らないのに、泊り込みで看病してくれた。 俺も、驚きましたが。………やはり彼女は優しい人だな、と………」 はーっとアスマはため息をつく。 「ソレはなあ………十二年前のヤツがとる行動としては、やっぱ奇跡的なコトだと俺は思 うぞ? そりゃ、目の前で病人が倒れれば、放っておきはしないだろうが………たぶん、 自分で看病なんかしねえよ。誰か呼びに行って、ソイツにお前を押し付けて、終わりだ」 「そう……ですか?」 「その相手がロクに知らねえ野郎なら、そうしたっておかしくは無いだろう? 病人だっ て、男は男だ」 そこでイルカは納得した表情を浮かべた。 「…そう言われれば……そう、ですね」 「お前は…」 アスマは言いにくそうに視線を逸らす。 「お前は、平気なのかい? ………こんなコト言っちゃナンだが、しばらく抱いてねえ女 房に目の前ウロウロされて」 イルカは一瞬言葉を詰まらせ、そして首を振った。 「…確かに、キスひとつするわけにはいかないんで、辛いと言えば辛いのですが。……… 相手が十四歳の子供なのだと思えば、何とか理性は働きます。…眼を、見ればわかるでし ょう。今の彼女は、本当に子供なんです。そう言う意味ではサクラ達と変わらない………」 それよりも、とイルカは急に声を落とした。 「………アスマさん。彼女の左眼、見ましたか」 「…写輪眼か? あれがどうかしたか?」 イルカはそこからは声を出すことすら憚るように、指文字を使いだす。 『写輪眼の紋様が、以前と違っています。お気づきでしたか?』 アスマは眼を見開いた。 『いや、気づいていなかった。どう違う?』 『おそらく、あれは写輪眼としては不完全なのではないでしょうか。紋様が欠けています』 思わずチッとアスマは舌打ちした。 『そうか………身体的な退行は無いと思っていたが………写輪眼か』 カカシが受け継いだのは、その能力が開眼したばかりの写輪眼だった。いわば、不完全な 能力を移植されたのである。 その眼を育てたのはカカシだ。十二年かけ、異能である眼を試行錯誤しながら使いこなし、 『写輪眼のカカシ』と呼ばれるまでになった。 写輪眼の進化は、カカシの長年かけた努力の賜物なのだ。 ―――それがまた、ほぼ振り出しに戻ってしまった。 『………その事、アイツには』 『言っていません。…写輪眼のことは、デリケートな問題だと思いましたので。情緒不安 定な今の彼女に、余計なことは言わない方がいいかと』 アスマはポン、とイルカの肩を叩く。 『それでいい。…それは、俺から三代目にも一応報告しておこう』 主治医の石榴は、カカシの写輪眼が退化していることに気づいていないかもしれない。 彼女が本来持つ右眼は診ただろうが、写輪眼に関しては彼も専門外だ。というより、写輪 眼が退化する事があるかもしれないなどと、誰も思わないだろう。 彼女の素顔を日常的に間近で見ていたイルカだから、気づいたのだ。 台所から、湯の沸く音が聞こえてくる。 イルカはアスマに会釈して台所に戻った。 アスマは煙草に火をつけようとして、イルカの家が禁煙だったことを思い出す。 赤ん坊に、良くないからだ。 いるはずの赤ん坊がいない家、というのはどこか寂しいものだな、とアスマは煙草をポケ ットに捻じ込んだ。 イルカが買ってきた塩大福を齧りながら、カカシは「は?」と眼を瞬かせた。 「だーからね。アンタが嫌じゃなければ、この家で暮らせばいいじゃないのって、言った のよ。…別に、アンタの世話役をイルカ先生に押し付けるつもりはないけど、私も朝から 晩までアンタにくっついてもいられないから。ここで暮らしてくれるんなら、その方が私 も安心だもの」 紅も、塩大福を一口齧って「あら、美味しい」とお茶で流し込む。 カカシは紅を半眼で睨んだ。 「………嫁入り前の娘がどーたらってのは………?」 「さっき私が言ったのは、アンタの心構えと、常識の問題よ。…まあ、イルカ先生なら信 用できるしね」 甘い物を食べないアスマは、お茶請けに出された漬物を齧っている。 「………まあ、そーだな。あの宿舎に独りでいるより、この家にいた方がいいかもしれん。 生活面の細かなフォローなら、イルカは適任者だ。…安心しろ、カカシ。イルカも、ガキ に手を出す趣味はねーってよ」 イルカは慌てて咳払いした。 「ア、アスマさんっ! そんな言い方してないでしょう」 「でも、ヤる気にならんのだろ?」 「カカシさんが嫌がる事をするわけがないでしょうっ!」 アスマはニィッと笑ってカカシを見る。 「………だ、そうだ。一番の安全牌かもしれんぞ? どーする? カカシ」 カカシはしばし、迷って視線を彷徨わせていた。 「…でも………オレ、子供の面倒なんか………見らんないよ………?」 「誰もアンタにそんな事期待してないわよ。…ねえ、イルカせんせ」 紅に流し目を送られ、イルカは苦笑した。 「えっと………そうですね。チドリは、もうしばらくの間、ヨネさんに預かってもらう事 になっていますから。そういう心配はしなくていいですよ?」 カカシはそろそろ、とイルカを見た。 「………あんたは………オレがここにいてもいいの………?」 イルカは微笑んで頷く。 「カカシさんさえ、良ければ。………ここは、貴方の家でもあるのですから」 ◆ イルカとカカシの、奇妙な共同生活が始まった。 それは、夫婦として暮らしていた頃とはかなり趣が異なっていた。今のカカシは、まるで 下宿人である。 カカシはまだイルカに打ち解けたとは言い難く、あのイルカが熱を出した夜以来、身体的 な接触―――つまり、指先や肩が触れる程度ですら稀なのだが。 それでもイルカは、またカカシと一緒に食卓を囲むことが出来ただけでも嬉しかった。 カカシの息遣い、足音、体温。 ひそやかなそれらが、たまらなく愛しい。 カカシは戸惑いながらも、イルカとの暮らしに徐々に馴染んでいっているように見えた。 まだ自宅療養を言い渡されているカカシは、イルカが仕事に出ている日中は暇らしく、洗 濯や掃除をしておいてくれる。それは、カカシにとっていい気分転換になっているようだ った。 そうして少しずつ、カカシが『今の自分』に慣れていくことが大事なのだとイルカは思う。 この先どうなるかわからないが、彼女が心身ともに落ちつくまで。 それまではカカシを護り、手助けをしよう。 そう、イルカは決心していた。 そしてカカシが同居を始めてから一週間が経過した。 その日帰宅したイルカは、玄関に入る前から漂ってきていた異臭に気づき、慌てて家の中 に飛び込む。 「カカシさんっ? 何事ですかっ」 カカシは台所で大鍋の前に立ち、真剣な面持ちで鍋の中をかき回していた。 「………おかしいな………何でこんな色になっちゃうんだよ、お前………」 ぶつぶつぶつ。 カカシは一心不乱に鍋と対話していた。 「カ………カカシ、さん………?」 イルカの呼びかけに、やっとカカシは振り返った。 「あ、お帰り………ゴメン、ちょっと待ってて。…今、特製の栄養満点スープを作ってる から。………あんた、毎日お疲れなカオで帰ってくるからさ」 つまりカカシは今、果敢にも夕食作りにチャレンジしているらしい。 きっと、毎日帰宅してから食事の仕度をするイルカが大変だと思ったのだろう。 カカシが、自分の身体を心配して食事の用意をしてくれている。 ―――台所に充満する異様な臭いを一瞬忘れ、イルカは感動してしまった。 「それは、ありがとうございます」 しかし、この臭いはいったい何事だろうか。 「…………で、あの………つかぬ事を伺いますが、それは何のスープ………なんですか?」 カカシは即答しなかった。 何拍か後、「………食べられないモノは入れてない」と、ボソリと呟く。 そしてイルカは、以前環がこの家に来た時にカカシの料理を敬遠する素振りを見せた理由 を知る事になった。 怖々と覗き込んでみた鍋の中は、その臭いに違わぬ異様な様相を呈していた。 スープの色は何とも形容し難いレインボーな泥沼色。これは作ろうと思っても出せる色で はないだろう。 臭いは、強いて言うなら漢方薬。 「………で………何を、入れました………?」 カカシはまた数拍黙り込んでから、ボソボソと答える。 「…………………冷蔵庫にあった野菜とか」 とか、の他が問題であった。冷蔵庫の野菜だけでこのスープの色と臭いに到達したなら、 ある意味天才だ。 「………オレの部屋にあった薬草とか………」 手っ取り早く滋養効果を高めようと思ったのであろう。それも一応は頷ける。 「………タンパク質が足りないな、と思ったけど、肉類が冷蔵庫に無くて………」 嫌な予感がしたが、ここは是非問い質しておくべきだろう。 「それは、すみませんでした。さっき鶏肉を買ってきたんですが間に合いませんでしたね。 ………では、何か代わりの物を入れたんですか?」 「…………これ」 カカシは、おたまで何かをすくい上げた。 一瞥しただけでは、その正体はわからなかった。 しかし、よく見ると何やらイキモノの成れの果てのような―――……… 「………あの…嫌いだったら、食べなくていいから。肉類入れないと、ダシが出ないから 入れたんだ」 そこでイルカは、その成れの果てが何なのかやっとわかった。 「………ス………スズメの丸焼き………………?」 「うん。………あと、ヤモリとか………」 思わずイルカは、天を仰いだ。 ああ、この家に代々棲みついていたヤモリがとうとう―――いや、問題はそこじゃなくて。 出来ることなら、四代目火影様の襟首つかんで揺さぶりたい。貴方様はいったいこのヒト に何を食べさせていたんですか! と。 そんな、自給自足の野生の王国サバイバルみたいな食材ばかりを日常的に食べていたので あろうか。 「………ちょっとお伺いしますが」 「………うん?」 「…貴方は、そういう食材が好き………なのですか?」 カカシは首を傾げて、んむむ〜っと唸った。 「………特に………スキってわけでも………でも、他にタンパク源が無かったら、文句は 言わないよ。………戦地で贅沢なんか言ってられないし」 カカシの感覚は、どこかまだ戦争でギリギリを強いられていた頃のものなのかもしれない。 「そうですね。…まあ、戦地…でしたら………」 「………あの、オレだってね、お店にあるような鶏肉とか、豚肉の方が美味しいの、知っ てるからね! でも、オレ、お金持ってないんだもん。…任務の時に着ていた胴衣とか、 腰嚢にもあまりお金は入ってなくて………」 あ、とイルカは気づいた。迂闊だった。 「すみません! ………そうでしたね。貴方に、生活費のしまい場所を言うのを忘れてい ました。ご不自由をかけてしまって、すみませんでした。後で、お教えしますから」 「いや………別にいいんだけど。………だって、あんたのお金でしょ?」 「いいえ。俺だけじゃないです。…貴方の稼ぎも一緒にしてありますので」 そう、とカカシは呟いた。 「………取りあえず………その、あんたの買ってきた鶏肉も入れる?」 「…そうですねえ………あ、スープの味見はしました?」 カカシはウン、と頷く。 「…でも、何か思ったような味になってないんだ。………変だよね。…先生が、スープな んて色んなものを適当に入れて煮込んで塩胡椒すれば、食べられるものが出来るよって… ……実際、先生が作ってくれたスープは結構イケたんだけど………」 この『先生』とは、まぎれも無く四代目火影様のことだろう。 何と言う大雑把な料理指導をするのか。イルカは寸前ため息を飲み込んだ。 「四代目も、薬草入りスープを?」 「………ん? 何か薬草みたいなものも入れてたけど………そういや、ニオイが違うな。 もっと………ええと、もっといい匂いだったような………」 たぶん、それは薬草ではなく香草だったのだろう。 イルカは意を決して、焼スズメとヤモリ入り薬草スープの味見をしてみる事にした。 「…俺もお味見、いいですか?」 「………うん」 イルカはおたまでスープをすくい、小皿に移して一口飲んでみる。 ―――イルカは耐えた。耐えて、何とかその液体を嚥下した。 咄嗟に吐き出さなかった自分を褒めてやりたい。 「………独創的なお味です」 「………………ありがとう。………美味しくないよね。ゴメン」 「………良薬口に苦しと言いますし………いや、その………」 はーっと、カカシは嘆息した。 「いいの。………わかってんだ………野菜スープくらいならオレにも作れるかと思ったん だけど………何でか、こうなっちゃうんだ………今度こそ、と思ったのにな………何とか しようと頑張ったんだけど………余計おかしなモノになってっちゃって………飲めないよ ね、こんなの」 しゅん、とカカシは萎れる。 カカシにも、これが『失敗作』であることはわかっているのだ。 イルカは思わず、小さな子供にするようにその頭を撫でていた。 「…俺に、栄養のあるスープを飲ませようと思ってくれたのでしょう? 嬉しいですよ。 ………でも、あの……失礼ですが………味、俺が少し直していいですか?」 「な、直せるの? コレ!」 カカシは心底驚いてしまった。この、修正不可能と思われるゲテモノスープを飲めるよう な味に直せるのか。 イルカはにっこりと微笑む。 「せっかく、貴方が作ってくれたものをムダにしたくないですから。…やってみましょう」 |
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