想いのたどりつく処 −15

 

その解熱薬を飲むと、大量に汗をかく。
カカシは高い熱の所為で朦朧としているイルカを起こし、夜中に何度も彼を着替えさせた。
明日になっても良くならないようなら、医者を連れてこよう。
そう思いながらイルカの背中を拭き、水分を補給させる為に冷ました白湯を飲ませる。
少し熱が下がってきたイルカは、水枕の中味を取り替えてきたカカシに済まなそうに謝っ
た。
「………すみません。貴方にこんな世話をかけて………」
カカシは素っ気無く首を振った。
「別に………こ…困った時はお互い様、だろ?」
イルカは切なそうに微笑んだ。
「………そう、ですね………」
「それに………たぶん、オレの所為だし………オレが雨の中に飛び出したりしなきゃ…」
「いいえ。………俺が健康管理を怠った所為ですから」
「そう言うと思ったけどね。…でも、やっぱり半分オレの所為だよ」
カカシはイルカの額を冷やしていた手拭を取り替えるために手を伸ばす。
自分の方に屈み込んだカカシを見上げたイルカは、一瞬顔を強張らせた。
「…何? どうかした?」
「いえ…見間違いかも………カカシさん、ちょっと明かりの方を向いてもらえますか?」
「………こう?」
明るい方を向いたカカシの顔をじっと見たイルカは、ぎこちない笑みを浮かべた。
「…すみません。やはり、見間違いでした」
「何? オレの顔に何かついてるみたいに見えた?」
イルカは黙って微笑んでいる。
「変なの。………さ、もう一回薬飲んで、眠って。…きっと、朝には熱が下がっているよ」
「ありがとうございます。………カカシさんも、休んでください」
「うん。大丈夫、ちゃんとオレも寝るからさ。…心配、しないで」
洗面所に乾いたタオルを取りに行ったカカシが戻って来ると、イルカは既に寝息を立てて
いた。先程飲ませた解熱剤に、睡眠導入剤も混ぜておいたのだ。
カカシはちょこんとベッド脇に膝をつき、眠っている男の顔を眺めた。
顔の中央にある傷跡は、古そうだ。こんなにクッキリと残ってしまったのだから、結構深
い傷だったのだろう。
(…痛かった、だろうな。………オレもさすがに左眼やられた時は痛かったもんなー…)
身体にも、たくさんの傷跡があった。その中でも、背中にあった鋭い刃物を受けたと思わ
れる大きく引き攣れた傷跡は、まだそれほど古いものではなかった。
(………この人も、命を懸けて戦っている忍なんだな………)
内勤だの、アカデミーの忍師だのという括りだけで人を判断するものではないな、とカカ
シは反省した。
ふと、シーツに上に投げ出されている男の手に眼が止まる。
カカシの手などすっぽりと包み込まれてしまう大きな手。
カカシは、そうっとイルカの手に触れてみた。
今は、熱の所為かとても熱い。
この手はどういう風に自分に触れたのだろう、と思う。
子供がいる夫婦なのだから、当然この男に抱かれているはずなのだが。
(………オレが…男にあんなコトするの、許したっていうのか…?)
カカシは、性行為に関して嫌悪感しか持っていなかった。
戦場で、捕らえられた敵のくノ一が犯される場面を偶然目撃してしまったのが原因だ。
三代目は、そういう行為を厳しく禁じていたが、完璧に取り締まれるものではない。
泣いて嫌がる女を無理矢理犯す男の姿は醜悪で、そしてとても恐ろしく見えた。
後日、戦場で禁欲生活が長くなったり、戦闘後に興奮状態に陥った男がそういう行動に走
る事があるのだと知ったが、まだ少女のカカシにそんな男の本能的な下半身事情などが理
解できるはずもない。
女を犯していた男に見覚えがあった事も、カカシにとってはショックだった。
彼は、ごく普通の男だ。任務以外で誰かに暴力を振るうのを見た事もないし、困っている
者にはごく自然に手を貸す事も出来る、常識的な人間のはずだ。
それが、性欲の前にはああも変貌するという事実が恐ろしく思えてたまらなかった。
そういう男ばかりではないと頭ではわかっていても、やはり『男性』への嫌悪感は簡単に
消えるものではない。
カカシは、『犯される側』として、男に対して本能的な恐怖を覚えてしまったのである。
男と交わることなど、おぞましくて出来ない。嫌だ。絶対に嫌だ。
―――そう、思っていた。
だから、紅に子供のことを初めて聞かされた時は、あまりの生理的嫌悪で嘔吐までしてし
まったのだ。
だが、自分を孕ませた当の本人を前にした今、不思議にあの嫌悪感に襲われることは無か
った。
どうしてかな、とカカシは思う。
そういえば、さっきこの人に抱きしめられた時も、怖いとも嫌だとも思わなかった。
四代目に触れられるのだけは平気だったように、彼に対しても何の警戒心も起こらなかっ
たのだ。
記憶を失くしても、身体は覚えているのだろうか。
この人は、自分にとって危険な男ではないと。
無理やりに自分を犯し、傷つけるような真似はしないと。
まだ十四歳のカカシには、男と女の複雑な関係はわかるようでわからない、未知の世界だ。
(………うみの、イルカ………か………)
カカシは小さく吐息をもらし、イルカの額を冷やしている手拭をそっとひっくり返した。




カカシの世話係りを仰せつかっているとはいえ、紅にも他に仕事がある。
いつもベッタリ一緒にいるわけにはいかないが、こまめに様子を見に行けば大丈夫だと紅
は思っていた。
記憶喪失になっているといっても、カカシの精神年齢は十四歳。丸っきりの子供ではない
のだから、少しくらい目を離しても大丈夫であろうと。
「………と、思っていたのに何アンタは。…ヒトが目を離した途端これ? つーか、あん
だけゴネてたクセに、何ちゃっかりイルカんとこにいるのよ! 部屋にいないからって、
あわくって捜しまわった私はバカ?」
「………ご、ごめん…なさい………」
カカシは小さくなって、イルカ宅の縁側に仁王立ちになり、眦をつり上げている紅に謝っ
た。
「だって、あの………彼、熱出したんだよ。本当に苦しそうだったから………具合の悪い
人、放っておけないじゃないか」
ほほ〜う、と紅は頬を引き攣らせた。
「イルカ先生なら、昨日アカデミーで見かけたわよ。結構元気そうに授業してたけど? 今
日もアカデミーに出勤してるんじゃないの? 彼。―――て、コトは治ってんのよね。…
なのに何であんたはその留守宅にいんのよ! …まさかアンタ、私にさりげな〜く『そう
いや、あのイルカって人、どこら辺に住んでるの?』なーんて聞いてきやがった日から、
ずっといるんじゃ………」
カカシは赤くなった。
「ずっと……って。二、三日くらいじゃない………」
「やっぱり、ずっとじゃないのッ」
紅に怒られるまで、彼女に心配をかけていた事に気づかなかったカカシは、とにかく謝る。
「………ごめんなさい………」
「アスマにも謝るのよ! あれもアンタを心配して捜しまわっているはずだから。…あ、
アスマに見つかったって連絡しなきゃ」
「―――それにゃ及ばねーよ………」
いかにも疲れたという顔で、アスマは生垣の向こう側に立っていた。
「………ったく。まさかと思って一応見に来てみれば………あれだけ拒否反応起こした野
郎の家にいるとは思わなかったぜ………」
まったくよ、と紅は同意する。
「実際はともかく、アンタの感覚じゃここは殆ど初対面の男の家でしょ! そういう所に、
嫁入り前の娘が泊まっちゃダメなの!」
アスマが呆れた声を出した。
「………嫁入り前って、お前………」
「結婚も出産も、このコの中じゃまだ未来の事なんだから、嫁入り前なのよ!」
ハイすんません、とアスマは反射的に謝る。
(身体は経産婦のクセに心はオボコかよ………マジに面倒くせぇ………)
カカシは、苦虫を噛み潰したかのような形相のアスマに恐る恐る声を掛ける。
「あの………アスマ………?」
「あ〜? 何だ」
カカシ俯き加減で視線を横に逸らしながらも、謝罪の言葉を口にした。
「…その…し、心配かけて………ゴメン………」
アスマは表情を緩めた。
これは、アスマの知る十四歳のカカシとは少し違う気がする。彼の記憶にある十二年前の
彼女は、もっとずっとぶっきらぼうで、他人を寄せ付けない子供だった。
もっとも、その頃は自分だってまだ大人ではなかったから、カカシの言動に寛容な態度で
接してやれるほどの余裕は無かったのかもしれないが。
「…ああ。…悪いと思ってんだろ? なら、いいってことよ」
何だかんだ言っても、アスマはカカシに甘い。紅は黙って肩を竦めた。
「ところで何だってお前はイルカんちにいるんだ?」
元々住んでいた家ではあるが、今のカカシにとっては他人の家同然だろう。アスマが疑問
に思うのも尤もだった。
「………アスマが…あの人に謝れって言ったんじゃないか………」
アスマは「はあ?」と眉を顰める。
「…あの、組み手ン時のことか?」
カカシはコクリと頷いた。
「…オレも、悪いのはオレだと思ったから。…だって、あの人は悪くないんだよ。…オレ
がドジって、勝手に忘れちゃったんだから。………だから、謝んなきゃって………」
「だからって、何でずーっとここにいるのよ。アンタ、まだ謝ってないとかぬかすんじゃ
ないでしょうね?」
紅に凄まれて、カカシは後退りをした。
「………あ、謝ったもん………ちゃんと」
「じゃあ、何で帰らなかったの」
「だから、それは彼が具合悪くしたからだって言ってるじゃないか。熱出してグッタリし
ている人、放って帰れっての?」
「でも、イルカが治ってからもいるのよね」
熱を出してしまったイルカの看病をしているうちに、何故か帰りそびれてそのまま居つい
ていたカカシは、バツが悪そうにそっぽを向いた。
「……………それは…………」
「………それは?」
「………え〜っと、なりゆき…かな………」
カカシはボソボソと言い訳を始める。
「………あの…彼がね、熱出した時…タオルとかシャツとか、いっぱい使ったから………
それ、洗濯…しなきゃって……汗かいた物、放っておいたらいけないよって、先生も言っ
てたし……でもね、彼ね、熱の下がったその日にもう仕事行くって………だから、オレが
洗濯したんだ。洗濯したら干すだろ? んで、乾くまで待ってたら夕方になっちゃって…
洗濯物取り込んだまでは覚えているんだけど、オレ、なんか寝ちゃったみたいで…………
気づいたらあの人帰って来ててね、………ゴハン作ったから食べませんかって………あの
…せっかくだから食べさせてもらって……そしたら結構美味しくてね……じゃなくって、
オレ……その………………」
要するに餌付けされたのかよ、と紅とアスマは同時に心の中で突っ込んだ。
「………さすがだな。ガキの扱いに関しちゃプロだぜ。もー懐かせたんか」
「………どんなドーブツでも馴らせるって噂は本当だったのね………」
ヒソヒソと囁きあう紅とアスマの後ろで、カカシが剣呑なオーラを発生させた。
「…聞こえてっぞ! 誰がガキで動物だって?」
「お前だ」
「アンタよ」
すかさず返ってきた二人の声に、カカシはムッと唇を引き結んだ。
ガキ、は仕方ない。実際、世間一般的に十四歳はまだ子供に見られてしまう。身体が大人
でも、中味が子供なら『ガキ』だ。しかし、動物はないと思う。
しかも、懐かせただの、馴らすだの。
「いー加減失礼なヤツらだったんだな、あんたら………」
何故、自分はこんな連中とお友達をやっているのだか。
今更ながら、二十六歳の自分に抗議したいカカシだった。
(………なんか、ハラ立ってきた)
別に、あの男に手懐けられたわけでも何でもない。
ただ―――ただ、とても丈夫で健康なはずの彼が、雨に濡れた程度で熱を出したりしたの
がおかしいと、それが気になってすぐに帰る気になれなかっただけだ、とカカシは思って
いた。
「…もう、いいっ! オレ、帰る。…帰ればいいんだろっ」
縁側から飛び降りたカカシは、そのまま裏木戸から出て行こうとした。
と、ちょうど裏木戸から入ってこようとしている人物と鉢合わせになる。
「あれ、帰られるんですか? カカシさん」
「………イ、ルカ………」
カカシは何となく赤くなって口ごもる。
「いや………あの………」
「お茶菓子、買ってきたんです。帰るなら食べてからにしませんか?」
イルカは顔を上げ、上忍二人にも微笑みかけた。
「…いらっしゃい、アスマさん、紅さん。…よろしければ、ご一緒にお茶でも如何ですか?」
 
 

      

 



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