想いのたどりつく処 −14

 

日記には、彼と出逢った時のこと。
初めて女として異性と付き合いを始めた時の、様々な戸惑いと喜び。
妊娠してから結婚に至るまでの経緯。
そして、妊娠中から出産までの記録などが、彼への想いと共に綴られていた。
もちろん、初めての妊娠と出産に関しては、驚きや苦痛など愚痴めいた泣き言も書かれて
はいたが、それも記録のうちだろう。
子供が生まれてからは、子供の観察日記のような文章が多くなっていたが、その中には必
ず夫への感謝と想いが一緒に記されていた。
なるほど、恥ずかしくてとてもではないが他人には読まれたくない内容だ。
チャクラで封印する日記帳で正解だとカカシは思った。
日記は、波の国に任務で出向くことを書いたところで終わっていた。
(………この…波の国で、オレは十二年分の生きてきた証を失ったんだな………)
これを書いたのが自分だとは到底思えなかったが、それでもひとつ、わかった事があった。
本当に自分は、望んで子供を産んでいたし、あの男を愛して結婚したのだ。
どうしてあの男にそんなに惚れたのか、日記を読んでもまだわからなかったけれど、どう
やらそれだけは事実のようだ。
(………不思議だ………)
日記だけ見ていると、まるで自分は普通の女の子みたいではないか。
ひとりの男を好きになって。
好きな男の妻になれるのが嬉しくて。その人の子供を産めるのが嬉しくて。
そうして生まれた息子を溺愛している、ごく普通の女。
なんて普通で、なんて幸せな。
(………これが、オレ?)
まるで、絵空事だ。
今のカカシにとっては、現実味が無さ過ぎた。
(―――これは、オレじゃない)
イルカを愛したのも、幸せな母親になったのも。
(―――オレじゃ、ない)
失った多くの高等忍術、経験とスキル。
失った『愛』。
それらを失った自分はもう、この日記に書かれている『幸せを知ったカカシ』ではないの
だ。
カカシは突然、恐ろしいほどの喪失感と、絶望に似た思いに襲われた。
(………オレ……は…………)
震える指でもう一度日記帳に封印を施してから元通りに抽斗の奥にしまい、カカシは部屋
を飛び出した。
階段を駆け下り、廊下を走って玄関に向かい。「カカシさんっ?」というイルカの声を背中
で聞きながら、家の外に走り出る。
そのまま、雨に濡れるのも構わずに闇の中を駆け出した。
何処へ行ったらいいのか、わからない。
あの『自分の部屋』すら、今の自分が戻ってもいい場所とは思えなくなってしまった。
走って、走って、激しさを増すばかりの雨の中を滅茶苦茶に走って。
無意識に人のいない場所に向かったのだろう。
森の手前まで走った時は息が切れ、胸が痛くなってしまっていた。
(―――正しい呼吸法も忘れたのか? 上忍の名折れだな………)
ずぶ濡れになったカカシは、自嘲した。
あの男を愛し、愛されて暖かな家庭を持った事が幸福で―――その想いを胸に抱いたまま
死ぬのなら、その瞬間まで幸福だと。
そう、自分は日記に書いていた。
「なら、そのまま死ねば良かったじゃないか! それなら幸せなまま死ねたんだろうっ?」
闇の中に向かって叫び、木に拳を叩きつける。
夫を愛していると言いきり、生まれた子供を溺愛している幸せな女にはもう、なれっこな
い。カカシ本人が、『奇跡だ』と言っているのだ。
奇跡とは、そう何度も起きないもの。
―――だから。
「何で、こんな中途半端で………何で生きてるんだよ、オレはっ!」
もう一度振り上げたカカシの拳は、誰かの手で止められた。大きな手が包み込むようにカ
カシの拳を抑えている。
「………手を、傷めますよ」
ハッとカカシが振り返ると、すぐ後ろにイルカが立っていた。
雨の中、カカシの後を追ってきていたのだ。
「………貴方が、どう思おうと。………俺は、貴方が生きて還って来てくださって嬉しか
った。………どうか、そんな風に言わないでください」
何でだよ、とカカシは呟く。
「………オレ、あんたのこと忘れちゃってるじゃないか。…あんたが好きだったってこと
も、何もかも、覚えていない。無かったのも同じじゃないかっ………もう、オレは……」
「それでも、です」
カカシは唇を噛み締めて首を横に振った。
聞いて、とイルカは静かに囁いた。
「仮に―――貴方がもしも、俺より先に亡くなったとしても。俺はずっと、貴方を愛して
います。………でもね、カカシさん。それよりも貴方がこうして生きて息をしている方が
いい。…貴方が俺を忘れてしまっていても、生きていてくれる方がいいに決まっています」
「…………オレ、は………」
雨でずぶ濡れになっているカカシを、同じくずぶ濡れのイルカがそっと抱き寄せた。
「………生きていてくれた、その事が嬉しいんです」
「…………………オレ……………………」
暖かな、男の腕。
何もかも忘れてしまった自分を、それでも愛しているといい、雨の中心配して追ってきて
くれた男。
この腕に縋りつくことは、許されるのだろうか。
自分にそんな権利が、あるのだろうか。
「………ありがとう、カカシさん。…生きていてくれて………」
男の指が、躊躇いがちに髪に触れた瞬間。
カカシの中で、何かが弾けた。
「…………ごめんっ………なさいっ………」
「カカシさん………」
声を上げて泣き出したカカシを、イルカは黙って抱きしめる。
「わ、すれちゃって………あんたのっ…こと、忘れ…ちゃって………ごめん、なさいっ…」
しゃくりあげながら、切れ切れに謝るカカシ。
そのカカシの髪を撫でながら、イルカの頬にも一筋涙が流れた。
「………謝らないで。………貴方は、悪くないんです。…何も、悪くないんですから……」
帰りましょう、とイルカはカカシの耳に囁いた。





イルカに連れられて、カカシはそのまま彼の家に戻った。
イルカは手早く風呂の用意をしてくれて、カカシは彼に言われるまま、先に風呂を使わせ
てもらった。
熱い湯に浸かって身体が温まってくると少し落ち着いてきて、感情をコントロール出来な
かった事―――昂ぶった感情のままに家を飛び出したり、喚いて、彼の前で子供のように
泣いたりした事に、自己嫌悪を覚える。
「………これじゃ、本当にガキじゃない………」
忍たる者、常に己の心を律し、冷静であること。
自分は上忍だ。セルフコントロールは出来ているとカカシは思っていた。
だが、この情緒不安定ぶりは何だ。
湯船の中で、自分の身体を見下ろしたカカシは、もう何度目になるかわからないため息を
ついた。
まだ、馴染めない。
女らしく滑らかになっている肌。
まだ乳呑み児を抱えている証に、豊かに張り出している乳房―――大人の、女性の身体に。
この身体に慣れることが出来たら、心の方も落ち着くだろうか。
こんな、浮き沈みの激しい精神状態から脱する事が出来るだろうか。
ふと、カカシは自分が『チドリ』と名づけたのだという赤ん坊のことを思った。
今まで、なるべく子供の事は考えないようにしていたような気がする。
日記には、かつて自分がその子供に注いでいた愛情の数々が綴られていた。
(………お母さんの………このお乳、欲しがっているのかな。………ごめんね………忘れ
ちゃってごめんね………オレ、あんなに喜んでいたのに…あんたが生まれたこと………)
自分がこのまま子供を拒否し続ければ、『チドリ』は母親の存在を失うのだ。
だが、産んだ覚えも無い子供に今、この乳を吸わせることが出来るかと己に問えば、『出来
ない』としか言えない。
「………どうしたら………いいのかな。………先生………助けて、せんせい………」
泣いてはいけない、と思うそばから涙がこぼれる。
カカシは逝ってしまった養い親を呼びながら、声を殺して泣いた。



脱衣所には、いつの間にかきちんと着替えが置いてあった。ここで暮らしていたのだから、
着替えくらいあっても当然なんだよな、と思いながらカカシは服を手にした。
この服では口布で顔が隠せないと一瞬躊躇したが、イルカの前で顔を隠すことの無意味さ
を思い出す。
着替えて、そろそろと居間の戸を開けた。
「あの…お風呂、ありが………」
礼を言いかけたカカシは、そこで言葉を呑み込んだ。
イルカが、柱にもたれて座り込んでいる。なんだか顔色が酷く悪い。
「ど、どうしたのっ………具合、悪いの?」
イルカは緩慢な動作で顔を上げ、微笑をつくってみせる。
「………すみません。ちょっと、眩暈がしただけで………大丈夫、です」
とても大丈夫そうに見えない。
手は震えているし、呼吸も努めて抑えているようだが、乱れていた。
雨の中を少し走った程度で、こんなにすぐ具合を悪くするなんておかしい。自分の日記に
も、この男の頑丈ぶりについては書いてあったのに。
そういえば、庭先で会った時少し顔色が悪いような気はしたのだ。だが、暗さの所為かと
思ったし、その後はろくに彼の顔を見なかったので気づかなかった。
「………嘘。…もしかしたら、体調悪かったんじゃないの?」
「いや、あの………」
イルカは何かを言いかけ、ブルッと身体を震わせる。カカシはイルカの額に手をあて、顔
を顰めた。
「…悪寒がする? 寒いんだろう。………これ、熱上がってくるよ。…立てる? お風呂
は無理だろうから、身体拭くだけでもしないと。…寝室、どこ?」
「………立て、ます。一人で…大丈夫、ですから………」
イルカは気丈にそう答えると、ぎこちなく身を起こした。
「少し、寝不足だったんです。………自己管理を、怠りました。どうか…お気になさらず」
ふらりと立ち上がると、イルカは廊下を挟んで向かい側の部屋を指差した。
「あっちに、フトン…敷いてあります。………どうぞ、休んでください。………俺は、向
こうの部屋で…寝ますから………」
体調が悪いのに、雨の中を走って追いかけてきた男。
そして濡れてしまったカカシの為に風呂を沸かし、カカシがその風呂を使っている間にフ
トンまで用意してくれて。きっと、カカシに見られなかったら、具合が悪いのを隠し通す
気だったに違いない。自分は、自分の事ばかりに気を取られて、すぐ傍にいた人間が具合
が悪いのにも気づけなかった。
カカシは何だか悲しくなってきた。悲しくて、少し腹立たしい。
どうしてそういう事をするのだろう、この男は。
「………そう言われて、ハイそーですかって、オレが言うと思ってんの、あんた」
「…いやでも、カカシさん………」
「でも、じゃないっ! あんたは病人なの! 病人は、元気な人の言う事、聞くの!」
カカシはイルカの腕を取り、自分の肩に回させて彼の身体を支えた。
「寝室、あっちだな?」
「………はい」
こうなると、身体まで縮まなくて良かった、と思える。
大柄とはいえないまでも、180センチ近い長身の男を支えて歩くのに十四の身体のまま
では少々辛いものがあるだろう。
寝室は板張りの部屋で、シングルサイズのベッドが二つ、それと部屋の隅にベビーベッド
が置いてあった。
夫婦なのだから同じ部屋で休んでも当たり前なのだが、二つ並んだベッドがぴたりと寄せ
てあるのが何だか生々しくて、思わずカカシは眼を逸らしてしまう。
「オ、オレ、お湯汲んでくるから! 座ってて!」
イルカは「大丈夫です」とうわ言のように繰り返していたが、カカシの言う事には逆らわ
ずにベッドに腰をおろした。
カカシは風呂場でお湯を洗面器に汲み、洗面所で見つけたタオル数枚とドライヤーを持っ
て部屋に戻った。
イルカの髪をほどいて熱いお湯で絞ったタオルで頭を拭き、有無を言わさずアンダーを脱
がせて背中と腕を拭う。前は自分で拭くように言って絞り直したタオルを渡し、ドライヤ
ーで髪を乾かしてから、ベッドの上に置いてあったパジャマを着せるまで、カカシは夢中
になってやった。
イルカの裸が恥ずかしいとか、そういう感情はまるで起きなかった。彼が具合悪そうなの
が心配で、自分に出来そうな事をやるのに必死だったからだ。
(ただの風邪かな。チャクラが薄いから、過労かも。…肺炎なんか起こしたらどうしよう
………そうだ。オレの部屋に、薬草があった。熱冷ましの薬ならオレにも調合出来る)
「ちゃんと寝てろよ! それと、台所借りるね」
イルカをベッドに押し込むと、カカシは急いで二階に上がった。
確か、戸棚の中で薬草のストックを見た気がする。基本的な薬草は揃っていたから、解熱
剤くらい作れるはずだ。
(あと、疲労回復と………胃腸の薬も作った方がいいよね。あ、氷。…冷蔵庫にあるかな)
大人の男の看病くらい、経験はある。
四代目が珍しく風邪をひいて寝込んだ時だって、ちゃんと自分が世話をしたのだ。
カカシは腕まくりをすると、薬草を抱えて台所に向かった。
 

      

 



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