想いのたどりつく処 −13

 

「………あの………」
湯気の立つ湯呑を前に、カカシは座布団の上に正座していた。
「あ、すみません。お茶菓子は切らしていまして。…漬物でも良かったら、お茶請けに出
しましょうか。それとも、お腹空いています?」
「いやあの、そうじゃなくて………」
はい? とイルカは首を傾げた。
「………こ………子供、いるんじゃ…なかったの………?」
カカシは俯いたままボソボソと訊ねる。
「…あ、チドリですか。…あの子は今、火影様のお屋敷で預かってもらっているんです。
…おヨネさんの事はご存じですか?」
「………知ってる。…三代目のトコのばあやさん」
「その、ばあやさんに面倒を見て頂いています。…いつもなら日中は保育園に預けて、夕
方俺が迎えに行って…それから朝まではここにいるんですけどね。……今は、俺が忙しい
ものですから、おヨネさんのご厚意に甘えているんですよ」
カカシは「そう」と呟いてから、やっと顔を上げる。
「……………子供………赤ちゃん? チドリって………いうんだ?」
イルカは微かな笑みを浮かべて頷いた。
「そうです。…貴方が、名づけました。男の子ですよ」
「………オレ、が………」
千鳥。
―――必死になって編み出した、オリジナルの技。
カカシにとって、大きな意味を持つ名だが。それを、生まれた子供につけたというのか。
「…あんた…反対しなかったの? ………それ、オレの技の名前だよ」
イルカは苦笑を浮かべて、鼻梁の傷跡を指先で軽くかいた。
「お恥ずかしいことですが。…俺は最初、それが貴方の必殺技の名だとは知らなかったん
ですよ。…二人で名前を考えている時に、ふと貴方が口にしたその名の響きがとても綺麗
に思えて、それで………後で技名と同じだと知ったのですが、貴方にとっての、その名の
持つ意味を考えたら、反対どころか………とても、良い名だと思いました」
カカシは少し目許が火照るのを感じて、慌ててまた俯いた。
「そ………そう、なら…いいけど。………あ、あの………あんたさ………」
「何でしょう?」
「オレ、別に気にしないから。………そんな、畏まった話し方、しなくていいよ。オレは
覚えていなくて悪いんだけど………あんた、オレの亭主なんだろ? 普通に話せよ」
「…と、言われましても。いつもこんな感じなので」
カカシは一度持ち上げた湯呑を思わずまたテーブルに戻した。
「……………………へ?」
「…だから、普段からこうなんですよ。…特に畏まって話しているわけではないので、お
気になさらず」
カカシは疑わしげにじーっとイルカを見た。
「…………あんた、いつもニョーボに敬語で話すの? ………それとも、あんたは相手が
誰でも敬語で話すタイプ?」
「いいえ、まさか。そんなお上品な人間じゃありませんよ。……貴方とは、最初の関係が
上司と部下ですからね。…何となく、その流れで。………結婚したからって、いきなり話
し方まで変えられなくて」
「………そういう…もん?」
「少なくとも、俺達は…俺は、それが自然でしたから。カカシさんも、別に気にしていま
せんでしたよ」
「………………ふうん………そう………」
我事ながら、十二年後の自分がよくわからない。十二年の間に何があったんだろう、とカ
カシは首を傾げた。
とりあえず、淹れてもらったお茶を口にする。
(………美味しい………)
カカシの好みを知っていて淹れてくれたお茶なのだろうか。この男なら、あり得そうだ。
カカシは、居間をそっと見回した。
古い家だが、きちんと手入れされていて居心地がいい。住人の為人が伺える家である。
自分が住んでいたはずの家なのに、ただの訪問者として座っているのが何とも奇妙で、少
し寂しかった。
お茶を飲み干すと、カカシは立ち上がった。
「………お茶、ごちそうさま。………オレ、帰る。もう、遅いし」
時計の針は、午後十一時を指していた。
「そうですね。………どうぞ、お気をつけて」
立ち上がりかけたカカシは、はたと思い出した。ここに来た、もう一つの用を。部屋の礼
をまだ言っていない。
「そうだ。…あの、あのオレの部屋………使えるようにしといてくれたの、あんただよね? 
お礼言おうと思ってたんだ。…ありがとう。その…助かった」
イルカは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「どういたしまして。勝手なことをしたかと思っていたのですが、良かった。………何か、
足りない物はないですか?」
「ううん。…当座要りそうな物は揃ってたと思う。ありがとね」
ここは本来自分の家でもあるのだから、『帰る』はおかしいんだろうな、とカカシは思いな
がら居間を出る。
着ていた胴衣の隠しポケットに入っていた鍵。
綺麗な飾り紐がついていた鍵は、『カカシ』がどんなにこの家を大切に思っていたかをうか
がわせる物だ。
カカシは廊下で立ち止まった。
「………カカシさん?」
「………ねえ………あんた………どうするの?」
「どうする………とは」
イルカの戸惑ったような声に、カカシは振り返る。
「だって! オレ、あんたのコト忘れちゃって! あんたの子供を産んだなんて全然信じ
られなくて! ………そんなのとあんた、夫婦でなんかいられるの? どうすんのさっ」
イルカは、いきなり感情を昂ぶらせたカカシを静かな眼で見下ろした。
「………わかりません」
「…わからないって………」
「俺もまだ、混乱しているのかもしれませんけれど。………貴方が俺を忘れてしまったの
は悲しい。…ショックでした。………でも、だからといってすぐに別れるという考えは浮
かびませんでした。…貴方を縛る気はありませんが、そんなに結論を急ぐ必要も無いと思
うんです。…今、一番苦しいのはカカシさんだから。………貴方が俺を忘れても、俺は貴
方を愛しています。…だから、貴方の力になりたい」
真っ直ぐな黒い瞳と、「愛している」という飾りの無い言葉。
カカシは、妙にソワソワとした落ち着かない気分になった。何となく恥ずかしくて眼を逸
らし、早足で玄関に向かう。
「オ、オレは………オレも、わからないんだ。どうしたらいいのか、わからない………」
「……すぐに結論を出すこともないでしょう。…ゆっくり、考えましょう?」
「………うん………」
三和土に降りたイルカは、玄関の戸を引き開けて「あ」と声を上げた。
サンダルを履きかけていたカカシも、その声に顔を上げて外を見る。
「…あれ、雨………?」
いつの間にか、シトシトと雨が降り出していた。と、見る間にその雨脚は強くなっていく。
イルカは眉を顰めた。
「う〜ん、思ったよりも早く降りだしたなあ。…降るならもっと夜中だと思っていたんで
すが。………なんか、ひどい降りになってきましたね」
「うん………悪いけど、傘貸して?」
イルカは心配そうな顔で振り返った。
「少し、様子見したらどうです? こんな降りの中歩いたら、びしょ濡れになりますよ」
そう言いながら、イルカはピシャンと戸を閉めてしまった。
「え…大丈夫………」
「ダメです。…万が一、風邪ひいたらどうします」
結構強引な男だな、と思ったがカカシはしぶしぶイルカの言う事を聞いた。
冷たい雨の中を歩くのも嫌だと思ったからだ。
カカシは居間に戻って、また同じ座布団に座った。
「何か暖かい飲み物でも作りましょうか。…何がいいですか?」
「あ、ううん。…その、お、気遣いなく………何でもいい…から」
そうですか? とイルカは台所へ向かった。
こうして台所に立つのが苦じゃない男と自分は結婚したのか、とぼんやりカカシは思った。
すぐに住めるようにカカシの部屋を調えてくれていた事と言い、随分と気の利くマメな男
のようだ。
(…だから…オレみたいに女らしくないのを奥さんにするのも平気だったのかな? ……
…オレ、料理も裁縫も出来ないのに………)
大人になったからといって、そういう物が上手くなっているとは限らない。
カカシは家事に興味が無いのだ。任務で必要にならない限り、積極的に覚えようとするわ
けがないだろう。
カカシの目の前に、コト、とカップが置かれた。
「…もう夜遅いから、カフェイン系はやめました。どうぞ」
ホットミルクだった。ふわんと、微かにハチミツの匂いがする。
「………ありがと………」
掌に暖かいカップを包み込んで、ねえ、とカカシは呟いた。
「オレ………いい奥さんじゃなかっただろう………?」
イルカは僅かに眼を見開いた。
「何故、そう思うんです?」
「………だって、オレ家事苦手だもの。…十二年経って大人になってたって……そう簡単
にやれるようになってるわけないと思って」
「カカシさん」
「…………………」
カカシは、立ったままでこちらを見下ろしているイルカを見上げた。
「俺は、家政婦が欲しかったわけじゃありませんよ?」
「………でもさ………やっぱり、結婚したら、身の回りの世話は奥さんにして欲しいもの
じゃないの………?」
イルカは微笑んで、ス、とカカシの目線まで腰を落とした。
「そうですね。………カカシさんが、俺の為を思って色々やろうとしてくれたのは、とて
も嬉しかったです。…でも、夫婦としての共同生活は、基本的にどちらかその時にやれる
方がやればいい、と思っていますので。お互い、仕事もありますし」
まっすぐこちらを見詰める、黒い瞳。
年下で、階級も下の、真面目そうなアカデミーの先生。
自分は、本当に何を思い、何を考えてこの男と一緒になったのだろう。
彼が優しくて、気が利いて、何でもやってくれそうだから?
それとも、階級が下の男なら妻に威張り散らすこともなく、こちらが優位だから?
―――………自分はそんなに、打算的な女になっていたのだろうか。
「………ねえ」
「はい」
「………このウチに、オレの部屋ってあるの………?」
「貴方の私室ですか? ありますよ。…見ますか?」
カカシはコクリと頷いた。
「どうぞ。…こちらです」
案内されたのは、二階の一室だった。
四畳半ほどの部屋だが、忍具や書物を主に置いてあるだけなので特に狭い感じではない。
「まだ、雨はやみそうにないですし………ごゆっくり」
イルカは、まだカカシが口をつけていなかったミルクのカップを机の上に置いて出て行っ
た。
一人になると、窓の外から聞こえてくる雨の音がやけに大きく感じられる。
カカシは、『自分の部屋』をゆっくりと見回した。
そう思って見ると、なるほど自分の部屋だな、と思う。物の置き方、机の配置などに違和
感が無い。
自分の部屋なのだから構うまい、とカカシは物入れや抽斗を開けてみる。
置いてある巻物の多くは、やはりだいぶレベルが高くなっていた。これを使いこなせるよ
うになるには、また相当の時間を費やさねばならないのだろうな、とカカシは重い息を吐
いた。
「………あれ? これ………」
机の抽斗の奥に、見覚えのある分厚い冊子を見つけたカカシは、それを引っ張り出した。
「…先生がくれた、日記帳………」
四代目になってしまった養い親は、カカシと一緒に暮らせなくなってからも色々と気に掛
けてくれて、時々誕生日でもないのに物をくれたりした。
これも、ある日何故か突然「あげる」と手渡されたのだ。
「チャクラで鍵がかかるようになっているから、誰にも見られないよ。カカシが書き留め
ておきたいことを、書いたらいい」
―――そう、言って。
もらったものの、書き出すキッカケがないうちに四代目は逝ってしまって。
カカシはその日記帳を使わないでしまっておいたのだ。
手に取ると、チャクラで封じてあるのがわかる。日記として使うまで封じる必要は無いか
ら、何か書いたということか。
「………オレ、日記なんかつける気になったのかな………」
封印式としては簡単なものだ。
カカシはチャクラを軽く練り、封印を解く。
そうっと堅い革の表紙を開けると、内表紙に懐かしい四代目の文字があった。

『愛しいカカシ
 君の人生が幸福なものでありますように』
 
思わず、眼に涙がにじんだ。
―――そうだ。
これを目にしてしまったから、余計にこの日記帳を使う気になどならなかったのだ。
貴方がこの世にいないのに、何故幸せになどなれる。
そう、思っていたから。
ページをめくってみると、1ページ目に『先生へ』とあった。
今よりも大人っぽい字になっていたが、この筆跡は自分のものだろう。

『先生へ。
この日記帳を頂いてから、随分たちました。
せっかくくださったのに、今まで使わないでいてごめんなさい。
でも、ようやくこの日記帳に自分の思いを綴っておきたいと―――そう思えるようになっ
たのです。
貴方がいなくなってからの私はずっと、何故自分は生まれてきたのだろう、とか。
生きていてもいいのだろうか、とか。
そんな事ばかり考えていたような気がします。

でも、生きていて良かった。
そして、女に生まれて良かったと、初めて思えました。
先生。
奇跡が、起きたんです。
あの人に出逢ったことで、私に奇跡が起きました。
こんな私にも人を愛することが出来るのだと。そう、彼が教えてくれたのです。
彼のおかげで、私の世界は変わりました。
今、私のお腹には、その人の赤ちゃんがいます。
他人を殺めることしか出来なかった私が、新しい生命を生み出せるのです。
これが奇跡でなくて何でしょう。

昔の、世を拗ねていた頃の自分に言ってあげたい。
貴方はいつか、素晴しい人と出逢って、恋をして幸せになれるのだから。
だから、自分はいつ死んでもいいのだとか、そんな悲しくて投げやりな気持ちでいるのは
よしなさい、と。

あの人を愛しています。
お腹のこの子を愛しています。
先生。
今になってようやく、私はいつでも誰かに愛されながら、許されながら、生きていたのだ
と。―――だからこそ、生きていられたのだと、わかりました。
感謝しています。
私は今、幸せです。
この想いを抱いたまま死ねるなら、きっと息絶えるその瞬間まで幸せでしょう。』



まるで、自分が記憶を失くしてしまうことを予見して書いたかのようだ、とカカシは虚ろ
に思った。
 

      

 



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