言葉にできない−3

 

「イタタ…」
縫い物はカカシの苦手な物の一つだった。
男女に関係なく、糸と針を用いて布やその他を縫い、繋ぎ合わせる技法は忍として習得し
ておくべき項目のひとつである。
だが、育ての親である四代目火影自身があまり得意としていた分野ではなかった為、弟子
である彼女に積極的にその技法を教えなかったのだ。
裁縫が出来ない事で特に困った事態に遭遇しなかったカカシは、今までその技術を習得し
ようとした事はなかった。
しかし今、『手作りの贈り物』―――それも、裁縫で作る物に、カカシはこだわる。
どうしても自分の手で彼の物を作ってみたいと思うのだ。
彼の為に一針一針縫う事に価値があるような気がして仕方ない。
故に、何度針で自分の指を突こうがへこたれる事無く、カカシは縫い物に挑む。
「…カカシ様、それでは曲がってしまいますよ。そうそう…なるべく間隔をあけないよう
に…ああ、糸がその長さになったら一度とめてしまった方がよろしいですね」
こういう時の師匠はやはりヨネであった。
カカシから相談を受けたヨネは、材料の選定と調達をしてくれて、作り方も教授してくれ
ている。
「ごめんなさい、ヨネさんも身体の具合良くないのに来てもらってしまって…」
「なんの。…一昨日はちょいと腰が痛んだだけですよ。買い物くらい出来たんですけどね
え…もしも途中で動けなくなったら他人様のご迷惑になりますから大人しくしていただけ
ですの。今日は平気ですよ。旦那様がよく効くお薬を下さったので」
「…オレ、ヨネさんがいなかったら何も出来ないね…」
カカシは情けなさそうに微笑うと、ヨネに教わった通りに糸を結んで切る。
「……何でオレがやると糸の結び目がこんなダンゴになるんだ…?」
ホホホ、とヨネは笑った。
「慣れですよ、カカシ様。お慣れになれば、もっと綺麗に結べます。大丈夫、結び目は裏
側に入ってしまうから見えません。さあ、もう少しですよ。頑張れば、イルカちゃんのお
誕生日にちゃんと間に合いますとも」
カカシは俯いて、少し形のある物になってきている布地を引っ張った。
「…まっすぐ縫うだけならオレにも出来るかと思ったんだけど…まっすぐ縫うって案外難
しいんだな…」
「それでも、カカシ様はいい贈り物を思いつかれましたよ。いきなり高望みをなさらず、
ご自分でお作りになれる物を選んだでしょう。…イルカちゃん、喜びますよ」
「だと…いいけど…」
カカシはひょいと針に新しい糸を通した。こういう作業は難しくもなんとも無いのだ。
「…こういうの覚えたら、そのうちチドリにも何か拵えてやれるかなぁ……野望は手作り
浴衣なんだけど」
ヨネはニコニコ笑って頷いた。
「そうですね。浴衣なんぞ、本来買う物じゃなくて家で拵える物なんですよ。特に小さい
子のなんて、毎年縫ってあげられたらいいですねえ……カカシ様が本気でお作りになると
仰るのなら、教えて差し上げますよ」
「ありがとう………でも、たぶんすぐには無理かも…と、とにかくマトモに縫い目を作れ
るようになってからじゃないと…」
正しいボタン付けの仕方すら、さっきまで知らなかったのだ。
いきなり手縫いの浴衣はカカシにとってそれこそ『高望み』な作業である。
「カカシ様は、何でもとっても努力なさる方だから…ヨネは存じておりますよ。皆様、カ
カシ様の才能の方ばかりに目を引かれるようでございますが……こんな細い腕の女の子が、
アスマ様方のような殿方に一歩も引けを取らない上忍でいらっしゃるには―――才能だけ
に頼らず、常に努力を重ね己を磨かねばならないはずです。何もしないで…その地位には
つけませんでしょう…」
だから、とヨネは続ける。
「カカシ様がお望みになるのなら、どんな事でもお出来になるようになりますよ。今まで
は縫い物なんて必要なかっただけの事。…ねえ、カカシ様。……ヨネは、女の子だから料
理が出来て当然だとか、縫い物が出来なきゃいけない、なんて思いませんけど。…イルカ
ちゃんやチドリちゃんの為に、カカシ様が何かしてあげたいと思う気持ちはとても素敵だ
と思うんです。……ヨネにお手伝い出来る事なら何でも致しますからね」
ヨネの顔を見つめるカカシの眼に、薄っすらと涙が浮かんだ。
「―――あの人も…イルカ先生も…今のヨネさんと同じ事…言ってくれた……オレが今ま
で…頑張ってきたこと…察して、認めてくれて…女らしくなくても…今のオレが好きだっ
て…尊敬…する、と言ってくれて…オレ、すっごく嬉しかった……涙が出るほど嬉しかっ
た……あ、やだ…思い出したらまた涙出ちゃった…」
急いで涙を指でぬぐうカカシに、ヨネは優しく微笑んだ。
「それはまた凄い口説き文句でしたわねえ…まったく、あの子は計算抜きでそういう殺し
文句を口にする。……やれ、お羨ましい話ですわ。死んだ亭主は昔気質の無口な男でねえ
…女房を褒めるなんて気の利いた事はとうとうしてくれなかった。…あらやだ、とんだ愚
痴をお聞かせして……さあ、もう少し頑張りましょう。チドリちゃんがお昼寝しているう
ちにね」
「あ、はい!」
カカシは再び縫い物と格闘し始めた。
そうか、ヨネさんもきっと若い時は色々あったんだろうなあ、と思いながら。
今はすっかり落ち着いている彼女にも青春時代があり、恋に悩んだ事も若さゆえの未熟に
涙した事もあるのだろう―――知り合った時既に彼女は『婆や』をしていた為考えた事も
なかったが、思えば当たり前の事である。
色の白い穏やかな顔の老婦人は、きっと若い頃は楚々とした美人だったに違いない。
今度、三代目にでも昔話を聞かせてもらおうかな、などとこっそり思うカカシだった。




 
『仕掛け』の効果はあったはずだ。
イルカは気配を殺して木陰に潜み、自分の仲間から合図が上がるのを待つ。
作戦成功なら赤い信号弾が上がるはず。
それを確認したら、イルカは皆と合流せずにそのまま一人で里に帰還する手筈になってい
る。その方が無駄も危険も少ないからだ。
位置関係から言って、湖の対岸に渡ってしまったイルカの方が、本隊より距離はある。
だが、大勢で動くより単独の方が移動は早い。それほどの差はなく、帰還出来るとイルカ
は思っていた。
「……思ったよりかかっちまったな……ああ、アカデミーの仕事たまってそうだ…やれや
れ…しばらく残業かもなぁ…」
その時、遠くの空に信号弾が上がった。
破裂に伴い、赤い煙が空に拡散する。
予測より半時間遅れたが、やっと視認出来たそれに安堵の息を吐き、イルカは作戦地点を
後にした。





最後の作戦を終えた二日後。任務を終えた本隊は帰還した。
だが、イルカは帰らない。
遅れても半日程度だろうと思われていた彼は、本隊が帰還してから三日経過しても戻って
来なかった―――


「イルカは作戦の都合上、最後に別行動をとったそうだ。……隊の指揮を引き継いだ副長
がそう報告している。イルカの方が遠い地点まで移動したから、帰りは少々ズレてもおか
しくないそうだ。…聞いているか? カカシ」
帰還した隊の任務報告を聞き出してきてくれたアスマは、黙って俯いているカカシの頬に
手を当てた。
「……聞いている…つまり…一緒に帰還しなくても心配はするなって事だろ…?」
「…わかってんならいいが。…ほら、しゃっきりしろ! 何て顔してやがる」
カカシの頬からは血の気が失せ、真っ白だった。
「…でも…遅いよ…。…アスマ、知らないの…? イルカ先生、足速いんだよ。多少遠回
りしなきゃならなくても…単独で移動しているのに、本隊から三日も遅れをとる事なんて
考えられない……!」
もう今日は、彼の誕生日だ。
「…オレ、捜しに行く。……もしかしたら、怪我でもして動けなくなっているのかもしれ
ない…迎えに行く……」
ふらりと立ち上がったカカシの肩を、アスマはつかんで止める。
「バカ! お前がひょいと行って見つけられたら世話はねえっ! ルートを知ってる捜索
隊だって空振り……」
己の失言に気づいたアスマは唇を噛んだ。
カカシはゆっくりとアスマを見上げる。
「……捜索…隊を出した…?」
たかが中忍一人の捜索をしてくれたのは、火影の配慮だろうが―――
「やっぱり遅れ方が普通じゃないって事だろうっ! オレに誤魔化しを言うな!」
彼の気遣いはわかる。
わかるが、感情は抑えられない。
「オレは充分待った。…オレはやっぱり…ただ涙を堪えて亭主の帰りを待つ女房にはなれ
ない。……迎えに行く。止めるな、アスマ」
「―――カカシ…」
アスマはため息をついた。
「しょーがねえなあ…止めてもムダか。ま、そういう奴だよお前は。……俺は、何も見て
ねえってコトにすっからな。…行くなら俺が目をつぶっている間に行け」
カカシは背の高いアスマの首にぎゅっと抱きついて、身を翻した。
「お願い。チドリをおヨネさんのところに連れて行って。預けておいて」
その言葉がアスマの耳に届いた時、カカシの姿はもう見えなくなっていた。
アスマはカカシが抱きついた首筋を片手で撫でて苦笑する。
「…ったく…相変わらず勝手な奴だ……」
忍服を着ていたのに、抱きついてきたカカシからは女の匂いがした。
いや、母親の匂いだろうか。
―――甘く、柔らかな匂い。
アスマは家の中に入り、ベッドで眠っているチドリを抱き上げた。
「お前の母ちゃんは、父ちゃんを迎えにすっ飛んで行っちまったぞ…まったく、もうちっ
と辛抱出来んもんかね」
抱き上げられて目を覚ましたチドリは、アスマの顔をきょとんと見つめる。
「しょーがねえ母ちゃんだがなあ……おっちゃんが婆ちゃんとこに連れてってやるから、
いい子で待っててやれ」
「うー」




 
ちょっとドジったな、とイルカは空を見上げていた。
命はある。
だが、脚に力が入らない。
信号弾を確認、作戦の成功と終了を疑わなかった彼は、里に戻る為に移動を始めた。
ここまでは良かったのだ。
イルカは決して気を抜いたわけでも、油断していたわけでもない。
分断され、敗走していた敵に出会ってしまったのは偶然だ。
負けた腹いせか、戦場での条件反射か。
彼らはイルカを木ノ葉の忍と見るや、襲い掛かって来た。
イルカが独りなのを見て取り、彼らの胸中に暗い残忍な欲望が湧きあがったのかもしれな
い。イルカを追い込み、嬲り殺しにするつもりなのか、一息に急所を狙わずに脚や腕、致
命傷に至らない部位ばかりを傷つけてくる。
多勢に無勢。
イルカは反撃よりも逃げ切る方を選び、めくらましの術を掛けてとにかく敵を撒こうとし
たのだが―――どこをどう走ったのか、攻撃をかわしながら山の中を逃げたイルカは、珍
しく方向を見失ってしまった。
深い草に覆われた所に踏み込み、その先には地面が無いのだと悟った時はもう遅かった。
イルカの身体は宙に投げ出され、そのまま落ちてしまったのである。
咄嗟に風遁を使って地に激突する際の衝撃は緩和したが、それは墜死を免れる程度の効力
しかない。
「…風遁の使い方…間違えたかなあ…もっと…上手いやり方…あったかも…あー、脚…凄
く変な感じだ…」
どうやら、脚を骨折したようだが服用した兵糧丸の所為で、痛覚が鈍くなっていた。
あまり痛くは無いが、こんな崖の下にずっと寝ていたらそのうち衰弱して死んでしまう。
「それは…イヤだなあ…」
こんなに早くカカシを未亡人にする気は無い。
早く帰って、愛しい妻と息子をこの手に抱いて、熱い風呂に入って気持ちいいベッドで眠
るのだ。
「今日…何日だろう…」
しばらく気を失っていたので、あれからどのくらい経ったのかわからない。
作戦を始める前に服用した兵糧丸の効力が切れたのが一昨日の事。イルカはすぐに残り一
粒の兵糧丸を口に入れて体力の回復を図った。
兵糧丸は、一度服用すれば三日は持つはずだから―――
イルカは朦朧とする頭を振った。
兵糧丸の効力は、『戦い』の中でこそ発揮されるのだと痛感する。
水分を補給できないイルカの身体は、渇きに苦しんでいた。

「―――カカシさん…」

イルカが意識を手放そうとしたその時。
口内に注がれた水分に、落ちかけた意識が呼び戻された。
甘露、という言葉が頭に浮かぶ。
イルカは夢中でその水を飲み込んだ。
「……カカシ…さん…」
「はい、イルカ先生」
イルカは無理矢理目蓋をこじ開ける。
夢にまで見た愛しい妻の姿がそこにあった。
「…嘘だ…貴女が…こんな……所に…」
何と言う嬉しい幻覚なのだろう。
「嘘じゃないですよ。…オレはここにいます」
カカシは水筒から水を含み、イルカの上に屈んだ。
合わさった唇から、水が流し込まれる。
素直に飲み込むイルカに、カカシは泣くのを堪えているような顔で微笑んだ。
「美味しい? イルカ先生。もっと欲しい?」
イルカも強張った顔の筋肉を動かし、何とか微笑んでみせる。
「……欲しい…」
「好きなだけ、あげます」
渇ききったイルカには、カカシから口移しで与えられる水はまさに甘露であった。
何度目かの時、イルカはぎこちなく手を上げてカカシの頬に触れた。
「…夢じゃない……」
「もちろん、夢じゃないです。……捜しました…イルカせんせ…い…」
カカシの青い眼から涙がこぼれる。
「あんまり遅いから、迎えに来たんです。…もう…こんな所で寝ているんだもの…死んじ
ゃったかと思って…心臓止まるかと…」
零れ落ちたカカシの涙をイルカの指がぬぐう。
「…すみません。ヘマをやりました」
イルカの胸に顔を埋めるカカシの横で、彼女の忠実な忍犬が一匹嬉しそうに尾を振ってい
た。
 

      



 

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