言葉にできない−2
遅い夕食を終わらせ、見張り以外の者に明日に備えての休息を言い渡した後、イルカも木 の根元に座った。 作戦はもう終盤。 後一押しでおそらくは木ノ葉が加担した方が勝利するだろう。 こんな野営も後数日の我慢だ。 腰嚢の中ポケットに入れていた手帳を取り出し、中に挟んでいた小さな写真を眺める。 「…あ、赤ん坊だ。可愛いなあ…隊長の甥御さんか姪御さんですか?」 通りすがりにイルカの手元を見た副長――この作戦においてのみの部下ではあるが――が、 小さな声で話し掛けてきた。 「…この子ですか? 俺の息子ですよ」 まだ歳若いイルカよりも年長のその副長は、きちんとイルカの力量を認めて隊長として立 ててくれるが、階級的にはどちらが隊長を務めてもおかしくはない立場なのだと知るイル カの言葉は丁寧になる。 「えええっ…隊長、子持ち…? うーわ、独身だと思ってましたよ。…まさか、奥さんの 写真まで持ってるんじゃ…」 その男はイルカが普段はアカデミーに勤務しているのだという事くらいしか知らなかった ので、彼が妻帯者だと知って興味を示す。 イルカは少し赤くなって首を振った。 「…子供の写真をこんな所に持ってきてしまったのは…ついうっかり手帳に挟んだままに していたからなんですよ。彼女の写真は持って来ていません」 「ざーんねん。…まあ、でも万が一を考えりゃその方がいいか…」 イルカはほんの少し唇を微笑みの形にした。 「…ええ…こんな赤ん坊の写真から個人を特定する事は難しいけど、大人はそういうわけ にもいきませんからね…」 何をどう敵に利用されるかわからない。 家族の情報が敵に渡る可能性を考えれば、任務先まで写真を持ち歩くような迂闊な真似は 普通しないものである。 イルカもチドリの写真を持ってきてしまった事に気づいた時にすぐ燃やしてしまおうと思 った。だが、可愛い我が子の写真に火をつける事に躊躇いを覚え、顔を見ていたいという 単純な欲求に負けて今まで持ち歩いてしまった。 「でも、やっぱりこれは処分しておきます。仮にも隊長って立場でこんなモン持ってたら 皆に示しがつきませんものね」 イルカはそう言うなり男の目の前で最小限の火遁を使って写真を消滅させる。 煙も匂いも殆どさせずに炎は紙片を舐めていき、写真は素早く炭化した。 「お見事なチャクラコントロールです。…でも隊長、用心に越した事はないですが…あん な一つにもならない乳飲み子の写真なら燃やす事もないのに…何だかもったいないですよ。 可愛かったのになあ」 イルカは微笑って肩を竦めた。 「この作戦が終わって、里に無事帰還出来たら実物に逢えますから。…写真よりもその方 がいい。…さ、見張りを交代したのなら身体を休めておいて下さい。明日、夜明けと共に 移動です。……後を、頼みます」 男はさっと表情を引き締め、頷いた。 「了解、隊長」 男が自分の持ち場に引き上げると、イルカは何も無い自分の掌を眺めた。 誰にも聞こえない小さな声で妻と息子の名を呼ぶ。 「…カカシさん…チドリ…」 今燃やしたチドリの写真は、3ヶ月ほど前に写した物だった。 今はもっと大きくなっている。 その面影を思い、イルカはため息をついた。 たった二週間しか離れていないのに、逢いたくてたまらない。 可愛い息子にも、愛しい彼女にも。 (……カカシさん…一人で大丈夫かな…大変な思い、してないといいが…ああ、こんな任 務さっさと終わらせて帰りてえ…帰ってチドリと風呂に入りてーなー。…それでもって、 カカシさんをこう抱き締めてキスして―――) 彼女のほっそりとした肢体を思い出しただけで何だか動悸がする。 イルカは頭を振り、任務終了まで気を抜くな、と自分に喝を入れた。 愛しい家族の元に帰る為にも、里に戻るまでは気を引き締め続けねば。 イルカは星空を見上げる。 (…カカシさん…もうお休みになりましたか…? どうか良い夢を……) そして装備を確かめたイルカは、立ち上がるとそっと一人で野営地を後にした。 その頃カカシは。 チドリに添い寝をしつつ、悩んでいた。 「……イルカ先生が最初にくれたのはぁ、手甲グローブでしょー? それから、綺麗なペ ンダント。んっと、エプロンとか〜オレ、着た事無いって言ったらスカートも買ってくれ たなあ……あ、それから一番大事なコレ」 細くて綺麗なプラチナの指輪。 邪魔にならないデザインで、上からグローブを嵌めたらわからなくなるので、仕事に行く 時も左手に嵌めたままだ。 対してイルカは結婚指輪を普段はしていない。 世間の男達のように自分を独身に見せたいわけでは決してなく、単に彼は自分には似合わ ないと恥ずかしがっているだけなのだが。 「…色々もらってるなあ…オレ。イルカ先生、よくお土産も買ってきてくれるし〜…でも オレは何をあげたらいいんだろう…」 夫の喜ぶ物もわからないのか自分は、とカカシは少し落ち込む。 たぶん、何を贈ってもイルカは喜んでくれるだろう。 贈り物そのものでなく、贈ってくれる相手の気持ちが嬉しいと言う人だから。 昨年の彼の誕生日は、カカシの妊娠騒ぎ、結婚式やら引越しやら。誕生祝いよりも大きな 祝い事と騒動にかき消されてしまった。 カカシも、初めての妊娠に動揺していて彼の誕生日に気を遣うどころではなく――― 「……う〜ん…器用な人なら自分で何か縫って服作ったりとか…あー、これから暑くなる から、家で寛ぐ時の浴衣みたいなのとかそういうの手作り出来たらいいのになー…あああ、 写輪眼使えたらどっかで作り方コピーしてくるのに〜…でもそれじゃ反則か」 彼の誕生日まで後一週間。 それまでには任務から帰還して欲しい。 早く逢いたい。 「でも、贈り物考える猶予は欲しいよお〜〜…ああ、フクザツ」 自分にも出来る何か手作りのものは無いものか、とカカシは考える。 忍具の類なら、自分にも作れそうな物はある。 が、彼女は首を振った。 「いやっ! もっと何つーか…もっとオクサンらしいものがいいっ! 男だったら相手に 贈らない様な…いかにも恋人とか奥さんからもらったって彼が実感出来るもの!」 そう考えるとまるで解けないパズルの前にでも座った心地になる。 こんな難問クリア出来るのだろうか…しかも、後一週間で。 「…浴衣は無理でも〜…何か彼が使う物……使えて…それで…オレにも作れる物…」 カカシは唸った。 「―――…Sランク任務の方がマシかも…これ……」 少なくとも、やるべき事がわかっている分、マシである。 あれこれ考えては自分で却下、を繰り返しつつ、カカシは眠りに落ちていった――― 「はあっはあっはあっ……」 肺が空気を求めている。 (…ああ、苦しい…ちっとキツかったな…) 素潜りが得意なイルカでも、着衣のままこの距離を潜水で泳ぎ切るのは辛かった。 イルカは湖から岸に上がり、自分の元いた陣営を振り返る。 もしも人が立っていてもその姿は視認出来ないだろう。 それほど離れていた。 陽動の為に誰かが湖の対岸に密かに渡る事となった時に、イルカは自分の隊の全員に素潜 りの記録を聞いた。 その結果、自分が一番長く潜れると判断したイルカは後の作戦指揮を副長に託し、そっと 物陰から湖に潜ったのだ。 夜間の闇に乗じるとはいえ、なるべく湖面に姿を現さない方がいい。 目的は敵の戦力を分断する事。 イルカの渡った方の岸辺にも木ノ葉の中隊がいると錯覚させ、混乱させる。 その為にも、長く潜水出来るだけではなく、ハッタリの効く大規模な幻影術を仕掛けられ る事が重要なポイントだった。 イルカは呼吸を整え、チャクラもゆっくりと整えた。 防水していた巻物を取り出して確認する。 (こういう幻術系は貴女のお得意技でしたねえ…カカシさん。…貴女には敵いませんが、 俺も頑張りますよ) こんな、他国の戦争なんかで命を落とすのはバカらしい。 さっさと片付けて、愛する者の元へ帰るのだ。 後小一時間で夜明けだ。 幻術が敵に視認出来る明るさになった所で、仕掛けよう。 もう里に帰還するまで食事を摂れないイルカは懐から兵糧丸を取り出し、口に入れて顔を 顰めた。 「…いっつもながら…マズイなあ………コレ」 ハイハイを覚えたチドリは少しもじっとしていない。 朝からカカシは一人で大忙しである。 「チドリ! それは食べちゃダメ!」 チドリが口に入れようとしていた台布巾を取り上げ、カカシはため息をついた。 「ううう〜〜〜…イルカせんせー…早く帰って来てえええ…」 仕方ない、あまりやりたくはないがこの際だ、とカカシはチドリをベビーベッドの中に入 れ、ベッドの柵を支える4本の柱の上に素早くクナイを突き立てて印を切る。 「四壁陣!」 ベッド自体に結界を張り、息子を一時閉じ込めたのだ。 柱に紐で繋いでみた事もあるが、万が一紐で事故になったら怖いのですぐにやめてしまっ た。結界なら、そう言う事故の心配は無い。 「チー君、ゴメンね…少しの間、我慢してね」 「アー…」 チドリは柵につかまろうとするが、既に結界の一部である柵には触れる事すら出来ない。 何度か同じ動作を繰り返した後、赤ん坊なりに異常を察したのかチドリはとうとう火がつ いたように泣き出した。 「あああ、ゴメンってば〜〜〜泣かないで〜〜〜」 結界作戦失敗。 『子供を泣かせ過ぎると、大きくなってもすぐ泣く子になりますよ』というヨネさんの言 葉に従い、カカシはなるべくチドリを長泣きさせないように努力している。 しかも、今のは何故チドリが泣いたのかわかっているのだから。 「今のはお母さんが悪かったってば…はいはい、いい子だから泣かないの」 カカシは結界を解き、チドリを抱き上げてあやした。 この朝の状況は、イルカが出かけてから二週間ずっと続いているのである。 「うあぁぁぁ〜〜〜〜ん…ああ〜ん……」 「よしよし…おかーさんも泣きたいよ〜…」 既に彼女も半泣きである。 洗濯物はあるし、チドリの離乳食は作らなければならないし、すぐハイハイしてしまうチ ドリの為にも床の掃除をきちんとしなければいけないのに。 カカシがあやすと、ようやくチドリは泣き止む。 「…朝っぱらから何大騒ぎしてんだ? お前は」 玄関を勝手に開けて入って来た男の声に、カカシは内心「ラッキー!」と叫んだ。 「アスマ〜〜! いいところに来てくれた〜っ! お願い、ちょっとこの子抱いてて。離 して床に置いたらダメだよ」 アスマは面倒くさそうに唸った。 「あのな、カカシ。俺は子守りに来たわけじゃなくてだな……床に置くとどーなるんだ?」 アスマはカカシから受け取ったチドリを何気なく座布団の上に寝かせてみた。 と、くるんと器用に反転したチドリは、腕を突っ張り頭を起こして突進さながらに母親の 後を追いかけて行った。 ――もちろん、ハイハイで。 「おおおっと! こりゃスゲエ。いつの間に移動するようになったんだよ」 おしりを振り振り四足歩行をするチドリの移動線の前にアスマは先回りし、片手ですくい 上げる。 「だから抱いててって言ったじゃない。ハイハイ覚えちゃったんだよ。だから大変なんだ ってば。……目を離すと何口に入れるかわかんないし、どこにすっ飛んで行っちゃうかわ かんないし…チー君、いい子だね〜ちょっとこのおじちゃんに抱っこしてもらっててね。 …ちょっとアスマ! 人の息子、丸太みたいに小脇に抱えるのやめてよね。ちゃんと抱っ こしてよ、もー! 野郎の中で抱っこは環が一番上手いなあ…」 「イルカも危なげはないだろ」 「あー、イルカ先生は別。だってお父さんだもん」 カカシはようやく落ち着いて洗濯物を選り分け始めた。 洗濯機に放り込んでもいい物、手洗いの物、汚れが酷い物。 前は全部一緒くたに洗濯機に入れようとしたカカシだったが、イルカがきちんと洗濯の仕 方を教えてくれた。 教えられれば呑み込みのいいカカシのこと、次からは一人でちゃんと洗濯くらい出来るよ うになる。 普通の洗い物を洗濯機に任せると、今度はチドリの離乳食作りだ。 お乳と平行して少しずつ色々な味を食べさせているのである。 手を動かしながらカカシはアスマをチラリと見た。 「…で? 何の用?」 「お前なあ……ま、いいけどよ…ちょいと情報仕入れたから耳に入れといてやろうと思っ てな。お前、しばらく外に出てねえだろ」 カカシは牛乳を温め、細かくしたパンを浸してミルク粥を作っているようである。 「勿体つけないで早く言えよ」 「夕べ、遅くに忍犬が戦局の知らせを持って来た。…あの、イルカが行っている戦場のな」 カカシは一瞬手を止める。 「……で?」 アスマはそのカカシの様子に、『無理しやがって』と胸の中で苦笑する。 本当ならアスマの襟首を掴んで揺さぶりかねない程、イルカの様子が知りたいはずなのに。 「そろそろ、決着つきそうだとよ。…今度の作戦が成功すれば、部隊は三日後くらいには 戻れるだろうって話だ。たぶん、な」 「そう…ありがとう」 カカシは言葉少なに答えて、ゆっくりと鍋の中をかき回す。 「何だよ、それだけかい」 カカシは薄っすらと笑う。 「……そろそろ彼の任務が終わりそうだって情報は嬉しい。…けど、無事な彼の姿を見る までは……喜べないんだよ…喜べない…。バカだよね」 アスマは膝に抱いたチドリをあやしながら頷いた。 「ああ、バカだな。……お互い忍なんだからよ。お前の方が『待たされる』って可能性は 充分あったってェのに、お前はそんな事ちっとも考えてなかったんだろう」 図星をさされたカカシは赤くなってアスマを睨んだ。 片方しか開いていない右の青い瞳が潤んで涙目になっている。 「…やれやれ…」 アスマは息を吐いて立ち上がった。 「…何だかんだでまあ…お前も随分女の子になっちまったなあ……」 アスマは手を伸ばしてカカシの銀髪をくしゃくしゃと撫でる。 「…オレ…そんな事…ないよ。頑張ってるけど、やっぱりずっと男だったから…男でいな きゃならなかったから…急に女には…なれないんだよ…」 「…やーうー」 チドリは母親に抱っこして欲しくて両手を伸ばす。 「なんだ、やっぱ母ちゃんがいいか。そら行け」 カカシはアスマの腕からチドリを抱き取った。 「……アスマ…」 「うん?」 「…オレ、怖い」 カカシは腕の中のチドリを抱き締める。 「あの人がいなくなったら…って…それを考えただけで…ううん、考えるのもイヤ…そん な事を考えたくなくて、必死に別の事考えるんだ…後一週間で彼の誕生日だ…何かお祝い しなきゃ。何を贈ったらあの人喜ぶかなって……でも、誕生日までにあの人帰って来るん だろうかってまたそっちを考えちゃって…考えがぐるぐる回りして…」 アスマは、彼女がイルカの元に嫁いだ日にしてやったように、子供ごとやんわりと抱き締 める。 電話で済ませてもいい用事をわざわざ言いに来たのは、不安を抱えているだろう彼女の様 子を見てやる為でもあった。 「…怖い、か。……それは、お前が本当に幸せを見つけたって事だろうなあ…」 まだ幼い子供の頃から既に修羅の道を歩んでいたカカシが、やっと見つけた本来の性での 幸福。ずっと側にいたアスマには与えてやる事の出来なかった――― それでも、彼女が夫のイルカにも吐けない弱音をぶつけてくるのは自分だけだとアスマは 知っている。 だからこそ、この可愛い妹を見放す事など彼には出来ないのだ。 カカシの胸の内に一時激しく沸き起こった不安感が落ち着くまで、アスマはチドリとカカ シを腕の中に抱いてやっていた。 |
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