言葉にできない−1

 

「おお、流石はオレとイルカ先生の愛の合作。…いや、結晶。…速い速い」
壁際にちょん、とお座りをさせてから向かい側の壁際まで離れたカカシが「おいで〜」と
手を広げると、チドリは猛然とハイハイでダッシュしてきた。
「は〜い、いらっしゃい」
飛び込むようにやって来た息子を抱き上げ、ぎゅうう、とカカシは抱き締める。
ついでに、柔らかいほっぺにちゅ、とキス。
「これはもうすぐ直立歩行に移って走り出すね。…う〜ん、訓練はどれくらいで始めたモ
ンかなあ…」
訓練って何のですか、と突っ込んでくれる旦那様は今、いない。
チドリはまだ一人で立つ事も出来ないのに。
イルカは十の歳まできちんと両親が存命していた為、先ずは忍の里で生まれ育った人間と
して平均的な常識と感性を持っている。
早期英才教育の効果は承知しているが、まだ人生最初の誕生日も迎えていない息子に『忍
の訓練』は早いだろうと―――今此処にいればカカシにそう言ってくれるはずであった。
だが、まだろくに喋れもしないうちからクナイや手裏剣を持たされ、訓練されてきたカカ
シは、それが不可能な事だとは思っていない。
自分に出来た事だ。
息子に出来ないはずがない。
六歳で中忍の資格を得ていた彼女には、十六で中忍になったという夫の履歴がどうにも不
思議だったのだ。
「イルカ先生は何でも出来るし、頭もいいのにね。どうしてそんなに遅くまで中忍試験受
けなかったんだろ」
自分の育った環境が少し特殊で、中忍になった年齢が『早かった』事はカカシにもわかっ
ているのだ。
平均的なアカデミーの卒業年齢は十二歳前後である。そして下忍として4〜5年経験を積
んだ後に中忍試験を受けるのは至極一般的な事であり、それも一度で合格する者は少ない
のだと言う事を考えると、十六歳で昇格したイルカは結構優秀な部類なのである。
だが、今まで周囲にいた上忍達も揃って昇格の早いエリート揃いだった彼女は、イルカの
中忍昇格年齢が平均的な昇格年齢よりは早いのだという事を知らなかったのだ。
ふむ、と首を傾げたカカシはしばらく考えていたが、やがて自分なりの答えを見つけ出し
て独り微笑んだ。
「イルカ先生は、とっても慎重なんだよね。きちんと下忍の仕事をこなして、充分準備し
てから受験したんだ。…チー君のお父さんはねえ、とっても思慮深くて素敵な人なの。ね
え、わかる?」
愛する夫そっくりの漆黒の瞳に微笑んだ自分が映っている。
「アア〜う」
「そう。わかるの。チドリは賢いね〜」
カカシは息子を抱いたまま、柱にかけてある暦を見に行った。
「お父さん、帰ってきたらきっとびっくりするね。まだチドリがハイハイするの、見てな
いものね」
そうなのだ。
実はチドリがハイハイを始めたのはつい一昨日の話なのである。
まさかカカシは、戦場に行ってしまった彼を自分が家で待つハメになろうとは思っていな
かった。彼の仕事は主に内勤だから、戦場に行くとしたらそれは自分の方だと思っていた
のに。
他国の戦の加勢を依頼された里は、中忍中心の部隊を編成して派遣した。
「部隊長が務まる忍が不足しているなんて…木ノ葉がそんなに人手不足だなんてね…」
カカシはそっと唇を噛む。
イルカに部隊長が務まらないとは思わない。
彼は判断力があるし、知識も経験もある。
だけど、彼女にはどうしても彼が血にまみれ、戦っている様が想像出来ないのだ。
彼の身体に残る無数の傷痕を見る度、彼もまた戦いを生業とする男なのだと再認識させら
れるのに。
「イルカ…先生…イルカ…」
出来る事なら、自分も同じ戦場に行きたい。
ただ待つのは不安で苦痛だった。
「…イルカ先生…迷わないでね…敵に情けなんかかけないで、ぶっ殺すんですよ…何人ぶ
っ殺してもいいから、ちゃんと帰って来てください。チドリのハイハイ、見てないんだか
ら…」
カカシは急に不安になり、チドリを抱き締めた。
「う〜…」
チドリが苦しがっているのに気づき、慌てて力を緩める。
「あ、ゴメンゴメン……でも、早く帰って来るといいな…ねえ、チドリ。お父さん、今月
誕生日なんだよ。一緒にお祝い、したいよね」
カカシが話し掛けると、チドリは返事のつもりかいつも短い声を上げる。
「やーう」
トントン、と遠慮がちに戸を叩く音に、カカシは立ち上がった。
「ヨネさんが来てくれたかな?」
イルカの不在中、外出に不自由しているカカシの為にヨネは時折代わりに買物をしてきて
くれるのだ。
「芥子さん」
カカシはおや、と眼を見開いた。
戸口に顔を覗かせたのはヨネではなく、淡い色の髪をした少女。
「サクラ」
「おヨネさんのお遣いで来ました。おヨネさん、ちょっと腰痛が出てしまったんですって。
これ、頼まれたお買物と、差し入れです。ちまきはおヨネさんのお手製。苺は火影様から」
そう言いながらサクラは勝手口に回り、台所の作業台に持って来た荷物を置く。
「えー、ヨネさん腰痛? 大丈夫かな。あ、重かったでしょ。ありがとう」
カカシが礼を言うと、サクラはてへ、と笑った。
「だーいじょうぶですよお。私だって忍ですもん。これくらい持てなきゃ。…それに、役
得。チドリちゃんに逢えるんですもん。…チーちゃん、元気してた?」
カカシは微笑んでチドリをサクラの方へ向かせた。
「サクラお姉ちゃんが元気って。抱っこしてもらう?」
サクラが手を出すと、チドリは素直に彼女の腕に体重を預けた。
「うーん、相変わらず可愛いっ」
サクラは赤ん坊に頬ずりした。
「悪いね、サクラ。ちょっとチドリお願い。…実はハイハイ覚えちゃってさー。オレ、ろ
くにトイレも行けないんだわ」
「わあ、もうハイハイ? 早いですねー。ついこの間まで寝ているだけだったのに。私、
チドリちゃんと遊んでますから、その間に用事なさって下さい、芥子さん」
カカシは片手でサクラを拝んだ。
「助かる」
サクラは、用事でイルカの家へ来る時、そしてカカシが忍の武装を解いている時は彼女を
『芥子さん』と呼ぶ。
『カカシ先生』と呼ぶのは、カカシが額当てをしている時だけだ。
そして、呼び方同様会話の内容もきっちりと分けている。
「サクラー。今日、忙しい? 良かったらご飯食べていかない?」
「わ、いいんですかー? じゃあ、お手伝いします」
カカシは笑ってお茶を入れてきた。
「だって、チドリはまだあまり食べないし、おっぱいの方が好きだしね。…そしたらつい
オレもあんまりちゃんとしたご飯作る気になれなくて。…これじゃイカンと思ってたとこ
なの。…イルカ先生に比べたら、まだあんまりご飯作るの上手じゃないけどね。…はい、
お茶。ヨネさんのちまき、一緒に食べよう? …チドリは苺ね」
「ありがとうございます」
今はだいぶ見慣れてきたカカシの素顔だが、やはり綺麗な人だな、とサクラは思う。
それに、母親らしい柔らかさも感じられるようになった。
(…やっぱり…凄い人だわ……)
初めて『写輪眼のカカシ』としての『彼』の姿を見た時は男にしか見えなかったし、サス
ケの指導の為に任務に同行するカカシからは『女の匂い』は一切感じられない。
その見事なまでの彼女の切り替えのおかげで、任務中はサクラも特に意識するまでもなく
カカシが女性であり、一児の母である事を忘れる事が出来る。
そしてカカシにとって、普段は『男』でいる方が自然なのだと言う事もわかった。
カカシが本来の性別に戻るのは、夫であるイルカと、我が子の前だけなのだ。
「…イルカ先生…まだ、なんですね…」
もう、出立して二週間になる。
「ん……今、彼アカデミーで担任のクラス持ってないでしょ。……年上の子達に中等レベ
ルの忍術とか戦法を教えているから……だから、長期任務を受ける可能性は…あったんだ
けど…」
ふ、とカカシは淡い笑みを浮かべる。
「……亭主を戦場に出した奥さん達って、みんなこんな思いをしてるのかな……信じて待
つしかないって事。……なんだかなあ…まさかオレがこんな立場になるなんてねー…」
カカシの気持ちを察して、サクラは話題を変えようと何気なく周囲を見回す。
そしてふと見た暦の、26日につけられた赤い印の意味に気づいた。
「あ…そういえば、イルカ先生今月お誕生日でしたね。…あのね、芥子さん。イルカ先生
って、結構くノ一クラスの子達に人気あったんですよ。授業わかりやすかったし、丁寧に
教えてくれたし。出来る子だけ贔屓しないし、それに…先生達の中でも、若くて結構カッ
コよかったし」
カカシはムッと唇を尖らせた。
「結構、じゃないの。イルカ先生はカッコイイの!」
サクラはペロ、と舌を出す。
「…ゴメンナサイ。カッコイイです」
「まーね、サクラはサスケ一番だもんねー。サクラから見たらイルカせんせもオジサンな
わけでしょー」
「やーん、芥子さんったら! だーからぁ、アカデミーの先生達の中じゃ若い方でしょう? 
イルカ先生。まだ二十二、三の先生なんて珍しかったから、女の子達には人気あったんで
す。…誰かがお誕生日情報仕入れて、みんなでお祝いあげたりして」
カカシは目を細めた。
「ふふ…喜んだだろうね、彼。可愛い教え子にお祝いもらって」
「喜んだっていうより、最初びっくりしてた。……すっごい意外って顔して、笑ったのは
その何秒か後」
カカシはスプーンで苺を潰し、サクラの膝にいるチドリの口に入れてやる。
「はい、アーン……美味しい? 後で火影様とヨネさんに御礼言わなきゃ……で、何あげ
たの? その時」
サクラはちまきをかじって、「えーと」と記憶を辿る。
「んっとー、あ、そーだ。クラスの女子みんなで協力してー、パウンドケーキとクッキー
作って、綺麗にラッピングしたの。それから…次の年はぁ、あ、そうだ。ウケ狙いでした。
みんなで一個ずつイルカの形の石鹸作って詰め合わせにしたんです。色もピンクとか緑と
かもあって、可愛かったですよー」
カカシは笑った。
「それ、まだあるよ。石鹸。見た事ある」
「えー? やだ、使ってないのかしら。一個一個は小さいから、普通に使ったらすぐなく
なるはずなのに」
カカシは立ち上がり、隣の部屋でしばらくゴソゴソ捜してから箱を持ってきた。
「これでしょ? イルカ石鹸」
「あー、これこれ。あー、あたし作ったのどれだっけ…んっと、水色の…これだ。お鼻の
トコ、先生みたいに傷跡入れたの」
「おー、上手いじゃない。あ、ダメ! チドリは触っちゃ。もー何でも口に入れちゃうか
ら怖くて。石鹸なんかなめたらお腹壊すよ!」
カカシはあわてて石鹸の箱をチドリから遠ざける。
「……お菓子に石鹸か…わざと? 後に残らない消耗品にしたの」
サクラはこくんと頷いた。
「だって、始末に困るものなんか、あげられませんよ……先生、優しいから変な物でも捨
てられないだろうし…」
う〜ん、とカカシは眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「……オレ、どうしよう。何かお祝いしたいけど……オレ、ケーキなんか作れないしなあ
…イルカ先生の負担にならないもの…?」
サクラはやーだ、と笑った。
「芥子さんは奥さんなんだから、後に残るものでも全然オッケーですよお。あたし達はた
だの生徒ですもの」
「そっか…なるほどねえ…あ、考えてみればオレ、イルカ先生からもらうばっかりで全然
あげてないな…」
サクラはにこにことチドリを抱え直す。
「どうしてですか? イルカ先生、きっとすっごく嬉しかったはずですよ。…芥子さんを
奥さんに出来て、こんなに可愛い子供を産んでもらって。…人生最大の贈り物だって、言
ってましたもの」
カカシはかぁ、と赤くなった。
「い、いやだってそれは…お互い様だもの…オ、オレだって…彼と一緒になれて嬉しかっ
たし…チドリ授かって幸せで…」
はああ、とサクラは盛大なため息をついた。
「羨ましいなー…んもー先生達ってばラブラブなんだものぉ。…あーあ、あたしもサスケ
君とラブラブになりたいよーっ! 初恋なんだもんっ! ……でも、サスケ君、あたしの
事なんかただの『チームメイト』としか見てないしー…はっきり言って眼中にナイって感
じ? …切ないわー…」
カカシはサスケのキスを思い出してぎくりとする。
別に自分に疚しいところはないが、それでもどこかサクラに悪いような気がして心地がよ
くない。
サスケとはあれきり、『芥子』として逢ってはいないから何の進展も後退も無い。
指導中は遠慮なくサスケを蹴り倒しているので、そういうムードになるわけも無いのだが。
「…サスケは今、強くなる事しか考えてないからね。もうしばらく待ちなさい。……周り
を見回す余裕が出来たら…ちゃんとサクラの事も見るから」
サクラはこくん、と頷く。
「……そうですね。……あ、そーだ芥子さんは? 初恋っていつですか?」
カカシは両手で顔を覆う。
「…オレはぁ……実はイルカせんせーが初恋でーすっ! ファーストキスも彼ですーっ」
きゃー、と恥らうカカシに、サクラの眼がつり上がった。
「だあああっもおおおおっ! それじゃぜんっぜん片思いの辛さなんて知らないんじゃな
いですかーっ! このーっニクイわ―――――っ!」
「…ま、オレ達は運命の出会いだったってコトで。…オレはサクラの歳ん時にゃ男に惚れ
てるヒマなんかなかっただけさ」
「それでもニクイ〜…羨ましい通り越しちゃう〜…」
本気で半泣きのサクラに、カカシは困ったように微笑む。
「だからさー、サクラは可愛いんだから、年頃になったら野郎なんてよりどりみどりだっ
て!」
「サスケ君がいい〜…他の男の子なんて嫌だああ〜…」
カカシはため息をついた。
「…ま、気持ちはわかるけど……オレもあの人じゃなきゃ嫌……彼の子じゃなきゃ産みた
くない……」
「芥子さん…」
サクラは、カカシの愛する人は今戦場なのだと思い出して唇を噛んだ。
片思いは辛いが、命の保証の無い任務に赴いた夫を待つのはもっともっと辛かろう。
いや、『辛さ』の種類がまるで違う―――
芥子さんを励まし、気を紛らわせてあげようと思っていたのに、なんてあたしはバカなの
だろう、とサクラは泣きたくなった。
カカシは顔を伏せて、呟く。
「…たとえ、このまま彼が戦場から…戻れなくても……オレは…」
サクラはチドリを抱えたまま、俯いたカカシに抱きついた。
「……大丈夫! 絶対イルカ先生は帰って来ます! あたしもお祈りしますから!」
「サクラ…」
サクラは無理やり笑ってみせる。
「無事、戻ってきます。…だから、考えましょう? 芥子さん。…イルカ先生のお誕生日
祝い。……贈り物を、考えましょう…?」
カカシは少女の顔をみつめて、やがて頷く。
「…そうだね…ありがとう。…一緒に考えてくれるの?」
「はい! あたしで良ければ!」
「アーぅ!」
タイミング良く声を上げたチドリに、カカシとサクラは声を揃えて笑った。

 



 

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