「…ったくもおっ…アスマなんかに言うんじゃなかったわ!!」
紅はプリプリと怒っていた。
カカシを昔から妹のように可愛がっていた彼なら、彼女の味方をしてくれるかと思ったの
に。
「……わかっているわよ、私だって!! カカシは普通のコじゃないわ。子供が出来たか
らって即結婚を許されるような、一般的なくノ一じゃないって事くらい!! …だから、
守ってあげたいのに! あのコにだって、好きな男の子供を産む権利くらいあるわよ…」
紅は足を止めた。
一昨日のカカシの様子を思い出す。 一昨日の昼下がり。
その時紅は、上忍棟でカカシとお茶を飲んでいた。
カカシは自分の秘密を知っている紅には同性の気安さもあって結構話をしてくれる。
「ねえ、聞いてよ紅〜〜」
「あん? カレシと喧嘩でもした?」
カカシはポッと頬を染める。
「や、やだな。そんなんじゃないよ…イルカせんせは優しいもん。…アスマだよ」
「アスマぁ? 何? イジメられたの?」
「うん! イジメられたの」
そしてカカシは、今度の作戦から外されそうだという事、その理由までつらつらと紅に打
ち明ける。
周囲に他の耳が無いので遠慮が無い。
「ねえ、ヒドイでしょ? オレのこと何だと思ってんだっての! 何年上忍やってると思
ってやがんのかね、あのクマ。公私混同なんかしないよ、任務中に」
そおねえ、と紅は曖昧に相槌を打つ。
「……でもさ、カカシちゃん。クマの言う事にも一理あるのよ? アンタ、あの先生の前
だとすっごい可愛いカオしてんだもん」
カカシは顔をおさえた。
「え? やだな、んなワケないじゃん。オレ口布してるし、額当てで顔半分以上見えない
じゃないよ」
「ばっかねえ…それでもわかるのよ」
「そお?」
カカシは納得がいかないといった顔つきでお茶に手を伸ばしかけたが、ふいにその手を戻
して口許をおさえた。
「……う…」
その様子にすぐ紅も気づく。
「? どうしたの? カカシ」
「………気持ち…わる………」
カカシはそのまま横倒しにソファに倒れた。
「どうしたの…気分悪いの? カカシ…カカシ? やだ、アンタ真っ青…」
これほど顔色の悪いカカシなど今まで見た事のなかった紅は、慌てて彼女を医療棟へ連れ
て行った。
そこには、カカシを昔から診てくれている医師がいたのだ。
「おめでた、だね……カカシくん」
医師は信じられない、といった顔で何度も調べ直していたが、やがて結論を口にした。
「……ホント…? 先生、ホントにオレのお腹に赤ん坊…いるの?」
カカシは自分の腹を両手で押えて目を見開いた。
「……たぶん、間違いは無いだろう…」
医師が重々しく頷くと、カカシは両手で自分の身体を抱きしめる。
「………赤ちゃん…あの人の………」
その時浮かべたカカシの微笑を、紅は忘れられない。
本当に嬉しそうな、柔らかい微笑。
内側から光がにじむような綺麗な―――
「…あのコが…あんな顔…しなきゃ……」
カカシが自分の妊娠を知り、もっと違う動揺を見せれば―――子供を重荷に感じる素振り
とか、困った様子を見せたならば―――紅も違う考えを抱いたのだが。
カカシが相手の男に一言も告げずに堕胎してもおかしいとは思わなかっただろうし、むし
ろ子供が大きくならないうちにそうすべきだと勧めたはずだ。
だがカカシは自分の胎内に宿った命を慈しんだ。
愛した男の子供を宿した事を喜び、あんなに嬉しそうに微笑んだのだ。
「…たとえこの先カカシがどんな判断をしたとしても…あのコはあんなに素直に喜んだの
よ……赤ちゃんが出来たこと…」
彼女の身体に宿った命は産声を上げずに消える運命なのだろうか。
「……カカシはまだ…あの先生に何も言っていないのかしら…」
おそらく言ってはいないだろう、と紅は唇を噛んだ。
「…ああもう、どーしよ…あたしが言っていいものなのかな…」
カカシが自ら来月の任務を降りると申告してから数日が経過した。
火影の執務室の更にその奥。普通の忍ならばその存在も知らないその一室で。
忍達の中で上忍と呼ばれる男達―――そのまた一部の者達が部屋の主を囲んでいた。
そこからぽつんと離れた部屋の隅の椅子には、細いシルエットの人物がちんまりと座って
いる。
「…で? 診断に間違いはないと…?」
やがて重々しく口を開いたのは、火影だった。
部屋の隅でカカシはもぞ、と身動ぎした。
「………月のもの無いし…」
小さい声で返事をすると、血の気の失せた白い面を伏せる。
ふう、と誰かのため息が漏れた。
「…して、誰の子じゃ。……わかっているのであろう?」
カカシは無言で頷いた。
自分の妊娠が、目の前の男達に歓迎されていないのが明白なこの状況は辛い。
半ば予想していた反応だったが、実際に苦々しげな視線を向けられると身の置場が無かっ
た。
厄介者のように扱われる腹の我が子が可哀想で涙が出そうになる。
やはりこの子は始末されてしまうのか。
腹の子の父親である恋人にも申し訳なかった。
彼の子を宿したのが自分じゃなかったら。
そうしたら、きっと皆手放しで祝福したのだろうに。
カカシの眼に涙が浮かんだ。
その時、扉の外が俄かに騒がしくなる。
「こらっ ここに入っちゃいかん!」
「どけっ!!」
「何だ貴様は!! 今は火影様が上忍方と大事な話の最中だ! 中忍の出る幕じゃ…おい
っ…」
「うるさいっ!! 俺は火影様に話があるんだっっ」
カカシはその声に腰を浮かせる。
「……イルカ先生……」
「…イルカ…?」
火影が訝しげに笠を煙管で持ち上げるのと、扉が蹴破られたかのような勢いで開け放たれ
のが同時だった。
「カカシさんっ!!」
「イルカ先生っ」
カカシは泳ぐように立ち上がって、乱入してきた男の元に駆け寄った。
「どうして…ここに…」
「ある方が教えて下さいまして。…行かなければ大事なものをなくす、と」
イルカの言う『ある方』に心当たりがあるアスマは眼を眇めた。
今日カカシが火影に呼び出された時点で姿を消し、今もこの部屋に姿を見せない同僚が一
人いる。
アスマは口の中で小さく「仕方ねえな、あのアマ…」と呟いた。
「……カカシさん。…本当ですか? 本当に…その…こ、子供…が…」
イルカがカカシの肩を抱いてその顔を覗き込む。
カカシは赤くなって頷いた。
「…みたい…なんです…」
カカシはイルカにきゅうっと抱き締められた。
「何ですぐ…言って下さらなかったんです……」
カカシはイルカの胸の中で小さく謝る。
「…ごめんなさい………あの…もしかしたらその…イルカ先生にはご迷惑かも…って…オ
レ、怖くて…」
「そんなことっ…」
イルカが反駁しかけた時、その場にいた第三者が割り込んだ。
「……つまり、カカシくんの腹にいるのは、お前の子なんだな? うみの」
「…エビス先生…」
イルカはやっと自分が礼を失していたのに気づき、慌ててカカシから手を離す。
そして、火影達に向かって頭を下げた。
「大変失礼致しました。許可も得ず入室致しましたこと、お詫び申し上げます」
火影はやれやれ、と首を振り、苦笑を浮かべる。
「…仕方の無いヤツじゃ。…最近は落ち着いたように見えておったが、やはりお前は猪じ
ゃのう、イルカ。…そうか、お前の子か…」
「火影様」
イルカはカカシを庇うように彼女の前に立ち、里長と対峙する。
「…出過ぎた振る舞いをしているのは承知の上ですが、お伺いします。…カカシさんを…
彼女のお腹の子供をどうなさるおつもりなのです。…こんな…皆さんで何を決めるつもり
だったのですか」
イルカはその場にいる男達に順に視線を移していった。
アスマ、エビス、そしてイルカが名を知らない上忍が他にも2名。
「……お前には関係の無い話だ…と、言いたい所じゃが、そうもいかんの」
イルカはかぁっと頬に血を上らせた。
羞恥ではなく、怒りの為に。
「当たり前ですっ!! 俺の子だ!! 勝手な事をされてはたまりません!!」
「いるか…せんせ…」
カカシはぽろっと涙をこぼした。
火影は煙管に火をつけようとしてふと思いとどまる。
「……まあ、落ちつけ、イルカ。…まだ何の話もしとりゃせんわい。……まず、カカシの
気持ちをわしは聞きたい。カカシよ、お前はどうしたい。その腹の子、産む気はあるのか」
イルカが思わず息を呑み、カカシを振り返った。
カカシは数秒顔を伏せていたが、涙を一筋零したまま頷いた。
「…オレ…オレは……今までたくさん…仕事とは言え、数え切れないほど人の命を奪って
きました…そのオレがこんな事を言うのは笑われてしまうかもしれないけれど……でも…
オレはこの子を…」
カカシは両手で腹を押さえる。
「…この子を殺したくない……絶対に殺したくない……」
カカシの声は泣き声になった。
「カカシさん…」
ぽろぽろと涙を零す恋人を守るようにイルカは抱き寄せる。
ふう、と火影は息をつく。
「泣くな、カカシ。…まだわしはその子を堕ろせなどと言っておらんぞ」
イルカの知らない上忍の一人が口を挟む。
「ですが、火影様。…今カカシが子供を生むのはあまり感心しません。カカシは忍として
心身ともに一番充実しつつある時期だ。うちはの後継ぎがまだ例の能力に目覚めていない
以上、里一番の瞳術使いであるカカシは重要な戦力ですし。……リスクの方が大きいでし
ょう」
火影は苦い表情で「そうじゃな」、と呟く。
「……里としてまっとうな見方をすればそうなるが…アスマ、お前はどう思う。…昔から
カカシを見てきたお前の判断を聞きたい」
アスマは渋面で火のついていない煙草を噛んだ。
「……正直、俺も今の意見に賛成…ですがね」
カカシはぎゅっとイルカの腕にしがみついた。
アスマはちらりと彼らに目を遣る。
「…そんなに怖い眼で睨むなよ、アカデミーのせんせ」
そして真面目な顔で火影に向き直った。
「……確かにカカシは重要な戦力です。が、だからと言って今ここで腹から子供を引きず
り出して殺しちまって、それで以前と変わりなくカカシに戦えっていうのも無理だと思い
ますね。いくらカカシでも、精神面に大きなダメージを抱える事は明白だ。それだけでは
済まないかもしれない……それはきっと、子供を産む為に戦列を離れる以上にリスクが大
きいと俺は判断します。…以上です」
「…アスマ……」
イルカの腕を掴んでいるカカシの手から力が抜ける。
イルカは突然がばっと床に手をついた。
「お願いします!! 俺達の結婚を認めて下さいっ!! 火影様!!」
「…イルカ……」
火影は青年の土下座に形容し難い表情を浮かべた。
―――お前が結婚か…それにしても、よりにもよって相手がカカシとは…
思えばあの時、屋敷の食卓で二人を引き合わせたのは他でもない自分だったのだ。
火影は笠の影でそっと苦笑を浮かべた。
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