擬卵孵化−2

 

 

粗末な山小屋。
隙間風だらけで、冬場は冷え込んでさぞ辛かった事だろう。
青年は暗い小屋の中を見回した。
幼い子供を育てる環境ではなかった。牢獄の方がまだ人間らしい生活が出来るのではない
かと思うほど雑然としていて薄汚い。
清潔、とは言えないみすぼらしい夜具に横たわる老人は、やはりもう息をしていなかった。
「ジィちゃん…アケビ。…食べるよね…? アケビだよ。ねえ、起きて…」
子供は、採って来たアケビを一生懸命老人の口許に持っていく。
「ジィちゃん…」
青年は子供の脇に膝をつき、そっと両手をあわせた。そして、子供の肩に静かに手を置く。
「…キミの…ジィちゃんは、もう起きない」
子供はキッと振り返った。
「起きる!」
青年は酷い事と知りつつ、子供に事実を告げた。
「このお爺さんは、もう亡くなっている。わかるかい? 死んでしまったんだ。…もう起
きる事は出来ない」
子供はぼんやりと繰り返した。
「死んで…しまった…?」
「そう。……たぶん、老衰か…病気の発作かで、亡くなったのだろう。」
幼い子供には、『死』というものがまだ理解出来ないようであった。
「もう、起きない…? ずっと寝てるの…?」
「…うん」
「アケビも食べない…?」
「うん。…ご覧。ジィちゃん、息をしてないだろう。これって、死んでしまった…と言う
事なんだ」
子供は、瑠璃色の眼を精一杯見開いて老人の遺骸を見つめていた。
「……それって、腐っちゃうコト…?」
青年は驚いて子供を見た。
子供は一生懸命考えているようだ。
「…ケムリが、動かなくなったの。…ずっと、寝てるの。エサも食べない。オレ、いつ起
きるんだろうって見てたんだけど、起きない。…そのうち、嫌な匂いがして、いっぱい虫
がくっついた。オレ、それをジィちゃんに言ったら、ジィちゃんケムリ見て、ああ、もう
腐っちまったなって言った。…ジィちゃんも、腐るの?」
「ケムリって?」
「…いぬ」
生き物は死ねば腐敗する。子供の言っている事は正しい。
「犬が死んだのをキミは見ているのだね。…そうだ。犬でも人でも…いや、魚や虫や…草
花でも。生きているものは命がなくなれば、やがて腐ってしまう。…ジィちゃんも亡くな
ってしまったのだから、このまま放っておけばやがて腐って虫にたかられてしまう。…そ
れは、可哀想だね」
うん、と子供は頷いた。
「…だから、葬ってあげないといけない」
「ホウム…って何?」
青年は微笑んで、きょとんとしている子供の頭に手を置く。
「ジィちゃんの魂が、この先も静かに眠れるようにお祈りをして。そして、動かなくなっ
てしまった身体は、土に還すんだ」
子供は困ったような顔をした。
「オレ、わかんない」
永遠の別れの意味がよくわからない幼子は、老人の死に悲しみを見せない。ただ混乱して
いるようであった。
「……私とおいで。里に行こう。…ジィちゃんは、私達がきちんと葬ってあげるから。だ
から、安心して私とおいで」
子供は迷うように老人の遺骸と青年を交互に見た。
「…でも……」
青年は真っ直ぐに子供の眼を見た。
「キミは、とてもすごい腕を持っている。…でも、キミはまだ子供だ。そしてキミくらい
の子供は、独りでいてはいけない。大人と一緒に暮らして、そしていっぱい、色んな事を
覚えるんだ」
「コドモ…オトナ…?」
うん、と青年は頷く。
「私は、一応一人立ちした大人だ。…キミひとりくらい、面倒見られるつもりだよ。…私
と一緒においで。―――私と、暮らそう」
言ってしまってから、青年は自分の言葉に驚いた。
独りぼっちになった子供を山に放置する事など出来ないし、この子が持っている能力も見
逃すわけにはいかない。里に連れ帰り、里長に相談するつもりではいた。
だが、自分で引き取って育てるなどと、今の今まで考えてはいなかったのだ。
しかし、自分の言葉には責任を持たなくてはいけない。
青年は言葉を重ねる。
「私と一緒に、里で暮らそう」
子供はうん、と小さく頷いた。
今まで育ててくれた『ジィちゃん』がいなくなってしまった今。他に為すすべが無いと言
う事が、幼いなりにわかったのだろう。
「…一緒…に行く…」



持って行きたい物があったら持っておいで、と言うと子供は何やら色々と薄汚い袋に詰め
て担いできた。
「持ってあげようか?」
青年が一応きくと、子供は黙って首を横に振る。
「そう。じゃあ重くなったら言いなさい」
青年は、小屋の位置を再確認して記憶すると、「ついて来なさい」と子供に微笑みかけ、地
を蹴った。
青年が普通に移動する速度について来ることなどこの子供には容易いはずだ。それは先刻
の『鬼ごっこ』でわかっていた。それでも青年は枝を蹴りながらちらりと後方を確認する。
子供はきちんとついて来ていた。
(よしよし…今は薄汚いおサルだけど、洗ったら何とかなりそうだ。ガリガリだから、も
っと食べさせて……ああ、三代目に怒られるかもなあ……任務も放って子供なんか拾って
来てしまって。ま、山犬の件は、この子を里に連れ帰ってからでも何とかなろう)
何度めかの『確認』をしようとして、青年はぎょっとして足を止めた。
子供が見えない。
(しまった、逃がしたか。それとも置いてきてしまったのか。)
青年は慌てて元来た方向へ引き返した。
思えば、子供の名前すら聞いていなかった。
これでは呼ぶ事も出来ない。己の失態に歯噛みしながら何十メートルか引き返すと、子供
は張り出した太い枝の中ほどにちょこんと止まっていた。
青年はホッとして子供のいる枝まで戻る。
「どうした? 疲れたか?」
子供はスッと指を下方に向けた。
「やまいぬ」
青年は子供が指し示した方に目を遣った。
枝の遥か下方、雑然と生い茂る木々の向こうに小さく山犬の群が見える。普通なら山犬な
のか他の獣なのかは判別できない距離だ。
「…大した視力だね。よく見つけたな」
思わずそう呟き、褒めるように子供の頭を撫でると、子供はくすぐったそうな顔をする。
「やまいぬともうお話、した?」
「いや、実はまだなのだ」
視力もさる事ながら、この子供が先程の恐慌状態のすぐ後に聞かされた話をきちんと覚え
ていた事に青年は感心した。
「する?」
子供は豆粒のように見える山犬の群を無邪気に指差す。
したいのはヤマヤマだったが、「するか」と言われて「それでは行って来る」と簡単に言え
るものではない。
「…ああ、したいのだけどね…」
「じゃあ、呼んであげる」
子供は簡単にそう言い放つと、いきなり指を噛み切って印を切り、自分の立っている木
の枝に小さな手のひらを叩きつけた。
「口寄せ!」
青年は今度こそ口が開いてしまった。
―――口寄せ。
術自体が高等であり、術者が相応の力を持つ者でなければ相手の動物は契約を結ばないし、
従いもしない。
それをこの子供は、巻物も使わずに『相手』を呼び出した。
子供が手を置いた枝にどん、と大きな体躯の山犬が出現する。
口寄せの術に応じて姿を現した以上、この山犬は普通の獣ではない。高い水準の知能を
有しているはずだ。果たして、山犬は口寄せをした子供の手を優しく舐めて、口を開いた。
「…なんじゃ…カカシかい…どうした、また遊んで欲しいのかい」
カカシ、と山犬に呼ばれた子供は嬉しそうに山犬の首筋を撫でる。
「ううん。呼び出してゴメンね。オレじゃないの。こっちのね…」とカカシは青年を指差
す。何と呼んでいいのかわからなかったのだろう。
「お話ししたいんだって。クロガネ、聞いてあげて?」
元々青年は、山犬のリーダーと話をつけるつもりだった。自分の口寄せ契約動物を介せば、
話をするのは可能なはずだと思っていたが、直に話をつけられそうな展開に青年は安堵す
る。
一方のクロガネという名らしい山犬は胡散臭そうに青年を睨んだ。
「…木ノ葉の忍かよ……ふん、どうやらあのジイさんも年貢の納め時だったと見える。若
造。今頃ジジイの追い忍かい」
青年は首を振る。
「確かに私は木ノ葉の者だ。だが、この子のジイ様を追って来たわけではない。クロガネ
殿は、この山に棲む獣達の頭か」
クロガネは鷹揚に顎を上げる。
「おうよ。…ワシが頭じゃ」
「私は次代火影。四代目となる者だ。貴殿と交渉をしに参った」
おや、とクロガネの目つきが変わった。
「…それはそれは…火影の名を継ぐ御方に、失礼をした。四代目自ら山犬風情と交渉とは、
変わった御仁じゃの。…さて、話とは?」
カカシはキョトンとしてクロガネの耳を引っ張る。
「クロガネ。ホカゲって何?」
クロガネは人間ならば苦笑ととれるような顔をした。
「さてもこの山猿が。犬のワシでも火影がどういう御方なのか知っておるというに。…カ
カシ。この兄さんはな、この木ノ葉でも一、二を争う強い忍者よ。その気になればワシら
などあっという間に片付けられる。…それを、丁寧に話をしたいと言うてくれるもの、聞
かぬわけにはいかぬ」
カカシはまだよくわかっていないようで、曖昧に「ふうん」と小首を傾げている。
「…実は、クロガネ殿。里に依頼が来たのだ。…この山の麓に住まう者達からで、貴殿ら
が畑の作物や家畜を荒らすので何とかして欲しい、とな。…私としては、ただ貴殿らを退
治するよりもお互い譲歩してなるべく穏便に済ませたいのだが」
クロガネは眉間に皺を刻んだ。
「……ふむ。…麓の村には手を出さぬように言ってはあったのだが…どうやらワシの言う
事を聞かぬ阿呆がおるようじゃ。若い連中にはもっときつく言い聞かせるか。…しかしな、
四代目殿。やはり冬場はどうしても食い物が少ない。ワシの言葉よりも、空腹の方が勝つ
であろう。…その時は…」
青年はにっこりと笑う。
「だから、交渉だと申し上げた。…麓の家畜を襲わぬと約束してくれれば、冬の間その代
わりの食料を保証する。家畜や畑を荒らされるよりは、村人にとってもその方が良かろう。
この山は霊峰。人はむやみに山を侵さぬ。だから、貴殿らも人の領域を侵すような真似は
控えてもらいたい。……もしも、村に害を為した場合…その場合は…」
クロガネはゆったりと頷いた。
「村に降りて悪さをした阿呆は、自業自得じゃ。狩ってもワシらは文句は言わぬ」
そして山犬の頭は所在なげに立っている子供を鼻先で突いた。
「カカシ、ワシと契約した巻物はあるかい」
カカシは頷くと、背中に背負っていた薄汚い袋から巻物を取り出した。
「…交渉成立の証じゃ。四代目殿、その巻物に血印を。ワシが死んでからも、一族の頭が
契約を守る」
「私とも口寄せ契約をしてくれるのか」
青年が微笑む横で、カカシが複雑な顔をしていた。その子供の表情に気づいた青年は安心
させるように頭を撫でてやる。
「契約は、先に名を書いた者に優先権が…つまり、私とキミが同時に口寄せをした場合、
クロガネ殿はキミの方に現れる。心配しなくていい」
子供は目に見えてホッとしたように肩の力を抜いた。
そして、青年が名を書けるように目の前に巻物を広げる。
「クロガネがオレんとこ来るならいいよ」
どうやらこの山犬はカカシにとって大事な『遊び相手』であるらしい。
「ありがとう」
青年も指を噛み切って血で名前を書き、血印を施す。
「では、これで交渉成立。…村人には私からよく言っておく。…そうだ、クロガネ殿。実
は、この子のジイ様が亡くなってしまってな。ご遺体を葬る為に、また何人か山に忍が入
ると思うが…了承しておいて欲しい」
クロガネはカカシを見る。
「…この子はどうなる?」
「私が育てよう。里で」
そうか、と山犬は安心したように子供の頬を舐めた。
「またな、カカシ。…寂しくなったらワシをお呼び」
「うん!」
「…良い子でな、カカシ。では失礼する、四代目殿。…ああ、そうそう…死んだという爺
さんはな、この子と血は繋がっておらんよ。…血の匂いが全く違うからな」
そう言い残すとどろん、と山犬は消えた。
「大事な事をさらりと言ってくれるな…」
ではこの子は捨て子なのか。それとも―――
いずれにしても、里に帰ったら調べてみねばなるまい。この子供と、そして山小屋で亡く
なっていた老人の事を。
青年は巻物を丁寧に巻き直し、カカシの袋に元通り突っ込んだ。
「キミのおかげで助かった。これで任務は終わったも同じだ。…ええと、カカシ、でいい
のかな? キミの名前」
うん、とカカシは頷いた。
「じゃあ行こう、カカシ」
青年が差し出した手を、おずおずとカカシは掴んだ。
小さな手を青年は柔らかく、そしてしっかりと握り返す。
そして、山を降りて里に着くまで決してその手を離さなかった。



四代目の話し方はワザとジジくさくしてあります。(笑)
この話にのみでてくるオリキャラ(?)クロガネ。
この山犬の息子だか孫だかがカカシの忍犬達のうちの1匹という裏設定が・・・・・・あっても仕方ない気もするけど。^^;

 

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