Kaleidoscope−8
結局その日イルカは勤務時間内にカカシを捕まえることは出来なかった。 仕方なく、いつも通り保育所にチドリを迎えに行ってから帰路につく。 玄関を開けたイルカは、奥から出てきたカカシの姿に軽く眼を瞠った。 「お帰りなさい、イルカ先生」 「ただ今戻りました。…カカシさん、今日は早かったんですね」 母親の姿にチドリは喜んで抱っこをねだる。カカシは両手を広げて夫から息子を抱き取り、 頬ずりした。 「…ごめんなさい。オレ……思い切ってこの子迎えに行こうかと思ったんだけどやっぱり 行けなくて……」 イルカは穏やかに微笑って首を振る。 「いいえ、無理はしない方がいいです。その忍装束を脱いで行っても…貴女は必ず周囲の 目を引いてしまうでしょう。保母の方々や、他のお母さん達が貴女に無関心でいるとは思 えませんから」 「そう…ですね。…話し掛けられたりしても困っちゃいますものね、オレ。…あー、『オ レ』なんてつい言っちゃうし。……本当にチドリのお母さん? とか疑われそう。それに …」 カカシは俯いた。 「……イルカ先生に恥をかかせそうですよね。…オレ、全然奥さんらしくないし……」 「恥? 何故です。……もしも…ですよ? もしも、貴女が周囲に対して性別を伏せてい なくて、誰にでもこの人が俺の妻だと言えるものなら…俺は胸を張って自慢してやります よ。…残念といえば残念ですねえ。俺の同僚連中なんか、貴女を見たらさぞ羨ましがるで しょう。…結婚式の時みたいにね」 でも、とイルカはカカシの額にキスした。 「そんな事はどうでもいいんです。少し夫婦としては不自然に見えてしまって周囲に怪訝 に思われようが、貴女の身の安全の方が大事ですから」 そう言ってからイルカはふいに真剣な眼をした。 「―――そう。貴女の身が一番大事ですね。……此処で生活する事そのものが既に危険な のだと……俺にも分かってはいるのですが…つい、チドリと親子三人で暮らすという誘惑 に負けていました。…カカシさん」 「は、はい…」 「……もっと、安全な所に移りますか? 実は、アスマさんにも勧められたのです。…俺 が火影様つきの護衛になって、お屋敷の一角に住まいを借りられれば。……そうすれば、 世俗のつきあいなどからは隔絶されますが」 カカシは当惑したように夫を見上げた。 「…でも、それでは…アナタ、アカデミーの方は? 火影様つきなんて、暗部扱いになり ますよ」 「忍師との両立は無理ですね。……チドリにも多少不自由な思いをさせる事になるかもし れません。……まあ、取りあえず中に入りましょう。玄関じゃ落ち着かないし」 だからイルカは最初この案を現実的に検討しなかった。自分がアカデミーを辞める事など イルカには考えられない事だったのだ。チドリにとっても、あまりいい環境になるとも思 えなかったから。だが――― まだ夕飯には少し早かった。カカシはお茶を淹れて居間に座る。 「……今の話、本気なんですか? イルカ先生」 イルカは湯呑みを手にとって微笑んだ。 「そういう選択肢もあると思っています。…尤もまだ火影様には何も申し入れていません し、第一護衛に足る能力無しと言われればそれまでですし。…だけど、もしもカカシさん がその方がいいと判断されるのでしたら、具体的なことを考えるつもりです」 ―――いつか何処からか綻びる。破滅する。 そのアスマの言葉が取れない棘のようにイルカの胸の中に刺さっていた。 彼は強引に先の案をイルカに押しつけたりはしなかったが、それが『カカシの為には』現 時点で最良だと思っているに違いない。でなければ、彼がプライベートな問題に口を挟む はずが無かった。 フォローしてやると言われて、その言葉に甘えていていいものだろうか。 強引とも言えるやり方でイルカはカカシを妻にした。その代償に、出来る限りの事をする 義務が自分にはあるのではなかろうか。忍師を続けたいと思う事も、チドリの気持ちを思 う事も、ただの我儘ではなかろうかとイルカには思えてくる。カカシは犠牲を払っている のに。―――これからも、払い続けるのに。 カカシも自分の湯呑みを両手で包み、しばらく考え込んだ。ややあって口を開く。 「……先ず、アナタに火影様の護衛たる能力があるかどうかという点についてですが。… これは問題ありません。…身贔屓で言ってるんじゃない。上忍としてアナタの力を判定し た場合、護衛として充分な能力があると思うからです。戦闘能力だけじゃない。周囲への 対応能力も高い。いざとなれば、外部との交渉も出来るでしょう。……火影様もアナタの 事は信用なさっているし、護衛を申し出ればこれ幸いとアナタをお傍から離さないでしょ うね。…これも容易に想像がつきます。アナタ、あの爺様のお気に入りですから」 「…カカシさん」 カカシはイルカの言いたい事を察して苦笑する。そういう言われ方は彼にとっては心外だ ろうから。 「………確かにあの屋敷ならば滅多な事は無いでしょうね。火影様のお許しがあった者し か入れないし、警備もしっかりしている。……一番安全な場所と、言えるかもしれません」 でも、とカカシは首を振る。 「……ダメです。オレは賛成しかねます」 え? とイルカは意外そうな声を出した。 「………里長の護衛役というのはアナタに適任だと思うんですがね。…でも、それ以上に アナタには合っているものがある。イルカ先生。…そう、呼ばれる事が、です。アナタは 忍師を辞めてはいけない。…里の、為にも」 カカシは微笑む。 「……ご自分で思っている以上に、アナタのような存在は大事なんです。見方を変えれば、 上忍だ写輪眼だと持ち上げられるオレなんかよりも余程得難い存在なのだと―――オレは 思います。忍師などいくらでもいる。でも、『いい忍師』は貴重とも言えるくらい少ない。 アナタはその数少ない、いい忍師です。…オレの為にアカデミーを辞めるような事があっ てはいけません」 「…カカシさん、しかし……」 言い差したイルカの口を遮り、カカシは真っ直ぐに彼の眼を見た。 「オレの身の安全? オレの本来の性別を他人に知られない事が最重要事項ならば、アナ タ今頃生きていませんよ。…それならアナタに気づかれた時、オレはアナタを殺している はずでしょう?」 イルカは瞬間強張った表情になったが、薄っすらと苦笑する。 「……人目も無い山の中でしたからねえ……それは簡単な仕事だったでしょう。…そう言 われれば不思議ですね。俺は何で生きてるんでしょう。…貴女に手を出そうとした不逞の 輩ですのに」 「その答えは簡単です。…ひとつにはオレが、オレ自身がアナタを信用したから。…今ま で仲間にすら気取られずに来たってのは半分嘘です。ガイや環みたいにずっと騙されてく れていた奴らばかりじゃない。…任務中とかに、何かの拍子で気づく。あ、コイツは男じ ゃないと。…そう、アナタみたいにね」 「カカシさん……」 カカシは重く息を吐く。 「…大抵が禁欲的な任務の最中です。例外なく、オレを見る眼が変わる。……オレが故意 に性別を偽っている理由なんかにはおかまいなしに、黙っていてやる。その代わり――― ってね。オレは…そいつ等の口をふさいできた。…同胞殺しなんです、オレは。自分の都 合で仲間を殺した。……オレの事を知っていて、尚且つ命がある人間って言うのは、そう いう代償無しに口を噤んでいてくれる、信用出来る人達だけなんですよ。……オレはアナ タに口止めをしませんでしたね。…信用したんです。アナタは、そんな事を言わなくても 黙っていてくれる人だと。…だって、あの時アナタは気づいてもずっと黙っていた。…オ レがそう望んでいると…察してくれたから」 イルカは首を振った。自分がカカシに殺されずに済んだのは、単なる偶然なのかもしれな いのだ。ひとつボタンを掛け違えていたら、今のこの状況は無かった。 「……貴女は里の命令に従っただけです。……同胞殺しなどじゃない。……もちろん、俺 を殺しても良かったんですよ」 嫌ですよそんなの、とカカシは泣きそうな顔で笑った。 「理由のもう一つは、オレの事なんかでアナタを殺したくないって思ったからなんですか ら。……好きだって…言ったでしょ? オレはアナタが好きになった。あそこで抱かれて もいいと思うくらいに。…そんな相手の首を掻くような真似するわけないでしょう。…勝 手なんです、オレも」 カカシは卓を回ってイルカのすぐ隣に来ると身を摺り寄せた。 「……元々、アナタと一緒になる前からオレの生き方は綱渡りみたいなもんなんです。… でも、今が一番幸せ。……アナタがいて、支えてくれる。オレは…このアナタの家で、チ ドリと三人で暮らす今の生活がいい。……いいんです。大丈夫。…もしもいつか……全部 バレてしまうような事になったとしたらね。きっと、もういいって事なんですよ。もう… オレが男でいなくてもいいって……たぶんね。そういう事なんです」 「カカシさん……」 イルカは擦り寄ってきた柔らかい身体を更に抱き寄せた。 母となってから、彼女の身体はまろやかさを増した。結婚前のどこか少年のようだった身 体の線が、柔らかくなっている。 忍装束で身を鎧い、気を操って周囲の目を欺いたとしても。 ふとした拍子に男には無い艶が―――女としての色香が匂う。それがほんの微かなもので も、敏い人間は違和感を抱くだろう。これまで以上にカカシの秘密に気づく人間は増える かもしれない。 なのに、自分は近くにいて彼女を護る事は出来ないのだ。 アスマや環。 他の男に自分の妻を護ってもらわねばならないのがイルカには口惜しい。 「……わかりました。……貴女の意見を尊重します。…正直ね、本音を言えばアカデミー を辞めるって事には抵抗が無いとは言えなかったんです」 「でも、オレの為にガマンしちゃおうって思ったんですね…? イルカ先生…イルカ先生 …アナタってどうして…そうなの……どうしてオレの為にガマンしちゃうの?」 カカシはイルカの腕に残る傷にそっと指先を這わせた。 「これだって、痛いでしょう? だけど、オレに必要だと思うから、リハビリの組み手に も付き合ってくれてるんでしょう? …オレは……」 カカシに最後まで言わせず、イルカは彼女の唇をふさいだ。 唇で唇を愛撫し、『愛している』と彼女に伝える。 「……誰かに何かを聞きましたか、カカシさん。……俺も、聞きましたよ。勝手な…俺の 気持ちも知らない勝手な憶測の噂なら」 イルカはくすっと笑った。 「…夫婦喧嘩か、でなきゃ妻による家庭内暴力だそうです。笑っちゃいますねえ…」 「…………ケンカじゃないけど……あの…ちょこっと当たってません……?」 カカシはそおっと上目遣いにイルカを見上げた。 「別に一方的な暴力じゃないでしょ? それに俺にとっても、貴女との組み手は有意義な んで。…カカシさんは何も気にする事ないんですよ」 むしろねえ、とイルカは眉間に皺を寄せる。 「……貴女、調子を取り戻してきたでしょう。…俺じゃ相手にならんのではと…そっちの 方が心配になってきて……」 カカシは真顔になった。 「イルカ先生、確実に腕を上げていますけど? …でも、ご自分でそう思うのなら、もっ ともっと強くなって下さい。アナタ、もっと伸びます。強くなります。…このオレが保証 します」 カカシは、妻として夫を励ます為に根拠の無い事を言ったのではない。上忍の眼で見た彼 の力をそのまま評価したのだ。それがイルカにもわかった。 「強く…なれますか」 「アナタにその気があればです」 では、とイルカは微笑んだ。 「貴女のリハビリはもう充分のようですから。今度からは、俺につきあって下さいます か?」 カカシは数秒夫の顔を見つめ、それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「…オレで良ければ」 イルカは大真面目に頷く。 「よろしくお願いします。カカシ上忍」 はあ、とカカシは肩の力を抜く。彼の同僚の話を聞いてからムダに悩んでいた自分がバカ に思えた。最初から、ちゃんと彼と話せば良かったのだ。 「……何か…そうか。環の言った通りだったな……」 ピクンとイルカの肩が揺れた。 「……環先生が何か?」 「あ、ウウン。…ちょっと…ね。うん、さっき先生が言ってたその…『噂』の事で、環に まで心配というか…迷惑かけちゃって。話、聞いてもらったんですよ。オレ、イルカ先生 を傷つけている事にも気づかない大バカだと自分で思って落ち込んじゃってたから…そし たらね、環は…イルカ先生はそんな傷つき方はしていないはずだって…むしろ、組み手の 相手をオレが遠慮する方が傷つくだろうって………あの、イルカ…せんせ…?」 イルカの顔が、どんどん不機嫌そうになっていくのに気づいたカカシは慌てた。 滅多にこんな顔をする人ではないのに。 「……カカシさん」 「は、はい……」 低く唸るようなイルカの声にカカシは一瞬身を引きかけるが、しっかりと肩を抱かれてい た為に身動ぎも出来ず、結果その場で何となく身体を小さくする。 (…イルカ先生何か怒ってる〜…どどど、どうしよお…) 「……何故です? 何故、環先生に相談したんです? 当事者である俺には話しにくかっ たかもしれませんが。……俺に何故…言ってくれないんです!」 「イ、イルカ…先生…」 「俺がその噂を同僚から聞いたのは今日です。貴女は…その前に聞いているはずですよね。 …その時点で俺に言えば良かったんです! 何で…他の男なんかにっ……」 そこまで一気に吐き出したイルカは自分で口を覆った。感情のままにカカシを責めたこと を恥じて赤くなる。 あ、とカカシは気づいた。 イルカの不機嫌の理由。 自分より先に他の男にカカシが悩みを打ち明けていた事が面白くない。つまり、彼は妬い ているのだ。 「…ゴメンナサイ」 小さくなって素直に謝るカカシに、イルカは表情を和らげる。 「…怒っているんじゃ…ないですよ。でも、その―――」 「ううん。オレが悪かったです。ごめんね、イルカ先生。…オレもそう思ってたの。ちゃ んと話して、アナタの気持ちを聞けば良かったのにって…」 カカシはするりと腕を男の首に巻きつけた。ちゅ、と頬に口付ける。 「今度からは絶対にそうする」 「…すみません。つい…声を荒げてしまって…」 カカシは無邪気に小首を傾げて見せた。 「イルカせんせ、もしかして……妬いた?」 「…………少し」 正直に認めて気まずそうな顔をしている男に、カカシは抱きつく。 「嬉しいっ」 「…う、嬉しいですか…?」 「だーって、イルカ先生普段そういうの見せてくれないんだもん。だから嬉しー」 (―――ああ、やっぱり可愛い…) きゅうきゅう抱きつくカカシが可愛くて、思わず顔が緩んでしまうイルカ。 万年新婚夫婦とアスマにからかわれるのも道理である。 父と母がイチャついている間、出来のいい赤ん坊は一人座布団の上で大人しく遊んでいた。 |
◆
◆
◆
そろそろ終わってもいい話・・・というか、終わってますが。 全体的なフォロー一発やっとくか〜ということで、もう1話行こうかと。 イルカ先生、突発的にヤキモチ。抑えきれないトコロがまだまだ青い。(笑)まだ24才ですから。(<ここでは。) |