Kaleidoscope−5
一般の受付時間になっていない任務受付所の中はまだ閑散としていた。まだ係の中忍も誰 も来ていない。 「おす」 「あ、おはようございます、アスマさん。早いですね」 こんな時間にカカシがいる訳はなかったのだが、そこにいたのが髭の巨漢だった事に少々 落胆したイルカはそれでも如才ない笑顔で挨拶を返す。 「こちとら、任務明けだよ。…畑の不寝番だ。最近夜中に作物を盗むセコイ奴がいてな。 昨晩で三日目。よーやっと捕まえたってわけだ。ほれ、報告書。スマンがさくっと受理し てくれ。とっととウチ帰って寝てぇ」 ヒラヒラと書類を振り回す男に苦笑しながら、イルカはカウンターの内側に廻った。 彼が一人で報告に来ているのは、いのやチョウジ達子供らを先に帰してやったからだろう。 何だかんだ言っても、根は優しい男だ。 「お疲れ様でした。書類をこちらに。………はい、結構です。これは任務終了ですね」 書類を確かめながらイルカが顔を上げると、アスマのニヤニヤ笑いにぶつかった。 「……何です?」 「いや、ちっと見ねえ間にいい面構えになったじゃねえか」 アスマはすいっと上体を屈ませてイルカの耳元で囁く。 「…ヤツと毎晩のようにやりあってるって? ったく、亭主こんなに傷だらけにしちまっ て。しょーがねえなあ」 イルカの表情が微かに強張った。 「………アスマさん。あの人に何を言いました?」 イルカの硬い口調にアスマは眉を上げる。 「……いや、俺は別に…程々にしとけって言っただけだが?」 黙って唇を引き結ぶイルカに、アスマは胸中ため息をつく。 (…ったく、面倒なヤツらだ……) 話の流れで大体察しはつくが、イルカ絡みの事となると途端に『女』になってしまうカカ シのことだ。また厄介な事になっているのかもしれない。もしもケンカなら犬も喰わない というヤツだと思いながらも、アスマは一応聞いてみる。 「…………俺の所為か?」 イルカは驚いたように顔を上げた。 「いいえっ……たぶん…違います。確かにちょっと…その、一因にはなったかもしれませ んが……妙な噂がアカデミーとかで流れちまって……それを聞いてあの人たぶん落ち込ん でしまったんじゃないかと思うんですよ」 俺の所為なんです、とイルカは項垂れる。 「俺がもっと……しっかりしてりゃ…強けりゃ……あの人を無用に悩ませる事も……」 ふむ、とアスマは新しい煙草を咥えた。 目の端で他の受付係が部屋に入って来るのを捉えて、更に声を落とす。 「……俺は今からちょっと仮眠に戻るがな。昼にはまた出て来る事になってる。……メシ でも一緒に食って、ちょいと話そう。俺も一因なら知らん振りも出来ねえからな。……… お前にアレを泣かせるなと言っておきながら」 アスマはイルカの返事も待たずに軽く手を挙げると、踵を返して出て行った。 (…アスマさん……) 確かに、彼とカカシの間でどういうやり取りがあったのか、カカシの言葉だけではよくわ からなかった。彼女と話す前に聞いておいた方がいいかもしれない。 自分とカカシの事でアスマに迷惑など掛けたくはなかったが、この際仕方ないだろう。 イルカは重い息を吐いた。 午前の受付を終えたイルカが廊下に出ると、少し離れた壁に背を預けて立っていたアスマ が身体を起こし、身振りでついて来い、とイルカを誘った。 素直に彼について歩き始めたイルカは、首を傾げた。食堂とは方向が違う。 アスマはそのまま外に出て、門の方に向かって歩いている。外で食べるつもりかと思った が、彼は街中に足を向けなかった。 ついた先は演習場。 しかも、アカデミーの子供などは使わない本格的な所だ。ここはもう『忍』となった者達 が修練で使用する。運動場のように広い場所は無く、金網で囲まれ、実戦を想定して色々 と障害物もある所である。 金網扉をくぐり、アスマは『使用中』の札を入口に掛けた。 「…ここでちょっと前にカカシと組み手をやった。……お前ともやってたようだが、同じ 相手とばかりじゃ組み方も似てしまうからだろう。ま、産後のリハビリだろうと俺も軽く 考えて相手をしてやったんだが……」 アスマは咥えていた煙草の火を消した。 「……どっこい、あのヤロウときたら、どこがリハビリだっつーくらいの攻撃を仕掛けて きやがる。しかも、この俺に向かって『弱くなった?』ときたもんだ。…ったく、かなわ ねえよ………構えろ、イルカ。食前の運動だ」 ここに来たアスマの意図を汲み取りかねていたイルカだったが、咄嗟に構えを取る。 間髪入れず飛んで来た拳を受け流しながら牽制の蹴りを放った。 (……速い…!) イルカは思わず感嘆した。アスマの動き方はカカシとはまるで違うが、速さという点にお いては同じだった。身の軽い彼女のフットワークは男性に比べて劣る部分を補う為のもの だと思っていたが、存在だけで他を威圧するアスマの巨体もまるで風のようだ。 矢継ぎ早に繰り出される拳や蹴りを避けるだけでイルカには精一杯。 一瞬でも気を抜けば、後ろの木か岩まで吹っ飛ばされるだろう。 その時。 (…ッ!) アスマの動きが、瞬間だったがカカシのそれと重なった。 イルカは反射的に次の動きを予測した攻撃位置に飛び込み、掌底を突き出す。何も考えて はいなかった。ただ、カカシとの組み手で身体が覚えていた動きだ。 「うおっ…と! …危ねえ!」 間一髪、首を仰け反らせて掌底を回避したアスマはそのまま飛び退った。 そして、にやりと笑う。 「……なるほど。……カカシの言った事も満更誇張じゃねえってワケか。……いい動きだ、 先生。お前さんに足りないのは経験だけだな。もっと実戦経験積んでりゃ今の掌底は入っ てた。俺の顎も無事じゃ済まなかったな」 僅か五分程度の組み手でイルカの息は上がっていた。 「…ですか…? 褒め過ぎですよ」 「少なくとも中忍ン中じゃ上の方だろ。俺は当てるつもりでやってたのに、お前一発も喰 らわなかった。…それだけでも結構すげえぞ。自慢じゃねえが、俺だって結構強い方なん だからな」 イルカはつうっと顎から咽喉に滑り落ちた汗を拳で拭った。そして、唇を自嘲に歪めてフ ッと笑う。 「……俺もね、ケンカは結構自信ありますよ。……ただ殴り合うってヤツは。同僚と仕合 っても、そうそう遅れは取るつもりはありません。でも、敵はこんなに親切に組み合って はくれないでしょう。…貴方やカカシさんが敵で、俺を殺す気だったら…まず、俺は秒殺 ですよ。…それくらいはわかっています」 で? とイルカは髭の上忍を見上げた。 「……俺は、あの人の助けになれるでしょうか。…それを確かめたかったのでは?」 アスマは手振りで演習場から出よう、と示した。 演習場の出入り口に引っ掛けてあったビニール袋をひょいとアスマは持ち上げる。 「奢りと言うにはささやか過ぎて恥ずかしいが、昼飯買っといた。…食おうぜ」 握り飯におかずと漬物がついた弁当。缶入りのお茶までアスマは用意していた。 「頂きます」 イルカは素直に礼を言って、弁当に手を伸ばす。 アスマも握り飯を包んでいる竹の皮をぴりりと剥がして豪快にかぶりついた。 「ここは店のバーサンの手作りだそうだ。添加物ナシでヘルシーだぞ」 「どうりで。…漬物の味がヨネ婆ちゃんのに似ています。美味いですね」 ところで、とアスマは切り出す。昼休みは短いのだ。 「カカシと夜の組み手をやり始めたのはいつからだ?」 「……そうですね…ここ一カ月…弱、でしょうか。…彼女に例のサスケ指導の任が下った すぐ後に始めましたから。……チドリも最近は夜泣き癖が直ってきましたが、最初のうち はあの子が泣く度中断しちゃって……きちんと出来るようになったのはここ十日ほどです かね」 「…なるほど。…それで、ここ十日間にお前の傷が増えた事でヤツらは余計なお節介を焼 いたって事か」 「アスマさん?」 アスマは肩を竦めてみせた。 「…どういう噂か気になったもんでな。…ちっと情報収集。こういう噂は簡単に聞きだせ るもんだ。ああ、ちゃんと変化して歩いたから、誰も俺が噂を聞き回ったとは思っちゃい ねえ。心配するな」 イルカはそうですか、と呟いた。 「……情けない噂だったでしょう。俺は、妻による家庭内暴力に耐える夫だそうですよ。 …俺はいいです。でも、そんな事を聞いたカカシさんはどんなに傷ついたでしょう…可哀 想に……貴方にも怒られたのだと萎れてしまっていました」 アスマはチクワを咽喉に詰まらせかけた。 「…ッ! おいおい…俺は何もカカシを怒ったりはしねえぞ。…アイツの蹴りがココに入 っちまった時、アイツはイルカ先生なら今のを喰らったりはしない、と言ったんだよ。… それがまあ、まともに喰らったら最悪死ぬんじゃねーかって蹴りでな。…てめえはこんな 危険な蹴りを亭主にかますのかよって…まー呆れてなあ……自分のリハビリにつき合わせ ているだけなら、あまり無茶をするなと言ったんだ」 「……確かに、いつも確実に避けられるわけじゃないです。それなら俺は無傷なはずでし ょう? でも、この有様です」 イルカの顎にはバンソウコウ。服で隠れているが、腕や脚、背中にも無数の傷や痣が出来 ていた。 「…組み手の間、彼女は俺の妻ではありません。…はたけカカシです。彼女が『気』を陽 に切り替え、男になる瞬間はいつ見ても一瞬背中が粟立ちます。…それでもまだ殺気を込 められたわけじゃないから、俺は何とか仕合えるんです。…俺は、彼女のリハビリに付き 合うことによって、鍛えられているんですよ」 一石二鳥でしょう、とイルカは微笑む。 「…それに、組み手が終わった後、いつも彼女は申し訳なさそうに俺の傷を手当てしてく れるんです。我に返ったようにね。……俺はそんな彼女がますます愛しくなる。…だから、 彼女が傷つかねばならない事なんかひとつもないんです」 アスマはぼりぼりと漬物を齧りながら横目で黒髪の中忍を見た。 「……何だかんだで……今、俺はしっかり惚気を聞かされたってェワケだ。…アホくせえ」 イルカはそれこそ我に返ったように恐縮して肩をすぼめた。 「す、すみませんっ…ご心配して頂いてるのに……っ…」 「…ま、そんなに心配するような事じゃねえってわかっただけでもいいさ。お前らがしっ かりと仲良くやってんならいいんだ。…無責任な噂なんざ、そのうち消える」 ただなあ、とアスマは顔を顰めた。 「……そんな噂が立っちまうのも、お前の『女房』がまるで正体不明、ナゾの女だからだ ろうなあ」 アカデミーの同僚にも、イルカ達の結婚式に祝いに来てくれた者は結構いるが、その誰も が彼女の顔をきちんと見たわけではない。彼女が顔を上げた一瞬、その横顔を目撃出来た 者が『イルカの女房は怜悧な雰囲気の美形だった』と周囲に吹聴した所為で彼女のイメー ジが一人歩きしているのが現状である。 「そうかも…しれません。幸い、俺の家は他所から覗かれる危険は少ないし、ご近所とも 離れている。周りとの付き合いもチドリを保育所に送り迎えしてんのも全部俺ですから…」 「妙な噂が立たない方がおかしいな、そりゃ」 わはは、とアスマは笑った。 「ご近所は、彼女を病弱な奥さんだと思ってくれてるようで…子供を産んでからは他人と 会うのも辛いようだと言ったらそれで納得してくれたんですが。…保育所の先生は、この 里の事情にも通じている方なので、何か事情があるのだと察してくれて追求はなさらない し…」 「どっちにしても、綱渡り…か。……いっそ、火影様に頼んで屋敷の一角に住まわせても らったらどうだ。…お前の親、火影様付きの警護だったろ。お前も警護に付かせてもらえ ばいい。お前の腕なら、誰も文句は言わないだろう」 アスマが自分の腕を試すような真似をした理由を悟り、イルカは眼を瞠った。 「……でも、火影様直属ならば暗部扱いです。……俺は、その子供がどんな思いをするの か知っています。カカシさんだって仕事を持っているでしょう。俺はチドリにあんな寂し い、辛い思いは……させたくないんです。…すみません。俺も、カカシさんの秘密を守る には今アスマさんが言って下さった事が一番だと…思うのですが」 アスマは表情を和ませ、イルカの肩を叩いた。 「いや、それもそうだ。……それに、お前にはアカデミーの教師ってヤツが合っているし、 アカデミーにもお前が必要みてえだからな。……ま、俺はな…こんな不自然な状態、いつ までも続けられるとは思ってねえよ。…それは、あいつがお前と結婚する前から思ってい た。…いつかは、どこかから綻んでいく。そしてそれはきっとあいつを破滅へ導く。ある いはそうなる前に、写輪眼のカカシが忍として――つまりは男のまま死ぬ。……そうなっ てしまうかもしれない、とな」 「アスマさん……」 不安げに瞳を揺らしたイルカの肩を、再度アスマは叩いた。 「今は、その結末は薄いと思うぜ。……少なくとも、最悪の形でアレが破滅する事はない。 ……お前が、いるから。そして、護るべき子供がいるから」 いつかは、とイルカは胸の中でアスマの言葉を繰り返した。 そう、いつかは―――彼女が『女』に戻れる日が来るかもしれない。 でもそれは今ではない。 当分の間、この綱渡りは続くだろう。 イルカの胸中を推し量ったかのように、アスマは微笑った。 「…ま、俺も出来るだけはフォローしてやる。亭主のお前がいるのに余計なお世話ってと こだろーけどな……」 アスマにとって、カカシは『女』ではなくただひたすら無条件に『護るべき者』なのだ。 ―――だから、夫がいてもいなくても、彼はカカシを護る。きっと、必要とあらばチドリ ごと、そしてイルカごとカカシを護ろうとするだろう。 イルカは黙って首を左右に振り、深く頭を下げた。 |
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アスマとイルカで1話使っちゃいましたよ。 ああ、思ったよりも長い話に…でも着地点は見えてきましたね。(見えてからが長いとか言うことにならないといいなあ) 次回はカカシちゃんですね。 カカシVS環(?!)+7班の子等。 |