Kaleidoscope−4
「カカシさん、今日はどうします? 組み手、やりますか?」 夕食の席でイルカにそう訊かれたカカシは、躊躇う素振りを見せた。 離乳食をチドリに食べさせながら「う〜ん」と小さく唸る。 「……でもあの…イルカ先生だってお仕事で疲れてるのに…毎日じゃ悪いです…」 「悪くなどないですよ。…でも、身体を苛めるだけが訓練ではありません。カカシさん、 無理をしないようにして下さい」 そう言うイルカの顔は心配げだ。 だが、俯いているカカシはそのイルカの顔を見ていなかった。 「…そう……ですね……オレったら、加減を知らなくて…アナタに怪我…させちゃうし …この間もアスマにもバカって怒られたし……」 「え? いや…そうじゃなくて…ってアスマさんが何ですって?」 いけない、言葉が足りなくて彼女に誤解をさせたのだとイルカは慌てたが、既にカカシ は落ち込みモードに突入してしまっていた。 「……肩慣らしの組み手で亭主を殴り飛ばすバカな女房がどこにいるんだって……怒ら れちゃったんです……」 ごめんなさい、とカカシは萎れた。 「……アスマさんがそんな事を? …いいじゃないですか。殴り飛ばされた当の本人が 怒っていないんですから。気にしないで、遠慮なくやって下さい。…まあ、俺が死なな い程度に」 最後の一言は、イルカの冗談だった。しかし、それはカカシの耳には冗談に聞こえなか った。 何故なら。 昼間、彼女はとんでもない話を聞いてしまっていたのだ。 今日の七班の仕事は早くに終わった。 まだ夕方まで時間があったから、これはサスケの訓練をしなきゃならないかと思ったカ カシだったが、環が今日はもう帰っていいと言ってくれたのだ。 アカデミーでは下忍として必要最低限の術や技しか教えないから、そこからより進んだ 忍術・体術は担当教官が独自に指導していく。環はそれだけではなくもっと幅広い知識 や教養を身につけさせる為の勉強も指導していた。今日の午後はその時間にあてるとい うので、カカシもそれでは自分がいる事もなかろうと素直に引きあげた。 そこでアカデミーの方に足を向けたのはほんの気まぐれ。 遠目にでもちらりとイルカの姿を見て、出来れば接触もして今日は自分が頑張って夕食 の用意をするからと伝えられればいい。そんな軽い気持ちだった。 中庭の方から廻って校舎に入ろうとした時、ふいにカカシは呼び止められた。 「あの…カカシ上忍…」 カカシは立ち止まって声を掛けてきた相手を振り返った。 (……誰だっけ…コイツ。見たことあるよーな、無いよーな……) 「……何?」 「あの、自分はアカデミーの教員で…その、うみのの同僚なのですが」 「…ああ、イルカ先生のお仲間。…オレに何か用?」 大事な旦那様の同僚だ。疎かには出来ないとカカシはニッコリと微笑んでやる。 「カカシ上忍は確か、アイツのご友人でしたよね? 最近何か聞いていませんか? そ の…相談されたりとか」 ご友人じゃなくってオクサンなんだけどなー、と内心でまぜっかえしつつ、カカシは首 を傾げて見せた。 「何かって? 何かあったの? イルカ先生」 同僚だというその男は、声をひそめた。 「じ、実はですね…もしかしたらアイツのうち、とんでもねえ事になってるんじゃない かって…俺達みんな、心配してるんですよ。…そうか…アイツ、貴方にも何も相談して いないんですか……あのう、ヤツの奥さんって…カカシ上忍も御存知のお人なんでしょ う…?」 うん、と一応カカシは頷く。 「…イルカ先生の奥さんが…何? とんでもない事って…いったい…」 男は深刻げに眉間に皺を寄せた。 「最近ヤツにお会いになってないんですか? アイツ、この一ヶ月の間にボロボロにな ってるんですよ! ここ十日くらいは更に酷くなっている。ああも毎日生傷が絶えない ってどういう事なのか。ちょっと考えりゃ誰にでも察しはつきます。……イルカはきっ と、奥さんの暴力に毎日耐えているんですよ!」 カカシはその言葉に後頭部を殴られたようなショックを受けた。 咄嗟に言葉も返せない。 「…アイツ、人が好いし……黙って耐えちまうような男ですから…良かったら、カカシ 上忍から何か言ってやってくれませんか…その、ヤツの奥さんに意見出来そうな御仁は 貴方か、猿飛上忍くらいしか思いつけなくて……余計なお世話だとは思うんですが、同 僚として見て見ぬ振りも出来ないし…俺ら、結構イルカには世話になっているもんで」 他ならぬ自分がその『イルカの奥さん』に意見をしてしまっている事など知る由もない 男を、カカシは呆然と見つめていた。 「…カカシ上忍…?」 カカシはぎこちなく頷く。 「わ…かった。……そりゃ…大変そう…だね。オレも心配だから…様子、聞いてみるよ」 男は安心したように微笑った。 「お願いします!」 カカシはその当の『奥さん』本人であるから、イルカの生傷の真相を知っている。 そして、イルカの同僚がこういう心配をし、更にお節介まで焼くのも裏返せば彼の人望 の篤さ故だと思うと、怒るわけにもいかなかった。 しかし。 (……奥さんの暴力に耐える夫……) このフレーズはきつい。 実際、イルカに傷を負わせているのは自分だ。 アスマにも呆れられ、そして怒られた。イルカとの組み手そのものはいいが、やり過ぎ るなと。イルカがいつも避けられるとは限らない。亭主に大怪我をさせる気なのかと。 (そんな…つもりじゃない…) イルカが予想以上に強かったので、カカシは嬉しかったのだ。 毎夜、手合わせする度に彼の力が少しずつ増しているのをカカシは感じていた。 一昨日よりは昨日。昨日よりは今日。ならば、明日はもっと強くなるはず。 夫となった男が、どんどん力をつけていく様を見るのはとても楽しかったのに。 (オレ…調子に乗ってたかなあ……) 冷静に考えれば、女房にぶっ飛ばされて嬉しい男なんかいないはず。いたら、その男は マゾだ。 「…イルカせんせ、マゾじゃない…もんな……」 たぶんおそらくきっと。…そんな性癖は無い……はずだ。 ―――カカシは落ち込んだ。 「オレ……そんな…やっぱり……」 イルカは生命の危険を感じていたのだと、カカシは胸を詰まらせた。 昔から自分が何と呼ばれていたのかは知っている。 木ノ葉の死神。冷血なバーサーカー。 イルカは恐ろしい思いをしながらもカカシの為に耐えて、そんな自分の相手をしてくれ ていたのだ。それは強くもなるだろう。己の身を守る為に、彼は必死だったはずだ。 「…カカシさん?」 カカシがハッと顔を上げると、イルカが心配そうに見ていた。カカシの膝に抱かれたチ ドリもじいっと母親を見上げている。 「あ…いえ、何でも……き、今日は組み手、やめておきます。…無理、しちゃいけませ んもんね」 「そうですか? わかりました。では、今日は早めに休みましょう。…チドリは俺が風 呂に入れますから、カカシさんはゆっくりお風呂を使って、英気を養って下さい」 「…ありがと……」 イルカは優しく微笑む。 その顎にはバンソウコウ。腕にも脚にも擦過傷や痣が数えきれないほど。 それを見て、カカシは申し訳なさに項垂れた。 (……イルカ先生の優しさに甘え過ぎてた……やっぱ、オレってダメな奥さんだ……) 封じられたままの写輪眼が時折目蓋の奥で熱く疼く。 まるで、戦いを欲しているかのように。 (オレなんかにイルカ先生の奥さんが務まるワケがなかったのかも…) 膝に抱いたチドリがおねむになってぐずりだす。 この子もとんでもない人間を母親に持って生まれたものだとカカシは自嘲した。 翌日イルカが出勤すると、教員室にいた同僚は安堵したような顔をした。 その表情が引っ掛かったイルカは首を傾げる。 「おはよう。…何だ? 何かあったのか?」 「いや…今日はお前傷が増えてねえなあと思ってさ。…良かった」 同僚は、昨日の昼間カカシに『相談』した男だった。彼なりに本当にイルカを案じてい たのだ。イルカは自分の顔を撫でて苦笑した。 「あ…ああ、まあな」 ここのところ毎晩のようにやっていた組み手を夕べは休んだ。傷が増えるわけがない。 「……カカシ上忍…本当に言ってくれたんだ。…いい人だな」 「は?」 イルカは思わず大きな声を出す。 「カカシさんが何だって?」 男は慌てて首を振った。 「いやっ…何でもねえっ…気にすんな!」 「気にするなっつー方が無理だろ! 言え! 何があった!」 イルカの剣幕に圧され、男はカカシに相談した事を白状した。 「……怒るなよ。余計なお節介だったのはわかってるけど、お前の傷が増えていくのが 放っておけなくて…カカシ上忍ならお前の女房に忠告くらい出来るだろう? だから…」 イルカは呆然とした。 うみの家の家庭内暴力。それも、女房による亭主への。 まさか、そんな噂になっていたなんて。しかも、カカシがそれを聞いてしまっていたと は。 せめてカカシより先に自分が噂を耳にしていたら、フォローのしようもあったのに。 夕べのカカシの様子を思い出す。 少し様子がおかしかったのを勝手に疲れの所為だなどと思わず、もっときちんと話を聞 くべきだった。カカシはきちんとシグナルを出していたのに。 彼女は案外素直だし、忍者としての自分以外には全くと言っていいほど自信を持てない 人だ。他人の言葉に簡単に惑わされ、そして傷つく。 (…カカシさん……) 「イルカ? 勝手な事して悪かったよ。…でも、みんな心配してたんだ……」 イルカは顔を上げた。 同僚達の見当違いな噂に関しては殴り倒してやりたいほど腹立たしいが、彼は自分を本 当に心配して『余計なお節介』をしてくれたのだと思うとその怒りをぶつけるわけにも いかなかった。ただ、何故よりにもよってカカシ本人に言ってしまう前に自分に言って くれなかったのか。 それだけが口惜しい。 「…そう…か。心配…かけて悪かった。…実際は、お前らに心配させるような事じゃな かったんだがな。……言っておくが、彼女は理不尽な暴力を揮うような人じゃない。彼 女の名誉の為にも、断言する。それから、夫婦喧嘩をしているわけでもない。…頼むか ら、そんな噂は撤回してくれ。俺の怪我は、彼女の所為じゃないんだ。…俺、彼女の為 にももっと強くなりたくて、毎晩修練していたんだよ。この怪我は俺の未熟で負ったも のなんだ」 イルカは真っ直ぐに同僚の眼を見る。 その眼の色に気圧されたように男は頷いた。 「わ…かった。いや、ならいいんだ……お前が奥さんと上手くやってるなら…」 イルカはふと笑みをこぼして、同僚の肩を叩いた。 「でも、ありがとな。…心配してくれて」 ここで彼を責めても仕方ない。 なるべく早くカカシと話をして、外野の言う事など気にしないように言わなくては。 イルカは足早に教員室を出て受付所に向かった。 今日、七班は任務だっただろうか。ほんの少しでもカカシと話をする機会を見つけられ ないものだろうか。 イルカは祈るような気持ちで受付所の扉を開けた。 |
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ヲトメカカシ発動。 ・・・家庭内暴力には違いないけれど。(笑) いや、暴力と言ったらいけませんね。夫婦で組み手。 お互いに高めあう夫婦。・・・理想v んでもってオクサンにフッ飛ばされるダンナ。 きっと受身も上手くなるに違いない。 元々打たれ強い男だし。頑丈だし。 |