Kaleidoscope−3
捉えた、と思ったのはほんの一秒にも満たなかった。 彼の指は虚しく空を切り、代わりに脇腹に衝撃が走る。 咄嗟に反応して身を捻ったおかげで膝をつくような醜態は免れた。 相手はもうアスマの間合いにはいない。 ふう、と思わず吐息をつくアスマに、相手は少し苛立ったような声を上げる。 「アスマ! 手加減してんじゃねえっ!」 誰が手加減なんかするかよ、このクソアマ、とアスマは胸の中で毒づいて脇腹を擦った。 「……あー…ちっと休憩だ、カカシ。結構効いたぜ、今の蹴り」 カカシは両手を腰に当てて「ええ〜?」と不満げに鼻を鳴らす。 巻物をきっちりと装備した胴衣にクナイホルダー、腰嚢までつけた完全武装。 実戦を想定した組み手だった。 「ア〜スマったら! 真面目にやってよね〜」 アスマは地面にどかりと腰をおろして煙草を取り出す。 「やってるぜ。…ったく、それだけ動けりゃもうリハビリなんて必要ないだろ」 カカシは口布の下で唇を尖らせた。 「アスマ、ホントに真面目にやってた?」 「お前相手に手加減なんか出来るかよ。…怪我すんのはイヤだからな。いくらお前がリハ ビリ中だって」 カカシは微かに首を傾げる。 「…………んじゃアスマってば弱くなった?」 ぶほ、とアスマは煙草を噴き出した。 「………ンだと、コラ」 「だ〜って、手応えがさあ……」 アスマは目を眇めた。 確かに、カカシに組み手の相手を頼まれた時は少し手加減してやる気でいた。 カカシの腹はつい最近まで大きかったのだ。その中身を外に出してからもまだ日が浅い。 そんな彼女に本気を出すのも大人気ないと。 だが、最初の一撃でもうそんな気は瞬間的にどこかへ吹き飛んだのだ。カカシの動きは、 以前よりキレがあると言ってもいい。 「…お前、夜中に特訓でもしてたんじゃないのか?」 何気ないアスマの問いかけに、カカシはあっさりと肯定の仕草をする。 「うん、少しずつ身体慣らさなきゃって、庭でイルカ先生に夜、相手してもらってたんだ けど……」 そこでカカシは嬉しそうに両手を頬に当てた。 「わあ。あの人やっぱり強いんだ〜嬉しいな〜」 アスマは眉を顰める。 「どういう意味だ?」 ふふ、とカカシは微笑んだ。 「今の脇腹への蹴り。…彼ならたぶん、喰らわないよ」 「…ほう? お前は今みたいな蹴りを本気で亭主にかますのか?」 もしもまともにあの蹴りを喰らっていたら、最低でも肋骨を何本か持っていかれただろう。 最悪の場合内臓破裂の可能性もあるような攻撃だった。 そんな危険な蹴りをカカシがイルカに仕掛けるものか、とアスマは思った。 「え? やだなあ、アスマ。何言ってんのさ。―――やるに決まってるじゃない。ま、彼 は前線に出る中忍に比べたら場数踏んでないからね。実を言うと、オレも最初は本当に肩 慣らしのつもりで相手してもらったんだわ。…でもね、何日かやってるうちにマジになっ てきちゃったんだ〜…結構強いんだもん、あの人」 (…そうか、やるのか。―――どんなに魔が差しても浮気だけはするなよイルカ。でない と女房に本気で蹴り殺されるぞ…) 「ほお〜お? そーか、イルカせんせはそんなに強いか。……面白れえ。俺も一度お相手 願おうかな」 からかうようなアスマのセリフに、カカシは冷笑を浮かべた。 「やってみれば? アンタ、オレが彼を過大評価しているとでも思ってんだろ。あの人相 手だったらオレが無意識に手加減するとかさ。……確かにオレは彼を殺す気でなんかやっ てないさ。…でも、倒すつもりでやってる。でなきゃリハビリにならない」 ふむ、とアスマは顎を撫でた。 子供の寝た真夜中に庭で真剣に組み手をする夫婦。―――それも今の話では尋常なレベル ではない。 (……そうか。なるほどねえ…そりゃ面白れえ) つまり。 今の話がカカシの誇張でなければ、イルカは女房の相手をする事で『伸びて』いるのだ。 (…要するにあの先生、まだ潜在能力があるって事だな。…教師やるには必要のない『力』 だったから、あの呑気者は気づいていなかったんだろうが……カカシと戦りあっているう ちに芽が出てきたってとこだろう…) イルカの若さが幸いした。 加えて、一見大人しそうに見えるが、あれでなかなか気が強い。 アスマは最初に間近で見たイルカの眼光を思い出す。上忍のアスマ相手に臆することなく 睨み返してきた。あれは、カカシとまだカカシの腹の中にいたチドリを守ろうとして火影 の奥の間に飛び込んできた時だ。 肝の据わった男なのか、ただの怖いもの知らずのバカなのか。 カカシのような女に手を出して孕ませてしまった辺り、その両方だとアスマは思うが、そ の後イルカは彼なりにきちんとけじめをつけたし、これからも自分の責任を放り出したり はすまい。その点、アスマも彼には一目置いている。人間的には信用の置ける男だ。 そんなイルカが忍としての才をまだこれからも伸ばせるのだとしたら、これは拾い物では なかろうか。 写輪眼のカカシという木ノ葉の宝玉。 彼女の夫となった事で、イルカは否応も無く里の中枢に関わっていかなくてはならなくな る。人間性も大事だが、何か事が起こった時に役立たずの忍では困る。強いに越した事は 無いのだ。 だが、今後もしも彼が自分の伴侶にふさわしくない男だとカカシ自身が判断したら、彼女 は彼を切り捨てるだろう。別れて、二度と会おうとはしないはずだ。 (…とは思うんだがね…今までのコイツなら。……最近ちっと自信ねえなあ、コイツのリ アクションに関しちゃ。ガキ産んでからちぃっと変わってきちまったからな……) まあいい、とアスマはひっそりと微笑を浮かべた。 カカシの変化も悪い方向へ行っているわけではなさそうだから。 イルカの持っている真っ当な常識やものの考え方に感化されて、随分と彼女も常識的かつ 柔軟な思考を持つようになってきている。子供を得た事で、視野も広がっているらしい。 この夫婦が一緒にいる事でお互いを刺激し伸ばしあっているなら、理想的だ。それは本人 達のみならず里の為にもなるのだから。 (お。…そうだ) ぷかあ、と紫煙を吐き出しながら、アスマはちょっと気になった事を訊いてみた。 「カカシ今お前、『倒すつもりでやってる』って言ったが、まさか実際倒しちゃいまいな? イルカを」 え? とカカシは座っているアスマを見下ろした。 「………倒してるけど?」 イルカの同僚達は彼を遠くから気の毒そうに眺めていた。 ここ一ヶ月ほどの間に彼の顔や身体には少しずつ傷や痣が増えてきていたからだ。それ程 酷いものではないのだが、それは日常的に彼が傷を負うような事態に遭遇していることを 示している。 彼が授業などで席を外すと、教員室の中にはヒソヒソと小声が飛び交う。 「なあ、見たか?」 「見た見た。……今日は、左の腕に痣が増えてたぞ」 「それだけじゃないって。目立たなかったけど、顎の際のところに昨日は無かったバンソ ーコがだな、ぺたりと」 彼らは顔を見合わせる。 「あれって…やっぱり……夫婦喧嘩…かなあ」 彼らはイルカがその大人しげな見かけほど柔和でのほほんとはしていない事を知っている。 出来れば怒らせたくはない男だし、まともに仕合っても彼から一本取るのは難しい。 そんなイルカがこうも毎日のように傷を増やす原因など、他にはあまり考えられない。 「…ヤツの女房って、すげえ美人だけどカカシ上忍をして『怒らせたら自分にも止められ ない』って言わしめた女傑だってウワサだし……」 「ウワサじゃねえよ、それ。アイツの結婚式ん時カカシ上忍がそう言ったのオレこの耳で 聞いたぜ」 「カカシ上忍や猿飛上忍なんかとも縁故があって、しかも強いんならそのイルカの女房も 上忍クラスだって…ことだよな」 ヒソヒソと男達の推測は続く。 「どういう経緯でイルカみたいなごく普通の中忍がそんなおっかねえ女を娶るハメになっ ちまったんだろうなあ……いくら美人だって……俺なら願い下げだわ。俺はこう…何て言 うか、ほわんとした暖かい雰囲気の…側にいるだけで安らいじゃう感じのコが理想だから なー。別に美人じゃなくても、笑顔が可愛ければOKだし!」 誰もテメーの女の好みなんざ聞いてねえ、と周りは彼を黙殺したが、『おっかない女房は願 い下げ』というくだりには皆大いに同感だった。 「け…喧嘩ならまだいいけど……か、家庭内暴力…とか」 「うげっ…亭主虐め?!」 うわあ可哀相……と、事の真相を知らずに怪我の原因を亭主虐めだと勝手に決めつけた彼 らは深くイルカに同情した。 一方、イルカは昨夜の組み手を頭の中で再現しながら反省していた。 (カカシさんは俺よりもリーチが無いと思って油断したな…もっと間合いを取らないと簡 単に懐に飛び込まれちまう。……それにしても、あの細い腕でなんていう威力だ。…さす が、上忍だなあ……) もっと、真剣に鍛えないと。 カカシに「組み手の相手にもならない」と思われたくない。 イルカは別にカカシを越えたいとか倒したいとか。そこまでは今のところ考えてはいなか った。ただ、やはり男として女房に『役立たず』だと思われてしまうのは悔しいし、単純 に忍としてもっと己を強くしたいという気持ちがある。 彼女を育てた四代目には到底敵わないだろうが、少しでも男としての器量を近づけたいと 思うのだ。それは、この忍の里においては『強くなる』という一点に他ならない。 あの綺麗な人と可愛い息子を守っていく為にも、強くありたい。 そこでイルカは組み手の後の事もうっかり思い出してしまい、ほんのり赤面する。 (イカン、思い出すな俺!) 組み手の後、風呂場で汗を流した。そこまではいい。 その後、大した怪我では無いからとカカシの手当てをやんわりと断わったら、何を思った のか彼女はぺろりとイルカの傷を舐めたのだ。些細な傷など舐めておけば治る、とは昔か ら言い古されたフレーズだが。 自分が舐めるのと、愛しい彼女に舐めてもらうのでは雲泥の差。―――というか、その感 触はダイレクトに若いイルカの身体を刺激してしまった。 カカシは自分が怪我をさせてしまったのを悪いと思っているのか、熱心かつ丁寧にあちら こちらの傷を舐めてくれて。カカシは誘ったつもりなど無かっただろうが、イルカにとっ てはこれ以上無いようなお誘いで―――結局イルカは辛抱出来なかったのである。 組み手で昂揚していた精神状態も手伝って、その日は大人しく寝ようと思っていた己の心 積もりなど簡単に蹴り飛ばし、イルカは彼女を抱いてしまった。 その時のカカシの反応を思い出しただけで下半身に血が集まるような気がする。 (ダメだろイルカ! 仕事中だ仕事中!!) ぶんっと頭を一振りして煩悩を追い払ったイルカは、ふと表情を曇らせた。 (…カカシさんは大丈夫だと言ってたけど…仕事の後、チドリの面倒を見てそれから俺と 組み手をやって、疲れていただろうに……俺ときたら、更に彼女を消耗させるような事を …今日は精のつくものを食べさせて、早く休ませなきゃ…ああ、俺ってダメだなあ…) 無意識に顎のバンソウコウを指でなぞり、大きなため息をつく。 そのイルカの憂えている表情と仕草を偶然目撃した同僚がいた。 「…やっぱり……!」 何故かそこで彼の悩みは『家庭内暴力』なのだという事が決定事項になってしまい、その 噂がアカデミー内でまことしやかに流れるようになってしまった。 知らぬは本人ばかりなり。 イルカにとって誠に不幸だったのは、その噂を彼より先にカカシが耳にしていた事だった。
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アスマお兄ちゃんは、カカシさんが女としての自分にとてもコンプレックスを持っている事は知りません。 だからああいう考え方をしてしまいます。 カカシさんは自分が彼にふさわしくないと思う事はあっても、逆は考えないと思うのですが。
そしてガンバレ、イルカ先生。 |