「………今日は、やめておきます」
子供達を寝かしつけた後、庭に出ようとしたイルカは妻を振り返った。
「…どうしました? 体調でも悪いですか? カカシさん」
夜、僅かな時間でも庭で組み手の稽古をするのは、二人の日課だった。
それは、御前試合に関係なくチドリが赤ん坊の頃からずっと続けられている。中断していたのは、第二子チハヤがお腹にいた妊娠期間と、出産した後しばらくの間だけだ。
カカシは違う、と首を振りかけてから、思い直したように「ええ、まあ」と答えた。
イルカはほんの少し、探るような眼をした。
「………大丈夫ですか? どんな風に調子が悪いんです? ツナデ様に診て頂きますか」
カカシは慌てて首を振る。
「いや、そんなすっごく悪いってワケじゃ………ちょっと、気が乗らないかな〜って程度です。…えーと…そう、…もう、眠いし。…ね?」
「………そうですか。御前試合を前に、無理は出来ませんね。身体を休めておくのも大切な事です。…では、先に休んでいてください。俺は一人で走り込みでも………」
「えーっ! ダメです! それじゃ意味が………」
あ、とカカシは口元を覆う。それを見たイルカは、苦笑を浮かべた。
「…やっぱり。…俺を気遣ってくれたんですね。………俺は、平気ですよ」
カカシは、イルカの背にそっと身を寄せた。
「………だって………最近すっごく忙しそうなんですもの。………御前試合なんかなくたってイルカ先生は忙しい人なのに、それに輪をかけて大変そう。………今日だって、仕事サボって抜け出したツナデ様を探しに行った挙句、そこで余計な仕事もさせられたって聞きましたよ? いいから、今日は鍛錬ナシです。………ねえ、もう休みましょう?」
「カカシさん………」
イルカは手を伸ばし、肩越しに彼女の髪を撫でる。
「…本当に、俺は大丈夫ですよ。…でも、カカシさんを心配させるのは本意じゃないですから、言う事を聞きましょう」
カカシはホッとしたように笑みを浮かべた。
「…じゃあ」
「ええ。…今夜はもう休むことにしましょう。ああ、その前に家の中で軽い柔軟をするくらいならいいですよね」
もちろんです、とカカシは頷いた。
ストレッチをするにも、独りでやるよりも二人で組んでやった方が効率いい。
筋肉を伸ばしながら、イルカはツナデ捜索の時の出来事を話した。
「………それで、城下でツナデ様を捜している時、女の子がでっかい男に押されてね、転びかけているのを見かけたんですよ。で、咄嗟に手を貸したんですが。…あの女の子、たぶん鉱のお客人ですね」
カカシは身体を起こし、訝しげに首を捻った。
「…え? 何で鉱のお客さんがそんな所に? …しかも、女の子ですか?」
「ええ。二十歳前くらいのお年頃のお嬢さんでした。…見たところ、従者もいないのでちょっとおかしいとは思ったんです。…あのご様子だと、お忍びで城下に遊びに出ていらしたのかもしれません。………本来でしたら保護して、ご逗留先にお送りしたかったんですが。…こちらも取り込み中だったし、どうやら彼女お一人ではなく、お連れがいらしたようでしたので、そのまま………」
「連れ?」
ええ、とイルカは頷いた。
「『シンジュ殿』と彼女を呼ぶ男性の声が聞こえました。………その男の姿まで確認しなかったのは、俺の落ち度です」
「二十歳前くらいの若い娘さんで、名はシンジュ、ですね。………覚えておきましょう。その子が無事だったら、アナタも安心出来るんでしょ?」
「…すみません」
「いえ、何となくオレも気になりますし。………シンジュって、あのネックレスとかに使う白い綺麗な珠の事ですかねー…」
イルカは、少し眼を伏せて彼女を思い出す。
「…かもしれません。…やはり、北の国の方は色が白いですし。彼女もお生まれになった時は本当に真珠のような赤ちゃんだったのかも。…カカシさんと同じくらい、白かったですから。…ん? いやカカシさんの方が白いかな」
「や………せんせ、そんなフォローしなくっても………」
と、言いながらもカカシは何となく嬉しげだ。
男の口から出る『色が白い』は、女性への褒め言葉。
妻の前で、他の女性のみを褒めるような愚を犯さなかったのは幸いであった。尤も、イルカはそれを計算づくでやっているわけではなかったが。
「フォローじゃないですよ。本当のことです」
普段、肌の露出が殆ど無いカカシは、当然日焼けもしない。
『顔の三角焼けなんてしたらみっともないでしょ!』という紅の忠告に従って、一応顔の日焼け止めくらいは使うようにもなった。確かに、口布と額当てで隠れない部分だけ焼けたら、面白いことになってしまう。そんな『みっともない顔』を、イルカに見られるのは嫌だという、遅ればせながらの乙女心である。
それ以外は全く化粧気も無く、他の女性のように身を飾ることには無頓着なカカシだが。
装いを凝らせば、眼を見張るほど美しくなることをイルカは知っている。
(―――真珠、か………)
彼女の細い首と白い胸元に、ああいう珠はよく映えるに違いない。
カカシが自ら宝飾品を欲することはこの先も皆無だろうが。
もしも機会があったら、真珠の首飾りを贈ってみたいとイルカは思った。
そして、それで装ったカカシを見てみたい。
きっと、誰よりも似合うことだろう。
◆
鉱から客人達を載せた船は予定よりも早く火の国に着いてしまったが、さりとて御前試合を繰り上げ開催するわけにもいかない。
火の国側は連日の宴で歓迎の意を表していたが、宴は主に夕刻からだ。
主だった形式的な挨拶や会議が消化されてしまうと、昼間の予定にぽっかりと空白が生まれてしまった。
彼らに退屈な思いをさせてしまうのでは、と火の国の文官などは気を揉んだが、鉱の武人達は気候の違う土地の空気に身体を慣らす時間的余裕が出来て、かえって好都合のようであった。
試合に出場する八人の武人達は、各々の調整に余念が無い。城の庭を借りて、普段と変わらぬ鍛錬を続けていた。
「やあ、精が出るね」
片手倒立をしていた武人が、慌てて姿勢を元に戻す。
「これは鉱山王! おいでになっているとは知らず、ご無礼を」
「いや、邪魔してすまない。…ちょっと様子を見に来ただけだから、気にしないで続けて」
木刀で素振りをしていた厳つい顔の武人は、不敵な笑みを彼に向ける。
「…貴方も出場なさって、若い連中に勝負事の手本をお見せ下さると嬉しいんですがね」
男は苦笑して首を振った。
「まさか。…私が戦場に立っていたのは昔の話だよ。それに、貴君らと違って忍と素手でやり合う自信は無いからね」
「ご冗談を。かつて私は貴方の背を見ながら戦ったのですぞ? 腕前は十分に存じあげている」
「…だから、昔の話だろう? ここのところ、ロクに身体を動かす機会も無い。足腰が萎えないように気をつけるので精一杯なんだ。………今回は、貴君らの腕前を見せてもらうのを楽しみにしているよ、ゲンブ中将。…皆も、日頃の成果を披露するまたと無い機会だからね。………ここだけの話、同行しているご婦人達の中には、今回の試合を将来の伴侶を選ぶ参考にしようと考えている姫君もおいでのようだよ」
ざわ、と武人達の空気が揺れた。
出場する武人のうち、半数以上がまだ独身だ。武芸に秀でている点を認められ、逆玉よろしく姫君と結ばれて貴族の仲間入りをした武人の例は、過去に幾多もあった。
だが、鍛錬に明け暮れる日々を送っている彼らには、見目良い姫君とのロマンスなど夢のまた夢。普通なら出会いの場である社交場とは縁の無い者も多い。
これは願っても無いチャンスなのだと示唆された彼らは、思わず色めきたってしまった。
ゲンブが咳払いをする。
「………妙な煽り方をなさらないで下さいますかな、白牙公」
「ははは、ごめんごめん。…ああ、そうそう。付け加えるなら、品性も大事らしいよ? 強いだけではダメなんだそうだ。難しいね、女の子は」
じゃ、頑張って、男は手を振って行ってしまった。
彼の背中が建物に消えると、若い武人がため息をついた。
「………あの方が鉱山王ですか。…こんなに近くでお目に掛かったのは初めてです。七大貴族の中でも、偉い人なんだって聞いていたので……その、…もっと、近寄り難いお方なのかと思っておりました。………あの…中将。あの方、元は武人なのですか?」
仲間の一人が、その若者の頭を後ろからはたいた。
「…もの知らず。鉱の武人を名乗るなら、近代の戦史くらい勉強しておけ。…今は鉱山王として七大貴族の一角を担っていらっしゃるが。あの方は元々、名のある武人だ。隣国に我が鉱の国が攻め入られそうになった時、国主様の命を受けて大将として指揮を取り、国境を護り抜いた英雄だぞ。…だがお父上である先代の鉱山王が亡くなった時に、軍を辞して家にお戻りになってしまった。………そうでしたよね? 中将」
うむ、とゲンブは頷いた。
「…私にとっては、鉱山王ではなく白牙公だな。………馬と剣の腕前で、彼を凌ぐ武人に私はまだお目に掛かったことが無い。武人である為に生まれてきたような方だと思っていたが………やはり、多くの領民を見捨てるような真似は出来なかったのだな。あれだけ実家の事には無関心に見えた方が、あっさりと軍を去って家業を継いでしまわれた。………そして今は、武力ではなく経済で鉱の国を護ってくださっている」
へえ、と若い武人は感心した。
「そうだったんですかー。そういや、歩き方が何となく他の貴族様とは違うなあ、とは思ってたんです。武人だったからなんですね。………しっかし、地位もお金もあってあれだけ男前なのに、独身って………もしかして、女嫌いなんですかね? アッチの趣味とか」
今度は、ゲンブ中将が無言で若者に拳を喰らわせた。
彼が若い頃、戦場で命知らずな戦い方をしていた理由を、ゲンブは知っていたのだ。
「お待ちくださいませ、お館様。…どちらにいらっしゃるおつもりですか?」
主の姿を見かけた使用人は、足早に駆け寄った。
堂々と城門の方へ歩いていた男は、肩を竦めて振り返る。
「おや、見つかってしまったか。……んー、実は、木ノ葉の里を見てみたいんだが………ダメだろうかね。…御前試合が始まる前に里に入ったらマズイのは、出場者だけだろう? 私達見物人は、特に禁止されていなかったと思うんだけど」
「…それは、こういう形で賓客として招かれている場合、特に用も無いのに一人で忍の里に行こうとは、普通思わないものだからです! お館様。…木ノ葉の里へは、試合が始まる明後日になれば行かれるではありませんか」
うん、と男は頷く。
「試合が始まれば、ね。………そうしたらまた決められたスケジュール通りに動かねばならないだろう。自由時間なんて殆ど無いよ。…我が鉱の国には忍はいない。国を護る武力としての『里』というシステムに興味があるんだ。…私は、取り繕った顔じゃない、木ノ葉の実態が見たい」
初老の使用人が主を思いとどまらせるべく、口を開こうとした時。
門の陰から、スッと忍姿の男が姿を現した。城の警護の忍だ。
「………鉱の、お客人。この城門の中はご自由にされても構いませぬが、どうか外にお出掛けになるのはご遠慮頂きたく。………それに、隠れ里は外国のお方が勝手に出入り出来ない決まりになっております。外の方が我が里に任務を以来されにいらっしゃることは、稀にございますが。その際も、きちんと手続きをして、許可を申請して頂くのです」
「…ふむ。では、外国人は依頼が無いと里には入れてもらえないわけかな?」
そういうわけではございません、と忍は首を振る。
「ですが、観光で里にいらっしゃる方は更に稀ですから。…どなたかお知り合いでもいらっしゃるのなら話は別ですが」
知り合い、と聞いた男はポンと手を打つ。
「知り合いね。…うん、いない事は無いな。………でも、今はお忙しいだろうしなあ。やはり、ご迷惑か………」
「失礼ですが、それは忍の者ですか?」
男はにこやかに頷く。
「ああ。…ツナデ殿と仰る、とても美しいご婦人だよ」
かくして、『鉱の国の要人』の口から火影の名前を聞いた忍は、大急ぎで事の次第を里のツナデに伝え。
あの男に好き勝手な行動を取られるよりはマシだ、と判断したツナデは、迎えの者を寄越したのだった。
どうも、あの鉱山王とやらは見かけ通りの優男ではない、とツナデは気づいていた。
他の賓客達とは、どことなく纏っている空気が違う。
身分の高さの問題ではない。あの男は、どちらかと言うと武人達に近く、更に言えば武人達よりもある意味ツナデ達に―――忍の者に近い空気を持っていた。
妙に行動力がある点も見過ごせない。
つい先日、宴をサボったツナデが彼と遭遇した日だとて、決して城の警備が緩かったわけではないのだ。
それを、あんな目立つ令嬢連れで、まんまと彼は城下へ抜け出てしまった事になる。
特に騒ぎを起こしたわけではなし、その件については事を荒立てずに―――つまりは『無かったこと』としてうやむやになってしまったが。
放っておいたら、何をしてくれるかわからない注意人物としてツナデは認識していた。
なら、こちらから護衛をつけ、監視下に置いておいた方が安心と言うものだ。
運の悪くツナデに捕まり、『ワガママなお客』のお守を押し付けられた上忍は、かったるそうな態度を隠しもしなかった。
「…あー、鉱山王というのは、貴方ですかね? 俺は、猿飛アスマと申します。ツナデ様から、ご案内するように言われてますんで。…ま、俺が一緒なら大抵の所へは入れますし、面倒な連中が寄ってくるコトもありませんや。どうぞ、ご安心を」
大柄な忍を見上げた男は、ニコリと微笑んだ。
「面倒なことを言い出して、悪いね。えっと、猿飛アスマ殿。 …よろしく、頼む」
(09/06/01) |