その雨が降りだした時も、カノウは心配しなかったわけではない。
だが、若様ももう妻を迎えた一人前の男。子供ではないのだから、こんな通り雨、何処かで雨宿りをしてやり過ごしているはずだ。
そう思って、動かなかった。
だが、雨があがり、しばらく待っても若い夫婦は戻らない。
雨があがって一時間。
カノウは、もう待てなかった。
ピクニックの道具もお茶の支度もすべて片付けて屋敷に持ち帰るように女達に命じ、その運搬を手伝う使用人以外の男達に手分けして若様達をお捜しするように指示した。
激しい雨の後だ。
ひづめの形跡を捜すのは難しいだろう。
自分が捜しに行きたいのは山々だったが、誰かがここに残って報告を受け、指示を出さねばならない。その役目はカノウ以外には出来ないことだ。
じりじりしながら彼は報告を待った。
もしくは、二騎の騎馬影が姿を現わすのを。
そうして、更に一時間近く経過した時。
捜しに行かせた若い使用人が、血相を変えて駆け戻ってきた。
どもり、つっかえながらの彼の報告を聞き、カノウも己の血の気が引くのを感じた。
「………若様………」
最初は、捜索に向かった者達もサクモ達がその小川を越える事は無い、と思っていたらしい。
翠鉱家の領地内だけでも、十分遠乗りは楽しめるからだ。
だが、眼のいい者が小川の縁にひずめの跡を発見した。
土の抉れ方、草の向きから二騎がこの小川を跳び越したと判断し、捜索の手を広げたのだ。
小川を飛び越して領地を出たのは、おそらく先にある湖に向かったからだろう、と推測した彼らは森に入った。
森を抜けるのが、湖への最短コースだからだ。
それに、この森には森番の小屋がある。
突然の雨に見舞われた若い主人達が、そこを目指すのは至極当然に思われた。
森番小屋の脇にある厩舎に、見覚えのある馬達が繋がれているのを発見した彼らは胸を撫で下ろした。
やはり、ここで雨宿りをしていたのだ。
きっと、森番の老人に茶でも振舞われてつい長居をしてしまったのだろう、と。
だがその楽観的な憶測は、小屋の扉をノックして開けた瞬間に崩壊した。
血臭。
床に転がる男達の骸。
そして、血まみれになって座り込んでいる少年にすがりつき、すすり泣いている少女と、ただ一人その場に立っている男の姿。
森番ではない。森番は、七十を越した老人のはずだ。
「サクモ様…!」
悲痛な声を上げた翠鉱家の使用人達を振り返って、男が口を開いた。
「………止血はしたが、早くきちんと手当をした方がいい。…大した若様だ。この人数相手に、一人で戦おうとした。…いや、実際見事に戦った」
男の言う通りだった。シアンを庇いながらの戦いでなかったら、おそらくサクモはそこまでの手傷を負うことも無く、一人で賊を撃退出来ただろう。
その時、ぐったりと気を失っていたかのように見えたサクモが眼を開けた。
「……お前達、私とシアンを捜しに来てくれた…のか。すまない。……カノウは、いるか?」
使用人の一人が震える声で答えた。
「カ、カノウさんは…指示を出す為にあそこに残っています、サクモ様」
そうか、とサクモは苦しげに息を継いだ。
「……誰か、急ぎ戻ってカノウに伝えてくれ。緊急手配だ。この森の番人を殺害した犯人一味のうち二名が逃げた。人身売買の容疑もある凶悪犯だ。国境と街道を封鎖するよう、警備隊に翠鉱家の名をもって早馬を出せ、と」
使用人の中で一番若い者がすぐに「はい!」と、身を翻した。
残りの者達も、呪縛が解けたかのように動いて小屋の中に駆け込んだ。
「サクモ様! シアン様! お怪我を……!」
シアンは首を振った。
「わたくしは、大丈夫です。でも…この人が………」
「………私も、大丈夫だ。大した怪我では………」
シアンは涙をこぼしながらもキッと顔を上げる。
「どこが大丈夫なのです! こ……こんなに…血が………」
「……君が無事なら、いいんだよ。僕は男だ。…傷痕が残っても気にならないし。………それより」
サクモは、逃げようともせずその場に残っている男を見た。
「………何故、私達を助けた。仲間を裏切ってまで」
男は、苦笑を浮かべた。
「…仲間…と呼べる程の間柄じゃないですがね、奴らとは。…私は、どうしても金が要ったんです。いい儲け口があると聞いて、迂闊にもついて来てしまった。…少しうさん臭い連中だとは思っていたんですが……殺しを平気でやる奴らだとわかった時、手を切った方がいい、と思ったんです。………若様達のことも、スキを見てお助けするつもりだったんですが。…まさか、あんな無茶をなさる方だったとは」
サクモは顔を顰めた。
「………お前は、武人ではないのか。……それも、かなり腕が立つ」
狭い小屋の中で、賊の中の一人がこちらに味方してくれているのに気づいた時、見たのだ。
男が鉱の武人特有の棒術を使っているのを。
「元、です。……今は、ただの罪人ですよ。たった一日とはいえ、あのような連中の仲間になってしまいましたからね。………無理にしゃべらない方がいいですよ、翠鉱家の若様。体力が削られます。私のことなどお気になさらず、早く屋敷にお戻りになって医師を呼んだ方がいいです。……私は、逃げはしません」
男の眼に、純粋にこちらを案じている色を浮かんでいるのを見たサクモは、眼を閉じて頷いた。
「………うん。わかった」
彼は、先程まで賊の一味だった男を信用したのである。
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ここまでの話をカカシにかいつまんで聞かせたサクモは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「君にだから話すけど。……その時、私達の味方をしてくれた男が、ゲンブ中将。君の、対戦相手だった武人だ」
カカシは、厳つい雰囲気の大柄な武人を思い出した。
「………彼が、どうして?」
生粋の武人に見えた。
職にあぶれ、金欲しさに危ない橋を渡るようなタイプには見えない。
「後で聞いた話だが。……彼の、兄という人が博打好きでね。借金を重ねた挙句、違法の賭場でケンカ騒ぎを起こして相手を死なせてしまった。彼はそのとばっちりで、正規軍にいられなくなってしまったんだよ。その時、彼の父君がご病気で。彼は、父親の薬代の為に手っ取り早く金を得ようとして、胡散臭いと思いつつも儲け話に乗ってしまったのだそうだ。……だが、息子が罪を犯して手に入れた金で延命しても、父親は喜ばない。かえって悲しむだけだ。そう思って、ゲンブは連中と手を切ろうとしていたのだって。…そこに、私と彼女が飛び込んできてしまったというわけ」
「………彼にとって、貴方達を助けるのは当然の行為だったんですね。………もしかして、彼が正規軍に戻れるように力を貸したのは貴方では?」
サクモは軽く肩を竦めた。
「だって、彼自身に落ち度は無かったわけだし。…心ならずも犯罪者の一味に加わってしまったという過失は、私達を助けたことに免じて罪に問わないという事にしたんだ。森番を殺したのは彼ではないし。それに、彼のあの力は、勿体無いと思ったからね。…君には負けてしまったけど、強いんだよ? 彼」
わかります、とカカシは頷いた。
「彼は、いい武人だと思います。…それに、中将という地位は、彼自身の実力で得たものでしょう?」
「うん。………戦で武勲を立て、国を護ったという功績に対して、ね」
カカシは、少し首を曲げて父親を見上げた。
「………貴方は? 貴方も武人だったと聞きました。武人達は、貴方を鉱山王ではなく白牙公、と呼ぶ。武人としての通り名でしょう? 正規軍ではどういう地位にいらしたのです?」
「私かい? ………父が亡くなって本格的に家業を継ぐ為に軍を退いた時、大将だったよ。皆、驚いていたな。あんまりにもさっさと軍を辞めたから。軍にいた頃の私は、家業には無関心に見えたらしくて。…そんな事、無かったんだけどね。カノウがきちっとフォローしてくれていたから、正規軍で仕事している時も鉱山のことは把握していたし」
火の国における軍事的組織は木ノ葉の里に他ならない。周辺の、隠れ里を抱える忍五大国も同様だ。
鉱の国には忍はおらず、代わりに国を護る武人達からなる正規軍がある。
大将という地位は、忍であるカカシには馴染みの無いものだったが、軍の中でも相当高いということくらいはわかった。
それは、サクモの実家が七大貴族のうちのひとつという名家であることも大きな要因だっただろうが、彼自身が武人として力があったからだろう。
己の父が、強い男だというのはカカシにとって嬉しいことだった。
「それは、いつですか?」
「軍を退いた時? ええと…私は三十だったかな。武人としては、これからという年齢だったけど。……長い闘病の末、父が……君のおじい様が亡くなる時に、約束したからね。当主として、領地も鉱山も護っていく、と」
カカシは、自分にも祖父母がいたのだという、ごく当たり前のことを不思議な気持ちで聞いていた。
「……そうだったんですか。………それで、その後どうなったんですか? お怪我は、酷くはなかったのですか?」
「ああ。………今思うと、冷や汗ものだね。我ながら、無茶をしたものだと思うよ。…でも、必死だったんだ。………彼女を護らなきゃいけない。彼女だけは、と。………正直、彼女の前で殺生なんかしたくなかったのだけどね。………私は、屋敷に運ばれる途中で意識を失って………次に気づいた時は、自分のベッドで寝ていた。…傷口から雑菌が入ったらしくて、高い熱が出てしまって。………でも、これが文字通りの怪我の功名になったと言うべきか。…彼女がね。シアンが、ずっと私の看病をしてくれて。…それこそ、周囲が止めても聞かず、私の熱が下がるまで寝ようともしなかったそうだ。………そうしてね、それから彼女は自分の寝室には戻らずに、私の部屋で一緒に眠るようになったんだよ」
その後は詳しく聞かずともわかる。
若い夫婦は、やっと本当の意味での契りを結べたのだろう。
サクモは、髪を揺らして空を見上げた。
「………思えば……あれから彼女が身籠り、君が生まれて……そして、君と彼女がいなくなってしまうまで。その、たったの二年あまりの年月が……私にとって、一番幸福な時期だったな」
そして、まだ二十歳になるかならないかという若さで妻子を失ったこの人は。
それからずっと、独りで生きてきたのか。
カカシは、唇を噛んだ。
「………オレの、所為ですか」
「ん?」
「……………貴方が、再婚しなかった理由です。…オレの生死がわからなかった所為で、貴方は次の伴侶を迎えられなかったのですか」
サクモは、「んー」と少し考えた。
「………いや、ウチみたいに家の格式が妙に高かったり、財産を持っていたりするとね。相手を簡単に選べなくてねえ。大抵、利権やら政治的な思惑やらが絡むんで、面倒だったっていうのも、ある。………まあ、君の言う通り。最愛の娘の生死がわからないのに、ほいほいと後妻を迎える気になれなかったっていうのは…あるけどね。………それはもう、済んだ話だ」
サクモは、遠慮がちに手を伸ばしてカカシの髪に触れた。
「………大切なのは、これからだろう? 君が、生きていた。…生き別れになっていた娘が、あの小さな赤ん坊が、こんなに綺麗な女性に成長して、いい青年を夫に持って、可愛い子供達を生んでいた。………私に、孫を抱かせてくれた。………私は今、とても幸せだよ」
ありがとう、と微笑む父に、カカシは複雑な思いを抱いた。
話を聞いて、彼の事を少しずつ知っていくうちに。
最初に感じていた壁や抵抗感があまりなくなってきてしまったのだ。いや、彼の事を少し身近に感じられるようになってきた、と言うのかもしれない。
父と母の、あまりにも短い夫婦生活。
そしてあまりにも短かった、親子三人での幸福な暮らし。
それを思うと、イルカや子供達との親子四人で暮らす、今の幸せな自分を振り返った時、申し訳なさすらカカシは感じてしまう。
(………オレは……イルカ先生に傍に居てもらうようになってから、凄く楽になった。…チドリとチハヤの存在も、心の支えになっている。………でも………この人は………)
カカシが負っている忍としての責務と、サクモが肩に担っている責務は、質も種類も違う。
だが、重いことに違いは無い。
その重さに彼は独りで耐えてきたのだ。
カカシよりもずっと、長い時間を。
頭が下がる思いがした。
カカシは躊躇いながら手を伸ばして、サクモの腕にそっと触れた。
「…その……母のこととか……色々と知る事が出来て、嬉しかったです。………話してくださって………あの………」
カカシは次の一言を言う前に、呼吸を整えた。
心臓がドキドキする。声も、震えそうだ。
でも、とカカシは思った。
二十数年の間、行方がわからなかった自分を忘れず想い続けていてくれた、この人への感謝と今の自分の気持ちを伝える為に、言わなくては。
カカシは思い切って、顔を上げた。
「………ありがとうございました。………お……おとう、……さん」
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