それは予期せぬテンペスト −23
カカシは宿の中庭で、湯上りの火照った身体を夜風でさましていた。 整備された街道を走り、宿場町で休めるうちは風呂に入ることも出来るが、この先ずっとそういう贅沢が許されるとは思えない。 のんびり風呂に入れるうちは入っておこう、とカカシはいつもより長めに湯に浸かってしまった。 おかげで、なかなか汗が引かない。 チャクラコントロールで発汗もある程度抑えられるが、カカシは自然に任せる事にした。 汗も、体温の調節に必要だから出るのだ。無理に抑えることが身体にいいとは思えない。 「………子供達は?」 背後から物柔らかに問い掛けられて、カカシはゆっくりと振り返る。 「お風呂に入れたら、すぐに寝てしまいました。初めての馬車の旅で興奮して寝付けないかと思ったんですが……疲れの方が勝ったみたいですね」 カカシと同じ色をした髪の男は、彼女の隣で足を止めた。 「そう。…チハヤちゃんは大丈夫かな。あまり身体が丈夫ではないと言っていたが」 「今のところ。……熱も出していませんし、お腹を壊したということもないです。…馬車の中では、ずっとあの子を見ていてくださったそうですね。…ありがとうございました」 サクモは首を振る。 「ん? いや、だってあの子は私の孫だもの。御礼など必要ないよ。………本当にあの子は、あのくらいだった頃の君によく似ている。…君もね、赤ん坊の頃はよく熱を出したりして…この子は身体が弱いのかと、君のお母さんと一緒に随分心配したものだ。お誕生を過ぎた頃から、少しずつ丈夫になっていったようだけど」 カカシは小さな声で「そうだったんですか」と呟く。 自分が赤ん坊の頃の話を聞くのは新鮮で。同時に少し照れくさいものだった。 「………訊いてもいいですか」 サクモは、「ん?」と首を傾けた。 「どうぞ」 カカシはほんの一瞬躊躇ったあと、口を開いた。 「…その…母のことです。………貴方は今、独身だと伺っていますが。…あの………オレの母親は………」 母親のことはずっと気になっていた。 今まで訊けなかったのは、彼の口から妻の話がまるで出なかったからだ。 もしかしたら、話しにくい事情でもあるのかもしれないと―――その憂慮がカカシを躊躇わせていたのだが。 今、サクモは何の気なしに『君のお母さん』と言った。このタイミングなら、訊いてもいいような気がしたのである。 一方、娘からこの質問を受けることがわかっていたサクモは、ゆっくりと答えた。 「………亡くなったよ。…君がいなくなって、すぐの事だ。………事故でね」 やはり、とカカシは眼を閉じた。 そんな予感はしていたのだ。 「事故………ですか」 サクモは俯いた。 「うん。………階段で…足を踏み外したんだよ。不幸なことに、打ち所が悪かった。………私は………目の前で落ちた彼女を、助ける事が出来なかったんだ。………すまない」 カカシは、すぐに言葉が出なかった。 目の前で、妻を失った。 おそらくは、一瞬の事故だ。誰も助けることなど出来なかったに違いない。 だが、この人はずっと己を責めていたのだろう。妻を救えなかった己を。 「………事故、でしょう? 貴方が悪いわけではない」 カカシは、そっと父親の腕に手を掛けた。 「一番辛い思いをしたのは、貴方です。……オレにも、母にも謝ることはありません」 「………カグヤ………」 カカシは、クス、と微苦笑を浮かべた。 「芥子です。………それより、貴方さえよければ、母の事、教えてもらえませんか? ………話すのがお辛いようでしたら、結構ですが」 「い、いや。…君には、母親の事を聞く権利がある。遠慮することは無いよ。………彼女とは、家同士が決めた政略結婚だった、ということは言ったよね?」 「はい」 サクモは、昔を懐かしむように微笑んだ。 「…彼女…シアンと初めて会ったのは、私が八歳の時だった。………シアンは私よりも二歳年上の十歳。…その日、ご両親と一緒に私の家に来た彼女は、大人同士の話に飽きて庭に出てきて、そこで私と出会ったんだ。私は来客があるのは知っていたけれど、自分に関わりがあることだとは思わなかったので、庭で犬と遊んでいたんだよ」 初めて母の名を聞いたカカシは、胸の中でその名を繰り返した。 シアン。深い青の色を意味する古い言葉だ。 「…その時の私達は、すぐに仲良くなって一緒に遊んだんだ。まさか将来の結婚相手だなんて知らなかったからね。綺麗なお姉さんだと思って無邪気に懐いていたな。…嬉しかったんだ。実の姉達とは歳が離れていたから、歳の近い子供と遊ぶのが。………彼女の方も、私を将来の夫になる男だとは思ってなかったらしい。………いや、男だとも思ってなかった」 「………は?」 「『何であなたはドレスを着ないの? 嫌いなの?』って訊かれて、やっと彼女が私を女の子だと思っていたことに気づいたんだ」 カカシは思わず笑いそうになって、慌てて父から顔を背けた。 「………笑っても構わないよ。その当時の私が男に見えなかったのは本当のことだし。………というかね、それはまだ序の口の話だしね」 「いやあの…ごめんなさい。………序の口、ですか?」 「……小さい頃の二歳差というのは、大きいものでね。それに女の子の方が早く成長するだろう。………私達は、それからも時々会って一緒に遊んだり、勉強したりしていたけれど。常にお姉さんである彼女の言いなりだったよ、私は」 つまり、結婚前からずっと尻に敷かれていたわけか。カカシは大いに父に同情した。 カカシもイルカより年上だが、出会った時が既に大人であった為、年の差を感じることはなかったから。 「婚約したのは…十二歳の時だと仰いましたね。では、母はその時十四歳、ですよね」 「そう。………その時が一番酷かった。白馬の王子様との恋を夢見る十四歳の女の子にとって、十二の男の子なんて全くの対象外だろう? 双方の親に婚約の話を聞かされた時は『冗談でしょう?』って、物凄い反発をしたよ、彼女。私を弟くらいにしか思ってなかっただろうからね。………私は、彼女の剣幕に押されて何も言えなかったし」 もうカカシは笑えなかった。 その時の母の気持ちもわからなくはないし、婚約者に拒絶された父の気持ちを想像すると、気の毒としか言えない。 「………お察しします………」 ハハ、とサクモは笑った。 「ありがとう。………それでも、彼女も貴族の娘だ。親の決めた結婚話に逆らうわけにはいかない。………しぶしぶ、私と婚約したのだけれどね。物陰に引っ張って行かれて、キッパリ言われたよ。『わたくしよりも貴方の背丈が低いうちは、絶対に結婚などしませんからね!』って」 十二歳の男児よりも、十四歳の少女の方が背が高くても、不思議では無い。 今は長身の部類に入るサクモも、成長期に入るまでは歳相応だったのだろう。 それにしても、とカカシは内心苦笑していた。 顔も知らぬ産みの母は、結構気が強い女性だったようだ。父の雰囲気から、何となく穏やかで内気な女性を想像していたのだが。 「それまでは、私も彼女を異性として意識していたとは言えなかったのだけれど。…その時ちょっぴり、悔しく思ったんだね。………私は、彼女と距離を置くことにしたんだ。弟、ではなく、男として見てもらえるようになるまで会わないでおこう、と」 「婚約してからの方が疎遠になったというわけですか?」 「そう。…でも、家にいたらシアンとは会う機会があるのはわかっていたから。思い切って、国から出て留学をしたんだよ。…でもこれは、色々な意味で有意義なことだった。世間を知るいい機会だったし、他国で見聞を広めたことは後年役に立ったからね。あればかりは、屋敷にこもって本を読むだけでは得られないものだ」 なるほどな、とカカシは納得した。 これが、彼の行動理由だ。 サクモは、連夜の城の宴に付き合うよりも火の国の城下町を歩くことに価値を見出し、他の賓客たちが見向きもしなかった木ノ葉の里を自主的に見学した。 それは、何事も自分の眼で見て知識を広げ、体感することで理解を深める為だったのだ。 そして、その彼の行動力が、今現在のこの状況に繋がっている。 サクモは、話を続けた。 「…父が病で倒れたという知らせを受けて帰国するまでだから、三年近く、留学していたかな。………久々に国に戻って、父の代理で出た夜会で、彼女と再会した。……まあ、音信不通というわけではなく、時々手紙は送っていたし、彼女の誕生日には贈り物くらいはしていたけれど。顔を合わせるのは、本当に久し振りで………とても綺麗になっていてね、彼女。………その時初めて、私は彼女を女性として意識したのかもしれない」 それは、母の方もそうだったのではないかとカカシは思った。 十五歳というのはまだ少年の部類に入るが、それでもその三年前よりはかなり成長するはずだ。人によっては、もう大人と同じと言ってもいい体格になる年齢である。 「…その時点で、母の言った条件はクリアしていたのですか?」 「ああ、背丈? …おかげさまでね。初めて、彼女を見下ろしたよ。あれは新鮮だったねえ」 「それで、彼女の評価は?」 「『ずるいわ』って、拳で胸を叩かれた」 「は?」 サクモは、クスクス笑った。 「彼女の中では、私はずっと小さな男の子のままだったんだよ。…それにいきなり見下ろされて、多少動転したらしい。………彼女曰く、『わたくしよりも年下の癖に、男だというだけでどんどん背が高くなるなんてずるい』…だそうだ。自分で言ったことと矛盾してないか? と思ったよ。………再会した途端、私の胸を殴ってスタスタ何処かへ行ってしまったから、まだ足りなかったのかな、とその時は落胆したんだけど。彼女の思い描く恋の相手として、私はまだまだ足りないのかと。………でもね、私がご令嬢方に囲まれていたら、いつの間にか戻ってきて、そこから引っ張りだしてくれたのだよね。『わたくしという婚約者がありながら、何を女性に囲まれて脂下がっているのです! これだから殿方というものは!』と、プリプリ怒りながら」 その場面が眼に見えるようだった。 シアンは、ヤキモチをやいたのだ。 可愛らしい弟としか思っていなかったサクモが、いつの間にか自分よりも大きくなって。 いい男になる兆しを見せ始めた少年に対する照れと恥じらいが、淑女らしからぬ振る舞いを彼女にさせた。気恥ずかしさでその場は逃げたものの、肝心の少年は追ってきもせず、気づいたら若い女の子に囲まれていて―――彼女は、『それはわたくしの婚約者よ!』と瞬間思ったに違いない。彼女の怒りは、サクモへではなく、彼に群がった女の子達に向けられたものだったのだろう。 まんまと彼女は、彼に陥とされたのだ。 「つまり、貴方の作戦勝ちですね」 サクモは軽く肩を竦めた。 「………そうなるのかな? 婚約者として、意識してもらえたということは」 「それからは順調に?」 「いやいや。そうは世の中甘くない。幼馴染みから一足飛びに婚約者というのはね。気持ちが追いつかない部分もあったのだろう。彼女はなかなか、『家同士が決めたこと。だから仕方なく婚約した』という態度を崩さなかった。…照れ屋さんだったのかもね。それから、私の父の病の事もあって、私が成人年齢に達した時に結婚式は挙げたわけなんだけど。………その新婚初夜は、笑い話にしかならないほど情けないものでね。…今でも私はその事でカノウにからかわれているよ」 「……………わ…笑い話、ですか?」 「そう。…結婚式が済んだその夜。彼女は『では、お休みなさいませ』って、さっさと一人で寝室に入って扉を閉めてしまったんだ。ご丁寧に鍵まで掛けて。………私は部屋から閉め出された格好で、途方にくれた末………カノウの部屋に行って、彼のベッドに潜り込んだんだよ」 成人した、と法で定められた年齢に達しているとはいえ、まだ十六歳になったばかりの少年に、強引に年上の花嫁に迫るような真似が出来るはずもなく。 素直に引いて、側仕えのじいや―――彼もその当時はまだ三十代だったはずだから、所謂付き人だろう―――に、頼るしかなかったというわけだ。 結婚したばかりの若様にベッドに潜り込まれて、彼もため息をつくしかなかったに違いない。確かに笑い話だ。 そこまで聞いたカカシは首を傾げた。 「………あれ? でも、貴方が十七歳の時にはもうオレ生まれてたんですよね………?」 「うん、まあ………もうすぐ十八っていう十七だけどね。………実際に夫婦になるには、少し時間が掛かったから。実質は結婚式から二年近く経って、君は生まれたんだ」 「………その状態でどうやって………」 ポツリと疑問を口にした娘に、サクモは苦笑を浮かべた。 「聞きたい?」 「えーと、まあ………出来れば………」 「確かに、あのままでは君は生まれなかっただろうね。………でも、何事にも転機はあるものでね―――」 まさか、親の馴れ初め話を聞く日が来るとは思ってなかったカカシは、興味深く彼の話に耳を傾けた。
(09/11/22) |
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………この話のUPが『いい夫婦の日』って笑える………^^;