遠目に階段の踊り場を見守っていたアスマは、驚いてタバコを取り落とすところだった。
鉱山王が、いきなりカカシを抱き寄せたからだ。
(―――ナニゴトだァ…ッ?)
カカシが珍しく、老山犬のクロガネを口寄せした時も少々驚いたが、話の成り行きで使役する忍犬を召喚してみせたのか、くらいにしか思わなかった。
(オイオイオイ…ッ…まさか………)
アスマは、彼に娘がいて、それがチハヤと瓜二つだという事情は知らない。
だから、彼がカカシの素顔を見たがった事と、今見た行動を結びつけて「そういう趣味だったのか、あの野郎」と思ってしまうのも無理はなかった。
カカシは、何故かすぐに彼を拒絶しなかったが、アスマが見ているうちに彼を突き放し、踊り場から跳んで逃げてしまった。
「………チッ………」
面倒だが、放っておくわけにもいかない。
自分が動かなければ、暗部が動いてしまう。
アスマは急いで鉱山王が佇んでいる踊り場に向かった。
「―――失礼! 何事ですっ!」
アスマは、踊り場の血と、それが彼のものであることに目敏く気づく。
「………カカシの奴が、やったんですか………」
サクモは目許を拭いながら、ゆっくりとアスマを振り返った。
「え………? ああ、これかい…? いや、違う。………この傷は、自分でつけた………」
「………は?」
サクモは、カカシが消えた闇を振り返り、悲しげに眉根を寄せた。
「………………嫌われてしまった………かな?」
「鉱山王………? 貴方まさか、カカシに………」
きょとんとアスマを見たサクモは、彼の勘違いに気づいて苦笑した。
「………うん? まあね。…急ぎ過ぎたのかもしれない。………感情が抑えきれなくて。……でも、突然過ぎて…驚かせてしまったようだ」
フー、とサクモは息をつく。
「………必要なのは、時間か……私の、努力か。………両方、かな」
チドリとチハヤを連れたイルカが帰宅すると、家の中は真っ暗だった。
(………やっぱりまだ、帰ってないのか。………何処へ行ったんだ………?)
宴の会場を覗いてみた時、既にカカシはいなかった。
ああいった席を好まない彼女が、形だけ出て先に抜けるといったことは考えられる。
アスマの姿を見つけたので訊いてみると、苦虫を噛み潰したような顔になって、一言「逃げやがった」と呟いた。
何かあったのか、と聞いてもアスマは黙って首を振るだけ。
カカシが向こうの将官を倒したことで、トラブルにでもなったのかと思ったが、宴の会場はいたって和やかだった。何か騒ぎがあったようには見えない。
何処か引っ掛かるものを感じたイルカだったが、アスマに礼だけ言ってその場は離れ、自分の仕事に戻ったのだ。
イルカが帰りがけに託児所に寄ると、子供達はまだそこにいた。
先に帰ったはずのカカシが子供達を迎えに行っていない。
緊急の任務でも入ったかとイルカは一瞬思ったが、御前試合とその打ち上げの後に任務が入るというのは考えにくい。
彼女の身に何事か起きたのか。
気になったイルカはカカシを捜しに行きたい気持ちにかられたが、この子達を置いて出かけるわけにはいかなかった。
「…チドリ、晩御飯と歯磨きは済んでいるんだったよな?」
チドリはコックリと頷く。
「うん。きょうは、おにぎりと、じゃがいものおみそしると、ハンバーグと、コーンサラダ、たべたの」
「そっか。そりゃ美味そうだな。…チハヤもちゃんと食べていたか?」
チハヤは食が細い子だった。託児所では更に食べなくなってしまうようだ。カカシは一生懸命に工夫して何とか食べさせているが、託児所の職員にそこまで期待出来ない。
「……チハヤちゃんは、ミルクとパンしかたべなかった。せんせい、じゃがいもをつぶしてくれたんだけど、チハヤちゃん、イヤって」
「…そうか」
チハヤは、もう眠ってしまっている。
少し食事量が少ない気がしたが、今から起こして食べさせるわけにもいかない。
「………チハヤには、明日の朝ちゃんと食べさせますよ」
イルカは、玄関を振り返った。
「…カカシさん! お帰りなさい」
「………すみません。遅く、なりました。………お迎え、行ってくれてありがとうございます」
カカシの顔色が悪い。サンダルを脱ぐのも億劫そうだった。
「いや、いいんですよ。…それより、随分疲れているようだ。…今、風呂をわかすところですから」
「すみません………」
チドリは、パタパタ、と母親の足元に駆け寄った。
「おかぁさん、おかえりなさい。…しあい、かったんでしょ?」
カカシは目許を和ませ、チドリの頭を撫でた。
「うん。お母さん、勝ったよ」
「おかぁさん、すごーい!」
「あはは、ありがと」
カカシは、ひょいとチドリを抱き上げた。
「………また少し、重くなったかな? 背も、伸びたよね」
「うん! せ、のびた」
カカシはきゅ、と我が子を抱きしめる。
そんなカカシの様子を、イルカは黙って見守っていた。
入浴を済ませ、子供達を寝かせた後、カカシはぼんやりとベッドに腰掛けていた。
『―――カグヤ!』と自分を呼んだ男の声が、耳から離れない。
(………あの、人が……オレの…お父、さん………)
逃げてきて、しまった。
小耳に挟んだ話では、今現在、鉱山王は独身だ。
―――という事は、カカシの母親はもう亡くなっているか、離婚しているか、のどちらかなのだろう。
亡くなっているとしたら、いつ何が原因で亡くなったのか。
名前は? どんな女性だったのか?
そんなこんなの、もっと詳しい話を聞くべきだったのに、混乱して彼を拒絶するように逃げてしまった。
(………………一歳…今のチハヤと、同じくらい。…そんなに小さい時、さらわれた………のか。じゃあ、オレが何も覚えていなくても仕方ない、な………)
それまでは、彼の娘として普通に育てられていたのだ。
今日見たチハヤのように、自分も彼の膝に抱かれていたのだろう。
ずっと捜していた、と言っていた。
今まで捜しだすことが出来なくてすまなかった、と泣いていた。
―――彼の所為では、無いのに。
鉱の国から、火の国までは遠い。
こんな遠い国にまで捜索範囲を広げることなど、普通は考えないだろう。
それに、資料によれば、あの国は二十五年ほど前に他国に侵略されそうになり、それから数年間戦争状態にあったという。逆算すると、カカシがさらわれてから二年と経たずしてあの国は大混乱に陥った事になる。
子供の捜索どころではなくなってしまった、というのは想像に難くない。
(………でもオレ、どうしたらいいんだろう………)
「………カカシさん」
「イルカ先生………」
イルカが、湯気の立つカップを二つ手にして、寝室に入ってきた。
「…今日はお疲れ様でしたね。このお茶、アカデミーで同僚にもらったんですが、疲労回復に効くそうです。はい、どうぞ」
カカシは、温かいカップを受け取った。
「ありがとうございます。………わあ、綺麗な赤い色。香りも、爽やか」
「南国の花のお茶だそうですよ。眼の疲れにもいいとか」
カカシは赤い液体を一口飲む。
「ん、面白い味。…でも、美味しいです」
「それは良かった。………ところで、カカシさん」
「はい?」
イルカは、カカシの隣に腰掛けた。
「……………今日…何か、ありましたか?」
ビクン、とカカシの身体が揺れる。
何でも無い、とは言えない。
それに、これはカカシが口を噤んでいても、『無かったこと』にはならない問題だ。イルカには話すべきだろう。
ふうっとカカシは息を吐く。
「………………イルカ先生には、何も隠せないですね。………あのね、聞いても驚かないでくださいね?」
イルカは真面目に頷いた。
「………はい」
「あのね。………今日、チハヤを抱いていた、鉱の貴族………いたでしょう」
「はい」
カカシは、サイドテーブルにカップを置き、両手で顔を覆った。
「………あの人。……………あの人ね。…オレの、父親…………だったんです」
「は? …な………なんですって?」
あやうく、イルカはカップを取り落とすところだった。
そんな話、驚くなと言う方が無理だ。
確かに彼を最初に見た時、カカシと髪の色が同じだ、とは思った。眼の色も似ている。
だが、それだけで『もしかしたら親子か』とは普通思わないだろう。木ノ葉ではカカシのような白銀の髪は珍しい方だが、銀髪の人間は他にもいる。
「あの方が…貴方の、お父様…? 本当で………いや、どうしてそうだとわかったんですか?」
指の間に顔を埋めたままのカカシの声は、くぐもっていた。
「………チハヤです。………あの子、一歳の時の…彼の娘と、瓜二つなんだそうです。………その娘は、ひとつの時に誘拐されて………行方がわからなくなった…って。……彼、オレがチハヤの母親だって知って、もしやと思ったんだそうです。………年齢も、ほぼ一致しました」
「でも、それだけでは………」
「ええ。………オレもそう思いました。似ているだけだ、条件が近いだけだ。………だから、クロガネを呼んだんです。………あれの鼻なら、血縁者かどうか、嗅ぎ分けられますから………」
老忍犬、クロガネのことはイルカも知っている。彼女がまだ、四代目に拾われる前に契約したというカカシの忍犬の中では最古参の口寄せ契約相手だ。
「………クロガネは、ハッキリ言いました。………この男が、お前の父親だ、と」
「…………そう、だったんですか…………」
半妖怪化している山犬の長、クロガネの鼻を信用しないわけにはいかない。それを『誤りだ』とするなら、彼らの能力全てを疑ってかからねばならないからだ。
カカシは身体を二つに折り曲げ、顔を膝に埋める。
「………イルカ先生。………オレ、どうしたらいいのか………わかりません。………オレ、逃げてきちゃった。………あの人から、逃げてきちゃったんです………」
イルカもカップを置き、カカシの頭にそっと手を添える。
「………無理、ありません。……驚いたんでしょう? あまりに突然の話で」
「……イルカ…先生………」
カカシの髪を、イルカはゆっくりと撫でた。
「………ものごころついた時から、貴方には親と言う存在はいなかった。それが自然な状態で、親がいないと言う事に疑問すら持たずに、山の中でおじいさんと暮らしていたのでしょう? 四代目様と里で暮らすようになってからも、親がいなければ子は生まれない
、といった常識を理解したのは、結構後のことだったのではありませんか?」
カカシの頭がコクリと動いた。
「………そして、自分の生い立ちを振り返ってみた時………実の親を捜す事など限りなく不可能だと思ったし、またその必要も感じなかったんです。………オレには先生…四代目がいたから。…彼は、オレを必要だと言って、愛してくれた。…どんな事情があったのかはわからないけど、
結局オレとは縁のなかった親だし。………オレには関係ないって思って…………でも」
カカシは大きく息を吸った。
「………あの人は、ずっとオレを捜していたって………! 今まで捜し出せなくてすまなかったって! 謝るんです。泣きながら、何度も謝るんです………!」
イルカは、カカシの頭を両手でそっと抱いた。
「………………カカシさん」
「イルカ先生………」
イルカは身を屈め、カカシの髪に口づける。
「………貴方は今、少し混乱しているだけです。………落ち着いて、ご自分の気持ちに正直に向かい合えれば、どうしたらいいのかは自然と見えてくるはずですよ」
「………でも………」
「………………俺はね、カカシさん。………驚きはしましたが、貴方のお父様が見つかったこと。…そして、お父様がずっと貴方を捜されていたのだと聞いて、嬉しかったです。………子供
にとって、親に疎まれるほど、悲しいことはありません。……俺は、それが赤の他人の事でも悲しい。ましてや、俺の大切な女性が……だなんて、考えただけでも辛いです。……貴方のお父様が、我が子を愛している人で良かった。…どんな時でも、遠くで貴方を想っている人がずっといたのだと思うと、嬉しいんです」
カカシは顔をあげる。
「………どんな時でも………ずっと……愛して………」
イルカは優しく微笑んだ。
「そうでしょう?」
「………オレは…………いらない子……じゃ、なかった………」
そう口にして初めて、自分が心の底ではそう思い込み、悲しんでいたことをカカシは知った。
お父さんとお母さんは、自分が要らなかったのだ。要らない子だから捨てられたのだ、と。
―――そうじゃなかった。
お父さんは、ずっと自分を捜してくれていたのだ。要らない子じゃなかったのだ。
カカシの両目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
そうして、カカシがひとしきり泣いて、落ち着くまで。
イルカはずっと、彼女を胸に抱いていた。
そして、憂いにそっと眉を顰める。
イルカには、わかっていたのだ。
カカシの戸惑いは、今更ながらに親が見つかったと言う驚きの所為だけではない、という事を。
問題は、その親が外国の貴族。
しかも、七大貴族の一角を担う、鉱の国の重要人物だったことだ。
片や子の方は、木ノ葉の至宝『写輪眼のカカシ』。
存在自体が機密の塊のような上忍だ。
サクモとカカシの親子対面劇は、『生き別れの親子が二十数年ぶりに再会しました、メデタシメデタシ』と無邪気に喜んでばかりもいられない、波乱含みのものであったのだ。
(09/06/20) |