海原越えて

 

二日後、土曜日の午後三時に、アカデミー裏手のクスノキの下で。
彼女は、そう指定してきた。
(………ふむ。人目にはつかないけど、その分ちょっと薄暗い雰囲気の所だよなあ、あそこって………微妙な待ち合わせ場所だな………)
誰かに見られたくないという彼女の気持ちも、わからないでもない。
だが、如何せん人目が無さ過ぎる。落ち着いていると言えば落ち着いている場所なのだが、あまりにも人気が無い場所というのは危険だ。
思い詰めた人間は、何をするかわからない。
『何か』あった時、不利なのは男の方なのだ。
(…一人で行くのは危ないかも………)
そうは言っても、まさか誰かと一緒に行くわけにもいかないだろう。
イルカは、どうしたものかとため息をついた。
「どうしました? デカイため息」
突然かけられた声に、イルカは振り返る。
いつの間にか、カカシが(イルカの部屋に)帰宅していた。
「…あ、おかえりなさい、カカシさん。お疲れ様でした。………お腹は?」
カカシは胴衣を脱ぎながら、にこ、と笑う。
「どーも、ただいまです〜。んー、お腹はねえ…打ち上げの付き合いでちょこっとつまんだけど………何か軽いもんあります? 簡単なのでいいです」
「じゃあ、にゅうめんなんてどうです? サッと出来ますから。茄子入れてあげますよ」
「うわ、嬉しいなー…ありがとう、先生」
イルカはよっこいしょ、と立ち上がって台所へ向かう。
「俺も小腹が空いてきたから、ご相伴しますよ。先に風呂に入ってきてください」
「すいませんねー………じゃ、お言葉に甘えて」

イルカが夜食を作っていると、風呂場の戸が開く音がした。カラスの行水のカカシが早くも上がって来たらしい。
ぺたぺたぺた、と裸足で板張りの床を歩いてきたカカシは、まっすぐに台所に向かってくる。
イルカの背に、カカシはぺたっとくっついた。
「………ビールでも出しに来たのかと思ったら。何です?」
「んー、イイ匂いですねえ。何か、匂いかいだらすごく腹が減ってきました」
「もう少しで出来ますよ。座ってなさいって。疲れているんでしょう?」
カカシはイルカの肩に額を乗せる。
「………ちょっと気になって」
「何が?」
「さっきの、先生のため息」
「………ため息? ああ………実はちょっと、例の手紙のことで」
イルカは小皿で味を見た。ついでに、肩にとまっている上忍の口にもほい、と小皿をあてがって味見をさせてやる。
「あ、美味い。………じゃなくて、手紙ってあの匿名希望さん? また来たんだ」
「………ええ。食いながら話しますよ。あ、どんぶり取ってもらえます?」
中忍の言いつけに従い、上忍は素直に食器棚からどんぶりを出した。
夜食をとりながら、イルカは『彼女』がようやく名を明かし、会いたいと言って来た事をカカシに説明する。
「……………と、いうわけで、よーやく決着が着きそうなんですが。………呼び出された場所が悪くてですね………」
ちゅるん、とカカシは麺を啜った。
「んー、人に見られたくない、かあ………まーそーかもねえ………でも、イルカ先生の言う通りですよ。一人で行くのは何かと危険です。相手、中忍だって話でしょ? お話ししてハイさよなら、で済みますかねえ………」
「ですよねー、やっぱり。…どうしようかなあ、と考えていて、ついため息が」
これがカカシと出会う前で、彼女募集中の頃のイルカなら、ここまで用心せずに喜んで会いに行ったかもしれないが。
「………彼女が、どんな絶世の美女でも、お断りするんですか………? イルカ先生」
イルカは、カカシの胸の中にある不安を払拭するかのようにキッパリと言いのけた。
「もちろん、そのつもりですよ。貴方がいるのに、どうしてそれ以外の答えがあるんです?」
イルカがそう言ってくれるであろう事はわかっていたが。
彼の言葉にひどく安心した自分に内心苦笑しながら、カカシは提案する。
「じゃあ、オレがイルカ先生に変化して行ってあげましょうか?」
「や、それ………彼女に悪いですよ。…っていうか貴方、彼女の顔見たいだけでしょ」
カカシはクスクス笑って、ちろりと舌先をのぞかせた。
「あ、バレた? ………んー、じゃあお供を連れてったらどうです? 人間はまずくても、犬なら? オレんとこのヤツ、一匹貸します。シバなんて、普通の犬のフリ上手いですよ」
犬か、とイルカの気持ちも動いた。
「そ…うですね。………犬なら…いいでしょうかね。カカシさんの忍犬なら、みんな優秀でお利口さんだし。………あ、でも、彼女…俺のことよく見ているみたいだからなあ…普段連れていない犬がいるのを見たら………気を悪くするかも………」
「あー、相手も忍者ですもんねー…やっぱ、こっちの意図なんか丸わかりになっちゃうか」
カカシはあごに手を当てて考え込んだ。
「………それじゃあ、もうストレートに行きますかね。オレが、隠れて見張っていましょう。…あのね、今までアナタが手紙に対してしていた用心は、至極当然だとオレも思うんです。…ただの色恋問題ではなく、何らかの陰謀が存在する可能性は捨てきれません。今回の呼び出しは罠かもしれない。………やっぱり、色々な意味で独りでは危険です。何かあったら、オレが援護します」
カカシの真面目な声音に、イルカも頷く。
「………お願いしていいでしょうか? もしも万が一、里に対する害意が存在した場合、俺一人では対処出来ないかもしれませんから………」
カカシはそっと、イルカの手に触れた。
「………オレ、結構単独任務ってありますけどね。………本来、ツーマンセル以上で事にあたるのが任務の常道でしょう? …ふふ、久し振りにイルカ先生とツーマンセルですね」
「よろしくお願いします。………って、あれ? 土曜日の午後って、カカシさんは大丈夫なんですか? 予定」
んなモン、とカカシは胸をそらした。
「もしかしたら里の危機かもしれないんですから! それにコレはオレ以外に誰がやれるって言うんです? 他の任務なんて入れませんよ」
「…………………そうですか」
こうなったら、里にとっての『大事件』か、火影の勅命以外にカカシを動かせるものは無いだろう。
どうか彼がムチャな我を通すような事態になりませんように、とイルカは祈った。



 

土曜、午後三時五分前。
イルカはアカデミーの裏手に向かった。
カカシの姿は朝から見ない。昨夜カカシはイルカの部屋に帰ってこなかったので、正確には昨日の朝、ベッドで別れたきりである。
イルカに余計な心配をさせまいと思ったのだろう。
今朝、彼は『大丈夫です。必ず、見守っています』と式を飛ばしてきた。
(………ええ。信じていますよ、カカシさん)
アカデミーの裏手にある薬草園を抜け、火影岩の手前にある森の中に、彼女が指定したクスノキはあった。森の中でも一番古く大きく、目立つ木なので、間違いは無いだろう。
イルカは大きなクスノキの梢を見上げた。
そして、その視線を地表に落とすと―――そこには、若い女性の姿があった。
(………彼女か)
イルカの姿に気づくと、女は慌てたようにぺこんとお辞儀をした。
その仕草に、イルカは思わず微笑む。
何となく、カカシの仕草に似て見えたのだ。
「………五輪さんですか?」
「ハ、ハイ! 五輪リヨ、と申します!」
勢い込んで返事をした女は、ポッと頬を赤らめた。
「………本当に来てくださったんですね。ありがとうございます………嬉しいです、イルカ先生」
イルカの見るところ、五輪と言う女は年齢よりも若く見えるタイプで、華やかな美貌の持ち主では無かったが、色白でアクの無い整った顔立ちをしていた。サラサラとした長い黒髪。澄んだ茶色の瞳。体つきも、痩せ過ぎもせず、太ってもいない。バランスがとれた綺麗な女性のものだ。
イルカが敬遠するタイプの女ではない。むしろ、こういう清楚系は好みな方である。
(…ちょっと、惜しかったな………カカシさんと先に出会っていなかったら、お付き合いしてみる気になってしまっただろうな、俺………)
「………あの…お手紙、ありがとうございました。俺、あんまりああいうのは頂いた事が無いんで、嬉しかったです」
「…その………それですけど、本当にすみませんでした。………さぞ、不審に思われたでしょう。………名前くらい、最初から書くべきでした………」
しゅん、と項垂れてしまった五輪を、イルカは慰める。
「そんな、謝らなくても結構ですよ。お気持ちは何となく、わかるような気もしましたから」
「………でも、何処の誰が書いたかわからない手紙なんて、気持ち悪いだけだったでしょう………?」
イルカはポリポリ、と鼻の傷痕をかく。
「えっと………まあ、正直言ってしまうと、戸惑いはしましたけれど。………誰かの悪戯かもしれない、とかね」
「…ですよね、すみません。………私、イルカ先生にこの想いを伝えたいって………そればっかりで………後先考えないで………本当に、恥ずかしいです」
泣き出しそうに、五輪の声が震える。
くノ一だからといって、気の強い女とは限らない。ヒナタなど、名門日向一族の跡継ぎという立場にありながら、超のつく内気で恥ずかしがり屋の女の子だ。
(………いやいや、相手はくノ一だぞ? これが演技ってコトもあるんだから…! すぐにほだされるなよ、イルカ!)
自分にそう言い聞かせながら、イルカは気を引き締めた。
「ですから、もうそんな事はいいんですよ。…それよりも…俺、返事にも書きましたが………今は、どんなに素晴しい女性のお誘いがあったっとしても、ダメなんです。…貴女の何がいけないわけじゃない。………貴女にその………好き…だと言って頂けて………すっごく光栄だし、嬉しかった。でも、貴女だけじゃなく、どの人のお気持ちも、頂戴するわけにはいかないんです」
五輪はスッと視線を上げた。
「…好きな方がいらっしゃる。………そうでしたわよね?」
イルカはハッキリと頷いた。
「そうです」
「…でも、結婚なさっているわけじゃない。………貴方のお気持ちが変われば、それまでですわよね………」
女の表情が、妖艶なものに変化した。
「イルカ先生………私が一生懸命に探した四つ葉のクローバー、受け取ってもくださらないなんて………ひどいですわ。…せめて、こんなささやかな贈り物だけでも受け取ってくださいな。…手紙も、これが最後です。…どうか、お読みになって………」
イルカの手が、機械的に上がる。
頭の何処かで警鐘が鳴っているような気がするのだが、彼女に逆らえない。
彼女が差し出すクローバーのしおりと手紙を、イルカは受け取った。
イルカが手紙を開き、その眼が文面を追うのを確かめた女は、ニッと笑う。勝利を確信したような笑みだった。
手紙を読み終えたイルカが、眼を上げる。
「………ありがとうございました。…でも、貴女が一生懸命探してくださったのなら、余計にこのクローバーは受け取れません。………本当に、申し訳ないのですが」
イルカがすまなそうに差し出しているクローバーのしおりを、五輪は驚きの眼差しで見つめた。
「………そんな………バカな………」
「…え?」
イルカは訝しげに彼女を見つめている。
そんなイルカの様子に、女は動揺した。思わず、小さな声で本音を漏らす。
「な…何故………効かない………」
イルカはスッと表情を消した。
「五輪さん。………貴女、何か仕掛けていましたね………?」
五輪はきゅっと唇を噛んだ。
「な………何を仰るんですか、いきなり。………変な事言わないでください。私は、ただ………」
その時、梢の上から声が降って来た。
「セコイ小細工なんか、その人には通用しないよ? お姐さん」
 



 

 

NEXT

BACK