海原越えて

 

さあ今日も一日ガキどもの相手だ、とアカデミーに出勤したイルカは。
自分の事務机の上に、ひっそりと置かれている白い封筒に気づいた。
「…何だ?」
宛名は、間違ってはいない。『うみのイルカ様』、とある。
念の為、手近な同僚の机から物差しを借り、それで封筒をちょいと突いてから裏返す。
特に、異常は無い。
トラップが仕掛けてある様子も感じられなかったので、イルカはその封筒を手に取ってみた。
差出人は―――『貴方をお慕いしている者より』。
「………………………何だ?」
瞬間的に脳裏を横切ったのは、今現在イルカの恋人的存在である、上忍の男の顔だった。
また何か妙なモノに感化されて、おかしな遊びを思いついたのであろうか。
窓の方に向けて、陽に透かして見る。
折りたたんだ紙以外の物が入っている可能性は低いと判断し、それでも手で封を切るような真似はせずに、封筒の隅ギリギリにナイフの刃先を立て、そっと切り開く。
数秒、待つ。
何の変化も無かったので、そこでようやくイルカは封筒から中味を机の上に振り落とした。
カサッと軽い音をたてて、手紙らしき紙が机に落ちる。
そこでもイルカは、すぐに自分の手で紙を広げたりはしなかった。
同僚の机から拝借している物差しと、自分の机の上にあったペンを使って、ゆっくりと折りたたんである紙を広げる。
―――どうやら、本当に何の変哲も無い『手紙』のようだ。
物差しとペンで紙を押さえたまま、イルカは文面に眼を走らせる。
イルカのすぐ後から教員控え室に入ってきて、彼のその一連の行動を黙って見守っていた同僚の男は、訝しげな顔で「おす、イルカ」と声をかけた。
イルカは視線を上げ、にこっと微笑んで「おはよう」と挨拶を返す。
「………何だ? 手紙一つにずいぶん用心深いな。もしかしてお前、何か嫌がらせでもされているのか?」
イルカの用心の仕方は、嫌がらせよりももっと深刻な雰囲気にも見えたのだが。
イルカは笑顔で首を振った。
「いや? 別にそんな事は無いが。………ただ、な。昨夜この部屋の施錠をしたのは俺で、今朝開けたのも俺だ。昨夜残業した俺が午後九時半にここを離れてから、今朝午前七時十五分に出勤する間に、この手紙は置かれたことになる。…用心する理由、わかるだろう?」
同僚は納得顔になる。
「………まあ、そうだな。…妙だ」
で? と彼はイルカの机の上を見た。
「どうだったんだ? それ」
イルカは当惑気味な微笑を浮かべた。
「いや、別に………大したコトは書いてなかったよ。…悪戯、かもな」



『うみのイルカ様
突然、このような手紙を差し上げる無礼を御許しくださいませ。
わたくし、いつもそっと貴方様のことを見ておりました。
貴方様の真面目に子供達を指導する姿、子供達に注がれる温かく優しい笑み。
忍者と言う職業にありながら、人間的な心を失わない、なんという素敵な方なのだろうと思っておりました。
貴方のお姿を遠目でも拝見し、そのお声を聞く事が出来た日は、それだけでわたくしの心は幸福に満たされるのです。
貴方のお顔を思い出すだけでドキドキと胸が高鳴る自分に、これは恋なのだとようやく気づいたのです。
イルカ様。
いきなり、見知らぬ女にこんな想いを告げられてもご迷惑なだけでしょうけれど。
こんな想いを胸に秘めている女がいるのだと、ただただそれだけをお伝えしたかったのです。
どうか、貴方様を想う女がここにいるのだということを、覚えていてください。
今は、このわたくしの想いを告げるだけで精一杯です。
自分の名前を明かす勇気も無いわたくしを、御許しください。
どうぞ、どうぞお願い致します』


 

 

カカシは手紙を読み終え、胡乱な目つきでイルカを見た。
「………で?」
「で? とは?」
イルカは、冷蔵庫の中にあるものを手当たり次第に入れて作った焼きソバを、二人分に分けて皿に盛っていた。
「すみませんが、今夜はこれでガマンしてくださいよ。帰りが遅くなったんで、店が開いてなくて食材が買えなかったんです。冷蔵庫一掃セールな料理で悪いんですが」
「………や、ソレはいいんですが。…イルカ先生の作ってくれる料理に、オレが文句言ったことなんてありますか? イルカ先生がオレの為に作ってくれたってだけでも、すっごく嬉しいんです、オレは。…………いや、ゴハンのことじゃなくてですね、これ。このラブレターですよ。………何でこれ、オレに見せたんです?」
イルカは焼きソバに鰹節を振りかけた。熱いソバの上で、鰹節が踊る。
「いや。………何でと言われましてもね。………俺、極力貴方に隠し事をしたくないんで。………それだけですよ。こういうモノが今朝、俺の机の上に置かれていました、という報告です」
イルカは青海苔と紅生姜を冷蔵庫から出してきて、卓の上に並べた。
「これとこれはお好きにどうぞ」
ふわふわくねくねと踊る鰹節を見ながら、カカシは眼を眇めた。
「………どうするの? 先生は」
「俺は青海苔も紅生姜もかけますよ」
「…………そうじゃなくて」
カカシの咎めるような声に、イルカは苦笑を浮かべて見せた。
「…スミマセン。………実はですね、この手紙、カカシさんのイタズラじゃないかと思っていたんです」
カカシは片眉を上げた。
「………はあ?」
「だから、貴方が何か愉快なゲームでも思いついてですね、こうしたモノを俺の机の上に置いたのではなかろうかと」
そこでイルカは、その手紙が『施錠されていた教員控え室』にいつの間にか置かれていたものである事をカカシに説明した。
「貴方なら、あんな鍵などわけなく開けられますし。………出来れば、貴方の仕業ならいいのに、と思いながら開封しましたよ。一応、トラップに用心しながら」
「………………したら、こーゆーラブレターだった、と」
イルカは真面目に頷く。
「そうです。………あの、これ…貴方の仕業じゃないんですよね?」
カカシはもう一度、文面を読み返した。
「オレなら、もっと情熱的な恋文をアナタに書きます。師匠の師匠に倣い、熱烈かつイチャパラグレートな恋文をっ! ………ナンですか、この当たり障りの無い、何かの例文みたいなラブレター。面白みも何にも無いじゃないですか」
イチャパラグレートな恋文ってどんなのだ、とイルカは半眼で恋人を見る。それはそれで、もらっても困るだけのシロモノな気もするが。
手紙を封筒に戻し、カカシはそれを無雑作に卓の隅に放った。
「いただきます」と手を合わせてから箸を手に取る。
「…まあ、素直に、純情なくノ一が、書き慣れないモノを書いた為に緊張のあまり大人しく堅苦しいオーソドックスな恋文になってしまった………と考えられなくもないですが。忍なら、あの部屋の鍵くらい何とか出来るでしょうしね。………さて、そうなると問題は、アナタですねえ」
イルカは早くも焼きソバを豪快に口に入れていた。もごもご、と咀嚼して飲み込んでから、首を傾げる。
「は? オレが何ですか?」
「…や、だから、こういう手紙をもらった、アナタの気持ちと行動です」
「あー………そういう事ですか。…うん、まあその手紙が、ごく普通の所謂恋文であったとしてですね。………どうもしませんよ」
「どーも………って………」
イルカは困ったような顔で微笑む。
「以前、言ったでしょう? ………女性から想いを寄せられることがあったら、そりゃあ男として悪い気はしないけれど。………でも、俺は今つきあっている人がいるから困るだけだと。………今は、貴方で手一杯なんです。心も、身体も。…他の人の事を考える余裕は無いんですよ。ましてや、今回の手紙の主は、名前すら俺に告げていません。俺には何の反応もしようもないです」
カカシはむやみやたらに焼きソバを箸でかき回した。
「そ………でしたね。ウン、そー言ってた…ね、先生」
「カカシ先生」
「…はい?」
「また、余計なことを考えないでくださいよ?」
イルカの言いたい事を察して、カカシは頷く。
「………はい」
元々は同性愛好者ではないイルカが、女性に恋をするのはおかしいことではない。
もしもイルカの前に、彼に似合いの可愛い女性が現れたとしたら。
そして、彼の気持ちがその娘に移ってしまったら。
自分はどうするだろうとカカシは思った。
大人しく身を引き、彼の幸せを祝福するか。
それとも、嫉妬に狂って相手の娘を引き裂き、そして自分を裏切ったイルカをも殺すか?
(………オレが、イルカ先生を殺す?)
そうなったら、もうカカシも生きてなどいられまい。
イルカを屠ったその刃で、自らの咽喉を切り裂いて果てるだろう。
とんだ醜聞だ。
任務の失敗を責められて、自ら死を選んだ父親以上にスキャンダラスで、そして彼とは比べ物にならないほどみっともない死に様だ。
(………女に嫉妬した挙句、男と無理心中じゃなあ………あの世で父さんや先生にあわせる顔もないわ………あ、イルカ先生にもだ。…死んでからもイルカ先生に深々とため息をつかれちゃうよなあ………)
本当に将来、イルカが女性を選んだ時は。
辛いだろう。嫉妬と悲しさで、ひどく苦しむだろう。
だが、カカシにはイルカを殺すことなど、出来そうも無い。
だからと言って、笑って祝福―――も、無理だ。
(結局、オレに出来るのは……逃げ出すコトくらいかな。……なるべく遠くの土地に長期任務に出て………イルカ先生の視界から消えてあげるぐらいしか出来そうも無い………)
そして、いつか任務で死ぬ。
カカシが死んだことを知ったイルカは、おそらく涙のしずくを零し―――そして、カカシとの事は過去のものとして、思い出の中に封じて生きていくだろう―――
「こら」
ハッと物思いから引き戻されたカカシが顔を上げると、イルカがじっと睨みつけていた。
「言ったそばから、妙なコト考えていたでしょう、カカシさん」
「え………あ、いや………やだな、センセったら………ちょっとした脳内シミュレーションをですね、していただけです。………みょう、ダなんて………アハハ………」
ハ、とイルカが息を吐く。
「………ちなみに、どのような」
カカシは箸を握りしめ、口元に当てて上半身をくねらせた。
「…いやんっ…カカシ、恥ずかしくて言えない………っ………」
「………カカシさん………」
思いっきり低音になったイルカの声に、カカシはひきつった笑みを浮かべた。
「や、やーだな先生、本当にくっだらないコト考えてただけですって! ………あ、ウマイですね、この焼きソバ。………色々なモン入ってて」
イルカは黙って、熱いほうじ茶をいれる。
それをコトン、とカカシの前に置いてからポツンと謝った。
「………すみませんでした」
カカシはキョトンと眼を見開いた。
「え?」
「………こんなもの、貴方には見せずに焼き捨ててしまえば良かった」
イルカの苦々しげな声に、カカシは首を振った。
「いいえ。…………考えてみりゃあ、オレが惚れた男ですからね。オレの他にも、アナタに惚れる人間がいたって全然おかしくないんです。………オレ、隠される方がイヤです、先生。アナタの判断は間違っていない。………オレ………うん、ちょっと忘れていたんですよ。………アナタが傍にいてくれる事が当たり前になってしまっていて。…ライバルが出現する可能性をね」
「ライバルだなんて、そんな………」
フッとカカシは笑った。
「その手紙を書いたのが何処の誰かは知りませんが。…オレにはいい刺激でした。………アナタの隣を歩き、アナタとゴハンを食べて、アナタのベッドで一緒に眠るのはオレだ! このスバラシイ恋人の座を、おいそれと他のヤツに渡してたまるかー! ………ってあらためて思いっきり握りこぶってしまいました」
「そ………それは………どうも。………いやでも、普通ソレ言うのは俺だと思うんですが………」
カカシはぱあっと顔をほころばせた。
「ホント? ホントにそう思ってくれるんですか?」
「もちろんですよ。…ライバルが多いのはオレの方なんですから」
「あ、ソレはぜーんぜん心配しないで! オレは浮気はしませーん。イルカ先生が一番ですから」
「………ですか?」
「ですよぅ」
ニコニコと焼きソバを頬張るカカシにイルカは苦笑し、ため息混じりにトマトサラダの皿を彼の前に押しやった。
 

 



 

2008/11/9発行『海原越えて』初出

久々に書いた普通の(笑)イルカカ。
いかにいつもイロモノばかり書いているかという……
今回は、イルカとカカシが『一緒にゴハンを食べている』が隠れ?テーマ。
よく食ってます。

 

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