天よりきたるもの − 5
祭り―――巫女による『神降ろし』の儀式の日が近づくにつれ、村の中の空気は少しずつ 変わってきた。 どことなく落ち着きのないソワソワとした空気。そこには不安と緊張感も入り混じる。 七年前、というのは既に成人している大方の村人達にとってそう遠い過去ではない。 前の『神降ろし』の儀式直前に巫女が亡くなるという悲劇は、村にとって大事件だった。 その大事件の記憶が人々を不安にさせているのだ。 「……今度こそ、ご神託が下されるよな?」 「今年の巫女は、名主様のお嬢様だろう…?」 だから余計に不安なのだと誰しもが密かに胸の内で呟いたが、もちろん口には出さない。 村人の間では、名主の娘、玻璃の評判はあまり芳しいものではなかった。 顔立ちはそこそこ整っていて、黙って座っていれば可愛らしい美少女に見えなくも無い。 だが、一人娘として周囲に甘やかされて育った彼女は、大名の姫さながらに気位が高く、 わがままで高慢なところがあった。 他人の気持ちや立場を考えてものを言ったり、行動したりという事が出来ない。する必要 がなかった、そういう環境に育っていなかったと言えばそれまでだが、他者に対する思い やりと気働きがないのは、彼女の生まれ持った性質も少なからず関係しているだろう。 特に冷酷だとか、底意地が悪いと言う性質の悪さではなかったが、父親の評判が良い分、 その娘に抱いてしまった期待が裏切られた格好の村人は、内心落胆してしまうのだ。 自分勝手な彼女の言動を知る者達が、大事を前に不安を抱くのも無理からぬことであった。 「………大丈夫、なのだろうか………」 「琥珀様のお血筋の乙女っていうのが巫女の条件なんだろう? なら、俺達に出来るのは 信じて祈ることだけだ。………祭りが無事、行われることを」 酒屋の手伝いをして店番や配達をしているカカシの耳にも、そういった村人の声が届いて いた。 彼は彼で、村人とは別の理由で『巫女』の心配をしている。 忍犬からもたらされた情報を、カカシはイルカに伝えていた。 依頼内容のくい違いの件である。考え過ぎかもしれないが、用心するように、と。 だが、名主の娘の身代わりとして振舞わなければならないイルカは、行動が制限される。 不審な点があるからといって、独自に調べるわけにもいかないだろう。 用心と言っても、屋敷の者の言動に注意を払いつつ、ただ大人しくしているしかない。 (………それにしても駆け落ちした娘っていうのは、余程綿密に計画を練って男と逃げ出 したのかね………) カカシは念の為、忍犬達を使って逃げた娘の捜索をしていた。だが、失踪してから日数が 経ち過ぎていた所為か、痕跡を発見することが出来なかったのだ。 村人の噂にも、彼女が逃げたかもしれないというような話は片鱗も見当たらない。 (名主の家の使用人も、全員が『事情』をわきまえているか―――っていうと、どうも違 うようだしね) 琥珀の屋敷にはあれからも毎日のように配達に行っているが、勝手口に現れる使用人はい つも同じではなかった。その時に勝手口に近いところにいた者が応対に出る所為だろう。 試しに顔を合わせた使用人全員に『玻璃に会わせて欲しい』と頼むと、その反応は二つに 分かれた。一番最初の女性のように一応訊きに行ってくれる者と、訊きに行くこともせず、 すぐに追い返そうする者。 後者の数が少ないのは、単に親切な人間の方が多いのだと見ることも出来る。だがカカシ にはそんな好意的な解釈は出来なかった。 (………屋敷内でも娘の失踪を知るのはごく一部の者。………後は、何も知らずに村人と 同じように騙されている………か) それは、この一連の事件に関しては『正しい対応』だ。 村人に娘の失踪を知られてはならないのだから、秘密を知る人間は少なければ少ないほど いいに決まっている。 儀式まであと三日。 数日前に様子を見に行った際のイルカの話では、今夜から『彼女』は潔斎に入るとのこと だ。儀式の行われる山の中にその為の潔斎場があり、日が落ちたら人目を避けて移動する 手はずになっているらしい。 もちろんカカシは屋敷から潔斎場までそっとついて行って、陰から見守るつもりだ。 (………潔斎場はたぶん神域だろう。そこまで無事に着けば、後は滅多な事は無いはずだ) 「アンコちゃーん、ちょっと来てーっ」 酒屋のおかみの声が、カカシを物思いから引き戻す。 「はぁい、おばさん。今行きます〜」 「玻璃さん。お支度は整いましたか?」 早めの夕餉をすませたイルカは、女中の手を借りて、潔斎場へ向かう支度をしていた。 障子の向こう側から掛けられた男の声に、イルカは微笑む。 玻璃の許婚者の八雲だ。 彼は、イルカが玻璃の身代わりとしてこの屋敷に逗留し始めてから、一貫して『玻璃さん』 と呼ぶ。 「はい。もうすぐ出来ます。お入りになってください、八雲さん」 着替えは済んでいる。男を部屋に入れたところで問題は無い。 「失礼します」 八雲は静かに障子を開けた。潔斎の為の白い清楚な着物を纏ったイルカの姿に、彼は眩し げに目を細める。 「……お綺麗です。祭り本番では、巫女の衣装は違うものになりますが……その白い着物 は貴方によく似合っていますね。………まるで花嫁のようだ」 こういう時、内気な十七歳の少女ならどういう反応をするのが一番『らしく』見えるか考 えながら、イルカは恥ずかしげな様子で俯いた。 「………ほ、ほめて頂いている…のかしら。何だか、恥ずかしいです………」 「もちろん、ほめているのですよ、玻璃さん。………山の麓までは馬でお送り出来ますが、 山の中は歩きになります。石段がありますが、結構きつい登りになるかもしれません。疲 れたらすぐに仰ってください。無理をしてはいけませんよ」 山登りごときで弱音を吐く中忍はいない。石段で道が整えられているなら、楽なものであ る。だが、自分は今『かよわい少女』なのだから、適当なところで疲れた素振りをして見 せた方がいいのだとイルカは気づき、わざわざ忠告してくれた形の八雲に礼を言った。 「はい、ありがとうございます。………夜の山っていうのが少し怖いんですけど……私ひ とりじゃありませんものね」 「ええ。ちゃんと灯り持ちも、護衛もお供しますよ」 イルカは小首を傾げた。 「………八雲さんは? 一緒に来てくださるのですか?」 「潔斎場の入り口までは参ります。護衛の一人として」 イルカは安心したように口元を綻ばせる。 「良かった。…よろしくお願い致します」 少女の表情と言葉に、八雲の胸には甘酸っぱい感情がこみあげた。彼女が自分を頼みにし てくれているのだと思うと、正直嬉しい。 そのやり取りを横目に、イルカの身支度を手伝ってくれていた中年の女中が腰を上げる。 彼女にも、よそ者の少女に大切な巫女役を任せる事に対する葛藤が無いわけではなかった。 少女が名主の血筋とは無関係である以上、神託が下るわけがない。 だが、それを承知で、名主は少女に巫女役を依頼したのだ。形だけでも『神降ろし』の儀 式をしなければならない。今年も巫女がいないと知れば、村人は恐慌状態になるだろう。 そこまで村が切羽詰っている事を理解しているのかどうかわからないが、この少女は『困 っている人の役に立つなら』と遠くから来てくれたのだと聞いている。 女中の頭は自然に下がった。 「では、お時間になりましたらお迎えに参ります、玻璃さま。………よろしく、よろしく お願い致します」 その思い詰めたような声に、少女は驚いて眼を瞠る。が、すぐに柔らかい微笑を浮かべて 「はい」と応えた。 「…精一杯、頑張ります。一生懸命、神様にお祈りしますから。………皆さんのお気持ち が、神様に届きますように」 女中と八雲は、改めて少女に頭を下げた。 「ありがとうございます」 「では、後ほど」 女中と八雲は自分達の仕事をする為に、少女を一人残して部屋を出た。 廊下を歩きながら、女中は小さい声でポツリともらす。 「……あのお嬢さんが本当に旦那様のお嬢様だったら、どんなにか良かったのに。…いい 娘さんなのよ、本当に。ああ、あの半分もお嬢様の気立てが良かったら………」 本来なら、たしなめなければならないその言葉に、八雲もつい頷いてしまった。 「………本当になあ………」 あの内気で可愛い娘が、自分の許婚者だったらどんなに良かったことか。彼女なら、夫と なる男をきちんと立ててくれるだろう。少なくとも、衆目の場で無視などしないはずだ。 思わず八雲はため息をつくのだった。 その頃。 思わぬ事態にカカシは走り回っていた。 (ちょっと! まずいでショ! こんな事している場合じゃないってのに〜っ) 「ご、ごめんよう…アンコちゃん」 「いいのよ、おじさん!(ホントは良くねえけどなっ)おじさんは動いちゃだめよ! あ あ、おばさんもねっ…! 無理しなくていいから!」 「すまないねえ…アンコちゃん。ああ、今夜から祭りだっていうのに……縁起の悪い」 巫女が潔斎場に篭もる今夜から、祭りは始まるということらしい。 昔からのしきたりで、村では今夜から祭りが終わるまで、各家の軒に注連縄と酒の入った 瓢箪を下げるとの事なのだが―――その作業をしようとした酒屋の主人は、何を思ったの か屋根に登り、古い軒を踏み抜いて下まで落ちてしまったのである。 主人は怪我をするし、軒は壊れるし、慌てたおかみは鍋をひっくり返して熱湯を浴び、足 に火傷をするといった大騒ぎになってしまった。 もうじき日も落ちる。 すぐにイルカの所に行きたいカカシだったが、世話になった酒屋夫婦を放ってはおけなか った。 分身の術を使うことも考えたが、分身は本体から離れ過ぎると使えない。山とここの距離 を考え、カカシは術を断念した。 夫婦の怪我に応急処置を施し、眼を離したら自分でまた屋根に登りそうな主人を寝台に押 し込んで、軒の修理と祭りの飾り付けをする。 「えーと、取りあえずコレでいいかな。…おばさん、お医者さん、どこ? ちゃんと診て もらった方がいいわ。私、呼んでくるから」 おかみは辛そうに顔を顰めて頷いた。 「そ、そうだね。悪いね、じゃあ呼んできてくれるかい? …お医者さんはね、一昨日に 配達してもらった砥屋の五軒ほど先だよ」 「わかったわ、おばさん!」 医者の場所を聞いたカカシは外に飛び出した。 暗示を解き、『姪』の存在など彼らの頭から消し去ればいいのはわかっていた。そうすれば、 カカシは自由に動ける。 カカシの任務は、イルカを守ることだ。彼らの窮状を無視して、イルカの所へ行くのが忍 者として正しい行動である。 (でも、こんな時イルカ先生なら……やっぱ、こうするだろうしなぁ………) お人好しの恋人は、困った人を放ってはおかないだろう。特に、それが世話になった人な ら尚更。 カカシは人目を避け、狭い路地に飛び込んで指を噛み切った。印を結びながら血を地面に 叩きつける。 「口寄せ!」 ぽん、と小さな煙幕の中から小型犬が現れた。 「………どうしたカカシ。…けったいな格好で」 忍犬の随分な挨拶に、カカシは渋面をつくって腰に手を当てた。 「けったいで悪かったわねえ。―――任務だよ、パックン。…あの山にイルカ先生がいる。 彼も女に変化しているけど、お前の鼻ならわかるだろう。彼は巫女役として、山の中の潔 斎場に向かっているんだ。オレは今すぐ動けないから、お前が行って、彼が無事着くか見 ていてくれ」 パックンは鼻を鳴らすと、「承知」と短く言い置いて身を翻した。 「頼んだよ〜パックン。…さて、オレも急がなきゃ」 打てる手は一応打ったのだ。 医者の家目指して、カカシは駆け出した。 |
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