天よりきたるもの − 3

 

「どうぞ。こちらの部屋をお使いください」
「ど…どうも…」
イルカは、案内してくれた中年の女中に小さな声で礼を言った。
イルカが案内された部屋は二間続きの客間だった。奥の部屋がベッドのある寝室。手前の
部屋が居間のような造りで、掃きだし窓から直接庭に出られるようになっている。
知らない場所に連れて来られてオドオドとしている少女を気の毒に思ったのか、女中はイ
ルカを安心させるようににっこりと微笑みかけた。
「何かご不自由な事とか、要るものがあったらおっしゃってくださいね。遠慮して、我慢
なさっちゃいけませんよ、お嬢さん」
「…はい…ありがとうございます…」
「では、ごゆっくりなさってください。失礼致します」
パタン、と扉が閉まった。
一人になったイルカは息をつく。
「…お姉さんがずっと一緒にいてくれると思ったのに…一人だなんて、何だか心細いな…」
独り言もきちんと少女になりきって寂しげに呟く。
と、ノックの音が響いた。
「…どうぞ」
扉を開けて顔をのぞかせたのは、茶店まで迎えに来てくれた青年だった。
「お疲れのところ、すみません。先程はちゃんと挨拶が出来なかったので…」
そこで彼は振り返って、「頼む」と後ろに声をかける。先刻とは違う若い女中が紅茶と焼き
菓子を載せた盆を運んで来た。
「どうぞお座りになってください、イルカさん。私も失礼して、一緒によろしいでしょう
か?」
茶の仕度が二人分であることに気づいたイルカは、ぎこちなく微笑んで頷いた。
「ハイ、もちろんです」
窓越しの陽光が気持ちのいい部屋の一角に、趣味のいい卓と椅子が設えてあった。午後の
お茶をするのにちょうどいい場所である。
イルカと向かいあって座った青年は、女中が紅茶をいれて一礼し、立ち去ってからようや
く口を開く。
「…改めて自己紹介致します。私は、八雲と申しまして……玻璃さん…つまり、この本家
のお嬢様ですが、その玻璃さんの許婚者です」
イルカは「は?」と声を上げた。
「…あのう…お嬢さん……玻璃さんって方、恋人さんと駆け落ちしたとか…私、伺って…」
「ええ、だから私は単に家が決めた許婚者で、恋人ではないのです」
「はあ…」
内心、イルカはなるほど、と頷いていた。
親に決められた相手と結婚するのが嫌だったのか、それとも単に許婚者以外の男に目を奪
われたのか。いずれにせよ、その玻璃 という娘は、このままこの家にいたら親の決めた許
婚者と結婚させられると考え、今回の事は家を逃げ出すのにちょうど良い機会だと思った
のだろう。親の迷惑を考えない、実に身勝手な行動だ。
イルカとて、好きでもない相手と結婚するのが良いことだとは思わない。だが、親の立場
と、自分の責任を考えたら、祭りまでは身を慎むべきだっただろうと思うのだ。
自分の役目を果たしてから、好きあった男と駆け落ちでも何でもすれば良かったのに、迷
惑な話である。
八雲は恥ずかしそうに笑った。
「情けない男だと思われたでしょう。許婚者に逃げられただなんて」
いいえ、とイルカは真顔で首を振った。
「だって…お家が決めた縁談でしょう? なら、そういう事もありますよ。でも、八雲さ
んが…お気の毒です。貴方は悪くないのでしょうに」
イルカは注意深く青年を観察した。
歳の頃は二十代の半ば、カカシと同じくらいだろう。
まだ彼の性格まではわからないが、おそらくは常識的で礼儀正しい青年だ。
イルカと同じような黒い髪を少し長めに伸ばして、きちんと後ろで結っている。取り立て
て美男というわけではないが、実直そうで割と好感の持てる顔立ちの男だとイルカは思っ
た。少なくとも大多数の女性が敬遠するような顔ではないし、背丈や体格も標準だと思う。
だがこれはあくまでも『同性』で『同年代』の自分から見た彼だ。
玻璃 という娘は十七だと聞いている。もしかしたら彼女にとって八雲は歳が上過ぎたのか
もしれないし、男としての魅力に欠けていたのかもしれない。いずれにせよ、恋の対象に
はならなかったのだろう。
「……そう…ですね。悪くないと言うか……強いて言えば、私は彼女にとって新鮮味が無
い男なのでしょう。…私は分家の者として、幼い頃からしょっちゅうこの家には出入りし
ていましたからねえ……親戚のお兄ちゃんと結婚しろって言われても困るって……言って
いましたから…彼女」
「あ、なるほど、幼馴染みなんですね!」
イルカが納得げに胸の前で手を合わせるのを見て、八雲は苦笑する。
「そう言うと聞こえがいいものですねえ。…貴方今、小さな頃から仲良く遊ぶ親戚同士の
男の子と女の子っていうのを想像なさいませんでした?」
「……ええ…まあ……」
八雲はカップを手に取り、少しだけ紅茶で唇を湿らせた。
「………私と彼女は、そんなに仲の良い間柄ではなかったのですよ。歳も離れていたし、
何よりも性格が合わない。…彼女の方も、親戚のお兄ちゃん、というよりは私を使用人の
一人くらいにしか思ってなかったのではないかと……」
イルカは眼を丸くした。
「……そ…そんな……」
性格の合わない、仲の良くない幼馴染みが婚約。家同士の決めた縁談にしても、どこか最
初から不幸の匂いがする話だ。
八雲は微笑んで、イルカに茶を勧める。
「紅茶、お嫌いでなかったらどうぞ。…お菓子も、美味しいですよ」
「あ…はい、頂きます」
イルカはそっとカップを持ち上げて、その器の窯元が五大国でも有名なところだというこ
とに気づく。こんな高価な品を日常に使う家。
そして、そこに生まれ育った娘。
国の中心からは外れた田舎の村とはいえ、そこの権力者の娘としてかしずかれてきた彼女
の気位はどんなものだっただろう。親戚ではあるが『使用人同然』と認識していた男を夫
にするなど、考えられない事だったのかもしれない。
漫然とこの屋敷の『お姫様』の胸中を思いながらイルカは紅茶を一口飲み、小さな焼き菓
子を口に入れた。
「……美味しい」
「それは良かった。…まあ、こんな情けない話を貴方にお聞かせしたのは、一応許婚者と
して、彼女の代わりを務めてくださる方にはきちんと事情を説明しておく必要があると思
ったからなのです。……イルカさんは、玻璃さんと同い年でしたか」
はい、とイルカは頷いた。見た目、十六、七の娘に変化しているつもりだ。
「イルカさんのように可愛らしいお嬢さんを、よくご両親がこんな遠い田舎に出してくだ
さいましたね。…今更ですが、大丈夫だったのですか? 学校とか、お勤めとか……」
こういう質問を受けるだろう事は想定済みだ。『イルカ』という少女の設定は、カカシと
打ち合わせて決めてある。
「大丈夫です。…学校の方はもう出ておりますし、勤めと言っても、家の商売を手伝うだ
けで……親は、広い世界を見るのもわたしの為になるだろうし、何よりも人様のお役に立
てるなら行っておいでって……父も母も、木ノ葉の忍の方をとても信用しておりますので。
…わたしをここまで送ってくださったくノ一の方もとても好い人でした」
そうですか、と八雲は安心したように微笑む。
「私も、例の雑誌の写真を見た時は、玻璃さんに似ている娘さんだと思ったのですが…」
「あの…っ…わ、わたし知らなくて…っ…あんな写真が……あんな……」
叫ぶように反応した少女の声がだんだん小さくなって、言葉をきちんと言い終えることも
出来ずに消えてしまう。
若い男性向けの雑誌をこんな少女が見るわけがない。自分の写真が知らぬ間にそんな雑誌
に掲載されていた事を知ったら、恥じるか怒るか面白がって喜ぶか。
この内気そうな少女にとっては、とても衝撃的で恥ずかしい事だったのだろうと八雲は察
した。可哀想に、声を震わせ、目元を真っ赤に染めて俯いてしまっている。
それがイルカの演技だとは思いもしない青年は慌てて謝った。
「ああ、すみません…あれは、盗み撮りですからね。貴方には何の責任もありません。恥
ずかしがらなくてもいいんです。迷惑だったでしょう。ちゃんと、わかっていますから」
イルカは僅かに顔を上げた。
「…その…勝手に貴方の写真を撮って雑誌に送るなんて、不埒な真似をした人間がいるも
のだと思いますが……私達は、その写真のおかげで貴方を捜すことが出来たわけですし…」
「……それは……そうなのでしょうけど……」
「…そう、確かにその髪の色や…顔立ちは玻璃さんに似ています。…きっと巫女の衣装を
つけ、化粧をしてしまえば、余程近づいてよく見なければ別人とはわかりますまい」
でも、と八雲は続けた。
「こうしてお話をすると、イルカさんは玻璃さんとは全然違いますね。…当たり前ですね
…別人なのですから」
眼を上げると、真面目な表情の八雲がじっとイルカを見つめていた。
「……八雲…さん…?」
訝しげなイルカの声に、八雲はふわりと表情を緩め、立ち上がる。
「……失礼しました。いや、お着きになったばかりでお疲れのところ、お時間を取らせて
しまって申し訳ありません。…私は今、この屋敷でおじさん…いや、琥珀様の手伝いをし
ているので、何かあったら言ってください。出来る限り便宜をはかりましょう」
イルカも慌てて立ち上がり、ぺこんと頭を下げた。
「…あの…っ…ありがとう…ございます」
八雲も軽く会釈すると、「では夕食までゆっくり休んでください」と言い置いて部屋から
出て行った。
イルカはすとんと椅子に腰を落とし、少し冷めてしまった紅茶を口に含む。
(………ふぅん……少し、内情が見えてきた……かな)
玻璃という娘の胸中すべてが推し量れるわけはない。だが、少しだけ彼女の気持ちもわか
るような気もした。八雲も今、彼女との事をすべて語ったわけではあるまい。まだ色々と
経緯も事情もあるのだろう。
そこでふと、イルカは八雲の彼女に対する気持ちを聞かなかった事に気づいた。
性格が合わなかった、彼女からは何とも思われていなかった、という事がすなわち『彼の
方も彼女が好きではない』になるだろうか。もしかしたら、八雲の方は玻璃が好きなのか
もしれない―――
(まあいい……俺は世間知らずな女の子のフリをして、巫女の代役をやって、祭りを無事
済ませて帰ればそれで任務終了だ)
他人の家の複雑な事情に首を突っ込むとロクな事にならない。それが、恋愛絡みならば尚
更だ。今回の任務には関係ないのだから。
「許婚者、か………」
イルカは奥の部屋に入って、ぽふんとベッドに身体を投げ出した。
「言い寄られても、口説かれちゃいけませんよ? イルカ先生」
「…………誰が誰に口説かれるんですか、カカシ先生」
突然かけられた声に動じる事無く、イルカは天井の一角を見上げた。
「結界を張りましたね?」
カカシは天井板をずらし、ストンと降りてきた。
「もちろんです。普通にしゃべっても大丈夫ですよ」
「やはり、素直にお帰りになってはいませんでしたか」
カカシはイルカの隣に腰掛けた。
「当然でショ。…アンタをここに送り届けたら帰って来いとは言われていませんからね。
…オレはオレで勝手にやらせてもらうつもりですよ。ま、こっそりとね。…イルカ先生、
アナタはアナタで任務を続けてください」
「…了解です。…ああ先生、さっきの八雲さんの話、全部聞いてました?」
「ええ。…何つーか、彼も気の毒ってか、大変そうな感じでしたねえ…」
カカシはつい、とイルカの顎を指先でとらえ、軽く唇にキスする。
「でも、アナタはあくまでも巫女さんの代役なの。……許婚者の代役までしなくていいの
よ?」
ぷっとイルカは噴き出した。
「やぁだ、お姉さんったら。…八雲さん、そんな人に見えました?」
「…オンナの勘よ。…あの男、イルカちゃんのコト気に入ったみたいなんだもの。気をつ
けなきゃダメ。いいわね?」
「はぁい。…一応、気をつけます」
「よろしい」
イルカはスッと声を落とした。
「……カカシ先生も、お気をつけて。貴方、目立つし……それこそ、どんな奴に目をつけ
られるか」
「あら、心配してくれるの?」
おどけたカカシの物言いに、イルカは眉を寄せて睨むように『彼女』を見据えた。そのイ
ルカの眼は、少女の顔なのに常のイルカの表情と重なってカカシの胸をざわめかせる。
「……当たり前です」
押し殺したようなその言い方も、いつものイルカのもの。
「あんた、俺の恋人なんでしょう…?」
「ええ。そして、アンタはオレの恋人ですよ」
カカシは満面に綺麗な笑みを浮かべた。
「―――…アンタを誰にも渡しはしませんから」
 
 

      



 

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