天よりきたるもの − 15
寝酒の盆を運んできた女中が部屋の外に出たのを見計らって、カカシは寝室に結界を張っ た。 ベッドに腰かけた姫神が、部屋を見回す。 「…部屋を…空間を『閉じた』か。…ほんに器用じゃの、そなたは。―――ヒトも面白い 事をするものじゃ。………だが、皆が皆、こんな真似が出来るわけではあるまい?」 「ええ、まあ。………私は、忍ですから。忍者っていうのは、結構器用なんですよ。…… …その憑巫の『彼』も、私の仲間ですが」 カカシは杯に酒を注ぎ、姫神に手渡した。 「ふむ、やはりの。………見た目だけか、おなごなのは」 「変化の術、といいまして。……己の姿を、他のものに一時的に変えるのです。彼が女性 に姿を変えたのは、まさに『彼が変化した少女』をここの人達が捜していたからなんです よ。…私も、男のまま女の子の護衛につくわけにもいかなくて、女性に変化しております」 姫神は興味深げにイルカの身体に触れた。 「……それが種明かしか。…こうして触れてみても、おなごそのものにしか思えぬが、面 白いものよのう。………その術、解けるのか?」 「今は無理です。私も、彼も。…里の長に、変化の術が解けない術、というのを上から掛 けられていますので。長にしか術は解けません」 ふうん、と姫神は曖昧に相槌を打つ。 「この者、元はどういう男じゃ?」 「………その姿にも、少し面影はありますよ。…彼の、母親を基にした変化らしいですか ら。黒髪、黒眼。………二十代半ば、背の高い、健康的な青年です。忍の学校で教師をし ていましてね。子供達に大変慕われて…優しくて、人望のある人です。………姫神様にな ら、おわかりになるのではないですか? 彼、とても綺麗な気を持っているでしょう」 姫神は胸に手を当てた。 「……ふむ。………そうじゃな。この気、そなた等の『力』の源じゃな?」 「ご明察です。我らはそれをチャクラと言う力に変換させて使います。…ところで姫神様、 私からもお伺いしたい事があるのですが、よろしいでしょうか」 「なんじゃ?」 「………巫女の条件です。……彼が、ここのご先祖様の血を引いている可能性は充分あり ますし、貴女がそう仰るなら間違いないのでしょうけれど。…残りの条件はどうなるので す? 清らかなる乙女ってところですが。……彼は、姿こそ少女に変えていますが本体は れっきとした男性ですし、厳密に申し上げて、その……『清らか』を性交経験があるかど うかという点だけで問えば、そんなわけはない。………なのに何で、彼に降りる事がお出 来になったんですか?」 姫神は一瞬キョトンとしたが、いきなり高らかに笑った。 「ほほほほほ、―――何を訊くのかと思えば! そんな事か」 機嫌良さそうに笑いながら、彼女はパタン、と上体をベッドに投げ出した。 「………この者が女を知っていようと、男と寝ていようと、そんな些細な事はわしにはど うでもいいのじゃ」 「―――は?」 カカシは耳を疑った。―――些細? 今、些細と言ったか? 「仮に、この者がこの姿のまま男と寝たとしても、わしが降りるに支障はなかった、とい う事よ」 「………あの、それじゃ清らかな乙女って…………」 「それはのう、わしが『巫』となる人間はこういう者が良い、と出した条件を、人間が自 分達なりに解釈した結果じゃろうな」 カカシがまだ納得した顔をしていないのを見て、彼女は悪戯な笑みを浮かべた。 「………そうさな、条件的に、今のこの者は『巫』として理想的と言えるな。『琥珀』の 血を引く、『男』でも『女』でもない者。………加えて、気の鍛錬を充分に積んでおって、 『場』としての安定が素晴しくいい。肉体も健康じゃ。しかも、姿は乙女。………これ以 上の憑巫など、おらぬ」 姫神の笑みは、苦笑に変わった。 「清らかな乙女、か。……男を知らない、未婚の女性。……まあ、そういう解釈になるで あろうな。…わしも陰の気質ゆえ、同じ陰の女の身体の方が降りやすいのだが―――どう も子を宿した事のある身体には降りにくい。それに、重要な『気』の問題だが、これはや はり年齢を重ねれば重ねるほど、澱がたまってしまう。人として生きておれば、自然なこ とよ。赤子に近ければ近いほど『綺麗』だが、肉体が未熟すぎても器として脆いし、わし の声を聞けても、意味が伝わらぬではお話にならんだろう。………そうなると、条件はか なり狭まる。『女』になる前の女、というわけじゃな。以前は、排卵が始まる前の少女、が 巫女としての条件だったと聞く。…だが、それでは七年ごとの祭にちょうどいい娘がいな い場合が多くなってしまうので、長い年月のうちに今の条件となったのではあるまいか。 ………ある意味、譲歩じゃな。…この者のようにチャクラという『力』を備え、気の鍛錬 を積んでおれば話は違ってこようが……巫女役の為に、生まれてからずっと修行をせよ、 というのも酷な話だしのう………それに、これにも適性がある。修行をしたからとて、皆 がみな、わしが降りられるほどの器になれるかは疑問じゃ」 カカシは額に指を当てた。 「え〜、つまり………憑巫の資格にも色々あるんだけど、ゴチャゴチャ条件つけるのは大 変だから、巫女役は琥珀さんの血筋の処女にしとけ、面倒だから! ………とそーなった みたいに聞こえますが………」 「だろうな。…現に、今まではそれで何とか祭は続いてきた。………これからも、そうじ ゃろう。………今年のように、わしが直に降りるなどという事はもう滅多になかろうよ」 姫神は、ふと眼を和ませる。 「でも、それで良い。…ヒトが、自分達を生かすものを大切に思い、自然を敬う気持ちを 忘れずにいる事こそが、肝心なのじゃ。………この憑巫は、そこのところをわきまえてお る人間のようじゃの。………わしの琥珀に『気』がよう似ておる。…会って、話をしてみ たいものじゃなあ………」 カカシは内心思いっきり首を横に振っていた。 (ジョーダンじゃないっす! ただでさえ妙なモノに懐かれやすいヒトなんだからっ! うっかり姫神様に惚れられたりしたらマズイってば、絶対!) そもそもイルカは『よそ者』だ。前の『琥珀』のように村に対して背負っているものが無 い。それじゃあ今度はさらっちゃおうかな〜、などと姫神が思わないという保証はどこに も無かった。むしろ、その展開が眼に見えるようだ。 イルカを姫神に会わせてはいけない。絶対。 何せ、相手は神様だ。イルカが少女の姿をしていようと、油断など出来ない。もしかした ら、火影の固定術を破ってしまう可能性だって皆無ではなかろう。 この間はとんだ失態を演じたが、二度までイルカを誘拐させるわけにはいかなかった。 (―――こ、今度こそ守りますから、イルカ先生!) 絶対守るとか言っておいて、誘拐を阻止出来なかったばかりか救出にも手間取って。 誘拐されている間、イルカがカカシをどう思っていたか、想像するだに恐ろしい。 イルカに落胆されてしまっただろうか。無能者、薄情者、と思われてはいまいか。 ここにきて、今更ながらにどん底な気分に引き戻されてしまったカカシだった。 翌日、日の沈む頃合いを見計らって、姫神はカカシを促した。 「………さ、参ろう。わしは帰る」 まだ目を覚まさない名主には目もくれず、姫神はカカシ一人を従えてさっさと屋敷を後に した。 「琥珀さんにお会いにならなくても、よろしいのですか?」 姫神はフ、と眼を細める。 「…良い。…あれは、わしの琥珀ではないしな」 そんなものか、とカカシは思った。そうかもしれない。屋敷にいる名主は、彼女の恋人で あった男の子孫であって、彼の生まれ変わりというわけでもないのだから。 スタスタと山に向かう姫神の背に、カカシは問いかけた。 「この時刻、というのは意味があるのですか? 確か、巫女が潔斎に向かう時刻も今頃で したし、あの祭の儀式も………」 「うむ。………何事にも、ちょうど良い時刻というものがあるのだ。わしの場合は、こう いうふうに日が落ち、星が瞬き始める頃が良いのじゃ」 姫神は易々と山を登っていく。元の身体が鍛えられた男のものだからか、『人外』の存在 ゆえか。疲れとは無縁の様子であった。 姫神とカカシは、すぐに儀式の行われた滝の前に着いた。 村人の姿は無かったが、まだ昨夜の祭壇がそのままになっている。 遥か高みから落ちる滝は、水量こそそう多くは無かったが、滝つぼの深い色はどこか人を 寄せ付けない厳かさを漂わせ、滝から飛散する飛沫は周囲に清涼な空気をもたらしていた。 祭壇に昇った姫神の後を追い、カカシも祭壇に上がる。 「姫神様。…その身体にお降りになる時は、琥珀さんの祝詞や、この床の呪陣が必要だっ たようですが。お帰りになるのに、何かそういう決まりごとはあるのですか?」 「…いや? 元いた場所に戻るだけだからな。…わしがその気になれば、この憑巫から離 れるのはそう難しいことではあるまいよ」 薄っすらと微笑んだ少女は、顔に降りかかる飛沫を避けもせずに滝を見上げた。 「………そなただけに言おう。…わしは、おそらくは神などではない。………神、という ものがわしにはよくわからぬ。人とは違う刻を生きる、ただの妖しじゃ」 カカシは即座に首を振った。 「…ですが、姫神様。…人にとって、人を超える能力を持った、人の理に縛られない存在 が自分たちを護り、導くものだった場合―――それを『神』と呼ぶのです。この村の者に とって、貴方は紛れも無く『神様』なんです」 「………かもしれぬな。しかし、もっと先の世になった時……わしはもう、村を護っては やれぬかもしれん。………時を重ねるごとに、この界にあった太古の『気』が薄くなって きておってな―――わしも、かなり力を失った。………最初に琥珀と出逢うた時既に、人 の姿を取るのも難しい程じゃった。………ここ二百年ほどは、七年ごとの託宣の際に目覚 めるほかは、この山の奥深くで眠るだけ………後、五十年…か、百年は、神降ろしに応え ることも出来ようが……その後はおそらく、わし自身が持つまい。…妖しも、命は尽きる からな」 姫神はカカシを見上げて苦笑を浮かべる。 「うっかり、エサに恋するものではないのう」 驚いて眼を瞠るカカシに、姫神は「ついでじゃ、昔話を聞いてゆけ」と続けた。 「わしが一等先に出逢って契った琥珀はな、元々はわしが新しい命をつくる為に捕らえた エサだったのよ。…わしは、今ある姿での力が衰えた時、わしとは対極の陽の質を持つ生 き物を取り込んで…つまりは『喰って』糧とし、次の身体を作って命を繋げていく妖しじ ゃ。…強い力を得るには、やはり生き物として高等な種族である人間が、エサとしても好 ましい。……おや、どうした。顔色が悪いぞ? カカシ」 カカシは急いで首を振る。 「いえ、何でも………」 ほほほ、と少女は笑った。 「安心せい、もうわしにはそうして命を繋ぐだけの力も無い。………わしは、他の命を取 り込んで自分の身体を作るのが、あまり好きではなくてなあ………何だか、浅ましいじゃ ろう? …で、あまり頻繁にそうした事をしなかった。でも、もう糧を得て新しい身体を 作らねば先が無い、というところまできてしまって………そして、出逢ったのが琥珀とい うわけじゃ」 「………それじゃ………」 「うん。………やはりな、そなたらが獣や魚を獲り、米や麦を刈って食すのと、わしが人 間の男を喰うのは、同じでは無いということよ。人間の霊気は、他の獣より重いからのう ………ましてや、言葉を交わしてしまっては………」 「喰えなかった…というわけですか?」 「………惚れた男を我が身に取り込むというのも、魅力的だったんだがな。………でも、 喰ってしまってはもう、彼に逢えんではないか………」 自分の命を繋ぐことより、愛した男と一秒でも長く共に在りたかった。 そう呟く姫神の気持ちが、カカシにはわかるような気がした。 本来結ばれるはずの無い相手に恋したのは、自分も同じだったから。 もしも、イルカを殺さねば自分の命が短くなるのだとしても―――やはり、殺すことなど 出来ない。 出来るわけが無い。 さて、と姫神は顔を上げた。 「………久々に、人と言葉を交わせて楽しかったぞ。…わしは次の祭まで、また眠るとし よう。…あの、親不孝者の娘を持った琥珀に、よしなに伝えておくれ。………それと、 この憑巫にもな」 彼女は眼を閉じ、すう、と深呼吸した。 「ではな、カカシ」 「………おやすみなさい、姫神様」 途端、カクン、と膝から力が抜け、糸が切れた操り人形のようにその場にくずおれそうに なったイルカの身体を、慌ててカカシは抱きとめた。 「イルカ先生っ!」 イルカは気を失っているらしく、ピクリとも動かない。 彼の呼吸や脈拍に乱れが無いのを確認したカカシは、ホッと息をついた。 どうどうと音を立てて天から注がれているような滝の中から、『姫神』の微かな声がカカシ の頭の中に届く。 ―――本来の姿のそなたらにも逢ってみたかったものじゃ。さぞかし『美味そう』な男共 であったろうにのう……… カカシは肩を竦め、ひとつため息をついた。 「………意外にお茶目なお姫様だこと………」 |
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