天よりきたるもの − 14

 

やがて琥珀は娘に向かい、静かに言った。
「…お前の望み通り、八雲との婚約は破棄としよう」
「お…父…さま………」
「…お前のような娘を八雲に押し付けるわけにはいかん。それではあまりに彼が気の毒だ。
…………八雲にはもっと似合いのいい娘さんに嫁に来てもらって、私の跡を継いでもらう
事にする」
玻璃は青白い顔で、忍者たちに拘束されている男と、辛そうな表情で俯いている許婚者を
見た。
「…………あ、あたし…………あたしはどうなるの…………」
琥珀は今、娘の玻璃ではなく、分家の息子である八雲を選んだ。いや、彼は最初から八雲
に跡目を継がせる気だったのだ。自分の一人娘の『婿』となることが跡目の絶対条件では
なかった。むしろ玻璃を八雲の妻にする事で、彼女にこの屋敷に居続ける権利と、女主人
としての安泰な暮らしを与える心積もりだったのである。
そんな父親の心が、彼女にわかるはずもなく。
「―――あたしはどうなるのぉっっ」
玻璃の叫びに、父親は重い息をついた。
「………私の娘だからといって、犯した罪を無かった事にするわけにはいかない。…私が
処断するわけにはいかないのだよ、玻璃。…きちんと司法の場で裁いてもらって…それを
受け入れねば」
玻璃は首を振った。
「いやっ…お、お父様…助けて………怖い、あたし、怖いっ………」
「……安心しなさい、玻璃。なに、死罪にはなるまいよ。お前は自分の愚かさを償う為に、
少し痛い目を見るかもしれないが。………死ぬわけではないのなら、良いのだろう? …
さっき、お前はそう言ったではないか」
「……………おとう………さま………あたしを…見捨てるの………?………」
父親は悲しげな目で彼女を見下ろす。
私利私欲で他人を盗賊に売り渡した娘の身勝手を、名主は―――名主だからこそ、赦すわ
けにはいかなかった。
今度こそ、玻璃は声を上げて泣き出した。
ふ、と姫神は息をついて立ち上がり、泣いている娘に歩み寄る。
「………これ、娘。……わしは、人間がその秩序を守る為に決めた罪や罰に口を挟む事は
出来ぬがの。お前はまだ若い。やり直しなど、いくらでも出来よう。そう世界の終わりの
ように泣くものではないわ。…それから、父を恨むでないぞ。……琥珀も辛いのじゃ。村
ひとつ、守るのは容易い事ではない。名主として、己の情を取るわけにはゆかぬ場合も多
いという事よ。………わしがその昔、一等最初に契約を交わした『琥珀』もそうじゃった」
玻璃は、涙に濡れた顔を上げて、微笑む姫神を見上げた。
「…そう、琥珀というのはな、わしと一等最初に出会って契約を交わした男よ。…綺麗な
琥珀色の眼をしておってなあ………それで、わしが名を授けた。………以来、この村であ
の祭を仕切るべき名主は、琥珀と名乗る。そういう決まりにした。何百年経とうと、その
名を聞けばわしは契約を思い出す。………愛した男との約束を破らずにすむ………」
ふふ、と彼女は寂しそうに笑った。
「彼はな、人間を捨ててわしと一緒になる事を選んではくれなかった。………捨てられな
かったのじゃ。この村の礎となる集落は出来たばかり。彼は、そこの指導者で………人々
は、彼を頼りにしておった。その人々を、見捨てるような真似は出来なかったのじゃな。
………だが、そんな男だからこそ、わしも惚れたのだと思う。………彼をさらえば自分の
ものにする事も出来たが………出来なかった」
我が身の行く末を嘆いていた娘は、『神様』から思ってもみなかった話を聞かされて、一時
泣くことを忘れた。
この村でずっと途切れることなく行われてきた『祭』の発端は、一人の人間の青年と、人
ならざる『神』の恋だったのだと初めて知った玻璃は、掠れた声で姫神に問う。
「………何故………? 愛していたのでしょう………?」
姫神は唇に笑みを浮かべたまま眼を閉じた。
「……愛していたから、じゃな。………周りを踏みつけにし、自分達だけが幸せになって
もな…そんな真似をしてつかんだ幸せなど、長続きするわけがない。やがて後悔で彼は…
彼の心は壊れていくであろう。…それがわかっていて、何故出来る? ………だからわし
は、違う形で彼を愛していこうと思った。…彼が守った人々を、子々孫々まで守っていく。
………それが、わしの選んだ愛の形ぞ」
「………………周りを…踏み付けにした…幸せ…………」
玻璃はきゅ、と唇を噛む。
「…あたしは…それをやろうとした………のね。……他の人を不幸にして、自分だけ幸せ
になろうとした………」
「玻璃さん」
八雲は静かに彼女に近づき、手を差し伸べた。
「……自分から番所に出頭すれば、罪は軽減されると聞いたことがあります。……私も一
緒に参りますから………だから………」
「…八雲………兄さん………」
あのよ、と声を上げたのはゲンジだった。
「玻璃。………俺………俺な、お前の親父さんの財産に目が眩んだのはホントだし、お前
にたくさんウソついたけど………今、お前が泣いてるの初めて見て………お前の泣き顔は
見たくねえなって…思った。本当だよ。…あの、あのな…お役人には、ちゃんと言うから。
…俺が、お前を騙したんだって、ちゃんと言うから。………だから、あんま泣くなよ」
玻璃はゲンジを眺め、泣き笑いの顔になる。
「……レンガ……いえ、ゲンジさん、だったわね。……ありがと。…でも、いいの。あた
し、悪いことしたんだもの………お父様に迷惑かけて…八雲兄さんにも、みんなにも……
だから、ちゃんと償わなきゃ…いけないの。……そうでしょう?」
玻璃は、姫神が降りている少女に向かい、頭を下げた。
「………ごめんなさい」
姫神は肩を竦めるように首を軽く傾げる。
「………わしに謝まられてものう………」
少女は首を振った。
「…姫神様にも悪いことをしたと思います。………それから、その子に………私が謝って
いたと、伝えてください。……酷い事して、本当にごめんなさい………」
それから玻璃は、父親を振り返った。
「………お父様。…償いを済ませたら、またここに戻ってきていい…? あたし、お父様
の娘でいても、いいですか………?」
琥珀も、泣くのを堪えているような顔に、微かな笑みを浮かべてみせた。
「ああ。………もちろんだ。待っているよ、玻璃」
 
 
アスマとヒダネは、八雲に付き添われた玻璃とゲンジを隣町の番所まで送り届けてから、
その足で下忍たちを拾って里に帰還することになった。
「お見苦しい所をお見せしました。………ご容赦ください」
アスマ達が去って、ガランとした客間で、琥珀は姫神に謝罪した。
「私も悪いのです。………母親を早くに失った娘が不憫で、甘やかして育ててしまった。
それに、忙しさにかまけて…ろくにあれの顔も見ずにいた気がします。………私も、責任
を取るつもりでおります」
「……そうさな、そう思うのなら、次の祭にはきちんとわしの声を聞ける巫女を用意する
のじゃな。…この憑巫のような者がそう何人もおるわけがないからのう。次もこういう形
で降りられるとはわしも思うてはおらんから、せめて声を届けられる程度には精進させい」
は、と畏まる琥珀に、姫神は笑みを投げかける。
「それからの……琥珀、おぬしが名主ぞ。まだ隠居は早い。この村を守るのがおぬしの役
目じゃ。……守護というても、わしに出来ることは大気の流れを読み、水霊をなだめるこ
とくらいだからな。ここまでこの村が続き、大きくなったのは代々の琥珀が頑張ってきた
からなのじゃ。そこのところを忘れるではないぞ」
さて、と姫神は細い腕を突き上げて伸びをした。
「………色々あって、疲れたのう。…琥珀、おぬしも休めよ。娘の事が心配だろうが、お
ぬし、酷い顔をしておる。…倒れる寸前じゃろうに………よく、頑張ったの」
姫神は、琥珀の首筋に両手の指先を当てた。
「わしからの褒美じゃ。………『気』を分けてやろう」
カカシの眼に、彼女の指先からもれ出た燐光が男の首筋に吸い込まれていくのが見えた。
琥珀にも、自分の中に彼女の『力』が注ぎ込まれたのがわかったのだろう。
「………ありがとう…ございます。身に余る…こ……」
切れ切れに礼を言い、琥珀は意識を失った。姫神の方に倒れ掛かる彼を、カカシは咄嗟に
飛び出して支える。
「―――どなたか! いらしてください!」
カカシの声に応じ、奥から女中が走り出てくる。そして、ぐったりとしてカカシに支えら
れている主人を見て悲鳴を上げた。
「旦那様っ!」
「…大丈夫。お疲れが出ただけのようです。…寝所の用意は出来ていますか? 二、三日
ゆっくりと寝かせて差し上げれば、回復なさると思います」
「………ほん…とうに………?」
心配そうな女中をなだめたのは、姫神だった。
「その者の言う通りじゃ、案ずるでない。………気の毒にのう……心労というのは、時に
人の命をも奪うという。琥珀は、よう耐えた。……後は、よくよく休ませ、滋養のつくも
のでも食べさせておやり。…皆で支えてやれば、癒えるのも早かろうて」
「は、はいっ」
女中の指示で男性の使用人が二人がかりで主人を運び、後には姫神とカカシが残された。
「………効きすぎる薬は、過ぎると毒にもなりますが」
「大丈夫じゃ。加減した」
『神』の力を、体力の弱っている人間に注ぎ込むのはかえって負担になるのではないかと
いうカカシの懸念を、彼女は軽く笑い飛ばした。
「二、三日休めば良うなると言ったのは、そなたではないか。……そうじゃなあ、それく
らいは昏倒しているかもしれんが……ま、眼が覚めれば回復はしておるはずじゃ。…わし
も、彼が目覚めるまではいてやりたいが………そうも、いかぬの」
「―――お戻りに、なりますか」
姫神は窓辺に寄り、眼を閉じた。
「そうじゃな。……この憑巫は随分と力のある者じゃが、わしがこのまま居続けては身体
を損なってしまうゆえ、戻らねばいかん。…が、今宵は無理じゃな。…村人がまだ、山で
祭の続きをしておる。………明日の夜じゃ。あと一日ならば、この者にも支障はあるまい」
さて、と姫神は卓から銚子を取り上げて軽く振った。
「………飲み直すかの。そなたとの話も残っておることだし」
「その憑巫についてですか? ………どうしても今、お聞きになりたいですか?」
「人の耳が気になるか」
そこへ、先程の女中が戻ってきた。
「あの………ひ、姫神様のご寝所は………どうすればよろしいでしょうか」
「ああ、この憑巫はここに滞在していたのであろう? 使っていた部屋があるなら、そこ
へ案内せい。わしも、少し身体を伸ばしたい」
はい、と畏まり、彼女はカカシの方に視線を移す。
「あの………」
「ああ、私は姫神様の護衛をしますから、部屋とか気にしないでください。…それから、
姫神様に寝酒のご用意を」
少女はニッと満足げに笑った。
「気が利くではないか」
 

      



 

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