師走忍者えれじぃ
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午後九時。 「うう、さぶ……」 八時を回った辺りから急に気温が下がって冷え込んできた。 アカデミーはもう数日前から冬の休みに入っていたが、忍師は子供と一緒に休めるわけで はない。 年末の事務処理も、来年の用意もあるのだ。イルカ達忍師は、連日出勤して事務作業に勤 しんでいた。 人気の無い教員室を見回し、イルカはそっとため息をつく。 カカシが任務に出てしまったので、早い時間に帰る気がせず、ついつい明日でもいい仕事 に手をつけ、いきおい没頭してこんな時間に独りになるまで残業をしてしまった。 イルカは無意識に手を上げ、胴衣の上から内ポケットの守り袋を確かめるように叩いた。 夏祭りの時、神社でカカシが買ってくれたものだ。カカシの方はイルカの贈った守り袋を 持っているはず。 『矢弾除け』になるのだと書いてあった。 気休めに過ぎないのだとわかっていても、ついそういう物に願をかけずにはいられない。 (…あの人を護って下さい。どうか無事に俺のところに還してください。) カカシが請け負った任務内容は知らなかったが、どうやら彼が単独で出たと知ってから、 イルカは何度もこの言葉を胸の内で繰り返していた。 (一緒に正月を迎えるんです。迎えるって約束したんです。……そうしたら、この守り袋 をお返しして新しいのを買う為にまた神社に行きますから! お賽銭も奮発しちゃいま す! ですからお願いします、神様。あの人の為に雑煮を拵えて食べさせてやって、フツ ーお正月ってのはこういうものですよって、色々教えなきゃいけないし! その前に大掃 除なんかもあるし! …あの人冷蔵庫の中とか裏とか掃除したこと無いって言うんだもん な。信じられねえ。俺がやっちまってもいいけど、自分ちの冷蔵庫の面倒くらい自分で見 させなきゃ為にならんし! ああ、台所だけじゃねえなあ……風呂場とかトイレとかもだ。 あんまり使わないからそんなに汚れてませんよ〜…じゃねえだろ! その分ウチの使って んだな。…道理で最近水道代が………あ、いや…ですから神様…色々とやる事もあります んで、出来たら大晦日前に五体満足な彼を還して下さると嬉しいかなー…と……) バタ、とイルカは筆を机に置いた。 「……ハラ減った…帰ろう……」 大名屋敷に侵入してからもう三十分は経っていた。このくノ一との遭遇で無駄に時間を喰 った所為で、予定よりも遅れている。 「そこ、今度は十時の方向。頭はギリギリまで下げろ」 「了解」 他里の忍とはいえ、さすがにキャリアのある中忍である。カカシの最小限の指示でもきち んと意図通りの動きをしてくれた。まるでわかっていない下忍の子供を連れているよりは ずっとやりやすい。 「そろそろ本棟の天井裏を抜ける。……アンタの目的は、その向こうの蔵だったな。ここ までの道でトラップのクセとか、もうわかっただろう」 彼女はやや不安そうな顔で、ぎこちなく頷いた。 「え…ええ」 「じゃあ、ここまでだ。…ま、上手くやってくれよ。ああ、オレと会った事はアンタ、忘 れちまった方がいいぞ。…オレも忘れるから。じゃーね」 「あの…」 「何?」 「御礼を言うわ…ありがとう、カカシ上忍。…私、実はね…来年、結婚して忍者辞めるつ もりだったの。……こんな所で罠にかかって死んだら、彼を悲しませるところだった。… ここで会ったのが貴方で良かった……」 妙齢のくノ一はにっこり微笑む。紅のような華は無かったが、そこそこの美人だ。花嫁 姿はきっと美しかろう。カカシは眼を細めた。 「…そう。そりゃ良かったね。…お幸せにね、霧隠れのお姐さん。……じゃあ、お祝い代 わりに年末大サービスで教えてあげる。……蔵には忍崩れの警備が常時二人。一人は忍犬 遣いだ。こいつら何とかしねーと目的は達せられないよ」 彼女は眼を丸くする。 「それ…って…やだっ…知ってたんならもっと早く教えてよ!」 「ってゆーか、単独で仕事すんなら潜入先の事もっと調べてから来なさいよ!」 これ以上関わっていられるかと、カカシは印を切った。 「んじゃ、サヨナラ」 「あ…」 目の前で、木ノ葉の上忍の姿はかき消えた。彼女は薄暗い天井裏にポツンと置き去りにな る。 「……考えてみたらさ、こっちは彼の目的知らないって不公平よねー…」 唇を尖らせてボヤいたミナトは、独り小さく笑った。 「………変なヒト」 「……あ〜変な女と関わっちまった……」 カカシは本来の自分の目的地へ急いでいた。カカシは本当にギリギリの所まで彼女を送っ てやっていたのだ。彼の目的地は、もっと別の建物で棟が違うのである。 「寿退職か〜…女の子っていいねえ。そういう晴れやかな引退の仕方があってさ〜……オ レなんてさ、イルカ先生とは結婚できないしさっ……ボロカスになるまでこき使われてさ っ…独りで寂しく死ぬんだ。きっとそーだ」 「何でそのイルカ先生とは結婚できないの?」 「何でってさあ、彼は男だし……ってオイ! 何で付いて来てんだよアンタはっ!」 エヘヘェ、とミナトは笑った。 「私、追跡術は得意なのよね。カカシ上忍って、人がいいのね。…蔵とは反対方向じゃな い、こっち。…それとも私は囮に使われるところだったのかしら?」 確かに心のどこかでは、彼女が騒ぎを起こしてくれれば警備の注意が彼女に集中して自分 の仕事がやりやすくなる、とカカシも思わないでもなかったが、それが狙いだったわけで もない。狙いならばもっと確実にそういう事態になるように画策する。 「考え過ぎだ、そりゃ! せっかく送ってやったのに人の厚意を無にする気かアンタ」 声を殺して凄むカカシに、彼女は微笑み返す。 「…ねえ、そっちの仕事、手伝ってあげるから、こっちのも手伝ってくれないかしら。… 忍犬も遣う忍崩れ二人なんて、一度に殺る自信無くて…」 「オレの方は手伝いなんざいらんのよ。自分の里のサポートも足手纏いだから断ったのに、 何で…」 彼女はそっぽを向いて指を唇に当て、わざとらしく任務には関係ない話題を蒸し返す。 「カカシ上忍の恋人って男なんだ〜。いい男なのにゲイなんてもったいないなあ」 「………アンタには関係ないでしょ……アンタはさっさと彼氏と結婚して可愛い赤ちゃん でも産んで、幸せな家庭を築きなさい」 カカシは彼女を追い払うようにシッシッと手を振った。 「……それは…無理かもね…」 「?」 彼女の沈んだ声に、カカシはつい振り向いてしまった。彼女は項垂れ、唇を噛んでいる。 「…私、前にちょっと…色々あって…つまり……子供出来る可能性は低いっていうか……」 カカシは一瞬絶句した。 「………ゴメン」 素直に謝ったカカシに、彼女は驚いたように眼を瞠った。 「…ううん、いいの。……あのね、彼は忍者じゃなくて、普通の人なの。私をお嫁にして も子供は出来ないかもしれないって、わかっているのに…それでもいいって…そう言って くれているのよ。…だから、気にしないで。…ごめんなさい。私も何で貴方にこんな事言 っちゃったのかしら…」 「…いい人なんだな。その彼氏」 エヘ、と彼女は照れる。 「そうね。私なんかにはもったいない人ね。…傍にいてくれたらそれでいい。一緒に生き ていこうって…そう言ってくれたの…」 カカシは瞬間、イルカの顔を思い出した。会ったばかりのこの女の、見も知らぬ恋人と自 分の恋人が重なる。 『一緒にいましょう、カカシ先生。…出来るだけ長く、一緒に生きていきましょう―――』 ハ、とカカシは息を吐いた。 「………仕方ないなあ。…アンタ、ここで待ってな。…マジでオレは独りの方が仕事が早 いんだ。いいな? ついて来るなよ!」 「手伝ってくれるの?」 「乗りかかった舟ってヤツ? しょうがないっしょ」 や〜れやれ、とカカシはため息をつきながら手を振ってみせる。 「ありがとっ! やっぱ、いい人ね! カカシ上忍」 忍者が『いい人』でど〜すんのヨ…と思いつつ、その『いい人』の代表選手みたいな男が 恋人のカカシは苦笑をかみ殺す。 (…この年の瀬に何やってんのかねえ…オレも…) 一番の難関、トラップ群を突破してしまえば、後はカカシの仕事は楽なものだった。 あまりにも内側になると、身内の者が罠にかかる恐れがあるので罠もそう過激なものでは なくなるのだ。せいぜいが鳴子程度の簡単な警報装置だけである。 カカシは額当てを上げて左眼で『視』た。 (……よし。術式は張ってない、と。…ま、金庫でもないしそれ程警戒はしていないとは 思っていたが…思った以上に無防備だな。忍を使ってまで取りには来ないと思っていたの か……) そして、物入れの数ある引き出しから目当てのものを探し出して懐に収める。 (……よしよし、これか。…迂闊によその国の大名なんかに弱味握られてんじゃないよ 〜火の国の殿様も! …くっだらねー事にこの写輪眼のカカシ様を使いやがって……ま、 仕方ないけどね。火の国が風邪ひくと木ノ葉もクシャミじゃ済まないからねえ…因果な…) 「わ、もう終わったんだ。早かったのね。…さすが」 ミナトは戻ってきたカカシに小声で囁いた。 「まあ仕事自体はねえ……オレが出張るまでもないよ〜なもんだからね……」 「わかってるわ。さっきのトラップね。…確かに、あれを抜けるのは容易じゃないわ。… くやしいけど、貴方の言った通り。私だけじゃ今頃絶対に引っ掛かってた。……前線に二 十年近くいた貴方が今まで生きてこられた理由がわかる気がするわ」 カカシは微かに微笑んでみせた。 「…ま、オレも自分の力だけで生きてきたワケじゃないさ。…さ、行くぞ。さっさと終わ らせてこんな所オサラバだ」 他里のくノ一は胸の前で小さくガッツポーズをしてみせる。 「そして暖かいコタツでミカンよねっ!」 「お鍋忘れちゃダメよお、お姐さん」 彼がいつクナイを放ったのか。 ミナトには全く知覚出来なかった。気づいた時は、警備の男達は声も上げられずに絶命し て地に転がっていたのである。自分がこういう末路を辿らなかったのは奇跡だったと改め て彼女は思う。 「早くしろ! こういう所の警備は大抵、詰め所に定期連絡を入れる。連絡が一分でも遅 れたら、誰か見に来るぞ」 「了解っ」 彼女は大急ぎで蔵の鍵を解除し、慎重に警報装置を避けて目的の物を見つけた。すり替え た事を悟られないように封を施し、また『賊の目的』が別の物であるかのように見せる為 に、いかにも泥棒が欲しがりそうな高価な品物を失敬する。 足音を忍ばせて蔵の入口まで戻ると、木ノ葉の上忍は暢気に犬と遊んでいた。 彼が既に黙って姿を消している可能性の方が高いだろうと思っていたミナトは、その姿に 思わずホッと息をつく。 「おかえり。結構早かったねえ。この蔵広いからもっと時間掛かるかと思ったよ」 「…待っててくれたのね。ありがとう」 「オレ、中途半端は嫌いだからね。手伝うって言ったからには手伝うし、アンタが仕事し ているうちに消えるんなら一言そう言うさ」 「……すごい律義。…写輪眼のカカシのイメージがどんどん変わっちゃう。手配帳に書い てあるのと全然違うわ」 カカシは小さく噴き出した。 「知ってる。オレ、スゲー人でなしみたいに書いてあるでしょ。…ま、ある意味事実よ。 戦場じゃあオレ性格変わるもん。良かったねえ、ここが戦場じゃなくて」 「………本当。自分の運に感謝するわ」 カカシはよしよし、と撫でていた犬の頭にしばらく掌を当てる。と、犬はコロリと地面に 転がった。 「…殺しちゃったの?」 「ん? いや、忍犬っつーても、人語まではしゃべれねえレベルのコだったし。ちょっと 眠らせただけ。…オレ、犬は好きだからさあ。殺さずに済んで良かったわ」 警備の人間を眉一つ動かさず瞬殺してのけた男は、眠らせた犬の頭を愛しそうに撫でてい る。 「…もしかして、人間より犬の方が好きってタイプ?」 カカシは大袈裟に眼を丸くした。 「冗談。犬とヤる趣味はないよ〜…人間の方がイイに決まってるでしょ」 「そういう意味じゃないわよっ!」 案外純情らしいくノ一は、真っ赤になった。カカシは悪戯っぽい笑顔をすうっとおさめて チラリと視線を屋敷の方に流す。 「時間切れだ。来るぞ」 「…ええ」 警備の異変に気づいたのだろう。大勢の気配が近づいてくる。二人はさっさとその場を 離れた。 死体を発見したらしい大声、悲鳴、怒号を背中で聞きながらカカシ達は無言で走る。敷 地の端でカカシは彼女を振り返った。 「アンタともここでお別れだな。…気をつけてお帰り。…大事な彼氏が待ってるんだろ?」 「…助かったわ。ありがと、カカシ上忍。…貴方も、気をつけて。大事な彼氏が待ってい るんでしょ?」 カカシの目許が微かに染まった。 「……やっぱ殺っとこーかな、このアマ…」 「あら怖い。退散退散」 霧隠れのくノ一はひょいと土塀の上に飛び上がった。 「……忘れろよ」 「………忘れるわ」 そして彼女は姿を消す間際、肩越しに微笑んだ。 「………貴方も、お幸せにね。良いお年を」 |
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