線香花火
九月に入ったばかりのとある日。 イルカは、夕飯の買い物をしながらふと足を止めた。 その口角が、僅かに緩む。 「懐かしいな………」 見つけたものを手に取って眺めた後、イルカはそれを買い物カゴに入れた。 同日、夕刻。 仕入れた食材で二人分の食事を作っていたイルカは、ノックに気づいた。 すぐに、玄関まで行って戸を開ける。 合鍵は渡しただろう、とは言わない。 カカシは、イルカにこのドアを開けてもらいたがっているのだから。 「おかえりなさい、カカシさん」 「ただいまです〜う、イルカ先生! はいこれ、お土産です。焼き鳥」 カカシに手渡された温かい包みを受け取り、イルカは微笑んだ。 「ありがとうございます。美味そうな匂いですね」 「そーなんですよー。匂いにつられてつい、ね。………イルカ先生が何か作ってくれてるって、わかってたんですけど」 「ハハハ、焼き鳥が数本増えたからって、困るようなヤワな胃袋してませんから。万が一余っても、明日食えばいいんです」 「ですね」 カカシは三和土に腰を下ろしてサンダルを脱いだ。そして何やら困ったように己の足先を見て固まっている。 イルカはすぐに、その理由に気づいた。 「カカシさん、ちょっとそのままで待っててください」 「はーい。スミマセン」 カカシは素直にサンダルを脱いだ姿勢のまま、足を宙に浮かせて待っている。 その白い足指が泥で汚れていた。それを恥じるように、ちょこっと指を内側に曲げているのが可愛い。 お湯の入ったバケツとタオルを手に、イルカは玄関に戻った。 「はい、ここに足入れて、洗ってください」 「わ、わざわざスミマセン。雑巾で良かったのに………」 「濡れ雑巾で拭くより、サッパリしますから。…湿地帯にでも行ったんですか?」 「んー、まあちょっと………泥んこんトコ行きました………」 「それはお疲れ様でしたね。ああ、じゃあ風呂先に入ってらっしゃい。俺はもう風呂は済ませてるんで、風呂桶の中で身体洗っても構いませんよ?」 仕舞い湯に浸かりながら、湯が汚れるのを気にせずにあっちこっち身体を擦るのは気持ちがいい。それはイルカ自身がよく知っている。 「え? いいんですか?」 カカシは嬉しげにパタパタと見えない尻尾を振った。 「んじゃ、お言葉に甘えて………あ、イルカせんせ、これもこれも」 と、カカシは一升瓶を持ち上げる。 「おや、嬉しいですね。いつもすみません」 「何の。こちらこそ、いっつもメシ作って頂いちゃってますから」 瓶を受け取ったイルカは、銘柄に気づいて眼を細めた。確か、随分前にこの酒が好きだと言った記憶がある。 「これって………もしかして、覚えていたんですか?」 ふふ、とカカシは笑った。 「………アナタの言った事なら、大抵覚えています」 「ありがとうございます。…ああ、生徒が皆、そう言ってくれれば俺は苦労しないで済むのですけどねえ」 カカシはカクンと肩を落とした。 「………イルカ先生………」 「冗談ですよ。本当に、嬉しいです。…さ、風呂早く済ませてきてください。…今日は茄子の味噌田楽に鯵の開き、きゅうりとタコの酢の物にシジミの味噌汁です。魚、焼き始めますから」 メニューを聞いた上忍は、眼を輝かせて風呂場にすっ飛んで行った。 ぱんっとカカシは両手を合わせた。 「ごちそうさまでした!」 「はい、おそまつさま」 結局、カカシの買ってきた焼き鳥も余さず綺麗に彼らの胃に納まった。 美味しそうに食事を平らげるカカシを見ると、イルカは安心する。 カカシが旺盛な食欲を示すのは、肉体的な疲労が軽く、精神的にも落ち込んでいない時だ。 『忍者は体力勝負だ!』と言い、食える時に食う、を実践しているカカシだったが、何人も敵を殺めるような任務の後は、さすがに食欲が落ちるらしい。酷い時は、食べられなくなってガクンと体重を落としてしまう。 だから、カカシの皿が綺麗にカラになると、イルカは安心するのである。 「熱い茶でも飲みましょうか」 「あ、いいですね」 外はまだ蒸し暑い。 空調の効いた部屋で熱い茶を飲むのは、ささやかな贅沢だ。 昔の、扇風機しかなかった古いイルカのアパートでは望めなかった贅沢。 引っ越して良かった、としみじみイルカは思った。 「あれ? イルカ先生、これって………」 何かを見つけたらしいカカシの声にイルカが振り返ると、彼は細長い袋を手に取って眺めていた。 「それですか? 線香花火ですよ」 「…やっぱ、そうですよね。一瞬、暗部が新開発した爆薬かと」 「………そんなモン、一介の中忍の部屋にはありません。…買い物をしていた時にちょっと見かけて…懐かしくなって、つい衝動買いを。…子供みたいですね」 と、イルカは照れてハナの傷痕を指先でかく。 「………で、やるんですか? これ」 「えっと………ダメですかね? いい大人が、おかしいでしょうか」 カカシは、ふわっと笑った。 「とんでもない。………オレも懐かしいです、線香花火。やりましょ、中庭で」 チチッ…ヂリヂリヂリ、と独特の火花が散る。 派手さの全く無い、地味な花火だ。 だが、その素朴さを好む人は多い。 イルカも子供の頃はもっと派手な花火を好んだが、いつの間にかこういう素朴な花火が好きになっていた。 カカシは、二本目の花火に火をつけ、ぼそっと呟いた。 「………この花火、昔一度だけやったこと、あります。………すっごいガキの頃。………父さんの膝に抱かれていたんだから、本当に小さな時ですね。三つくらいかな」 あのアルバムの件以来、カカシは時々父親の事を口に出すようになった。 それが、イルカには嬉しい。 それまでのカカシは、師匠であった四代目の事は時折話しても、親の事は一切言わなかった。彼の父親の亡くなり方が、カカシの心に深い傷をつけていたのだとイルカが知ったのは、つい最近の事。カカシが父親の思い出を語れるようになったという事は、少しずつでもその傷が癒えてきている証拠だろう。 短い間だったとはいえ、幼いカカシを愛していた親がちゃんといたのも、イルカにとっては嬉しいことだった。 「…お父さんと、花火を?」 カカシは首を傾げた。 「ええ。………先生もいたかな? いやたぶん、先生が持ち込んだんでしょうね、花火。ウチの親父は、そんな事に気の回る男じゃなかったと思うから」 ふふふ、とカカシは笑った。 「………そうそう、思い出した。ホラ、線香花火ってこんな風に………終わりはちょぴっとずつ、息も絶え絶え、みたいなか細い火花を散らして、耐え切れなくなったみたいにボトッと落ちるでしょ、火の玉。…それを見て、メソメソと泣くんですよ、オレが」 「カカシ先生が? ………って、失礼。そんなに小さな子供の頃なら、泣きもしますよね」 カカシは肩を竦める。 「ま、ね。………線香花火の終わりの様子が、子供心に悲しかったのかもしれませんけど。オレが泣き始めると、慌てて先生がまた火をつけて。その繰り返し。でも、無尽蔵に花火はありませんから、そのうちに最後の一本になりますよね」 イルカが興味津々、といった顔で訊いた。 「で、どうなったんですか?」 「最後の一本が終わって、ポトッと火の玉が落ちた―――はずなんですけど、その瞬間をオレは覚えていません」 「あ……まあ、小さな頃のことですし………」 覚えていなくても無理は無い、とイルカは思ったのだが。 カカシは肩を揺らして笑い始めた。 「違うんです。父さん、何を思ったのかいきなりチャクラ刀抜いて―――ホラ、カカシ見てごらん。これも綺麗だろうって。……白い牙のチャクラ刀ですよ? チャクラ通せば、線香花火なんか霞んじゃうほど光りますよ。夜だったし」 イルカは想像してみた。 「………確かに………綺麗……でしょうね」 カカシは笑い続ける。 「綺麗かもしれませんけど、ガキの眼にはかなり怖いですよ?」 白く光り輝く、チャクラ刀。美しいが、それは数々の命を絶って来た刃。 「あ………じゃあ」 ええ、とカカシは頷いた。 「もっと大泣き」 「あらら………」 終わってしまう線香花火から、幼い息子の気を逸らそうとして咄嗟に取った父の苦肉の策だったのだろうに、裏目に出てしまったのか。 フー、とカカシは息をついた。 「そういう、素っ頓狂なところもある人だったんですよねー………あ、思い出した。結局オレは、先生にしがみついてわんわん泣いたんだった。普段は泣いたりしない、イイ子だったんですけどね、オレ」 イルカは蝋燭の火で自分の持っていた花火にも火をつけた。 「きっと、感受性の豊かなお子さんだったんですよ」 ハハハ、とカカシは笑った。 「フォローどうも、イルカ先生。………父さんと花火で遊んだのは、それが最初で最後だったんだと思います。………父さんは花火をやるとオレが泣く、と思ってしまったみたいで、二度としてくれなかったんで」 ぢりぢりぢり、と火花が散って、大きくふくらんだ火の玉がぽとりと落ちる。 「ま、いい思い出です。花火が綺麗だった、父さんがずっと膝に乗せてくれていたって、覚えていますもん。…と言うか、思い出させてくれてありがとう、イルカ先生」 「い、いやそんな………俺はただ………貴方とこういう事をしてみるのもいいなって………ただ、それだけで………」 「いやあ、オレきっと、自分で花火やってみるまであんな事、思い出しもしなかったでしょうから………やっぱ、御礼を言いますよ」 カカシは、次の花火に火をつけた。 「………この儚さがいいんですよね………きっと」 そんなカカシをじっと見ていたイルカが、いきなり「イカンイカン」と首を振った。 「? どーしたの? 先生」 「い、いえ何でも………」 「そう? 何でもないの? でも顔赤いですよ」 イルカは、ううう、と唸った。 花火を眺めているカカシが綺麗で可愛くて、ついキスしたくなってしまった、なんて言えない。 「貴方の綺麗な花火の思い出を、ヨコシマなもんで汚したくないんで、いいです」 「………………ヨコシマ」 うっふふ、とカカシは笑った。 「いーじゃないですか。別に、線香花火にまつわる思い出が一つじゃなくても。ここでイルカ先生と花火やったなーってのも、メモリーとして加わるだけですよ。父さんと先生とやった花火の思い出が、上書きされて消えるわけじゃないんですから」 「そ、それはそうなんですが」 「で? 何なんですか〜? ヨコシマ」 楽しそうにカカシはイルカにすり寄った。 「カカシ先生、動くと花火が………あ、落ちた」 「はぐらかさない〜」 イルカはため息をつく。 「手持ちの花火、全部終わってから言います」 「本当?」 「はい」 「よーし。じゃあ残りいっぺんに火をつけちゃおうかな」 「だ、ダメですよ、もったいない」 「先生のケチ」 「そういう問題じゃないでしょ。この花火は、そういう遊び方をしたらいけないのです。じっくりと、一本一本、じっくりと終わりまで見てあげなきゃ可哀相なんです」 「………はぁい、わかりました」 やっぱり可愛いな、とイルカの頬は緩む。 指先でちょこんと線香花火を持って、その火花を真剣に眺める上忍。これが可愛くなくてなんだと言うのだろう。 「せんせ」 はい? と振り返ったイルカの唇に、むにゅ、とカカシの唇が押しつけられた。 「………カッ………」 カシさん………と、イルカの声は尻窄まりになる。 「………もしかして、正解?」 もう、仕方ない。イルカは降参した。 「正解ですよ、せっかちさん」 まだ火花を散らしている花火を持ったまま、イルカはカカシに口づける。 カカシはくすくす笑った。 「線香花火に、いい思い出が増えました」 「………それは、何よりです」 何となく、さっきから誰かに見られているようでイルカは落ち着かなかったのだが。 カカシが何も言わないという事は―――……… そういう事だな、とイルカは結論づける。 本当にお盆もへったくれも無い人達だ。 線香花火が迎え火になったか。 では、この最後の花火で送り火になるのかもしれない。いや、そうであって欲しい。 「はい、カカシさん。最後の花火ですよ。泣いちゃダメですよ?」 「な…っ泣きませんよ。……もし涙が出たとしたら、煙が目に沁みたんです」 最後の線香花火に火をつける。 カカシとイルカは、無言でその火花を見つめた。 火花が散っている束の間、時を遡ったような錯覚を起こす。 (―――ほらカカシ、見てごらん。綺麗だね) 聞こえるはずの無いその人の声が、イルカの耳には聞こえたような気がした。
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でかい野郎二人で線香花火。 ………可愛いと思います。 アルバムというのは『揚羽蝶』での一件です。 カカシが、サクモさんのことを初めてイルカ先生に話した時のエピソ−ド。 (2010/9/6) |