究極の選択 − 2

 

本当に、本当に、本当に。
胸が張り裂けそうだったのだ。
どうして自分が息をして、立っていられるのかが不思議だった。
何故この心臓は悲しみのあまり止まらないのだろう。
痛くて、痛くて、本当に痛くてこんなに苦しいのに。
彼を失うのがこんなに辛い―――辛い、などという言葉で表現するのも憚られる程苦しい
事だったなんて。
その苦しさを通り越して訪れたのはただの空虚。
色彩を失った世界。
まさか、両親を失った時よりもショックを受けるとは思わなかった。
それがまたショックでもあった。

彼は、本当に自分の恋人だったのだ。

そう、思った。
思って、その時初めて涙がこぼれた。
それまで泣く事も出来なかったのだ。


それが。


………狂言。


気も狂わんばかりのあの悲嘆は何だったのだ。
あの時、イルカの中で嘘偽り無く彼は死んだ。
だからこそ胸を抉る様な苦痛を味わったのに。
あの苦痛の分、今回ばかりは。
いつもは限りなく彼には甘いイルカだったが、今回ばかりはすんなりと笑って赦してやる
というわけにはいかなかった。
心のどこかでは、その苦痛は自分の気持ちと―――愛情と比例するものだとわかっていた
のだけれど。
彼とこれきりにしたいわけでも無かったのだけれど。


 
 
一ヶ月。
カカシに甘いイルカにしては恐ろしく長い『絶交期間』である。

一人でさっさと夕食を済ませたイルカは、もう風呂にでも入って寝てしまおうと思ってい
た。そこへ。
トントントン。
控えめなノックの音が聞こえてきた。
イルカに冷たくあしらわれるのが怖くて、まともな訪問も出来なかったカカシがようやく
勇気を振り絞り、やって来たのだ。
カカシは自分の気配を殺そうとはしていなかった。
少なくとも、イルカを騙してドアを開けさせようという魂胆は無いという事である。
イルカは控えめに、だが辛抱強く続くノックを聞きながらドアを睨むように見ていた。
(……さて、どうしてくれようか…? いや、まずあの人の出方を見るか)
「…はい。どちら様でしょうか」
白々しい誰何。
(わかっているくせに……!)
カカシはぐっと堪えて返事をする。
「…カカシです。開けて頂けませんか? イルカ先生」
心臓の鼓動がうるさい。激しい動悸がカカシを襲っていた。こんなに緊張したのは近年無
かった事である。
実際は十秒と待たされなかったはずであるが、その戸が開くまでの何と長かったことか。
「何か御用ですか?」
にこりともしないイルカの顔に、まだ彼の怒りは解けていないのだと悟ったカカシは項垂
れた。
「…用……はい、あります」
「では、手短に御願い致します」
無視はされていない。きちんと会話は成り立っている。―――カカシは己を励ました。
(このままでいい訳が無い! 頑張れオレ! ちゃんと謝るんだ!!)
カカシはいきなりその場で土下座した。
「すみませんでしたっ! もう二度とあんなバカな真似はしません! だから赦して下さ
い!! この通りです!!!」
上忍写輪眼のカカシ、プライドもへったくれもこの際あったものではない。
他人様の家の玄関先で地面に額を擦りつけるように頭を下げている。
一方、上忍の銀髪が地面すれすれまで下がってしまったのを呆然と見ていたイルカは内心
唸っていた。
(…どーするかね。参ったな…直球勝負ですか、カカシ先生)
謝るのに色仕掛けでなんかきやがったら、絶交期間延長だと思っていたイルカだったが、
この素直な謝罪に思わず心が揺らいでしまった。
「…悪かったと思っているわけですか」
「はい! 深く深く反省してます!」
本音である。
生まれてこの方こんなに悔やんだ事など無かった。
カカシはイルカの許しがあるまで頭を上げまいと自分に言い聞かせた。
「貴方、二つの事で俺を怒らせたって……わかってます? 正確には三つです」
はい、とカカシは身を縮ませた。
「言ってごらんなさい」
こういう時、イルカには有無を言わさない迫力がある。
「………し、死んだフリなんて顰蹙物の狂言を…やらかして…」
「それから?」
「その事によって里に大迷惑をかけ……」
「そうでしたね。どれだけの人が走りまわった事か」
「……貴方の…気持ちを…試しました…」
最後の一言は蚊が鳴くような声だった。
イルカはふう、と息をつく。
「……一応はわかっているようですねえ……まったく、貴方らしくもない事をしでかした
ものです」
カカシは泣きそうな心地で地べたに這いつくばっていた。
イルカの口調は柔らかかったが、まだいつもの暖かさが無い。
「すみません…ごめんなさい! 何度でも謝ります」
カカシの頭を見下ろしながら、イルカは眉間にしわを寄せていた。
彼にしても、いつまでもカカシに土下座をさせていたいわけではない。
(……マジ反省してるようだな。でもここで甘い顔見せちゃうのもなあ…俺の方こそ死ぬ
かと思ったんだから)
しばらく思案していたイルカは、ようやく身を屈めてカカシの頭上で囁いた。
「わかりました。…一応は貴方の謝罪を受け入れましょう。顔を上げて下さい」
不安そうな面持ちのカカシがそっと顔を上げると、すぐ目の前にイルカがしゃがんでいた。
その、微妙な距離。
まだ触れることは許してくれないらしい。
「でも、まだ全面的に許したわけじゃありません」
(ううう…やっぱり……)
カカシはガクリと肩を落とした。
「ちょっと今回ばかりは悪戯が過ぎましたね。反省の証と貴方の誠意を見せてもらいまし
ょうか。…何せ、貴方火影様も騙したんですから」
「はい……」
「俺がもう充分、と判断するまで。貴方、誠心誠意思いつく限りの努力をなさい。…ああ、
ナルト達も悲しませたんだって事も忘れないように。…それまではここの敷居をまたがせ
ません。もっとも、別に俺と復縁したくないんなら別に何もしないでいいんですよ」
カカシはがばぁ、と跳ね起きた。
おや、言い過ぎたか、逆に怒らせたかとイルカが思った瞬間。
蒼い右目に喜色を浮かべたカカシが両手で握り拳を作っていた。
「わかりました!! 不肖はたけカカシ、精一杯やらせて頂きますっっ!!!」
「……はあ……」
いきなり復活した男を眺めつつ、呆気に取られたイルカはしゃがんだまま頷く。
「よおし! 頑張る! ありがとう先生! オレ、頑張ります!!」
「……頑張ってください……」
嬉々としたカカシは、「よっしゃーっ!」と気合を入れている。夜中に近所迷惑なことだ。
「じゃ、今日はこの辺でお暇します。おやすみなさい、イルカ先生」
ぺこんとお辞儀をした上忍は、足取りも軽やかに帰って行く。
「おやすみなさい……」
ばたん、とドアを閉め、イルカは盛大にため息をついた。

「また素っ頓狂なことをやらかさないといいんだが……」


翌日早朝から、カカシの贖罪行動は始まった。

 



 

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