「いけません」
朝、アカデミーに出勤しようとしたイルカの行く手を、カカシ(まだ女性形態のまま)が遮った。
「あ、いや…もう痛みもないですし、大丈夫ですから」
イルカは通常通りの穏やかさでカカシをいなし、胃の付近に手を当ててにっこり微笑む。
だが、それで引き下がるカカシでもなかった。
「貴方ねえ…貴方が頑丈だってコトは知ってますし、見かけ以上にタフなのもよおぉっく知ってますけどね。
忍者だって殴られりゃそれなりに痛いし斬られりゃ血も出ますし、息が出来なきゃ死にます。つまりは、
人間なんですからね。鍛錬でどうにかなる部分と、そうじゃない部分があるんだって事、貴方がわきまえ
ていないはずないでしょう? 昨日の今日なんだから、大人しくしていなさい!」
カカシは狭い玄関に仁王立ちになり、腕組みをしてイルカを睨みつけている。
「カカシ先生…」
イルカは困ったように鼻の脇をかいた。
「欠勤届けなら、アスマがやってくれているはずです。昨日、あいつの方から言ってくれました。…医療棟
の医師が休養するように貴方に言い渡していたのを聞いていたそうで」
「……アスマ先生にそんな事まで…」
イルカは大男の上忍に対する申し訳なさに表情を曇らせてしまった。
そんなイルカの肩をカカシは優しく押して彼を室内に戻す。
「こういう事は、お互い様ですよ。…貴方なら、どうします? 同僚が目の前で倒れた。…医療棟に運んで
治療を受けさせ、まだ具合の悪そうなその人を放っておけずに家まで送る。…翌日も無理をさせない方が
いいのはわかりきっているから、その人の欠勤届くらいはしておいてやろう。……そう、考えませんか?」
イルカは黙ってしまった。カカシの言う通りである。もし、倒れた相手が独り身で介抱してくれる身内もいな
いのなら、介抱もしてやろうかと考えるだろう―――自分なら。幸か不幸か、今現在イルカには介抱して
くれる恋人が側にいて、アスマの世話焼きは『欠勤届け』までで終わった。
「そりゃそうですけど……」
「イルカせんせ」
カカシはにっこり微笑んだ。
「お忘れかもしれませんが、オレは固定された変化の術以外は全部使えるんですよ。…こんな脅しは好
きじゃないですけどね、これ以上グダグダおっしゃるなら実力行使。力づくでも貴方を部屋から出しませ
んよ」
カカシの実力行使。
それは、いくらイルカでも真っ向から逆らうのは自殺行為である。
カカシは「やる」と言った事は単なる脅しに終わらず、「やる」人なのだ。
そう遠くない過去、痣が出来るほど殴られた記憶がイルカの脳裏に甦る。
イルカの出勤を阻止する為に彼がどんな手段を講じるのか、想像しただけでも怖い。
「……わかりました……今日は養生する事に致します…」
本人が言った通り胃痙攣の発作は治まっているようで、食欲もそれなりに復活したらしい。
食事はちゃんとカカシが用意した粥を残さず食べて、薬も飲んで。
夜になる頃にはイルカの顔色はほぼ平常に戻っていた。
「すみません。カカシ先生にも色々とご迷惑かけてしまって…」
「いーえ。好きな人の世話を焼くのって、楽しいもんですねえ。オレ、自分は生来面倒くさがりだと思ってた
んですが、そうでもないって感じ。……これも、今の姿に影響されているのかな……」
もう一ヶ月近く、カカシは女性の身体で過ごしている。
イルカは否定も肯定もせずに、お茶を淹れているカカシの綺麗な横顔を見つめた。
元々端正な男だが、女性に変化している所為で印象がかなり柔らかくなっている。
イルカの前では物言いや態度まで変えたりしないので、全くの別人と相対している感じは受けないが
――イルカの中で、『彼女』はどこか彼の知っているカカシとは違う存在だった。
「……おそらく、そろそろ火影様も里にお戻りになるでしょう…そうすれば、元通りです。…何もかも」
カカシはクスッと笑みを漏らした。
「オレはまた、ガキどもに付き合って…使い走りみたいな任務の付き添いをして……受付で貴方と顔を合
わせて…一緒に飲みに行ったりメシ食ったり……貴方の部屋にお邪魔して、ついでに朝までいたりする
んですね」
イルカはそうですね、と静かに頷いた。
「オレが男に戻ったら、また一緒に寝てくれるんでしょ?」
イルカは苦笑を隠さなかった。
「……俺の事、バカだと思いますか? 今の貴方も抱きたいくせに出来ないでいる不甲斐無い俺を」
「…んー…わかりません。貴方のこだわりもわからないでもないんで。…貴方自身の『スジ』ってのもある
んでしょうが……たぶん、貴方が今のオレを抱かないのは、オレの為を思ってくれて…でしょう?」
正しくは、男に戻った後のカカシの心理状態を慮っての事だった。
元々同性を恋愛対象にする性癖を持っていないイルカが、『女性であるカカシ』を抱いてしまった後でもそ
れを全く引き摺らずにカカシに接しつづける事は出来ないのではないか。
やはりイルカは女性の方がいいのだろうかと、カカシが言わずもがなの不毛な悩みを抱える事になりはし
ないか。イルカはそこまで先回りして考えていた。
「……お恥ずかしい。…お見通しですね…貴方に失礼だし、僭越なのは承知しているんですが…それに、
自惚れが過ぎるとも」
イルカの言葉に、カカシはまた小さく笑った。
「やっぱ、バカですね。イルカ先生は」
「………う」
カカシは上目遣いにイルカを見上げ、その顎にキスする。
「バカですよ。貴方、まだオレに遠慮し過ぎている。…オレの気持ちまで思い遣ってくれるのは嬉しいです
が、オレは恋を覚え始めたばかりの小娘じゃありませんよ? ……オレにとって、貴方との恋は…最初は
賭けみたいなもんでした。貴方、男を即、ベッドの相手に考える人種じゃないから。…覚えているでしょ?
最初の時の事。…オレは…いつでも『冗談』や『ゲーム』に逃げられるように姑息な誘惑をしましたよね。
真正面からぶつかって、貴方にフラレて玉砕したくなかったもんですから。……こんなずるい恋愛を仕掛け
るような奴に、そこまで気を遣わなくていいんですよ」
イルカはただ、黙って首を振った。
「だからね。…こんなずるい怖がりが、そのあとの事をまるで考えずに貴方を誘惑するわけないでしょうっ
て……言いたいんです。…なのに、貴方ときたら……オレやら犬やらに化けてまで我慢しようとするんで
すもん…挙句、疲労やら心労で胃痙攣まで起こすなんて、おバカとしか言い様が無いですよ。…いい加
減、妙な我慢大会はやめませんか」
「カカシせんせ…い」
「それにね」
カカシはそこでペロ、と舌を出した。
「貴方ね、ご自分がマジメだってこと、思い出した方がいいですよ。貴方、オレと付き合っている限り、女
性と浮気なんて出来ないでしょ。…いい機会だと思いません? 浮気もせずに女を抱けるんですよ?」
うふ、とコケティッシュな表情を浮かべる美女に、イルカの心拍数は上昇を始めた。
「しょーじきに告白しちゃうとぉー…興味もあるんですよねー…ホラァ、聞いた事ありません? 男より女の
快感の方がスゴイんだって。…ホントかどーか試したいけど、そんなに意識がぶっ飛ぶんじゃいくらオレで
も普通なら変化保てないじゃないですかー。でも、今なら……ね? それに、イルカ以外の男と試したくな
いし〜…」
ははは、とイルカは心の中で乾いた笑いを浮かべた。胃まで痛めた自分の必死さが哀れだ。本当にバカ
だ。美女の外見に一番惑わされていたのは自分だったのだと、イルカは自嘲した。
それでもきっと、今の『告白』は半分本気で、もう半分は自分に対する思い遣りだ、とイルカは察していた。
今言ったことを強引に実践したいのなら、それこそカカシにはいくらでも手段があったはずだ。
今までそれをしなかったのは、イルカの躊躇も理解してくれていたから。
イルカが言った、『間違った事』だという言葉の意味をちゃんとわかったから。
でも、胃を壊すほど精神的に参っている彼を見て、気が変わったらしい。
「イルカ」
「…はい」
「オレはオレです。…姿が変わっても、オレは…カカシです」
「…そうですね。…そうでした……」
「オレ、イルカを信じています」
「……俺も、俺を信じる事にします」
二人は顔を見合わせて、おかしそうに微笑った。
ここ数日の遠慮したものとは違う、お互いを欲した深い口づけが交わされ、抱き締めた柔らかい身体に、
いつもとは少しだけ違う愛しさがイルカの胸に広がっていく。
彼は、己に課した禁をとうとう破った―――
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