朝、目覚めたイルカの隣には誰もいなかった。
「……カカシ…先生…?」
寝起きがいいとは決して言えないカカシが、イルカより先に起きるなんて。
トイレにでも行ったのかと最初思ったが、家の中に自分以外の人間の気配が無い。
「…カカシ先生…」
夕べ、イルカはとうとう自らに課していた禁を破って『彼女』を抱いてしまった。
今まで女性に変化したカカシを抱かずにいたのはイルカなりのけじめで、カカシの方は特に女のままイルカと
寝る事に抵抗は示さず……むしろ、面白がってイルカを誘惑しようとしていたのに。
やはり、実際抱かれてみたら不愉快な結果に終わったのかもしれない。
今ここにカカシがいない事が、どんどんイルカの気分を落ち込ませていった。
イルカは楽天的に自分に都合のいいように物事を解釈出来ないタチだ。
「………どこ行っちゃったんですか……」
もう治ったと思っていた胃が、しくりと痛んだ。
いつまでも家で澱んでいても仕方ないので、イルカはのろのろとアカデミーに向かった。
受付所に顔を出すと、同僚が安心したように笑ってイルカに軽く手を振る。
「おう、もう大丈夫なのか? 胃に穴があいたって聞いたが」
「誰に聞いたんだ…? 穴なんかあいてないって。昨日は急に休んで、迷惑かけたな」
「いや、大丈夫。昨日はそんなに依頼が無かったし。…アスマ上忍が、お前が倒れた所に居合わせたからっ
て、お前の欠勤届を持ってきた時は驚いたけど」
「…うん。アスマ先生には後で礼を言っておく」
イルカは何気なく自分の腹を擦って、苦笑した。
と、その時奥の間に続く扉が開く気配がして、イルカは反射的にそちらに視線を向けた。
「……火影様…」
火影は被っている笠をひょいと上向け、驚いた顔をしている青年に笑いかけた。
「おお、イルカ。久し振りじゃのう。何ぞ、身体を壊したとかいう話だったが、もういいのか」
「あ、はい…ご心配おかけして、申し訳ありません。あの、それより火影様は何時里にお戻りに…?」
「昨日じゃよ。午後にはここにおった」
「……そ…そうでしたか…ご無事で何よりに存じます」
イルカは内心、歯噛みしていた。
自分が胃痙攣など起こさず、昨日いつも通り出勤していたら。午後には火影の帰還を知る事が出来、夕べ
のうちにカカシの変化を解いてもらえたではないか。
そうすれば、最後まで自分は禁を破らずに済んだのに。
「…イルカ…? まだ、顔色がすぐれんようだが。お前はすぐに無理をする。医療棟でちゃんと診てもらって
おいで」
「あ…はい。もう一度来るように、とは言われていますから…暇を見て、行ってきます」
昔から何かと可愛がってくれた火影の優しい言葉に、イルカは泣きたくなった。
元はといえば、彼が後五分出かけるのを待ってカカシを元に戻してくれていたら、イルカの胃はあんな発作
を起こさなかったかもしれない。
だが、何もかも今更だ。
今朝カカシがいなくなったのは自分の所為。一度自分で決めた事を貫けなかった、自分の弱さ。
イルカは受付のカウンターを回り、自分の定位置に腰掛けて書類の整理を始めた。
「…え…?」
一番上に乗っていた書類を、イルカは信じられない思いで見つめてしまった。
『カカシ隊 第七班 Dランク任務……』
日付は、今日。
イルカは決して遅い時間に出勤したわけではない。おそらく入れ違い程度の差で、七班は任務を請け負い、
出て行ってしまったのだろう。
イルカは思わず火影の方を振り返ってしまった。
その視線の意味に火影は気づいたのか、のんびりと煙管の煙をくゆらせる。
「……今日は、雨でも降るかもしれんの…珍しい奴が珍しい時間にやって来たからなァ…」
イルカは、書類に目を戻した。カカシは何時火影のもとを訪れ、変化の固定を解いてもらったのだろう。
何故、気配を殺し、自分に黙って出て行ったのだろう。
まるで自分を避けるようにさっさと任務を受けて出て行ったのは……
混乱しそうになる思考を振り払い、何とか筋道を立てて現実を見直そうとするイルカ。
だが、考えれば考えるほど彼の思考は迷宮に迷い込んでしまった。
「おい」
同僚がそっと声をかけてくる。
「今、あまり依頼人もいないから…医療棟行ってこいよ。…火影様の仰る通り、お前顔色悪いぞ」
イルカは曖昧に頷いて、同僚の言葉に甘えた。
「あ…じゃあ、ちょっと…行ってくる……すぐ、戻るから…」
イルカは火影に会釈をし、受付所を後にした。廊下で、本当にまた痛みだした胃をなだめながら息をつく。
気から病、とはよく言った。一度弱った胃は、イルカの精神状態によって発作を起こすらしい。
「…しっかりしろぉ…俺の腹…!」
丈夫なのが取り柄だと自分でも思っていただけに、この状態は笑えるほど情けない。
イルカは自分に気合を入れ、無理にでも背筋を伸ばして医療棟へ向かった。
結果。
医師に注射をうたれ、「さっさと帰れ」と言われてしまった。
「まったく、普段病気をしない人はこれだからいかん。ちょっと良くなると、治ったと勘違いして動きまくる。
私は一昨日、何と言ったかね? きちんと養生するように言っただろうが。忍者だって疲労が蓄積すれば
抵抗力が減って、病気にかかりやすくなるんだよ。わかったら帰って、大人しくしていなさい。あんたの持
ち場には、私が診断書を出しておいてやるから」
そう医師に言われて一度受付所に断りを入れるべく戻ったイルカだったが、扉を開けた途端、忙しそうに
依頼人の対応をしていた同僚に『助かった』という顔をされて、イルカは『帰る』と言えなくなってしまった。
胃がしくしくと痛むのを何とかごまかしていられるのは、さっき痛み止めをうってもらっていたからだろう。
イルカは表面上はにこやかに、里の忍者を頼ってくる依頼人の応対に務めた。
そして午前の受付時間が後十分ほどで終わる、という時に先刻の医師が受付所に現れ、イルカの姿を認
めて目を剥いた。
「何をやっとるかーっ! 医者の言う事がきけんのか、あんたはーっっ!
さっさと帰れ、と言っただろうが!」
「あ…いや、あの……ち、ちょっと…」
「ちょっと、何だっ! 医者の指示に従えん患者など私は診れんぞ!」
イルカが何とか言い訳をしようと立ち上がった時、いきり立っている医師の肩をぽんぽん、と誰かが叩いた。
「お言葉、ごもっとも。ま、彼を叱らないでやって下さいよ、せんせ。あの人は真面目で、バカのつくお人好し
なんです。…受付が忙しいのを見て、早退出来なかったんですよ」
医師は、肩を叩いた上忍の姿に口元を綻ばせる。
「おや、昔は医療棟の常連客だったカカシ君かい。久しく顔を見ないんで、とっくに慰霊碑の仲間入りをした
かと思ったよ」
「ははは、せんせったら酷いなー…今は大人しく子守りをしてるからぁ、あんまりそっちに用事ないだけでー
す。あ、イルカ先生、これー。報告書っす。今日はねー、楽勝だったんですよ。ナルト達もよく働いてくれまし
たしー」
カカシは片手に持った報告書をひらひらさせながら医師の脇を通り過ぎ、カウンターにいるイルカに近寄って
きた。その姿は、いつもの彼だ。
斜に額当てをつけ口布で顔の下半分を覆い、右目だけを露出させて、その眼でにっこり微笑みかけてくる。
「はい。確認して下さい」
ずっと彼を凝視していたイルカは、目の前の報告書にはっと我に返る。
「は…はい。ご苦労様でした……」
カカシは「んー」と、イルカの顔を覗き込む。
「ホント、何だか顔色悪いですねえ…」
医師はずかずかとカウンターに寄り、ぱしんと診断書を叩きつけた。
「ほれ、診断書。私は医師として義務は果たしたぞ。さっさと早退して帰れ。いいな?」
用は済んだとばかりに、医師は踵を返して受付所から出て行った。
その背中に、イルカは慌てて声をかける。
「わざわざ、ありがとうございましたー…」
カカシはカウンターからひょいと診断書を取り上げた。
「……胃痙攣。…何とまあ、仕事熱心な人ですねえ」
すると、火影が奥の部屋からタイミング良く声を掛けてくる。
「医師の命令じゃ。帰れ、イルカ。…カカシ、お前はもう手が空いておるな。イルカを送って行け」
カカシが返事をするより早く、イルカはがたんと椅子を蹴って立ち上がった。
「いえっ…ひ、一人で大丈夫です! そんな、カカシ先生のお手を煩わせるなんて、とんでもありません!」
カカシはまあまあ、とイルカを宥めた。
「火影様のお言いつけですから、お気になさらず。…それに、貴方の病気は私が無理な仕事を貴方に頼ん
だ所為もあるでしょうから、責任感じちゃいます。ささ、帰りましょう。それじゃあ皆さん、そういう事で」
カカシはイルカの腕を掴むと、有無を言わさず受付所から連れ出した。
「…大丈夫ですか? ダメでしょう? …無理しちゃ」
カカシは掴んだイルカの腕を放さず、そのまま彼の身体を支えるようにして歩いている。
「……大丈夫です。…本当に、一人でも…歩けます」
イルカはどうカカシに接したら良いのかわからず、彼から視線を逸らしてしまう。
そんなイルカの顔をまた覗き込み、カカシは小さな声でぽそりと呟いた。
「ごめんなさい。…怒ってます?」
え? とイルカはカカシの方に向き直る。
「…ずっとお世話になっていたくせに、黙って出てきてしまいました…謝ります」
「………どうして…ですか…? 何故…黙って…」
カカシは微かに目元を赤らめた。
「…こんな所じゃちょっと…後で、言います。…ほら、帰りましょう」
「あ…はい……」
イルカはカカシの手を振り解く事が出来ず、二人はそのまま黙ってイルカの家まで歩いた。
「薬は?」
「さっき、医療棟で注射をうってもらったから、夕方まで大丈夫です」
イルカはぼそん、と足元にベストを脱ぎ捨てた。
「風呂、沸かしましょうか。…身体、冷やすと良くないみたいですよ。温まって、フトンに…」
「カカシ先生」
風呂場に向かおうとするカカシの腕を、イルカは掴んで引き止めた。
「………」
「カカシ先生」
「…はい…」
「風呂なんか、いいです。…俺の質問に答えて下さい。…カカシ先生…俺は、貴方を傷つけてしまったので
はありませんか?」
カカシはばっと振り返って、イルカの首筋に抱きついた。
「……ごめんなさいっ…」
「カ……」
イルカの言葉は、カカシのキスで遮られた。
「…オレが悪かったです! あんな風に黙って出て行けば、貴方が心を痛めるのはわかりきっていたのに
……オレ…」
イルカはそっとカカシの腕をはずして、彼の両手首を握った。
「カカシ先生…?」
カカシは俯き、言いにくそうに視線を彷徨わせ……やがて、ぽそ、とイルカの胸に頭を預けてきた。
「……じ、実はですね…オレ…恥ずかしくて……とてもじゃないけど、今朝あのまま貴方の顔を見ることな
んて…出来そうも無くて……」
「…はい?」
「だから、貴方にあんな抱かれ方した後で、いつもみたいに顔を合わせられなかったんですよ! …まさ
か、女の身体で抱かれるのがあんなに……その……は、恥ずかしい事だとは思ってもみなかったもんで…」
イルカはきょとんとした。
「……恥ずかしい…」
イルカにしてみれば、特に変わった抱き方をしたわけでもなく、いつもカカシを抱いている時と同じ事をしただ
けである。ただ、最終的に女性にはきちんと男を受け入れる場所があるから、無理に狭い所を使わなくて済
んだだけで―――
「…びっくりしました…本当に……その…い、一体感が半端じゃなくて…あの、ああ、なんて言ったらいいの
かわかりませんが、本当に恥ずかしかったんですよ! すいません! オレから誘ったようなモンなのに、ワ
ケわかんない事言って。…あの、誤解しないで下さいね? イヤだったわけでも、辛かったわけでもないんで
す。傷ついたわけじゃないんですよ。ただ、マジに貴方がその…オレの中に入ったって…いつもより実感出来
ちゃって…自分が、本当に女の感覚で貴方に抱かれているのがわかった時、いたたまれないくらい恥ずかし
くなっちゃったんですよ…う、上手く説明出来ませんが…」
カカシは一気にまくしたて、ふう、と息をついた。
「……で、そっとここから抜け出して、火影様のお屋敷に様子を見に行きまして…したら、あの爺様いるじゃあ
りませんか。勢いで忍び込んで、叩き起こして、それで変化解いてもらいました」
イルカはぱく、と口を開けた。
「ね、寝ている火影様を叩き起こし…たんですかっ…貴方……」
「ちょっと起きて頂いただけですよー。ハハハ…なんか、夜這いかけたみたいな感じになっちゃって、三代目び
っくりなさってましたけど。…取りあえず、いつもの自分に戻ったらなんとかなる。この、わけのわからない気持
ちも恥ずかしさも何もかも。…そう、思ってしまったんです……自分が自分でなくなってしまいそうな、不安でい
てもたってもいられない感じがして…朝まで、待てなかった…」
上忍のカカシともあろう者が、そこまで混乱してしまったのか。ふ、とカカシが自嘲げに微笑んだ。
「……もし…任務で……女として行動する事を要求され、例え誰かと寝る事になっても…こんな気持ちにはな
らなかったでしょうね……」
きっと、感じる事もない……と、カカシは口の中で呟く。
イルカはそっと、自分の胸に預けられているカカシの頭を撫でた。
カカシはイルカの胸に顔をおしつけ、くぐもった声で告白を続ける。
「……貴方に抱かれている時、すごく気持ちよくて、幸せでした…あまりにも良すぎて…怖くなるくらい」
イルカは半分ほっとした思いでカカシの告白を聞いていた。
「……俺…やはり、変化した貴方を…いつもの貴方とは少し違う存在として捉えていたように思います……そ
ういう意味では俺も謝らねばなりません。…俺のそういった気持ちが態度に出て、貴方を混乱させる原因の一
つになったのかもしれませんから…」
イルカの腕の中では頼りないほど柔らかく、甘い匂いのしていた身体。
自分の愛撫ひとつひとつに敏感に反応し、しなやかに身体をのけぞらせていた、愛しい女。
今、腕の中にいる男はイルカ自身予想もしていなかったほど、大切な存在になっている。
だが、『彼女』は、また別の意味で愛しい存在だった。
その区別が明確でない分、イルカを、更にカカシを混乱させたのかもしれない。
くす、とカカシは笑った。
「………新婚さんごっこ、楽しかったです」
「…俺もですよ」
「イルカったら、ずいぶん頑張りましたよねー…オレに化けたり、犬になったり…あ、小さい貴方、本当に可
愛かったなあ」
「…バカですよねえ、俺も…」
そろ、とカカシの掌がイルカの腹を撫でる。
「胃まで壊してね」
イルカはいきなりカカシの手を跳ね除けるように脇にどかし、その身体を抱き締めた。
「カカシ……」
首筋に押し当てられた唇が、自分の名を呼ぶのを肌で感じたカカシはぞくりと身体を震わせた。
「…イルカ先生…イルカ…」
「はい…」
頚動脈に沿って、舌が這う。
「……貴方、養生するのに早退したんじゃ…」
「ええ…」
耳たぶを唇でくすぐられて、カカシは身を竦ませた。
「じゃあ、休まなきゃ…」
「そうですね」
冷静な口調で受け答えをしながら、一向に抱き締める腕の力を緩めない男に、カカシは苦笑した。
「…カカシ先生」
「はい」
「一緒に寝てください…」
珍しく甘えてきたイルカに、カカシは微笑む。
「…いいですよ…もちろん」
カカシは腕を持ち上げ、イルカの額当ての結び目を解いた。
夕方から窓を叩き始めた雨は、夜半になって本格的に降り始めた。
誰かさんの所為ですね、とイルカは笑う。
カカシがすましてイルカの硬い腹筋に軽く拳を当て、イルカ先生が早退するのも珍しい事だと笑い返し。
里に帰還してから五日目。
二人はようやく「いつも」の夜を取り戻した。
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