揚羽蝶

2

 

「あ………ぁ、んん……ッ………………ん?」
房事の最中、イルカはぺしっとカカシに額を叩かれた。
「いて」
「………コラ。…な〜に考え事してんですか! オレを抱いている時に他の事を考えているなんて、減点モノです。集中しなさい!」
イルカは額を押さえて謝った。
「す、すいません………」
フー、とカカシはため息をついて身体を起こした。
「……気が乗らないなら、やめます? 今日は」
やめるか、と訊くカカシの肩から夜着が滑り落ちた。青白い月の光の中で、カカシの白い肩がやけになまめかしく、イルカを煽る。
「いやそんなっ………乗らない…なんて………あの…続き、してもいいですか?」
カカシはジロリと、腰の低い年下の恋人を睨みつけた。
「………何を考えていたのか白状すれば、続きをやらせてやらん事もナイですけどね」
しまったな、とイルカは内心焦った。
どうやら思った以上にカカシの機嫌を損ねてしまったらしい。
「…ん…いや、貴方のことだったんですけどね………考えていたのは」
へえ? とカカシは片方の眉を上げた。
「オレのこと〜? そうですかぁあ? 本当にぃ〜?」
「はい。…本当です」
そう言いながら、イルカはカカシの髪の中に指をくぐらせた。髪の中に指を差し入れられただけで、カカシは一瞬気持ちよさげに眼を細める。
そのカカシの反応に、イルカはホッとした。この分だと、大丈夫かもしれない。
「オレの、何?」
「………髪が、綺麗だな…と。………伸ばしたら、さぞ綺麗だろうなって………ちょっと、伸ばしたところが見たいな〜………などと」
カカシは瞬間、表情を強張らせた。
「………嫌ですよ。………髪、伸ばすのなんて面倒です」
「面倒、ですか」
「オレ、ものぐさですから〜。長い髪なんて洗うだけでも面倒で」
イルカの長い黒髪をひと房指に巻きつけて、カカシは唇の端を少し持ち上げる。
「………オレ、クセッ毛だから伸ばしてもこんな風にはならないし。…ま、イルカせんせは切らないでね。アンタの髪はするっとしてて手触りいいから好きなんです」
「…え? ……伸ばしたこと、あるんですか?」
『こんな風にはならない』というカカシの言い方は、かつて試した事があるという様にも取れる。
「………伸ばしたというか………伸びたというか………マジに長〜い任務で戦場にいた時にね。戦場に床屋はいませんし」
伸びてしまった髪が邪魔になって項で括っていたら、年嵩の忍がカカシを見て幽霊に遇ったような顔をして飛び退った。
自分の顔が父親に似ていることは知っていたので、口布をあげて顔を隠すようにしていたのだが、やはり白銀の長い髪というのは嫌でも『白い牙』を思い出させるらしいと思ったカカシは、伸びた髪を手にしていたクナイでぞんざいに切り落としたのである。
サクモが戦場ではやはり口布で顔を覆っていた事を、カカシは知らなかったのだ。
それ以来、括れる程に髪を伸ばしたことはない。
「その時くらいです。………短い方が性に合っていると言うかね」
「そ…ですか………」
イルカは、カカシの髪を指で梳いた。
「綺麗なのに、な………」
少しガッカリしたようなイルカの声に、カカシは唇を尖らせた。
「んも〜、何ですか。………そんなに見たい?伸ばしたところ」
「えっと………ええ、まあ……出来たら………」
普段、あまりそういう事を言わないイルカの『おねだり』に、カカシは折れた。
「………わーかりました。…んじゃ、ちょっとだけですよー」
イルカは、サクモを知らない。
長い髪のカカシに、『白い牙』の面影を重ねはしないだろうから。
―――そう思って、カカシは印を組んだ。
髪だけを伸ばす、変化。
サラリと伸びた白銀の髪が、仄かな月の光に反射して淡く光をはじく。
「………うわ………」
イルカは、眼を丸くした。
似ているとは思ったが、髪を伸ばしただけでこれ程までそっくりになるとは。
今のカカシは、写真で見た青年と瓜二つだった。ゆるやかにカーブを描くクセ毛まで、そっくり同じ。
綺麗だ、とイルカは思った。
そして、カカシの父親、サクモもさぞ綺麗な青年だったのだろうと思い―――つい、イルカは呟いてしまっていた。
「………お父さんに、そっくりですね………」
今度はカカシが眼を丸くした。
「―――何ですって?」
長い髪のまま、イルカに詰め寄る。
「何でイルカ先生が、ウチの親父を知っているんですっ!!」
「いや、知っていると言うか………っ………し、写真を…火影様の部屋でアルバムを拝見して………すっごいカカシ先生に似た人の写真を見てしまって………ツ、ツナデ様がカカシ先生のお父上だと教えてくださって………」
「いつ、見たんです」
「えっと………一昨日ですかね」
はーっとカカシはため息をつき、力が抜けたように肩を落とした。
「………で?」
「で、と申しますと?」
カカシは、髪の間からじろっとイルカを見上げた。
「あのオバ………いや、ツナデ姫に何を聞いたんです」
「………貴方のお父上は、白い牙と異名を取る木ノ葉の英雄で………貴方がまだ小さい時に夭逝した方だと。…それだけですが。あ、お名前も伺いました。…サクモさん、と仰るのですね。…本当に、強い方だったと五代目は仰っていました」
「………それだけ?」
ハイ、とイルカは頷いた。
「あ、でも、それで思い出したんですよ。…アカデミーの歴史の時間に、『白い牙』のお名前は聞いた事があったと。…忘れていたんです、すみません。…貴方のお父上だという事も知らなくて……」
「そりゃ当たり前でしょう。謝るようなコトじゃないですよ。ウチの親父が死んだ時、アナタまだ三歳かそこらでしょう? アカデミーで聞いたといっても、まだガキの頃でしょうし。…覚えているわけがないですよ。………白い牙なんて知ってるの、オレ達よりもだいぶ上の年齢層です」
シーツの上で片膝を抱え、その膝の上に額を預けてカカシは俯いた。
「………イルカ先生」
「…はい?」
「写真見たの、一昨日なんですよね。…アナタ………何でオレに何も言わなかったんです?」
ヤル気がすっかり萎えてしまったこともあり、イルカもシーツの上に座りなおす。
「…だって、貴方…四代目様の話は時々してくださいましたが………ご家族の話は全くされなかったでしょう? そんなに優秀な方がお父上だったというのに、それこそ一言も仰らなかった。………何か、話したくないご事情でもおありなのではないかと思っただけです」
一番の理由はツナデが言った『心の傷』という一言だったのだが、敢えてそれには触れなかった。
「………なのに、俺も本当にうっかり者です。………本当によく似てらしたものだから………つい、そっくりだなんて言ってしまって………すみません」
「…だから、謝るようなコトじゃないんですけどね。………まあ無理ないです。…幾つの時の親父の写真を見たかは知りませんが、確か死んだのは三十二か三…くらいだったから、それ以前の二十代くらいの写真でしょ。今のオレが髪を伸ばせば、親父に生き写しになりそうだってのは想像のつくことだし。…小さい頃からソックリだ、ソックリだって言われてたんですよ。………ふふ、今親父が生きていたら、気味悪いくらい似ていたかもね」
イルカは、言ってもいいのかと思いながら口を開いた。
「……生きていらしたら…きっと火影を継いでらしたのはサクモさんだったと、ツナデ様が………」
「あ、ソレは無いです」
あっさりとカカシは否定した。
「あの人はたぶんね、里長になるような野望も根性も適性もナイ男でしたから。…確かに戦闘能力はバカみたいに高かったし、頭も良かったかもですけど、その他がダメ。何よりも精神的なタフさに欠ける人でね。…何があってもニコニコはしてたけど、それは黙ってガマンしていただけ。ソレが何だと笑い飛ばせるような豪快さとは無縁の………良く言えばナイーブで繊細、ミも蓋もない言い方すれば打たれ弱いヘタレ。………だから、ダメだったんです。……だから、あんな死に方しなきゃいけなかった………」
彼は優し過ぎた、と言ったツナデの言葉がよみがえる。
イルカは、黙ってカカシの顔を見た。
そのイルカの視線を受け、カカシはフッと微笑んだ。
「………アナタに親父の話が出来なかったオレも、十分ヘタレの根性なしですね。………別に、隠していたわけじゃないんです。…ねえ、イルカ先生。………聞いてくれます? やっぱり、アナタには知っていて欲しいと思うから」
イルカは黙ったまま頷いた。
カカシは父親を偲んでいるかのように、長い髪を元に戻さないまま語り始めた。
「………オレも、当時はまだガキもガキでしたからね。…いくら中忍だといっても、精神的にはガキですし、大人の事情がすべて分かるわけも無かったけれど。それでも、真実に近いところは知っている。………ねえ、先生。アナタは『白い牙』を英雄だと仰いましたが、どんな死に方をしたか、ご存知ですか?」
「いいえ。………里を…守って亡くなった………としか。………それで、おそらく任務で殉職なさったんだろうと………」
カカシは苦笑を浮かべた。
「………それ、違うんですよ。………ウチの親父は、自殺したんです」
え、………と、イルカは声を詰まらせた。
「………経緯が経緯でしてね。…外聞も都合も悪かった所為か、一般的に公にされた情報はかなり事実が捻じ曲げられてしまったようなんですよ。………何故か任務で負った傷が元で死んだ事になっていますが……あれは、自殺です。…だってオレ、親父が死ぬ現場にいましたもん」
それからカカシは、自分の父親が何故『死』に到ったのかを、発端となった事件から順を追ってイルカに話した。
「………実のところ、オレが駆けつけた時は、既に親父の身体に刃物が突き刺さってたんで、本当の本当は、その女が刺したのか、親父が言った通り自分で刺したのかはさだかじゃないんですが。………親父は、手当てを拒んだ。…自分が死ぬとわかってて、拒んだんです。…そりゃ、あの時もう親父は身も心もかなり弱っていたから、手当てしても助からなかったかもしれない。でも、あの人は生きようとはしなかった。自ら死を選んだ。…自殺でしょう、それって」
戦場や任務での殉職ではなく、任務に失敗し、仲間に責められ、心身共に病んだ挙句の自殺。
もう忍としての心構えが出来ていただろう少年のこと、サクモの死が普通の殉職ならば、辛いながらもその死を誇りに思い、胸を張って悲しみを乗り越えられたはずだ。
だが、そんな事情で父親が自ら死を選んだのでは、相当に辛い思いをしたことは想像に難くない。
敬愛していたであろう父親のその死に様は、幼いカカシの心にどれほどの傷をつけた事か。
人は、時に残酷だ。才能にあふれ、名声を得ていた人物がふとしたはずみに落ちぶれるのを見て昏い喜びを覚える者もいる。
『白い牙』と呼ばれ、あの自来也達よりも強いと言われた男が高みから転落する様を、心身ともに壊れていく様を嘲笑し、心無い言葉を吐く者もいたはずだ。
それだけ里の仲間から中傷を受けていた彼が、死した後『里の英雄』として名を残している(現にイルカはそう思っていた)のは、彼が亡くなったことで、『白い牙叩き』をやっていた者達がバツの悪い思いをした所為だろう。
里の為に長年貢献してきた男を一度の失敗で悪し様に罵り、死に追いやった。
それも、彼の過失による失敗ではなく、仲間の命を救う為の決断だったのに。
サクモに命を救われた者達は、さぞ後ろめたく思ったに違いない。まともな神経をしているのなら、それ以上死者に鞭打つような真似は出来ないはずだ。
彼に死なれた後、慌てて擁護し、中傷騒ぎそのものを無かったことのようにした結果、イルカのように何も知らない世代は『白い牙=英雄』という認識をするに至ったのだと想像出来る。
それでも、無責任にただ彼の失敗のみを責めていた者達の中には、彼が死してなお陰口を叩き、カカシを苦しめた者もいたであろう。
彼が父親の名誉を守る為には、『所詮あの男の息子だからこの程度だ』ではなく、『さすがにあの男の息子だけのことはある』と他人の口から言わせねばならない。
もしくは―――もしくは、カカシ自身が父親を切り捨てる。
自分は自分。父は父。関係など無いのだと割り切る。
そのどちらだったにせよ、カカシはひたすら強い忍になるしかなかったはずだ。
その上、忍としてどんなに功績があった人間でも、一度の選択の誤りで破滅するのだと思い知らされたカカシは、些細な失敗すら自分に許さなかっただろう。
父の轍は踏むまいと。
イルカは、重い息を吐いた。
子供の頃に両親を亡くしたのは、辛かった。寂しくて、独りでよく泣いた。
だが、父も母も、里を守る為に四代目と共に戦って散ったのだ。栄誉の死だと思うことで、イルカは自分を支えることが出来たのだと思う。
(………この人は……凄いな……)
どんな事情があったにしろ、目の前で命を絶ってしまった父親の死を乗り越えて、自身の力だけでこれほどの上忍となったのだから。
しかも、おそらくは父親の死後カカシを支えてくれたであろう四代目も、あの九尾の災厄の時に亡くしているのだ。
どれほど孤独だったことか。
アルバムの中で穏やかに微笑んでいた、カカシに生き写しの青年。
サクモが、自分にソックリな息子をどう思っていたかはわからない。
だが、少なくとも自分なら―――まだ幼い息子を残しては、死ねない。何故サクモが死ぬ事が出来たのか。
そちらの方がイルカには不思議だった。
そんなイルカの心情を察したかのように、カカシは語を継ぐ。
「ウチの親父にはね、柔軟さが足りなかったんですよ。もう少しいい加減になれれば、自滅せずに済んだかもしれませんがね。……頑なで、生真面目で…そして、優しかった。…オレね、オレ………あんまり親父に叱られた記憶が無いんです。………オレの覚えているあの人は、いつでもほんわりと笑ってて、嬉しそうにオレのこと抱きしめて、キスしてくれた。………オレ、あの人が大好きだった………」
カカシはふいに笑った。
「だからね、最初は恨みましたね。………オレを置いてさっさと逝ってしまった親父を。オレを独りにした。もっと一緒にいたかったのに、いてくれるだけで良かったのに。親父は、オレより他を取ったんだ、と。………忍として、責任を取る事を選んだだけなんだと思うんですけどね。オレもガキでしたから、ワガママで。…ま、恨んでもいいって言い残して死にやがったから、遠慮なく恨みましたよ。………自分の存在が親父をこの世に引き止める、何の役にも立たなかった事も…ショックだったんだと思います。………あんな事になるなら、早々と中忍になんかなるんじゃなかったですね。オレが割とおませなガキだった所為で、『自分がいなくなったらこの子はどうなるんだ』的な精神的歯止めにも支えにもならなかったんだと思うと。親がいなくてももう一人で生きていけるだろうって思われちゃったのかな。……寂しがるとか……オレが悲しむとは思わなかったのかなあ、あのバカ親父」
はーっとカカシはため息をついた。
「………何か、愚痴めいちゃいましたね。暗い話でごめんね、先生。…でも、聞いてくれてありがとう。………ちょっと、スッキリしたかも」
イルカは微かに首を横に振った。
「………最初は、と仰いましたね。………今はお父上を恨んではいない。…そうでしょう?」
カカシは目を伏せ、微笑む。
「…うん。………少しずつ、少しずつね。大人になるにつれ………何故親父がああいう道しか選べなかったのか、わかるような気がしてきて。………それと、ガキの頃にスリーマンセル組んでいた仲間…友達が、『俺は白い牙を本当の英雄だと思っている』って言ってくれましてね。………何だか、あの一言がオレ、すっごく嬉しかったみたいなんですよ。……救われたって言うのかな………単純ですが」
「その………友達の方は?」
おずおずとイルカが訊くと、カカシはあっさりと「死にました」と答えた。
「この写輪眼は、ソイツの形見です。オレが左眼を潰したのはね、上忍になってすぐのことだったんですが、その時に自分の死を悟ったソイツは、自分の眼を昇進祝いだって言って、くれたんです。まー、便利は便利だけど、重たいプレゼントでしょー。…どうしてオレの周りの人間ってそういうのばっかだったんでしょーね。自分はさっさと退場しながら、オレには生きて頑張れって………あっ! せ、先生、ちょっと泣かないで………」
イルカの両眼からいきなりボロボロッと涙が零れ落ちたのを見て、カカシは慌てた。
「ごごご、ごめんなさいっ…調子に乗って話し過ぎましたね。先生がそういう話に弱いって知ってたのに………」
「いいえ、こっちこそ………すみません………」
イルカはゴシゴシと拳で涙を拭い、切なそうな笑みを浮かべた。
「………貴方は、強い人だな………ってね、改めて思いました。………でも………」
イルカはカカシの頬を両手で包み、額同士をこん、と軽くぶつけた。
「………辛かったね、カカシさん………」
頑張ったんですね、とそのまま頭を抱かれたカカシの眼は、一瞬驚いたように見開かれ――そして、その眼からいきなり涙があふれだした。
慰めて欲しかったわけではない。
同情もいらない。
―――でも。
イルカの言葉は、きゅうっとカカシの胸をつかんだ。
ほろほろと涙が零れて落ちる。まるで何かを溶かしているかのように。
「………お、とうさん………お父さん…………」
気づけば、カカシはイルカに縋りつき、泣きながら父親を呼んでいた。
カカシの涙が止まるまで、イルカは余計な事は言わずに黙ってそっと頭を撫でていてくれた。

 



 

 

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