イルカははらはらしながら、その『勝負』を見守っていた。
カカシが負けるかもしれないとか、そんな理由ではない。
(お願いだからそれ以上物を壊さないで下さいぃいっ…)
胸中そう叫びながら両手を胸の前で組んで思わず『お祈り』のポーズになってしまうイル
カ。
カウントは2−2。
カカシに最初の一点が入る際、ネットが破れた。
そして彼に二点目が入った時は、卓球台がえぐれ、球がひとつ割れた。
イルカとしてはもうその時点で止めたかったのだが、そんな事でひるむカカシではない。
「後、一点!」
何だかボロボロになりつつある卓球台で、『勝負』を再開してしまった。
隣の無事な台に移ろうとしないだけ、良心的かもしれない。
イルカの心地は、まるで問題児を連れて修学旅行に来た教師そのものであった。
生徒ならまだいい。
問答無用で叱って、部屋に放り込んで抜け出せないように結界を張ってしまえばいいのだ
から。
しかし、目の前の『悪ガキ』共はイルカの手に負える相手ではなかった。
カカシに比べたら『大人』なはずのアスマも、もうヤケになっているらしい。
真剣な形相でカカシと打ち合っている。
時間制限を設ければ良かった、とイルカが後悔していた時、ついにアスマのラケットがま
るで狙撃でもされたかのように、音を立てて砕けた。
「あちゃ…」
イルカは思わず顔を覆い、アスマも茫然として残された柄を眺めている。
さすがのカカシも驚いたらしく、目を見開いてそれを見ていた。
そしてラケット爆砕から五秒後。
コン。
という可愛らしい音に、全員我に返った。
何と球は生きていて、宙高く弾き返されていたものが今カカシ側の台に落下したのだ。
「3−2。アスマ先生の勝ちです。試合終了」
「えええっ!! そんなーっ!!」
無情なイルカの宣言にカカシが悲鳴をあげる。
「だって、入りましたもの。これで終わりです」
イルカは床に落ちたピンポン玉を拾い、顔を顰める。
「……これももう、使えませんね…割れています…」
「ええと、卓球台にネットに、タマが二つにラケットひとつ…か? 総被害は」
冷静に数え上げるアスマに、カカシは首を振る。
「ラケット二つ。…こっちのもダメだわ…なんか、ヒビ入っちゃってる…」
「お前が弁償しろよ」
カカシはキッとアスマを睨む。
「何でだよ。お前だって加担してるんだから、半分出せ」
「壊したのはみんなお前だろうが…力加減をしねえから…」
「オレだけが悪いっての??」
イルカは「まあまあ」とカカシをなだめる。
「こういうのは連帯責任ですよ。俺も弁償しますから……」
「お前はいいんだよ」
「アナタはいいんです!」
上忍二人は妙にハモった。
「いや、でも……」
「でもじゃないですよ! アナタは見ていただけなんですから」
その時、廊下から声が掛かった。
「お客様〜…こちらにおいででしたか。お食事のご用意が……きゃーっ」
仲居の最後の悲鳴は、遊戯室の惨状に対してのものだった。
「あー…悪いな、姐ちゃん。ちょっと熱が入りすぎてなー…弁償するから、精算の時にこ
いつの請求書も頼むわ」
一番大柄なアスマにそう言われて、仲居は怖々といった風情で頷く。
「お、お、お…怪我はなさいません…でしたか…?」
古株の仲居の教育の賜物だろう。
こういう時でもきちんと客の心配をする。
それにへらりと応えたのはカカシだった。
「だいじょーぶですよぉ。別に喧嘩したわけじゃないですから〜…卓球って、結構難しい
ねえ…あはは〜…」
「カカシ先生、女性の前ですよ。ホラ、前ちゃんと合わせて…」
イルカはつい、いつものクセで着崩れたカカシの浴衣を直してやる。
「あ、すいませんね」
カカシも子供のようにやってもらってケロリとしていた。
アスマは内心ため息をつく。
(そういう事をやってるからお前らは妙に噂になったりするんだよ…)
見れば仲居はさっきまでの怯えた顔はどこへやら。
何となく嬉しそうにその様子を眺めている。
「…姐ちゃん…メシの用意が出来たって?」
アスマが水を向けると、仲居は慌てて顔を引き締めて頷いた。
「はい。今、お部屋にご用意させて頂いております」
「あ、楽しみだなー。運動したからハラ減っちゃった」
ひたすら無邪気なカカシであった。
この三人組はよく食べる。
男は成長期に普通の倍の分量を食べたりする事があるが、まだそう言う時期からあまり年
月の経っていないイルカはもちろん、ほっそりした身体つきのカカシも、もういい加減三
十路も越えているはずのアスマも負けず劣らずの健啖家であった。
もっとも、彼らを普通の人間と比較する方が間違っている。
先ず運動量がハンパではない。加えて、チャクラを練って術を発動させる時のカロリー消
費がすさまじい。
普段きちんと食事を摂ってカロリーを補給しておかなければいざという時倒れてしまう。
「摂れる時にしっかり摂っておく」というのが習性として身についているのだ。
だから、普通の客なら目を丸くして「こんなに食えないよ」と感想を漏らす旅館の豪勢な
夕食は三人にはありがたかった。
カラになった飯櫃を覗いて、イルカは上忍達を振り返る。
「ご飯、どうしましょう。お代わり頼みます?」
「あ、頼めるんなら、お吸い物ももらえるか訊いて下さい」
「漬物も追加」
イルカは笑って、電話に手を伸ばし内線ボタンを押す。
「あ、紅葉の間です。すいませんがご飯お代わり頂けますか? あと、お吸い物と漬物も
出来たら……あ、もらえますか。じゃあお願いします」
「やっぱり、こういう所の飯はでかい釜で炊くから美味いな」
アスマもここの食事が気に入ったようで、機嫌がいい。
「美味いですよね。水もいいんでしょうね。豆腐なんか、ここで作っているらしいですよ」
イルカはポットを引き寄せて、急須に湯を注ぐ。
「アスマ先生、湯飲みをこちらに…」
「ああ、すまねえな」
イルカは食事中ずっと、二人の茶碗や湯飲みの中身の減り具合を見ながら給仕をしていた。
アスマはちらりと向かいに座るカカシを眺める。
「お前、いつもイルカにこういう事やらせてんのか?」
カカシはむっとして顔を上げる。
「…………お茶なんかは、イルカの淹れた方がずっと美味いの…!」
「やらせてる、なんて…カカシ先生はこういう事を強要なさった事はありませんよ」
「………………へいへい」
アスマは訊くんじゃなかった、と呟いて、イルカが新しく注いでくれた茶に口をつける。
「失礼致しますー」
廊下から声が掛かり、昼間部屋に案内をしてくれた鹿の子という新米の仲居が飯櫃を持っ
て現れた。
「お待たせいたしました。お吸い物とお漬物も今すぐお持ちいたします。……あの、お料
理の方はご満足頂けておりますでしょうか」
イルカは飯櫃を受け取って、微笑んだ。
「とても美味しいと、板長さんに伝えて下さい。美味しいのでご飯も進むんですよ」
「ありがとうございます。…あの、量の方は…」
カカシは卓の上を眺めて思わず失笑した。
刺身のツマまで綺麗に無くなった皿。
鍋物も野菜くず一つ無く、煮物や揚げ物もあと少ししか残っていない。
カカシの食事量なら把握できているイルカは、アスマの方を振り返る。
「アスマ先生、もっと召し上がりますか?」
「…いや。俺は後は茶漬けでも食おうと思ってただけだからな…いい。イルカはまだガキ
なんだから食えよ」
まだ少し物足りないのをアスマに見透かされたのと、女性の前で子供扱いされたのが恥ず
かしくて、イルカは薄っすら赤面した。
「いえ、あの……あ! カカシ先生笑わないで下さいよ!」
カカシはハハハ、と声を上げた。
「失礼。イルカ先生のこと笑ったわけじゃ…イルカ先生は立派な大人です。アスマがおっ
さんなだけですよ。で、もっと食いますかイルカせんせ」
「俺ももう追加は結構です。腹八分目って言いますし…まだ風呂に入っていませんし」
カカシは敷居の所で控えていた鹿の子に笑いかける。
「という事で。料理はもう充分ですから〜」
「かしこまりました」
鹿の子はぺこんと頭を下げて扉を閉めた。
廊下を歩きながら彼女は頭を振る。
「…色んなお客さんがいるなあ…あんなによく食べる人達もいるのね〜あれで腹八分目で
すって…あ、先輩が言ってた、アヤシイお客さんってあの人達か。……どこがアヤシイの
かなあ……別に悪い人達には見えなかったけどな。学校の先生みたいだし」
彼女はただ単純に、「食べ残しが無い食器は片付けるのが楽でいいなあ」と喜んでいた。
男同士で多少仲がいいのを目撃した程度で、彼女は妄想をたくましくするタイプではなか
った。…というか、世の中にそういう種類の男共が生息している事そのものが念頭に無い
のである。
ある意味、健全な精神の持ち主であったようだ。
この旅館の仲居が全員鹿の子のようなタイプだったら、イルカの憂鬱も全くの杞憂となる
のだが。
食休みをした後、カカシとイルカはようやく風呂場に向かった。
イルカは気を遣ってアスマも誘ったが、アスマは首を振って断る。
「俺は後、熱燗でもちょいとひっかけたら帰る。そろそろ、紅が旅館に連絡をくれる事に
なっているんだ。俺はそれを口実にしてここを出るから。…後はよろしくやんな」
「本当にすみません…俺が我儘言ったばかりに…紅先生にまでご迷惑を…」
アスマはにやりと笑ってイルカの肩を叩いた。
「まあ、後で紅に冷やかされる程度は覚悟しておけ。…ああ、彼女に土産を用意しておく
とあまりからかわれずに済むぞ」
「はい! わかりました。…あの、紅先生は甘いものお好きでしょうか…」
「あの女は温泉饅頭より地酒の方が喜ぶぞ…」
「了解しました」
そんなアスマとイルカのやりとりを、カカシは黙って聞いていた。
カカシにしてみれば、イルカと二人きりになれるのなら後の事はどうでもいい事だ。
イルカと最初に泊まりに来て、そして彼を「手に入れた」この旅館。
もう一度、あの時の気持ちを思い出したかった。
イルカが「応えて」くれるまで、自分がどんなに不安定な想いを抱えていたのかを。
そして、イルカの暖かさに包まれた時に感じた幸福感を。
日々の彼の優しさを「当然」の事にしてしまってはいけないのだ。
カカシは小さく笑った。
(…ええと…前に泊まったのは鹿の間、だったかな? 部屋も前と同じにして欲しいって
手を回しておけば良かったかな…)
しかし、この手の旅館の部屋など皆同じような作りだ。
(要は雰囲気。…だよね。さてさて、温泉で完璧綺麗になって〜…イルカと愛を確かめ合
おうっと! その為に来たんだからな!!)
イルカとの事になると、恋に恋する少女の如くとことん『オトメ』チックな発想になって
しまう上忍は、上機嫌で露天風呂に向かうのであった。
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