逢魔ヶ時−5

 

「待った! イルカ先生っ!! どこへ行くんですかっ」
子供の演技を捨てたカカシはイルカの手を掴んで引き止める。
イルカは、キョトンとした顔でカカシを見下ろした。
「…どこって…竹薮にお婆さんが……何かお困りみたいなんですよ。足でもくじいたのかもしれない。近くに行って事情を聞いてあげないと」
「オレには聞こえませんっ!!」
カカシは必死に繰り返した。
「オレには何も聞えませんし、そのお婆さんの気配も感じられません! 行ってはダメです!!」
イルカの顔が困ったように曇る。
「どうしたんですか? カカシ先生。貴方らしくないですよ。…帰りたかったらお先にどうぞ。俺はお婆さんを家に送ってから帰りますから」
カカシは愕然とした。
イルカには、竹薮の中にその困っているらしい『お婆さん』とやらが見えていて、単にカカシが彼女との関わりを面倒がっているだけだと思っているらしい。
「違いますってば…! 本当に、本当にオレにはわからないんですよ。お婆さんなんて、いないんですってば! 信じて下さいイルカ先生!」
イルカはカカシの必死な顔つきと、竹薮を交互に見た。
「………わからない?」
「生きている人間の気配は、その竹薮からは感じられないと言っているんです!」
上忍のカカシがただの老婆の気配を察せられないはずは無いし、彼が嘘をつかねばならない理由はない。
自分には見えている彼女が、カカシにはわからないというのが俄かには信じられなかったが、それの意味する所にイルカは気づいた。
「でも……」
イルカはカカシの方に屈み、その頬に指を滑らせる。
「例え、そうでも…俺に姿を見せて、何かを訴えかけている人がいるのも確かなんです。生きている存在じゃないからって、無視したら可哀想じゃないですか。話だけでも聞いてあげて…俺に出来る事があったらしてあげたいんです」
イルカはカカシの指をそっと解いた。
「貴方はここにいて下さい。……俺、ちょっと行ってきますから」
イルカはにっこりと微笑み、竹薮に入って行く。
「………や……」
カカシの全身を悪寒が走り抜けた。
根拠など何処にも無かった。
ただ、カカシの中にこの状況を『危険』だと知らせるシグナルが点滅している。
イルカを引き止めなければ。
だが、まるで悪夢を見ているかのように足が前に進まない。身体が重い。
「ちくしょおぉぉ!」
枷がかけられたように重い腕を何とか気力で持ち上げ、変化を解く印を結ぶ。
カカシは、小さな子供から本来の姿に戻った。
通常の視点を取り戻した彼の目に、竹薮の中の様子が飛び込んできた。
「イルカ先生!」
カカシの目には、彼の後姿だけが映る。
異常な事態が頻発している今、どんな変異にも神経を尖らせなければいけないはずなのに。
イルカはそれを全く失念している。
もしかしたら、竹薮の『それ』を目にした時、彼は既に何かに捕われてしまったのかもしれない。
(イルカ先生のお人好しっ!!)
胸中でそう叫んだカカシは、実際に叫び声を上げたくなった。
死んだ男達の共通項。
穏やかで、人当たりのいい優しい―――血の匂いを感じさせない人間。
「まさかっ……」
カカシは自分の直感に従う事にした。
自分の勘を信じて行動した結果、彼は過去何度も命拾いをしてきたのだ。
「イルカ先生…っ」
カカシを拒絶する竹薮に、彼は無理矢理に足を踏み入れた。
「クソ…ッ…元暗部をナメんじゃねーっ……こんなちゃちな結界でこのオレをはじけると思ってやがんのかクソ婆ァ……っ」
イルカを招き寄せ、カカシを踏み込ませまいとするこの現状に、カカシの直感は確信に変わった。
早くイルカをここから連れ出さないと、とんでもない事になる、と。
悪夢そのままに重い足を何とか前に進ませながら、カカシはびっしょりと汗をかいていた。
ここまで身体が思うように動かせない事など初めてだ。
震える腕を精一杯伸ばし、カカシは何とかイルカの肩に指先を触れさせた。
「イルカ……っ…」
途端、カカシの眼にも前方に蹲った老婆が映る。
奥歯を噛み締めた彼を、老婆は嫌そうな眼でぎろりと睨んだ。
……何だえ…あんたは……あんたは呼んでないよ…ああ、嫌だ。あっちへ行っておくれな。……あんたは怖い。…血の匂いがするよ……
「……るせえ…何の用事が知らんが、この人は連れて行かせないっ…」
老婆はカカシを無視し、イルカに向かって語りかける。
あんたは、優しいねえ……この婆の呼びかけにちゃあんと応えてくれた。…ねえ、お兄さん。……あたしにもね、あんたみたいに優しい息子がおったのさ。……でも、ある日姿が見えんようになってしまった…あんたと同じ、忍びだった……いつか、いつかあたしより先に逝ってしまうかもしれない…そう覚悟はしていたんだけどね……ある日、仕事に行ったきりいなくなっちまった…死んだとしても、息子の顔を見るまでは信じられん……なあ、お兄さん…息子を知らんかね…? あたしの息子を知らんかね…?
老婆ははらはらと涙をこぼした。
もう何年も待っておるのに、息子は還って来ん……なあ、お兄さん…あたしと一緒に捜しておくれ…一緒に息子を捜しておくれ………
老婆の方へ足を踏み出しかけたイルカを、カカシは必死に押し止めた。
「だ…めですってば…っ!」
その時、カカシの事など眼に入ってないかに見えたイルカが、ひょいとカカシに向き直った。
ちゃんと、理性が宿った眼でカカシを見つめ、微笑ってみせる。
「……大丈夫です」
カカシは驚いて彼を見つめ返した。
すっかり老婆の『術中』に陥っているかに見えたのに。
「お婆さん」
イルカは老婆に語りかける。
「………俺の他に、息子さんを一緒に探してくれと誰かに頼みましたか?」
老婆はうん、と頷く。
…頼んだよ……あたしの声を聞いてくれた…あんたみたいに優しいお兄さんは他にもおったよ……でも、ダメだった。…みいんな、あたしの息子を知らんのさ
「…見つけられなかったんですね? そして、その人達はどうしたんですか?」
老婆は困ったような顔でイルカを見た。
……わからん…みんな、この婆を置いてどこかへ行ってしもうた……
「……息子さんを捜しに行ったんじゃないですか?」
そうなんかいな…?
老婆は悲しげに項垂れた。
イルカは身体を老婆の方へ向けたまま、そっとカカシの方に片手を差し出した。
「カカシ先生…」
その小さな呼びかけに気づかないカカシではない。
震える指で、イルカの指先を握る。
「ねえ、お婆さん。貴女の息子さんは何と言うお名前で、いついなくなったんでしょうか。…俺は、やろうと思えば記録を調べられます。息子さんの生死くらいはわかると思いますよ。……忍びの場合、殉職していても遺体が里に帰れない事はよくあるんです。むやみに捜すよりは手がかりを得られると思いますよ」
老婆はイルカを見上げた。
……センジ。野中センジだ。…センジはな、でかい化け狐を退治に行ったんだ…おっかさんは危ないから、里の外に逃げろって…そう言って出かけたよ。…でもな、あたしはセンジが心配で…その時はどうしても心配で……
老婆の眼から涙が溢れる。
「逃げなかったの…?」
優しいイルカの声に、彼女はうんうん、と頷く。
あたしが行っても、センジの邪魔になるだけだと思ったけどね…じっとしてられなかった……ああ…あたしは……
「うん。わかるよ…何も出来ないって解っていても…自分だけ逃げられなかったんでしょう…?」
イルカは急にこみ上げてきた涙をこらえた。
自分もそうだった。
何も出来ない、足手纏いにしかならないとわかっていたのに、父と母の後を追ったあの日……この人も同じ思いで息子の後を追ったのだろう…
「…お婆さん。センジさんの行方、火影様に訊いてきてあげるから。…明後日の今頃、またここで会いましょうね。…お婆さんのお名前は?」
火影様…ああ、そうだね。火影様ならご存知かもしれない。…あたしはハツというよ
老婆は涙を流しながらも微笑んだ。
里の者になら、忍びでなくても火影の名は効力がある。
明後日だね? 待っているよ
「うん。調べてくるから、今は帰りますね、ハツさん。じゃあ」
イルカはカカシの手を強く握り返し、促した。
カカシは老婆を振り返りもせずに一目散にイルカの手を引っ張ってその場から逃げ出す。
竹薮から出たカカシは、ふっと身体が軽くなるのを感じた。
慌ててイルカの様子を確かめると、イルカは少々蒼褪めていたがカカシと目を合わせて微笑んで見せる。
「……助かりました。カカシ先生……」
「は?」
「冷や汗かいてしまいましたね。…カカシ先生が俺に触れてこっち側に引き戻してくれたから、俺は自分の意識をきちんと保てたようです」
「イルカせんせ〜〜〜」
カカシは脱力してイルカに抱きついた。
「もおおっ! 危ない事しないで下さいよ〜〜…忘れてたんですか? 連続怪死現象の事〜! 変だな〜って事には迂闊に首突っ込まないで下さいよぉ〜…」
イルカは苦笑しながらカカシの身体を抱き返した。
「そうですね。…すみません、ご心配をかけてしまって…。でも、カカシ先生はあの場から脱出する事しか考えてなかったでしょう。いくらあの場がお婆さんの霊のテリトリーと化していても、貴方の強い意志がある限り、俺は大丈夫だと思ったんですよ。……ありがとうございました」
イルカはひょいとカカシの口布を下げて、軽くキスするとまた布を元に戻した。
「……………お礼ですか? 今のは。…オレ、ものすごおおおく大変な思いであの婆ぁの結界に入ったんですがね」
あんなキス1コじゃ割に合わない、とカカシはごねる。
「後でちゃんと払ってもらうとして…前払い分にもうちょっと下さい」
カカシは自分で口布を下げて、イルカの首に手を回した。
辺りは黄昏を通り過ぎ、暗くなってきている。
人通りもない事だし、とイルカはカカシのご要望に応えて彼の腰を抱き寄せた。

 



 

あと1話で終わりですんで、第6話へお進み下さいませ。
少しは夏向きの話になってきたかしら・・・
イルカちゃん危機一髪! ・・・だったんですよ。
実は。(笑)

 

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