お引越し =前編=

 



「何ねっひんに見ているんでふか?」
カカシはひょいとイルカの肩越しに彼の手元を覗き込んだ。
「特売でもあるんでふか〜? たまご? …大根?」
「いや、スーパーのチラシじゃなくてこの通販の……あ、もうまた…歯を磨きながらウロ
ウロしないで下さいよ。妙なクセですねえ…子供みたいですよ?」
カカシは歯ブラシを咥えたまま「ふぁい」と返事をして洗面所に引っ込んだ。
ここイルカの部屋にはいつの間にかカカシの私物が増えていた。
生活に必要な細かいもの。
例えば今、彼が咥えていた歯ブラシ。着ていたパジャマ。
テーブルの上の、青磁色のマグカップはいつの間にかカカシの専用に。
カカシの住まいの方にも多少イルカの物が置いてあったが、アカデミーからは少しだけイ
ルカの住まいの方が近い所為か、こちらで過ごす事の方が多かった。
それならいっそ同居してしまえ、と二人の仲を知るアスマなどはからかい半分に言うが、
何故か二人とも一緒に住もうとはお互い言い出さない。
ぺたぺたと板張りの床を裸足で歩いてカカシが戻ってくる。
「すいません〜…なーんかね、歯を磨きながらあっちこっちでウロウロ用事済ませるのが
クセになっちゃってて〜ハハハ…」
「ま、磨かないよりはいいですね。…ねえ、これどっちがいいでしょうかね」
イルカは自分が見ていた折り込み広告をカカシに見せた。
木の葉では大手の通信販売会社のチラシだ。
「……あん? どれ? あら、最近はこんなモンまで通販してんのかー…巻物なんて一般
人向けに売ってどーすんでしょうね。…あ、何かえっちっぽいビデオのセットもある。こ
ういうのはダメですよ、先生。きっと中身は大した物じゃなくてサギみたいなものなんで
すから」
「どこ見ているんですか。人の指を無視しないで下さい」
イルカはちゃんとカカシに見て欲しい品物を指差している。
「あはは、怒っちゃいや。ちょっとしたお茶目ですよぉ。……んーと、何? …ベッドぉ?」
カカシは口を尖らせた。
「何でベッドなんか? オレと一緒に買いに行くって言ってたのに」
確かにイルカは自分の方から『ベッドを買い換えたいから買いに行くのに付き合ってくれ』
と言っていた。
「……ええ、まあそうなんですが…考えたら、貴方と一緒にベッドを買いに行くって言う
のは色々とマズイ気がしてきて…」
はぁん、とカカシは唇の端を上げた。
「アナタ……店員に俺達の仲を詮索されたり、バレたりするのが恥ずかしいんでしょう」
「…………」
図星だったらしい。
「だって…貴方に悪いでしょう…そんなの…」
カカシは「ハハハ」とイルカの言を一蹴した。
「オレが何? 世間体でも気にするように見えます? 今更オレがそんなもん後生大事に
持っているとでも思うんですか? …まあ、アナタは恋人が男だなんて世間様に知られた
くはないんでしょうねえ。オレが恋人だなんて恥ずかしいですよねー」
イルカは顔を上げて目をぱちくりとさせた。
「…え? いや……俺は…貴方に悪いって思って……」
「何でオレが?」
何となく会話がかみ合っていないような気がする。
イルカは言いにくそうに下を向いてボソボソと続けた。
「……だって、その……もしもですよ? 貴方がさっき言ったみたいに、家具屋の店員が
俺達の仲を察したとします。……したら、その…もしかしたら想像力の逞しい店員で、あ
の時の貴方の姿まで想像するかもしれないじゃないですかー…何せ、ベッドが目の前にあ
るんですよ? 俺、そんなの嫌だし……」
カカシはぱか、と一瞬口を開けた。
「……イル…それって……アナタ、そんな事まで考えちゃったんですかー?」
「笑っていいですよ! どうせ俺は狭量な男なんです!! 貴方に悪いと思っただけじゃ
ないのは自分でもわかってますから!」
カカシは顔面を引き攣らせて笑いを堪えながらイルカの肩を叩いた。
「…アナタ、結婚式あげているカップル見て、こいつらこれから初夜だなあとか、腹ので
かい女房に付き添っている男を見て腹の中身はこいつのタネだとか考えます〜?」
イルカは久しぶりに見事な赤面になった。
「…いえ、そこまでは考えません…」
「なのにオレのそういう心配はしちゃったのかー…わはは、愉快な人だなー」
カカシはイルカの赤くなった頬にちゅ、とキスした。
「ちなみに、オレはすぐそういう考えになっちゃいます。根が下世話なモンで」
「カ…カカシせんせ……」
「もう一歩踏み込んで言いましょうか。…アナタ、オレが家具屋であからさまにそういう
スケベな類の事をつるっと言いそうで怖いんでしょ」
「…………」
イルカは申し訳なさそうに小さくなった。
これもどうやら図星。カカシはふう、と息をついた。
「わかりましたよ。お約束します。…オレはあくまでも暇だから買い物に付き合っている
友人、という顔でいます。アナタを困らせたりしませんから…ね? だから、行きましょ
う。ベッド見に」



街の家具屋を三件回り、結局彼らは家具屋での購入を諦めた。
「……やっぱり、セミダブルは諦めますかねえ…シングルなら何とかなるかも…」
カカシの呟きに、イルカは首を振った。
「どっちみち、あれは宿舎の廊下を曲がれませんよ……家具屋にあるような立派なものは
組み立て式じゃないから……」
「口寄せでもします?」
「結構大きいから、あれを呼ぶには部屋に呪陣描かなきゃいけないでしょうね…無機物に
意思は無いから…やっぱり、あの狭い部屋に正しい呪陣は描けないから無理でしょう。」
カカシの戯言に、イルカは生真面目に答えて眉を寄せた。
「通販で組み立て式買うかなあ……いっそ、床に布団敷きましょうかね」
カカシは苦笑して、今までずっと言わなかった提案をした。
「ねえいっそ、あの宿舎出ますか? オレの宿舎、確か空き部屋ありましたよ。引っ越し
てきません? 階は違っちゃいますけどね」
「カカシ先生…」
「…心配しないで。…一緒に住もうなんて言わないから。イルカ先生、オレと同居はした
くないんでしょう。…わかっています」
「カカシ先生!」
思わずイルカは焦った様な声を上げた。
「…したくない理由もわかっているから。…アナタの気持ちはわかります。だから、気に
しないで。…アナタはご自分の住まいにオレの為の空間を少し作ってくれた。オレを拒絶
しないでくれた。…それで充分です」
イルカの部屋の、ささやかなカカシの私物たち。
カカシが座るお気に入りのクッション。
そして、ベッドの半分。
「そこまで……」
イルカは俯いた。
「すみません……臆病者です…俺は…」
「いや、それで正解です。オレは、アナタが死ぬまで一緒にいるなんて無責任な約束は出
来ませんから。確率的にオレが先に逝く率の方が高いですしね」
イルカは首を振った。
「死別だけが別れじゃないですよ」
カカシは微笑んだ。
「さあ? どおかなあ…任務で死ぬって可能性の他にも、お互いに殺しあうって可能性も
あるじゃないですか。オレ達」
イルカはぎょっとした顔でカカシを見た。
カカシは微笑んだままイルカの腕に自分の腕を軽くぶつける。
「忘れたんですか? 先生。…アナタにはオレを殺す権利があるんですよ」
「……覚えています。…貴方に本気になる、という事は命がけだと」
普通に別れる、という選択肢はどうやら可能性として低いらしい。
イルカはそれからしばらく口を利かず、黙って歩き続けた。
カカシは彼に半歩遅れながらやはり黙ってついていく。
たっぷり十分以上はそうして歩き続け、イルカは唐突に足を止めた。
「…少し、休みましょうか」
小さな公園のベンチにカカシを座らせ、自販機で買ったコーヒーを差し出す。
「ありがとう」
「今日は、すいませんでした。あっちこっち付き合ってもらったのに結局買えなくて」
「…条件が合わないんですもの。仕方ないですよ」
イルカが買ってきたカフェオレに口をつけて、カカシは笑って見せた。
イルカもカカシの隣に腰掛け、ブラックコーヒーで咽喉を潤す。
「カカシ先生」
「はい」
「……俺ね、貴方が好きです」
「…………うわ、いきなり何です。…いや、オレだって好きですよ?」
「さっき、貴方に指摘された事を考えていました。…俺は、昔両親が逝ってしまった時の
喪失感をもう一度味わう事を怖れていたのだと言うこと。父が座っていた場所に、母が立
ち働いていた場所に、もう誰もいないのだという寂しさを。…一緒に住めば、その場所は
嫌でも増えてしまう。…だから、俺は貴方との同居を避けているのだと」
カカシは缶のふちを指で辿る。
「……だから、その気持ちはわかるって言ったでしょ。…オレだってね、たぶん同じなん
だから」
「でも、俺、貴方と一緒にいたいです。それも本当です」
「…う、うん」
イルカはカカシに向き直った。
「どっちの方が痛いか考えました。…そういう喪失感は確かに痛い。…でも、もしも無く
した時、もっと一緒にいれば良かった。可能な限り一緒に過ごせば良かったと後悔するの
はもっともっと痛いのではなかろうかと」
「イルカせんせ…」
「さっき、貴方が提案して下さった事はすごく魅力的です。…同じ宿舎。距離はずっと近
くなりながら、プライバシーはきちんと守られる。…貴方が同居したくない理由もお察し
出来ますよ。…貴方は、時々絶対に『独り』になれる場所が必要なのでしょう?」
カカシはこりこりと頭を掻いた。
「……ハハハ、バレてた? うん、その通りです」
「ある程度の距離は、付き合う上で必要ですよ。…何たって、俺も貴方も特殊な職業なの
ですし。……だから、俺先程の貴方の提案に乗る事にします」
「はい?」
イルカはそこでやっとにっこり微笑んだ。
「引っ越します」
カカシは眼を丸くして身を乗り出す。
「本当に? イルカ先生、オレの側に来てくれるの?」
イルカが同じ宿舎に来てくれたらいいなあ、とは思っていたが、長年住んでいて愛着のあ
るだろうあの部屋からイルカが簡単に越して来てくれるわけがないだろうとも思っていた
ので。
「ええ。空き部屋があるのでしょう? なら、そこが他の人に取られる前に……うわ、カ
カシせんせっ…」
カカシはイルカの首っ玉にしがみつき、全身で喜びを表現していた。

 


 
引っ越す、と簡単に言ったものの、現実の段取りとなるとなかなかすんなりと事は運ばな
いものである。
イルカに引越しを勧めた当のカカシが、どんよりとした重い空気を背負って現れたのがそ
の『つまづき』の発端だった。

「………イルカせんせ〜い……」
カカシがどんよりとしている程度ではもう大して驚かないイルカは、にこやかに受付カウ
ンターの向こうで彼を迎える。
「はい、カカシ先生。お疲れ様です。…報告書の提出でしょう? どうぞ」
相手が恋人だろうと町内のご隠居さんであろうと、イルカの『受付スマイル』は変わらな
い。
そのイルカの営業用笑顔が曇った。
「………カカシ先生? どうなさいました?」
いつもなら、子供の御守りで疲れていてもイルカの笑顔には笑顔で応えるカカシが、どん
よりとしたままショボンと立っている。
「…あ…すいません……ええ、そう…報告書……報告書…あ…忘れてきた……」
イルカはガタン、と椅子を鳴らして腰を浮かせた。
「…カカシ先生、お身体の具合でも…?」
カカシは慌てたように首を振る。
「すいません…ちょっと…いや、…身体は何ともないです。ホラ、元気元気!」
カカシはぐるぐると腕を回して見せる。
「………カカシ先生…?」
余計心配そうな顔になったイルカに、カカシは目許を和ませて『笑って』みせる。
「…報告書…取ってきますね……たぶん控え室の机に置いてきちゃったはずだから…すぐ
戻りますから。…じゃ…」
「…わかりました」
受付所を出て行くカカシを見送り、イルカは椅子に腰をおとした。
(…どうしたんだろう…カカシ先生…)
カカシと入れ替わりに、任務から戻った他の班が入って来る。
状況に対応する頭の切り替えが速いイルカは、ひとまずカカシの事は横に置き、報告書を
処理すべく仕事に戻った。



『すぐ戻る』と言ったカカシが戻って来たのは、もう受付所が閉まる寸前だった。
イルカはカカシが来るまで待つつもりだったから、そんな時間でも苛つく様子もなくカカ
シを迎える。
「すいません、遅くなりまして……」
殊勝にも謝るカカシに、イルカは首を振る。
「大丈夫ですよ。今一区切りついたんです。…報告書、お預かりします」
イルカは手馴れた様子で報告書を処理していく。
受付所にはもう彼ら二人だけだったので、イルカは書類を確認しながらカカシに話し掛け
る。
「カカシ先生…先程はどうなさったんですか? 体調がすぐれないようでしたら今夜は呑
みに行くのやめましょうか」
「え? ああ…いや、ホントに身体は何ともないんですよ。…すいません、ご心配かけち
ゃって……うん、でも呑みに行く気分じゃないなあ……ねえ、今夜…いいですか? イル
カ先生のトコ行って」
カカシはイルカの方に屈みこんでその耳元に囁く。
「呑むよりアナタと寝たいです」
イルカは微かに目許を桜色に染める。
「…そりゃ、いらっしゃるのは歓迎しますが…あの、少しずつ引越しの準備してますから
…ちょっと落ち着かない感じかもしれません。雑然としちゃって。…構いませんか?」
構いません、とカカシは頷いた。



カカシは『寝たい』と言ったが、正確には『イルカと寄り添っていたい』ようだった。
イルカの裸の胸にぴたっと耳元をつけ、腕を彼の身体にまわしてじっとしている。
イルカはそんな彼の髪や耳をくすぐるようにずっと撫でていた。
「…なんか…安らいじゃいますね…イルカ先生って、何かそういう安らぎ電波とか発生し
てるんじゃないですか?」
「何ですか、そりゃ。…それじゃ貴方は俺を刺激するフェロモンでも出してるんですか?」
ぷっと二人は同時に噴きだす。
「ふうん、イルカは俺にくっつかれると興奮しちゃうの?」
「多少はしなくてどうすんですか」
ひでえ、多少かよ…とカカシは虚ろに笑う。
「そりゃあ、人間慣れはありますからね。貴方と接触する度に大興奮してたら俺、身体が
持ちませんから……早死にしちゃいますよ」
「それは嫌かも」
カカシは笑って首を伸ばし、イルカの顎に軽く唇で触れる。
「で?」
イルカが問いかけの視線を送ると、カカシはきょとんとした。
「は?」
「は? じゃないでしょう。昼間のアレは何です? 受付に来るのに報告書は忘れる、い
つにも増して挙動は不審。…貴方の言動に慣れつつある俺でも、何か変だと思いますよ」
カカシは情けなさそうな顔でイルカを見た。
「…いつにも増してってアンタ……ひどいわあ、そんな風にオレの事見ているんですね、
イルカ先生は」
「はいはい、そーやってはぐらかそうとしない」
「厳しい…イルカせんせ、だんだん本性出てきているでしょう」
イルカは満面にっこり微笑んだ。
「気のせいでしょう」
「…まーだ猫被ってんの?」
まあね、とイルカは苦笑する。
「嘘はついていませんが。…貴方といると自然にこうなりますから。…でも、『素』でもな
いですねえ……これでも随分と貴方に『慣れて』、無礼になっているのは自分でも承知して
いますが。…それは許して下さい。…俺、こんな…身体の隅々まで『知り合った』人って
初めてなんで」
カカシはふわっと頬を上気させた。
「確かに……でもそりゃあお互い様です……自分でも見た事が無いような所まで見せた人
はアナタが初めてですから」
「それは光栄です……というわけで、今更お隠しにならないで下さいね? 何がありまし
た」
「……………」
やはり、はぐらかされてはくれないイルカだった。
「ううう、いや、大した事じゃないんですよ…」
「なら、言って下さいよ」
「……あの、実はオレの宿舎の空き部屋なんですが…」
「ああ、俺に引越しを勧めてくれた部屋ですか?」
「…はい。…で、あの……」
歯切れの悪いカカシがようやく『白状』したのは、それから更に二十分後だった。



「なーるほどぉ? それで、いい物件にも拘わらず、空き部屋なんですねえ」
いい物件なのだ。
角部屋で窓も多く、日当たりがよく、独身者向けにしては部屋数もある。
今イルカが住んでいる宿舎より建物自体が新しいので設備もいいし、間取りも収納場所も
悪くない。
そして、家賃はイルカの収入でも十分払える範囲だった。
なのにずっと空いているのは常識的に考えて不自然だ。
「す、すいません…俺、あんまり…最近は特に…自分ちにいないもんで、知らなかったん
です……」
「……まあ、いい話には裏があります。世の中大抵そんなモンですよ」
カカシは上目遣いにちろりとイルカを見た。
「…引越し…止めます…? それとも、もっといい物件捜しましょうか…」
ふうむ、とイルカは考え込む。
「………貴方と同じ宿舎っていうのが魅力的だったんですけどねえ……」
そして、部屋の隅に積み上げられているダンボール箱を眺めて嘆息した。
「もう引っ越す気で、ここの管理人に挨拶しちゃったし……」
「どうしましょう…」
しょんぼりするカカシに、イルカはいつもの微笑を向ける。
「大丈夫ですよ。何とかなります」
いい物件が格安の家賃。
―――となれば、もうおわかりであろう。
『理由』があるのだ。
「『出る』なんて、ただの噂かもしれないじゃないですか」
「でもそんなぁっ…ユーレイの噂がある部屋をイルカ先生に勧めただなんてオレって
ば!」
自分の住んでいる宿舎にそんな噂がある部屋が(階が違うとは言え)あるという事は、あ
まり気にならないらしい。
ごめんなさい、ごめんなさい、と謝るカカシの頭をよしよし、とイルカは撫でる。
「知らなかったんですもの。仕方ないですよ」
「…心配なんですよ……」
「はい?」
カカシはうっそりと顔を上げる。
「イルカ先生は妙なものに懐かれやすいから、心配なんです……あの婆さんの時だって…」
イルカとカカシは以前、九尾事件の時に死亡していながら成仏出来ないでいた老婆と遭遇
した事があった。(『逢魔ヶ時』参照)その時カカシには聞こえなかった彼女の声を聞き、
救ったのはイルカだ。だが、もう少しでイルカは彼女に『連れて行かれる』ところだった
のだ。
それを思い出すと、今でもカカシはゾッとする。
あはは、とイルカは笑った。
「大丈夫。俺は、大丈夫です」
カカシはムッと唇を歪める。
「何を根拠に大丈夫なんですかっ」
イルカは目を細めてカカシの髪を梳いた。
「…だって、貴方がいますもの。…俺には貴方がいますもの」
イルカの指がカカシの髪を滑り、その頬で止まる。
「……守ってくれたでしょう…? あの時も…」
「得体の知れないものはオレだって苦手なんですよ! また守れるかなんて自信ないです
……」
「…でも、一緒にいて下さいますよね…?」
「もちろんです!」
即答したカカシに、イルカはキスで謝意を示した。
「……だからね、カカシ先生。前向きに考えましょう。……もう、気になさらないで下さ
い」
常に前向き。
それが中忍、うみのイルカの信条だ。




 
取りあえず、その噂の現場を見てみようじゃないか、と言う事になり、イルカはカカシの
住まう宿舎にやって来た。
築七年。築二十九年のイルカの古い住まいに比べれば段違いに設備がいい。少なくとも電
子レンジを使用したくらいではブレーカーは落ちないし、冷暖房完備である。
建物自体が大きくて、コの字型に三棟に分かれ、なかなか洒落た中庭まであった。上忍が
多く住んでいる宿舎らしく、セキュリティもしっかりしている。
普通なら、イルカの収入では少々躊躇ってしまうような家賃の宿舎だ。
「いやあ、改めて見るといい宿舎ですねえ。…考え様によっては、家賃を下げてくれたそ
の『噂』に感謝すべきですかね」
ははは、と笑う恋人の横で、カカシの顔色は心なしか冴えない。
イルカが同じ宿舎に来てくれるのはもちろん凄く嬉しいのでる。だが、もしかしたら自分
が提案したこの引越しで、イルカの身に万が一の事があったら。
そう思うと、カカシの足は自然と鈍ってしまうのだ。出るのがゴキブリやネズミならまだ
対処のしようもあるのに、とカカシはため息をつく。
「…カカシ先生?」
ひょいとイルカがその顔を覗き込む。
「何て顔です。まるで貴方の方が幽霊みたいですよ? 気が進まなかったら、貴方はご自
分の部屋で待っていて下さい。俺一人で見てきます」
カカシはとんでもないっと首を振った。
「行きますよっ! 一緒にいるって、約束したじゃないですか」
イルカは微笑み、カカシの手を一瞬握って感謝を伝える。
「じゃ、行きましょう」



管理人に借りた鍵でがちゃん、と扉を開ける。中は薄暗い。窓に鎧戸が下りているのだろ
う。
イルカは「入ります!」とはっきりした声で告げると、玄関の中に足を踏み入れた。
そのままずかずかと部屋を横切り、窓の施錠を外して窓を開け、外側の鎧戸も思い切りよ
く開ける。
室内がぱあっと明るくなり、外の空気が流れ込んできた。
イルカは目に付く限りの窓を開けて回った。
「空気こもってましたねえ。管理人も手抜きだなあ…一日一回は空気の入れ替えしなきゃ
ダメですよねえ…オレんちも、一週間帰らないと何か空気カビ臭いような気がしますもん」
カカシも部屋に入って、窓明け作業を手伝う。
「管理人さんも噂が怖かったんですかね。…ここのカギを借りに行った時も、おっかなび
っくり渡してくれましたもんね。…ところであの、イルカ先生。…さっき『入ります』っ
て一体誰に…」
まさか、もう何かがいてそれがイルカには見えているのだろうか。カカシは室内を見回し
た。
「ああ、もしも誰か本当に「いる」んなら、無断で部屋に入るのはまずいかな、と思いま
して。声くらいかけるべきかと思っただけです」
「…そういうもんですか……」
こういう部分が彼と自分の感性が違う所だよなあ、とカカシは脱力した笑いを顔に浮かべ
た。
「…いやしかし、いい部屋ですねー。あ、カカシ先生。窓のすぐ側に桜の木がありますよ。
…あっちは木蓮。向こう側は合歓の木かな? あー、すっげいい。窓から隣の窓とか壁し
か見えなかった俺んちとはえらい違い。……いーなあ、ここ。俺、やっぱここに来たいで
すよー」
室内がすっかり明るくなり、空気が通ると、妙な噂が嘘のようだった。
イルカは窓から見える宿舎の敷地内に植えられている木々に喜び、嬉しそうに笑った。
「カカシ先生のお部屋は、一階上ですよね。あ、あっちの窓から見えるかな?」
イルカはぱたぱたと部屋を横切り、窓の一つから身を乗り出す。
「見えますよー。カカシ先生、あそこ、貴方の部屋ですよね」
カカシもイルカの背後にくっついて顔を出す。
「あ、ええ。…あそこですね。…これなら、帰宅してるかどうかすぐわかりますね。…明
かりが見えるから」
イルカは嬉しそうに頷いた。
「ええ! う〜ん、ますますいい。…俺、やっぱここに越して来たいですねー」
「……噂、気になんない?」
カカシが伺うと、イルカは少し思案するように視線を浮かせた。
「…まあ、少しは。今は昼間だし、空気も変じゃないんで忘れかけてましたね。…一応、
お清め用に塩を持って来たんですが…」
イルカは懐から小さな袋を出して見せた。
「…流石と言うか…用意のいい人ですね…」
「うん、でも霊の方にも何か事情があるかもしれないですから……あまり乱暴な事はした
くないんですよね」
カカシは眉を寄せた。
「…アンタ、前に取り込まれかけたクセに…その博愛精神、どうにかなりませんか。…そ
りゃあ、オレはそんなイルカが好きなんですけど……」
「別に博愛ってわけじゃ…俺にだって嫌いなものは存在しますし……一番好きなのは貴方
なんですから、それで許して下さい」
イルカは少し顔を傾けてカカシのこめかみ辺りに軽くキスした。
途端、ガタン! と何かが倒れたような音がする。
カカシとイルカは同時に音の方角に視線を走らせ、それから眼を見合わせる。
「……早速お出ましか?」
真昼間から。
嫌な幽霊だな、とカカシは顔を顰める。
「…ええっと、風呂場の方ですよね…」
イルカは袋から少量の塩を掌に出し、躊躇いも見せずに音の方角にすたすたと足を向ける。
そのまま、ばったん、と風呂場の扉を開けてしまった。
「…も、ホントに豪胆なんだから〜…」
カカシはトホホな心境で恋人の後を追う。
音の原因はすぐわかった。浴槽の蓋が床に転がっていたのだ。
「どなたかいらっしゃいますかー?」
イルカは大きな声で風呂場に声をかける。
反応はない。
「…いないんなら、いいんですけど」
イルカは握っていた塩を気休めのようにぱぱっと浴室に撒いた。
カカシは洗面台の蛇口を指で突つく。
「…よくあるB級ホラー映画だとさー、ここ捻った途端に赤い血の様な水がどぱっと出た
りとか…」
「そりゃあ、使用されていなけりゃ赤錆も出ますよね」
…いや、そーじゃなくてね…とカカシは苦笑する。
「後の定番としては、女の長い髪の毛が、とか?」
「…何だ、わかってるんじゃないですか、イルカ先生」
「髪の毛って、持ち主に生えている時はいい感じなのに、なんで単体だと気持ち悪いんで
しょうかねえ…」
「持ち主が特定出来ないからじゃないですか? 指とか内臓だって、単体で転がってると
あまり気持ち良くないですよ?」
だんだん話題がずれていく。
「あー、指ね。あれは嫌ですよねえ…いっそ、腕ごと落ちてた方がマシですよねー」
「それも何だかなあ…イルカ先生も結構血生臭いの経験してんですねえ…」
イルカは浴室の窓もカラリと開け放つ。
「一応忍ですからねえ……前、誰かの指踏んづけちゃって、転びかけたんですよー。腕ご
とならもっと早く気づいたのに、小さくて目に入らなかったんです。草の陰だったし。犬
の糞の方が気持ち的に楽ですよね。踏んだ時の『まずった』っつうの。やはり他人の体の
一部ってのは悪い事した気分になります」
「咄嗟に心の中でゴメンナサイって謝ったりしそうですね、イルカ先生は。オレは死体踏
んづけても気にするゆとりなくって。大抵神経と言うか精神回路ぶっ飛んでるし。うっか
り目玉蹴っちゃった時は後から思い出して吐き気がしましたよー」
「あー、それも仕方ないですよねえ…内臓とか目玉も踏みたくはないですねー…」
罰当たり且つ物騒な話題がなごやかに続く。
「あのさ、卵料理の目玉焼きっての誰がネーミングしたんでしょうねえ。考えると結構エ
グイと思うんですが…悪趣味だと思いませんか? オレ、目玉蹴っ飛ばした後、しばらく
あれ食えなかったんですよ。連想しちゃって…」
「カカシ先生って、そういうとこ妙に繊細ですねー。ああ、それで臓物系の食い物苦手な
んですね?」
たはは、とカカシは笑った。
「そーなんですよー…人間の体からはみ出した臓物、見慣れてんですけどねー…ああ、オ
レ医者にならなくて良かった…肉類食えなくなっちゃいそう」
「でも先生。食い物ってのは大概命を持ってたものなんですよ。生きてなかったものは食
えないんですから。…俺たち、死骸を食って生きてるんですねえ…」
「魚の死骸とか、鳥の死骸とか……」
「そうそう」
どんどんどんどん話はずれていく。
幽霊がその場にいたら、気を悪くするだろう。
イルカはひょいと倒れていた浴槽の蓋を元に戻し、浴室を見渡した。
「…ま、それはともかく…風呂場も広いですねえ。…カカシさんちのと造りはほぼ同じか
な? タイルの色が違うか。カカシさんち、ピンク系じゃなかったですか?」
「ここ、いい色ですよ。グリーン系で。あ、鏡の形も違う。オレのとこはただの四角だけ
ど、ここは円形ですね」
「おお、シャワーも切り替えがついてる。ほら、強さの調整ができるんですよ。肩のマッ
サージとか出来そうだ」
カカシは腕を伸ばし、わき、とイルカの肩を揉む。
「マッサージくらいオレがしてあげますって」
「う〜ん、貴方にされると、そのままいけない気分になりそうですけど」
「なっていいですよ〜?」
くすっと笑いあって、悪戯のような軽いキスを交わす。
途端、ガコンと蛇口が外れてざばあ、と水が溢れ出した。別に赤くも無ければ人毛も混入
していないごく普通の水が。
「………………」
「……………………」
カカシとイルカは思わず無言で洗面台に転がる蛇口と、床にまで溢れて広がっていく水を
見つめてしまった。
イルカは水に腕を突っ込み、蛇口を拾い上げて「えいや」と捻じ込む。水は何とか止まっ
た。
「え〜と…」
「……ただの欠陥住宅…?」
それにしちゃあタイミングのいい事で…とカカシはため息をついた。
「…とにかく、噂の真偽は夜ですかね。話じゃ異変は夜起こるらしいですから。…オレん
ちでお茶でも飲んで、メシ食って、夜にまた見に来ましょうよ。あ、そーだ、カメラも持
って来ましょうか。証拠写真とか撮れたりして」
証拠写真を撮ってどうするつもりなのだ? とイルカは首を傾げる。
カカシはちちち、と指を振った。
「噂だけで、結構家賃下がってんですからあ〜…動かぬ証拠を押さえたらもっと下げさせ
られるんじゃないかと……」
意外とセコイ上忍。
「だってイルカ先生ったら、何がいてももうここに来る気でしょうが。ならその悪条件を
呑む代わりに、少しくらいは負けてもらわなきゃ」
「…まあ、俺もそう高給取りじゃないですから…安いに越した事は無いんですが…」
「やだなあ、幽霊話を捏造するんなら悪質ですが、揺ぎ無い事実なら仕方ないでしょう? 
いつまでも空き部屋より、安くても誰かに貸した方がいいに決まってますよ」
どうやらカカシは開き直ってしまったらしい。
イルカは苦笑して濡れた手を手拭いで拭いた。
「…どっちにしろ、蛇口の事は管理人さんに言って直してもらわなきゃいけませんね……」




 
「玉ねぎと長ねぎ、どっちにしましょうか」
いきなり何の話だろう、とカカシは読んでいた雑誌から目を上げた。
そしてそれをそのまま口に出す。
「何の話です?」
「ああ、すいません。…夕食、親子丼にしようと思って」
イルカはカカシ宅の冷蔵庫の中の覗きこみながら返事をした。
カカシはその様子を横目で見て、心持ち眉を顰める。
「………その卵、古いかもしれませんよ?」
「え? じゃあ…冷凍庫の肉も?」
カカシは天井を見上げて唸った。
「………………う〜ん……いつのだったかな……」
あれは波の国の任務に行く前だったから…と、記憶をたどっているカカシに、冷凍庫の肉
も目の前の卵も使用不可能とイルカは判断した。
正直言えば、一般的な毒では死なないように訓練を受けている自分達なら、冷凍庫で少々
(?)放置されていた程度の肉を食したくらいでは腹痛も起こさないだろうとは思う。
思うのだが。
任務中ではない時は新鮮なものを美味しく食するのがイルカの流儀である。
イルカは冷蔵庫をばたん、と閉めた。
「……買い出しに行ってきます」
どっちにしろ、野菜の類は買ってこなければいけなかったからイルカは買い物に行くつも
りだったのだ。
「あ、じゃあオレも行きます」
カカシは当然同行を申し出た。
それじゃあ行きましょう、と二人で玄関まで出たところ、タイミング良く呼び鈴が鳴る。
「……はい?」
カカシは無雑作に扉を開ける。
「こ、こんにちは…はたけさん……」
玄関の前にびくびくと緊張した面持ちで立っていたのはこの宿舎の管理人。
何でも噂では、元は下忍だったが体を壊して忍者を引退した男らしい。
「はい、こんちは」
カカシとイルカには彼の気配がわかっていたので、特に驚きもしない。
「あのお…あの空き部屋ですが…もうご覧に?」
ああ、とカカシは頷いた。
「さっきちょっとね。でも、夜になってからの様子も見たいんで鍵はもう少し貸しておい
て下さい。……入居する前に、色々直してもらわにゃならん部分もありそうでね。そこも
チェックしたいから」
「そ…そうですね。申し訳ありません。…どうもあの部屋は入りにくいというかで……オ
ッホン!」
管理人は慌てて咳払いをし、管理不足を認める発言を誤魔化そうとした。
「…あ、ええと……入居予定はうみのさん…でしたよね。あの、うみのさんも上忍さんで?」
あは、とイルカは頭をかいた。
「俺は中忍です。アカデミーで教師やってます」
「そうですか。それもご苦労の多いお仕事ですね」
ごほん、と管理人はまた咳払いをする。
「…で、あの……ちょっとお知らせに参ったんですが… も、もう少し小さいお部屋でも
よろしければ、先程一室空いたので…」
「先程……? あの鍵を借りに行った時は何も言ってませんでしたよね?」
カカシが首を傾げると、管理人は渋い表情で頷いた。
「はい。……お住まいになっていた方の訃報が先程……」
カカシとイルカは顔を見合わせた。
幽霊の出る噂のある部屋と、住人が死亡したばかりの部屋。
普通はどちらもあまり気持ち良くない。
が、忍びの住まう宿舎など、たいていは前の住人が殉職して部屋が空くのがパターンだ。
「そうですか。それはお気の毒でしたね。知らせて下さってありがとうございます。…で
も俺、さっき見せて頂いた部屋も結構いいかな、とは思うんで。返事は少し保留させて下
さい。今夜もう一度見てから…で、いいですか?」
イルカの言葉に、管理人は頷いた。
「ようございますよ。…まあでも、私は今度空いた方の部屋をお薦めしますけどね」



「で、玉ねぎと長ねぎですが…どっちにします?」
木ノ葉商店街、八百屋の店先である。
「……あくまでも親子丼?」
「他のがいいですか?」
「いいえ…いいですよ、親子丼。久し振りだし…んっとね、じゃあ両方」
イルカは微笑んだ。
「了解。…おばさん、そっちの長ねぎ三本。それと玉ねぎ一カゴ…それと、ええと、ジャ
ガイモももらおうかな」
「あいよ」
八百屋のおばさんがイルカの指定した品物を新聞紙でくるむ。
「イルカせんせ、ジャガイモは何になるんです?」
「味噌汁の具に…と思ったんですが。ワカメも入れて。…如何です?」
「いいですねえ。あ、何か漬物も欲しいですね」
おばさんは、カカシ達の会話を聞き取って笑顔を向けた。
「お兄さん達、自炊たあ感心だね。良かったらアタシが漬けた大根があるよ。分けてあげ
ようか」
イルカは野菜を受け取りながら嬉しそうに笑顔を返す。
「え? いいんですか?」
「構わないよ。お兄さん達、いい男だからサービスだよ。待っててね。今、ビニールに入
れてあげるから」
「すいません」
おばさんが店の奥で漬物をビニールに入れてくれている間、イルカとカカシは引越し先に
ついて相談を始めた。
「亡くなった方の部屋も見るべきですかね」
「ああ…そうですねえ、でもまあ先に今夜幽霊に会いに行きましょうか」
「出ますかね?」
耳聡いおばさんはこの会話も聞き逃さなかった。
「…お兄さん達、まさか噂の幽霊宿舎見に行く気じゃないでしょうね」
「あら? そんなに有名? あそこ」
目を丸くするカカシに、おばさんは大仰に顔を顰めて頷いた。
「悪い事言わないから、やめておきな。好奇心でああいうものを見に行くと、痛い目見る
よ。…アタシはこういう商売やってるからねえ、色々な噂を聞くんだよ。何でも、引っ越
してきた人の中には気が違ってしまった人がいるとか、自殺した人までいるとか」
「いや、好奇心じゃなくてね、今度あそこに引っ越そうかって思ってて…」
おばさんは漬物の袋を握り締めて眉を怒らせた。
「あんた! 人の話聞いてたのかいっ! なら余計やめなさい!!」
カカシは彼女を宥めるように柔らかい口調で言葉を返す。
「噂の真偽を確かめに行くんですよ。…で、必要なら御祓いとかしなきゃ。誰も住んであ
げないんじゃ部屋も可哀想でしょ?」
だが彼女も引かない。
「やめときなってば! 本当に嫌な噂しか聞かないよ、あそこの宿舎は! 他の部屋お捜
しよ」
おそらく本当にイルカ達を案じているらしい彼女にそれ以上逆らわず、「そうですね」など
と適当な返事を返し、彼らは『嫌な噂しか聞かない宿舎』に帰った。

「……あのおばさんの口ぶりだと、問題の部屋以外でもこの宿舎は何か出そうな感じでし
たね」
「オレここには結構長いけど、例の幽霊部屋もつい最近知ったくらいですもん…別に特に
不都合無いですけどねー」
それは、暗部の頃は一ヶ月も二ヶ月も帰らない事はざら。
最近はイルカ宅に入り浸りで留守がちのカカシが、自宅の周辺事情に暗かったからなので
あるが―――
実際こうしていても何ら妙な気配は感じられない。
イルカは包丁でまな板に小気味いいリズムをきざみながら頷いた。
「…俺としては、さっき空いたばかりの、まだ前の住人の気配が濃く残っている部屋より、
さっき見た幽霊部屋の方がいいように思えます。一応場所を確かめたんですが、空いたば
かりの部屋ってここの窓が見えない所なんですよね」
「…ってことは、オレからもそこの部屋は見えないんですね」
二人は顔を見合わせた。
「……却下ですね」
「ですね」
どうも一度「いい」と感じた『お互いの部屋の窓が見える環境』が思ったより重要な『引
越しの条件』になってしまった様である。
それからしばらく黙々と夕食を作っていたイルカがいきなりふふふ、と低い笑いを漏らし
てカカシを一瞬引かせた。
「…い、イルカせんせ…?」
「……負けません」
「は?」
イルカは包丁を握り締め、ぐっと気合を入れた。
「八百屋のおばちゃんに何と言われようが! 管理人に避けられるような部屋だろうが! 
俺はあそこが気に入りました! 絶対に越して来てみせます!」
うみのイルカ、意地っ張りモードに突入。
「素敵ですっっ! イルカ先生!」
恋人の勇姿に、思わずカカシは拍手した。


「さて、と」
時計の針は、午前零時を回った事を示している。
夕食を済ませ、テレビなどを眺めて時間をつぶしていた彼らは立ち上がった。
「行きますか!」
イルカとカカシは万が一を考え、これから任務にでも向かうような装備で噂の部屋に向か
う。カカシの手にはもちろんカメラも握られていた。
がちゃん、と鍵を開け、イルカは昼間と同じ様に部屋に向かって声を掛ける。
「入ります!」
そして玄関に足を踏み入れると、昼間確認しておいた明かりのスイッチに手を伸ばした。
カチ。
ぱっと部屋が人工の明かりに照らし出される。
「………ふむ。明かりはまあまあですね」
イルカは手帳を取り出し、部屋中の明かりを点検し始めた。
「あ、ここの電球はもう寿命だな」
ぶつぶつ呟きながら丁寧に手帳に書き付ける。
カカシは浴室に向かい、壊れた蛇口をパチリとカメラに収めた。
「イルカ先生、おかしな所を見つけたら言って下さいね〜…床板がヘンとか、戸の建付け
が悪いとか」
「はい」
昼間も一応点検したのだが、見落としている所があるかもしれない。
しばらく二人はせっせと部屋の点検に勤しんだ。
ふとカカシが居間の中央で立ち止まり、イルカを振り返る。
「……ねえ、イルカ先生。今夜はここで寝てみませんか?」
「え? ここに泊まるんですか?」
「だって、出るとしたらもうしばらく後じゃないですか? 俺、毛布でも持って来ますよ。
あ、ビールとつまみも持って来ようかな」
イルカが止める間もなく、カカシは自分の部屋に毛布を取りに行ってしまった。
「…カカシ先生ったら…キャンプ気分だな」
イルカは苦笑して部屋の中を見回す。
「…何もねえ部屋ってのは…広いなあ……」
ここなら、街の家具屋で見て実はとても気に入っていたセミダブルのベッドが余裕で入る。
「置くならあっちの部屋の…窓際かな……それとやっぱ畳が欲しいな。居間の半分に畳入
れようかなあ…確か、こういう板張りの床に部分的に置ける畳ってあったよな…」
イルカは部屋を見回しながら具体的な内装を考え始めた。
「…カカシ先生、俺んちの畳に寝転ぶの好きだし…うん、新しい畳入れたらきっと喜ぶだ
ろうな…」
イルカはもうすっかりここに越して来る気である。
夏場にテレビでよくやっている怪奇現象スペシャルな出来事も今のところ起きない。
だがイルカはまだ気を抜いたわけではなかった。
火の無い所に煙は立たない。何か噂になる原因は存在するはずだ。
「……来るなら来やがれ…」
イルカは塩の入った小袋をポケットの上から叩き、火影直伝の呪文を頭の中でさらう。
もし噂の幽霊が出たら、その時は。
「…強引にでも成仏してもらう………!!」




 
ぷし。
カカシが3本目の缶ビールのプルトップを開けた。
「……何時です?」
イルカが懐中時計を懐から取り出したのを見て、カカシは何気なく訊く。
「…午前1時…45分です」
「ふむ。…定石ではそろそろですねえ…草木も眠る丑三つ時ってヤツ? ナニかが出るな
らさっさと出て欲しいですね」
カカシはどうやら退屈してきたらしい。
さもありなん。
任務でもないのに、出るかどうかもわからないあやふやな物をがらんとした部屋で待つの
は苦痛である。
イルカも手持ち無沙汰気味に、カカシの持ってきたスルメを齧った。
「そーですねえ…今日は空振りだったかなあ…」
そーだ、とカカシは身を乗り出す。
「イルカ先生。噂のある場所で怪談すると、出てくるって話聞いたことありません?」
「……ここで百物語でもするんですか? 二人で」
「いやあ、いくら何でもオレそんなにレパートリーないですよお」
「俺もですよ。せいぜい生徒が噂している『学校の怪談』くらいしか知りませんし」
「え? ナニそれ。アカデミーに幽霊出るんですか?」
「……子供の好きな噂話です。きっと、誰かの作り話ですよ、バカバカしい」
「どんな?」
カカシは好奇心を刺激されたらしく、ますます身を乗り出してくる。
「…誰もいないはずの教室から、深夜誰かが何かぶつぶつ呪文を唱えている声がする、と
か。廊下の突き当たりにあるはずのない鏡が出現する日があって、それを見ると自分の死
期がわかるとか。新月の夜は血まみれの忍者が天井を逆さまに歩いてるとか…ええっと、
アカデミー以外でも、死の森のフェンスの上を首が飛んでたとか、慰霊碑の周りに白い人
影がいっぱい見えたとか。……そんなんばっかですが」
カカシはふうん、と頷いた。
「…あんまりリアリティないですねえ…っつーか、独創性がない」
イルカは笑って、話を打ち消すように手を振った。
「だから子供の与太話ですってば」
カカシは俯いて缶ビールを一口飲んだ。
「…………」
カカシの呟きは口の中で小さくかき消え、イルカにはよく聞き取れなかった。
「え? 何ですか?」
カカシは顔を上げ、にっこりと笑う。
「えへへ。…別に何でもないです。……ねー、イルカせんせ〜…今夜はもう何も出ません
よお〜〜…つまんないです〜ぅ。遊びましょうよお」
「百物語はやめですか」
「…やめ。考えたらオレ、あんまりそういう話知らないしぃ…別に今夜出てくれなくても
別に困らないし〜〜…」
そう言いながらカカシはイルカの膝に乗り上がった。
要するにカカシの言う『遊び』とは、そういう事らしい。
イルカの唇に軽くキスすると、そのまま腕を肩に回してイルカの首筋に吸いついてくる。
「…見えそうな処に痕つけないで下さいよ?」
「ん」
言ったそばからきつく吸い上げられてイルカは顔を僅かに顰める。
「…カカシ先生」
「ゴメン」
イルカからカカシの顔は見えなかったが、どうやら笑っているらしい。
イルカは胡座の上でカカシの身体を抱え直し、シャツの裾から手を入れた。
そのまま背中を撫で上げると、カカシが無言で身体を震わせる。
「ねえ」
「…何です?」
「キス、したい」
カカシのおねだりに応じ、イルカは彼の上体に回した腕の力を緩めて少し距離を取る。
たぶんお互いにビールの味がするだろう、いやスルメの匂いの方が勝つかな、と思いなが
らイルカは彼にくちづけた。
絡み合う舌と、背中や首筋を這い回るカカシの手がもたらす刺激がだんだんイルカの感覚
を侵していく。
床に無雑作に敷かれた毛布の上にカカシの身体を押し倒して、本格的な愛撫を彼に施し始
めた頃には、イルカの頭の中で『何の為にここにいるのか』という意識は薄れていた。
「ア…ァ…」
時折カカシが漏らす声に更に刺激され、イルカは素直に自分の欲求に従う。
カカシの穿いているコットンパンツを脱がしてしまおうとした時、家鳴りにしては大きい
音が響いた。
《ビシッ》
「………」
「……………」
イルカとカカシは無言で視線を合わせる。
「……フン」
カカシは鼻先で笑うと、イルカの首に手をかけて自分の方へ引き寄せた。
「カカシ先生…?」
「…無粋な幽霊なんか放っておきなさい」
引き寄せたイルカの身体にカカシは故意に音を立ててくちづける。
「今頃出てきても遅い」
ちゅ、ちゅ、と繰り返されるキスに、イルカも苦笑しつつも応えて服の上からカカシの腰
をゆっくりと撫でまわす。
《ビシッ! ビシッ!》
「……これがラップ音ってヤツか〜…オレ初めて聞いたなあ」
カカシはのんびりと含み笑いをしながら尚もイルカの肩口や胸に唇を当てる。
「…俺もです」
何も幽霊が必死に登場をアピールする中でこんな事しなくてもいいのではなかろうかと思
いながら、イルカはヤケクソのようにカカシのコットンパンツのファスナーを下ろした。
《ビシビシビシッ!!!》
「…やっかんでやんの」
「……そーでしょうか……」
カカシはまるで幽霊にあてつけるかのように、イルカの手を取って自分の股間に導いた。
「あんなラップ音なんか気にしないで。…ほら、しましょ」
異常現象に対する関心より、性欲の方が勝るのか。
イルカはどことなく幽霊に悪いような気がしたが、『音だけがする』この状況では然程恐怖
感も煽られない。
カカシに誘われるまま、下ろしたファスナーの中に手を入れた。
途端、カカシが甘い声を上げる。
「…ハ…ァ…ァッ…」
《バシィッ!!》
「…あ、今のはけっこすげかった」
「……落雷みたいな音でしたね」
そしてふと視線を上げたイルカは一瞬ぎくりと身を竦ませる。
イルカが身を竦ませた瞬間、カカシは素早く床に転がしてあったカメラに手を伸ばし、イ
ルカの視線の先に向かってシャッターを切った。
その早業にさすがのイルカも唖然とする。
「……カカシ…先生……」
カカシは毛布の上で起き上がり、ぽりぽりと頭を掻いた。
「んー、撮れたかなあ…いたんでしょ? ユーレイ」
「…たぶん。…ぼうっと、人の姿が見えました」
幽霊の方は、いきなり写真を撮られて驚いたのか(?)既に消えていた。
カカシはクスクス笑う。
「…昼間もさあ、イルカせんせとオレがキスしたら音とかしたじゃないですか。…何とな
くね、いちゃついて見せたら出そうな気がしたんですよね」
「うわあ…そういう事だったんですか…? 嫌だなあ、カカシ先生。…俺、その気になっ
ちゃってたじゃないですか」
思いっきりバツが悪そうな顔になったイルカの頭をヨシヨシ、と撫でたカカシはぺろ、と
舌を出して見せた。
「別にいいんですよ。なっちゃって。オレだっても〜バリバリその気でしたもん。…写真、
撮れているといいですねえ。やっぱり出たぞって言って、家賃値切れますもんね」
イルカの為に少しでも有利な条件を揃えようというカカシの目論みはこれで達成出来たよ
うなものだった。
「ま、これで噂の真偽ははっきりしましたし。……今度出たら、きっちりナシつけて他所
へ行ってもらうなり、成仏してもらうなりしましょうね」
イルカはごそ、とズボンのポケットから塩の包みを取り出した。
「……俺、もし出たら即刻成仏してもらおーと思ってたんですが…」
ため息をついて塩をポケットに戻す。
「…が?」
カカシは首を傾げた。
「…俺、幽霊は男だと思ってたんですよね…この宿舎、女性は住んでいないじゃないです
か。元の住人が化けて出ているなら当然男だと…思ってたんです」
「……もしかして…お、女だったんですか? 幽霊」
カカシも男の霊だと思っていたらしい。
「ええ。…たぶん…女性に見えました」
うわあ、とカカシは頭を抱える。
「っちゃー……しまったなー…女の前でオレ、あんな事しちゃったのかー。うわ、恥ずい」
そういう問題なんだろうかとイルカは肩を落とす。
「…きっと、以前のおばあさんの霊と同じで、何か現世に心残りがあるのでしょう…それ
が何かわかればいいのですが…」
「…イルカせんせって、フェミニストですねえ…幽霊相手でも」
イルカは笑った。
「まあ、話してわからない相手だったら、強引にでも成仏してもらいますよ。火影様にと
っておきの呪を伝授して頂きましたし」
「おや、強気で素敵」
「からかわないで下さいよ、カカシ先生」
「からかってないですよ。イルカ先生はこうと決めたら絶対にやりますものね。…てなわ
けで、覚悟しておくように。幽霊さん」
幽霊の出現した辺りに顔を向けて、カカシは言い放った。
そしてくるりと振り返ってにっこり笑う。
「じゃ、オレんち帰って続きしましょうか、イルカ先生」

      



 

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