お引越し = 後編=

 

 



「いやあ、現像頼んだ写真屋がびびったのなんの」
けらけらと笑いながらカカシはお茶を啜った。
昼食時の教員用食堂。
そのテーブルの上に、写真屋の袋が何気なく放り出されている。
「…う、写ってたんですか?」
定食に箸をつけながらイルカはちらりとその袋を見た。
「んも、バッチリですよ〜! オレってば才能あるのかなあ。心霊写真撮る」
テーブルの横を通りかかった男が、カカシの言葉に足を止める。
「心霊写真?」
「あ、ガイ先生。こんにちは」
イルカは丁寧に挨拶する。
「おう、元気そうだなイルカ。時に、カカシが今妙な事を言ったようだが」
「…妙って…心霊写真のこと?」
カカシが不機嫌そうに見上げると、ガイは腰に手を当ててハハハ、と笑った。
「お前ともあろう者が、そんな子供騙しを! どうせ、怪しい光が写っていたとか、木の
葉の影が人の顔に見えるといったヤツだろう!」
カカシは袋をすい、とガイの方へ押しやった。
「じゃ、見れば?」
ガイはフン、と鼻で笑って袋を取り上げた。
そして袋から写真を取り出し、眺め始める。
「……犬の写真ばかりではないか。これのどこが…」
「あ、それは現像に出す前に余ってたフィルム使っちゃおうと思って撮ったウチの子達。
それじゃなくてね、もっと前」
「…前?」
ガイはひょいひょいと写真を見ていく。と、手が止まった。
「……ガイ先生?」
ガイの手から写真がぼたぼたとこぼれ落ちる。

真昼の食堂に、野太い悲鳴が響き渡った。

食堂は大騒ぎとなった。
上忍のガイが大仰な雄叫び(悲鳴とも言う)を上げた事で、先ず皆が一斉にカカシ達のテ
ーブルに注目し―――そこにカカシの姿を認めて何事かと好奇心を起こす。
そして、比較的近くにいた者がガイの落とした写真を拾い、真っ青になってそれを取り落
とす。
怪訝に思った者がそれをまた拾って絶叫。
それの繰り返しで、あっという間にカカシ達のテーブルを中心に輪が出来てしまった。
食事中だったイルカは居心地が悪そうに箸で焼き魚を突付きながら俯き、カカシは座った
ままつま先でひっくり返ったガイを突っついている。
そうこうしている間に写真はいつの間にか少しずつ移動してイルカ達から遠ざかり、悲鳴
もその都度移動していく。
イルカが冷静に観察するに、意外と『ああいう物』に弱いのは男の方だった。
女性がそれを見た場合の反応は、先ず「きゃあ」と派手な悲鳴はあげるものの、実はしっ
かりと好奇心たっぷりに写真を眺め、面白がっている。
それに対して男性は、それが心霊写真だと気づいた時の反応が極端だった。
無言で顔色を変える者。
悲鳴を上げる者。
つまり、男は『本気で』怖がるか嫌悪感を示すのである。
「…イルカ先生、まだ見てないんですよねえ…アレ」
「はあ、まだです……そんなに怖いんですか? あの写真」
「……見る人によるかもしれませんが、まあ…うん、結構ちゃんとした心霊写真でねえ…」
「そーなんですかー…」
イルカの視線の先、写真は手から手へと渡っていく。
他人の反応が気になり、怖いもの見たさも手伝って見たがる者が絶えない所為である。
「…みんな、結構怖がりなんですねえ…忍者って迷信深いヤツ多いからなー…縁起とかけ
っこー気にするしぃ…」
「カカシ先生もあんまりお好きじゃないでしょ? 幽霊」
ポリポリとタクアンをかじるイルカ。
カカシは頬杖をついて目を眇めた。
「…オレは一度アナタをつれて行かれそうになってますから。こっちにちょっかい掛けて
くる幽霊に対して寛容にはなれませんね」
その時カカシの足元からがばあ、とガイが復活した。
「幽霊などというものに寛容は無用!! いーかあ、イルカ! あやつらは夜中に気持ち
よく爆睡する善良なる里人の敵だ!! 金縛りの術を用い、人の安らかなる睡眠時間を奪
う!! 許してはおけん!!」
カカシはふうん、と相槌を打った。
「……つまりぃ、お前は金縛り経験あるんだー……」
う、とガイは固まった。
「それは大変でしたね…お気の毒です、ガイ先生」
心から同情したイルカの声に、ガイは再び復活した。
「いやいや…大した事ではないがな。何にしても、ああいう魂魄のみになってしまった輩
にはこちらの意思はなかなか通じぬものでな! 手強い相手と言えよう!」
イルカはちょこっと首を傾げた。
「…ですか? あの方々も元は同じ人間ですから、話せばわかる人もいますよ」
「―――話した事があるような口振りだな?」
はい、とイルカは頷いた。
「ありますよ。きちんと成仏して頂きました。ああ、俺は何もしてないんですけどね。話
を聞いただけで。…ちゃんとあの世に送ってあげられる方に頼んだんです」
ガイはイルカの肩を抱きかかえるように身を寄せて声を低くした。
「イルカ。ものは相談だが。…その、迷える魂を送った御仁というのをオレに紹介しては
もらえんか…?」
どうやら結構真剣に悩んでいるらしいガイの様子に、カカシはにんまり右目を細めて微笑
った。
「ガイ」
ちょいちょい、と指でガイを呼ぶ。
何だ? と素直にカカシの方に頭を傾けるガイ。
その耳にポソポソ、とカカシは囁いた。
「何と? …それは本当か?」
「内緒だよ? まあ引き受けてくれるかどうかはお前の交渉次第だな」
うんうん、とガイは頷き、『上手くいったら一杯奢る』と言い置いてさっさと姿を消した。
イルカはカカシの方に身を乗り出す。
「…カカシ先生、まさか…」
「オレは本当の事を言ったまでです。…あの御方が里の為でもないのにいちいちそんな除
霊までなさるかはわかりませんけど」
「里の為にはなるんじゃないですか? ガイ先生はカカシ先生と同じように力のおありに
なる上忍ですし。それが寝不足が原因で不調になったりしたら任務に差障りがあるじゃな
いですか」
カカシは「そっか」と頷いた。
「そーですね。……それじゃオレ達も頼んでみます? イルカ先生が寝不足になったら一
番困るのはあの爺様だし」
イルカはふるふると首を振り、周囲に聞こえないように声を落とした。
「……いいえ。それは最終手段にしたいです…何故わざわざ霊が出る部屋に引っ越すのだ
と言われるのがオチで…まさか、貴方と同じ屋根の下に住みたいからだなんて言えません
よ…」
カカシは肩を竦めた。
今のところ火影はカカシとイルカの仲に気づいた素振りは見せない。
だが、おそらく勘づいてはいるだろう。
黙認状態というヤツだ。
イルカの存在がカカシの害に。またカカシの存在がイルカの害にならぬ以上は、放ってお
いてくれるらしい。
ならば下手な事をして薮蛇になるよりは現状維持である。
ふう、と息をついてイルカは立ち上がった。
「写真、回収してきます」
騒ぎの中にひょいと割り込むと、イルカは「失礼します」と断って件の写真をアカデミー
の女性事務員から取り戻す。
そして、イルカは初めて騒ぎの原因を眺めた。
「………う」
イルカは思わずうめいた。
成程、立派な『ちゃんとした心霊写真』である。
「…イルカ先生…これ、トリックじゃないです…よね?」
今まで写真を持っていた女性事務員が恐る恐るイルカを見上げる。
イルカは「はあ」、と曖昧に頷いた。
「偶然撮れてしまったんです。…必要ならきちんとお祓いをしますのでご心配なく」
どことなく不安そうな顔をした女性にそう言って微笑み、イルカは席に戻った。
イルカの言葉は周囲の人間達にも効果があり、ざわついていた食堂内も静かになっていく。
イルカが席に戻ると、先程の女性がおどおどと後をついて来た。
「…? どうかなさいましたか?」
イルカが首を傾げると、女性は口元に手を当てて迷うように視線を彷徨わせた。そして、
視線をイルカに戻すとコクン、と頷く。
「…………あの…その、写真の…写っている女性……私、知っていると思うんです…」
おや、とイルカとカカシは顔を見合わせた。これはどこか展開の予感。
カカシはイルカの隣に席を移し、にっこりと自分達の向かいの椅子を女性に勧める。
「どーぞ。お話、聞きましょう」



「………この間の婆様と似たようなパターンですね……」
カカシはがくりと肩を落とした。
「…俺達、そういう巡りあわせなんでしょうか…」
イルカは引越し荷物の間に座ってどこか上の空といった風情で林檎の皮を剥く。
女性事務員が話してくれたのは、恋人に逢いに行く途中で事故に遭い、亡くなった友人の
話だった。
その恋人が、例の部屋に住んでいた男らしい。
イルカが女性の話を頼りに調べてみると、男は恋人が亡くなった後、自ら志願して他国へ
の潜入任務に就いてこの里を出ていた。
「…恋人の思い出がある部屋に住んでいたくなかった…この里にいるのが辛かった…とい
う事でしょうか」
「で、女の方は恋人に逢いたいって気持ちを胸に抱いたまま死んじゃって…それでずっと
あの部屋に逢いに来てたんですねえ…ハハハ、それで部屋ん中で男が二人イチャついてた
らムカつくわ」
「カカシ先生……」
カカシは乾いた笑いを浮かべると、イルカの手から剥いたばかりの林檎を抜き取ってさく
りと齧る。
「どーしましょうかねえ、イルカ先生。…どーも生々しい話になってきましたが……」
「彼女に同情はしますが……でも、放っておくわけにもいきませんね……問題は、どうす
れば彼女にあの部屋に来てももう恋人には逢えないって事をわかってもらうか、ですね」
カカシは林檎を齧りながらしばらく黙って考え込んでいた。
やがてぽつりと「しょーがねえ、やるか」と小さく呟き、イルカに向かって微笑む。
「大丈夫ですよ。オレが何とかします。…元はといえば、あそこの部屋を薦めたのはオレ
ですからね」
そして、イルカの頬にキスして立ち上がった。
「待ってて下さい。…アナタが何の憂いも無くオレと同じ屋根の下に来られるようにしま
すから」
「カカシ先生!」
イルカが慌てて腰を浮かせた時既にカカシの姿は部屋から消えていた。
「……カカシ……」
イルカは少し不満げに眉を寄せる。
イルカにしてみれば、自分がこれから住む部屋なのだから、当然自分で何とかしようと思
っていた。それにカカシが手を貸してくれるのは嬉しいし、二人で問題を解決していく事
には喜びも伴う。
なのにカカシは一人で何事か思いついて、行ってしまった。
「…一人で行っちゃう事ないじゃないですかぁ……」
イルカは手にしていた林檎の芯にがぶりと噛みついた。



「……ナルト? お前ら何やってんだ?」
受付所から出て、アカデミーの方に戻ろうとしていたイルカは、ナルト達七班の3人が必
死になって指立て伏せをしている光景に出会った。
ナルトは「ふぎぎ」と唸りながら震える指で体を支えている。
「…何って…見りゃわかる…っでしょっ……」
サクラもぶるぶる腕を震わせながら、それでも律儀にイルカに返事をする。
「も、ダメぇ…っ…」
サクラはごろっと身体を横倒しに投げ出した。
「……カカシ先生の鍛錬メニューきつ過ぎ……もお、身体ガクガク…」
サクラに続いてナルトもギブアップする。
「オレはもーハラ減ったってばよ…」
黙々と指立て伏せを続けているのはサスケ一人。
それもおそらく限界なのはイルカの目にも明らかだった。
「…カカシ先生のメニュー? どれだ?」
イルカはさりげなくサスケに質問して彼が中断するきっかけを作ってやる。
サスケは指立て伏せをやめると、腕の震えを抑えながらポケットから紙片を取り出した。
「これだ」
イルカはサスケの差し出した紙を受け取り、中をざっと眺めて顔を顰める。
「………これ…俺でもきついぞ…こなすの」
エーッ、とサクラとナルトが揃って声を上げる。
「何よぉ、これくらい出来なきゃ下忍失格って言ってたわよ、カカシ先生」
「そーだってばよ! だからもーオレ必死だったのに〜」
「……フン」
サスケは微かに苦笑を浮かべてそっぽを向く。
中忍のイルカが「きつい」という訓練メニューなら、下忍の自分達には無理があっても当
然。
イルカの言葉に彼らは三人三様の安堵の息を吐いた。
「で、カカシ先生はどうした? 任務か」
カカシは時々教官の仕事以外にも上忍として任務を請け負う事がある。
「ん〜ん。わかんねー…でも、たぶんそーじゃねーかなあ…」
「先生、自分の任務の時は殆ど何も言わないもんね。…でも、これでも進歩したかなー…
前は、任務の所為で私達との集合時間に遅れた時も妙な嘘言って誤魔化そうとしたもの…」
サクラは腕をさすりながらニコ、と笑った。
しかしイルカはカカシから何も聞いてはいなかった。
七班の任務以外で里を空ける時は、大概彼はイルカに一言言って行く。
直接話せなくても、何かの形で伝えていくのに。急な任務だったのだろうか。
眉を寄せて考え込むイルカの胴衣を、くいくいとナルトが引っ張った。
「なあ、イルカせんせー。だったらこの訓練メニューさあ、ちょこっと減らしてもいいか
なあ…」
イルカはナルトの黄色い頭を軽く小突いた。
「せんせはそんな事許可出来んぞ。お前らの教官はカカシ先生なんだから。カカシ先生に
課せられたメニューだろ? やれる所までやりなさい。…じゃあ、頑張れよ」
「うあ〜…」
また三者三様に吐き出される吐息を背中で聞きながら、イルカはアカデミーに向かった。






 
元はと言えば。
元はと言えば、すべて自分が言い出した事。
カカシがあんな事を言い出さなければ、イルカは住み慣れた部屋を出て行く気になどなら
なかったはずである。
長年あの部屋に住んでいるイルカは、特にその古さからくる様々な不自由を特に気にして
いたようには見えなかった。
だが、カカシの為に引越しを決意してくれたのだ。
「なのにっ…なのにその引越し先がユーレイ部屋だったなんてっっ!! あんな、取りつ
かれやすそうな人にそんな部屋を勧めたなんてっ!! あー、もうオレのバカっ! 何だ
かんだ言ったって、イルカ先生は気の毒な人なら幽霊にだって同情しちゃうんだっての
に!」
最終的に引越しを決めたのはイルカだったが、責任の一旦は自分にもある。
いや、引越し先の部屋に関しては自分が何とかするべきだ。
そう決意したカカシは、イルカにも内緒で休暇をとり、里の外に出たのである。
何せ、『出る』と噂されているだけの状況ではあやふやな手しか打てなかったが、確実に『出
る』のを確認したうえ、その霊と部屋の因果関係まで判明したのだ。
ならば、幽霊なんぞと同居するのはやはり願い下げというものである。
「……やっぱね…元々の住人にもご協力願いましょ…関係あるんだし」
カカシは、噂の幽霊部屋がまだそう呼ばれる前にそこに住んでいた男について調べた。
自ら志願して里の外の任にあたっているという話から、居場所をつきとめるのは困難かと
思われたが、彼は意外と簡単に見つかった。
「良かったー…極秘隠密活動している奴じゃなくてー…」
カカシは胸を撫で下ろす。
いくらカカシが上忍で、里の最高機密に関わる任務を過去多数こなしているからといって、
他の者が里の外で行っている隠密活動の全ての情報など簡単に得られるわけがない。
元の住人、カムラという男は岩の国にいた。
間者には違いないのだが、特に目的のある任についているわけではなく、岩の国の情勢を
それとなく探って定期報告するのと、任務で岩の国に赴いてきた忍の便宜をはかってやる
のが彼の仕事だった。
いわば、岩の国における木の葉の忍達の連絡場所であり、情報を得る場。
その場所が何処にあるかくらいは、カカシには容易に調べがつく。


目当ての家はすぐ見つかった。
村外れの元炭焼き小屋。カムラは普段は仮の姿として薬の行商をしているらしい。
役目上、特命がない限り二日と小屋を空けることはないはずである。
カカシが訪れた時には留守だったので、戸に木の葉の同胞が訪れた印を密かにつけ、カカ
シは出直す事にした。
陽が沈み、辺りに人影がなくなってからカカシは再度小屋を訪れる。
小屋の中の男は、カカシの合図にすぐに戸を開けた。
「お入り下さい」
「…カムラか?」
カムラはカカシを認め、小屋の中に招き入れる。
「はい。…上忍がおいでになるとは聞いておりませんでした。火急の御用で?」
カカシは両手をポケットに突っ込んだまま、に、と笑った。
「そりゃ聞いてないだろーね。…悪い、私用なんだよ」
「は?」
カムラはほぼカカシと同年代の青年だった。
階級はイルカと同じく中忍。
誠実そうな顔立ちもどこかイルカを思わせる。イルカのように目立つ傷痕もないので、特
に印象に残らない風貌の彼はこういう任に就くにはもってこいと言えるだろう。
「…私用。オレは、あんたに用があって来たんだよ。……あんたさ、木の葉にいた頃、宿
舎で暮らしてたよな。…オレは同じ宿舎に住んでいる者で、はたけってモンだ」
「はたけ…さん…? えっ…じゃあまさかっ…」
カカシはしいっと口の前で指を立てる。
「ま、それはともかく。……実はねえ、あんたが住んでた部屋がさあ、とんでもないコト
になってんの。………『出る』ってね、評判になっちゃってて…オレの友人がそれを知ら
ずに引越しを決めちゃってさ。噂の確認に行ったら、マジにお出ましになったんだよね」
カムラは小さく息を飲んだ。
「で…出るって……まさか…」
「うん。そのまさか。…証拠写真が見たければ見せるけど……写真に写っている…その…
娘をね、知っている女の子がいたんだ。…友達だったんだって。で、あんたの事も聞いた。
……オレが思うに、その娘は今もあんたに逢いたくて…あの部屋に来ているんだよ…」
カムラは顔を覆って、その場に膝をついた。
「………ぼ…牡丹…っ…」
「……あんたの気持ちは…わかると思う……彼女との思い出がいっぱいある部屋に住み続
けるのは…辛かろう…」
それは、カカシにとって容易に想像のつく感情だった。
イルカを突然失ったら。
彼との思い出のある場所はさぞかし辛いものになるだろう。
そこで笑っていた彼の幻ばかりを見るだろう。
カムラは肩を落とす。
「…あいつとは…殆ど同棲していたようなものだったんです…彼女、よく泊まりに来てい
て……あの日は、俺が…任務明けで久し振りに部屋に戻る日で…牡丹は、俺の好物を用意
して待っていてくれるつもりだったのだと思います。……俺が好きだった物を無理して遠
くまで買いに行って…工事現場を通りかかった時、運悪く荷崩れに巻き込まれて、材木の
下敷きになって死んでしまった……」
土間にカムラの涙が落ちた。
「俺……俺なんかの為に……」
カムラはがばっと顔を上げた。
「牡丹は本当に俺に逢いに来てるんですか? 俺に逢いにあの部屋に…っ」
カカシはポケットから写真を出した。
「…確認…するか?」
カムラは躊躇いもなく手を差し出した。
「失礼致します」
そして、その写真―――食堂でさんざん『心霊写真』だとして騒がれ、気持ち悪がられた
写真を食い入るように見つめて、愛しげに胸に抱く。
「…牡丹……」
それがたとえぼやけた心霊写真でも。
彼にとっては愛しい者の姿を写した、大切な写真であるらしい。
「…はたけ上忍……俺は、どうしたら良いのでしょう…お話から察するに、牡丹が貴方の
ご友人にご迷惑をかけているのでしょう…? 俺に、何が出来るのでしょう」
カムラが察しの良い男で助かった。
わざわざカカシが岩の国まで自分を訪ねてきたのは、まさかこの写真を見せるだけでも、
騒ぎを伝えるだけでもなかろうと、真っ直ぐ見つめてくる。
カカシは微笑んだ。
「…その彼女に…牡丹さんにさ、逢いに行ってあげてよ。…あんた逢いたさに、まだ魂だ
けでこの世を彷徨っている彼女が可哀想だもんな。……何か書くもの貸して」
「は、はい」
カムラが紙と筆を取りに行っている隙に、カカシはピッと親指を切って血を滴らせ、印を
結ぶ。
「…土遁…口寄せ!」
カムラが戻ってきた時は、カカシは忍犬を一匹呼び出し、その頭を撫でていた。
「……オレは個人的に休暇をとってここに来ているんだけどね…あんたが里に行って、そ
してまた戻って来るまではここにいる。…あんたの代わりにね。……アカデミーの教員で
イルカっていう中忍がいる。アカデミーか、任務受付所で捕まえられるから、あんたは変
化でもして別人になりすまして彼に会いに行け。……それまでに彼に色々段取りを整えて
もらっとくから………いい子だな、こいつをイルカ先生に届けろ。誰もいない時に渡すん
だぞ」
忍犬はカカシがささっと書き上げた手紙を咥え、あっと言う間にまた地に潜っていく。
カカシは再び印を結び、目の前のカムラそっくりに変化してみせた。
「…あんたは任務続行中。…里に戻ったりはしないって事さ。何、岩は今、取り立てて神
経を尖らせる状態にはない。…あんたが一瞬里帰りしたって、うまくやりゃバレないよ」
カムラは頷き、素早く荷物を用意してカカシに向かって深く頭を下げると、その場からか
き消えた。



「この度は、牡丹がはたけ上忍にもイルカさんにもご迷惑をおかけしまして…」
カムラはイルカに会うなり頭を下げた。
カカシの忍犬が届けてくれた手紙で、彼が一人でカムラを捜しだして事の仔細を告げ、自
分に託したのだと知らされたイルカは緩慢に首を振る。
「……いいえ。俺はまだ実際には越して来ていませんから…」
カムラは努めて明るく笑ってみせる。
「それにしても、すごい人と友達なんですね、イルカさんは」
「……教え子つながりでして。俺の受け持ちの生徒が、彼の担当下忍になったんですよ」
「ああ…あの人、上忍師だったんですか。なるほど」
二人は、件の宿舎に向かって歩いていた。当り障りの無い会話が途切れ、しばらく二人は
無言で歩く。
宿舎が見えた所で、イルカは口を開いた。
「………カムラさん」
「はい」
「…その……実際、牡丹さん…と逢えたら…貴方は…」
言葉尻を濁すイルカに、カムラは微笑んだ。
「…俺はね、イルカさん。…嬉しいんですよ。幽霊でも何でも、もう一度アイツに逢える。
…教えて下さったはたけ上忍に、感謝しています。あまりにも突然の別れでしたから……
もしも俺にもう一度逢う事でアイツの心残りが無くなるなら…俺は二度目の喪失に耐える
…つもりです」
「…では…よろしいのですね? 彼女を成仏させて」
「もちろんですよ。…魂のままこの世にいるのは彼女にとって良い事ではありません。…
…我がままを言えば、俺は幽霊でもいいから彼女にずっといて欲しいけど。…でも、肉の
器を持たない魂は脆い。…もしも彼女が変質してしまったら、俺は耐えられないでしょう」
そこでカムラはイルカの眼を真っ直ぐに見つめた。
「…俺は、生まれ変わりを信じています。…縁あれば、彼女はまた俺の近くに生まれてき
てくれます」
イルカはただ、頷く事しか出来なかった。
最愛の人を失った彼。
死と隣りあわせで生きる忍の自分達には容易に訪れる事態だ。
もしも自分がカカシを失ったら。
彼のように言えるだろうか。
イルカは首を振った。
自信は無い。
幽霊でも構わないからカカシに逢いたい。ずっと側にいて欲しい。
―――そう思うだろう。
「…カムラさんは…強いですね…」
カムラは自嘲気味に薄っすらと笑った。
「いや……こうしてはっきりと口に出して自分に言い聞かせているだけです。…でなきゃ、
未練を断ち切れそうも無いから」
重い息をひとつ吐き、カムラはかつて自分が住んでいた部屋の窓を見上げた。
「……今、帰るよ…牡丹。……待たせて悪かったね……」






 
まだ管理人から預かっていた鍵で部屋を開けると、イルカはぱちんと灯りをつける。
家具も無くがらん、とした部屋を、それでもカムラはどこか懐かしげに見回し、そして苦
笑に近い表情を見せた。
「…『噂』を知ってても引越しを取りやめようとは思わなかったのですか? 幽霊なんか
は信じないってクチだったんですか」
イルカはいいえ、と首を振る。
「幽霊をアタマから否定はしません。浮かばれない方の魂が彷徨う事があるのは知ってい
ますから。……ただ…まあ、最初ここ見せてもらった時いい部屋だと思って気に入ったし
……実の所、最初は噂の事なんか知らなかったんですよ。俺が引っ越し先を捜しているの
を知った彼…その、カカシ上忍が、自分の宿舎に空き部屋があるって教えてくれて…彼も
噂の事は後から知ったらしくて、それで…」
「そして調べて俺の所までわざわざ来てくれたんですね。…すごく律儀な御人ですね。は
たけ上忍という方は」
「……ご自分で勧めただけに、責任を感じてしまったみたいで……でも、実際に検分に来
た時に偶然とはいえ、彼女が本当にいるのを偶然写真に収めてしまったのも彼で…その後
に貴方との事情も知って、御二方に同情なさったのだと思います…彼女が可哀想だと思わ
れたのでしょう…俺も、このままでいいわけがないと思いましたから」
イルカはカカシの忍犬が持って来た手紙の指示通り、術式と結界の準備をする。
チャクラを操り、呪文を唱えて印を結び術を発動させる力を持った忍には、何の修行もし
ていない一般人と比較すれば言霊に意味通りの力を与える事が可能である。
カカシに聞き取れなかった霊の声を聞いた事があるイルカには、更にこういう方面に『適
性』があると言えるだろう。
だが、イルカも呪文だけで彼女をきちんと確実に『送れる』ほど正式に修行して通力を得
ているわけではないので、術式と結界の力を借りるのだ。

電気の灯りは消し、ろうそくだけを灯す。
「カムラさん、そこにいて下さい。結界を完成させます」
「はい」
イルカは最後の仕上げを施すと、カムラの後ろに回って更に自分だけの結界を作る。
「俺の姿は彼女には見えないと思いますから、二人っきりだと思って話して下さい。……
そろそろ、よく彼女が現れる時刻です。…いいですか、これは彼女を送ってあげる為にし
ている事ですから。貴方は送ってあげる方ですからね。引きずられないように気をつけて
下さい」
カムラは頷いた。
「承知…しています」
言わずもがなの事をイルカが念押ししたのは、カムラがまだ彼女を深く想っている事に気
づいたからである。
物理的に止められる類のものではないので、言葉に出すことで『歯止め』にするのだ。
カムラは静かに玄関に顔を向けた。
「……牡丹、俺だよ。……遅くなったね。帰ってきたよ、牡丹…」
そうして何度も低い声で闇に囁きかける。
「…牡丹…」

そうしてどれほどの時間が過ぎただろう。
カタン、と玄関から音が聞えた。
ろうそくの明かりが微かに揺れる。
「………カムラ…さん?」
か細い娘の声だけが虚ろに響く。
「うん、俺だよ。任務で遅くなってしまったんだ。ごめんな、待たせて」
カムラは闇に向かって手を差しのべる。
「…牡丹…」
イルカは息を殺し、黙って見守っていた。
ぼうっと娘の姿が闇に浮かぶ。
「カムラさん…待っていたわ……」
「俺も、ずっと逢いたかったよ」
輪郭も覚束ない娘が、それでも燐光を放つように微笑む。
写真に写っていた、寂しげで悲しそうな表情とはまるで違う。
「…怪我、してない…? 危ない事、させられなかった…?」
「大丈夫だよ、ほら。心配してくれたんだね、ありがとう…」
幽霊となった恋人に、カムラは生前の彼女に向けたのと同じ笑顔を浮かべてみせる。
「あたしね…あたし……貴方が帰ってきたら……」
娘はふいに悲しげに首を振った。
「……ああ…わからない…帰ってきたら…何かしてあげるはず…だったのに……」
「…牡丹…」
カムラは優しく語り掛ける。
「俺に逢いたかったんだろ…? それだけじゃないのか?」
「……そう…だった…かしら……」
「俺は、君の顔が見られただけで嬉しいよ」
幽霊は心細げに細い首を傾げる。
「貴方に…逢いたかった…だけ……」
「それ以上何がいるんだい?」
「………そうね…貴方がご無事にお戻りに…なった…それ以上何も…いらないわ……」
この会話を聞いていたイルカは内心うまいな、と感心した。
霊になってしまった彼女に、彼女自身の言葉で『これ以上の望みは無い』と言わせている。
安堵と充足を与えられた魂は『送り』やすい。
「あたし、もう…何もいらない…貴方の側にいられる…なら…」
(―――いや、それは困る。)
恋人の背後にいる第三者の心の突っ込みなど知った事ではない彼女は男に執着を見せた。
「…カムラさん…どうしてそんなに遠くにいるの…こっちに来て…あたしを…抱いて…」
娘は哀れな声で恋人に訴える。
「あたし、寂しかったの…ねえ…貴方も…よね…?」
「寂しかったよ…君を抱けるものならもう一度抱きたいけれど……でも、もう一度こうし
て顔を見て…声が聞けただけでも俺は満足だ」
娘の顔が微かに歪む。
「……どうして…それだけ…? 何で…抱き締めてくれないの…?」
カムラは初めて苦痛を表情に滲ませた。
「…そうしたくても出来ないからだよ、牡丹」
「何で……?」
「君は…」
カムラの眼から涙が零れた。
「君の身体は…命がもう……失われているからだ……」
「………う…そ…」
「…俺は君に…嘘なんか言わない…君はもう…死んでいるんだよ」
娘の幽霊はいきなり悲鳴のような声を上げた。
「嘘よおぉぉ……ッ…あたし…あたし…ッ…ねえ、いやあ…あたし…貴方と結婚するのぉ
っ…お嫁さんに…してくれるって言ったじゃない……結婚して…子供生んで……嫌ッ…ど
うして…そんな意地悪言うのぉ…」
「ごめんな、牡丹…意地悪を言っているんじゃない…俺の嫁さんは君だけだから。でも、
今のままじゃダメなんだ。……君は一度天に還って、新しい命を手に入れるんだ…」
幽霊はいやいや、と首を振る。
「…それでは…貴方を…見失ってしまうかも…しれないわ…わからないかも…しれないわ
……」
「牡丹…」
「独りは嫌…怖いの…寂しいの……ねえ、一緒に来て……そうだわ、一緒に行けばきっと
また…恋人同士で…生まれ…変われるわ……」
(…まずいな…こういう展開は…)
イルカは唇を噛んだ。
予想以上に男に対する女の執着が激しい。
「独りじゃ行けないのかい…?」
「行け…ないわ…」
カムラは女の我がままに手を焼く恋人そのままの苦笑を浮かべた。
「君は本当に甘えんぼさんだね……仕方ないな」
つ、と足を踏み出したカムラに、イルカはぎょっとする。慌てて小さな声で警告した。
「いけません! カムラさん、結界から出ないで」
「いいんですよ。イルカさん…コイツが寂しいって言うのなら、一緒に行ってやっても」
「バカ言うなっ! アンタ恋人なら説得しなさいっ!」
ああでも、自分だってカカシにあんな事を言われたら「じゃあ仕方ない」と言う事を聞い
てしまいそうで怖い。
「お気持ちは痛いほどわかりますがっ…それでは俺が困りますっ」
カムラは踏み出しかけた足を止めた。
「あ…そうか…そうですね。まずいか、それは…俺、一応任務中だし…」
ふむ、とカムラは考えた後、幽霊に向かってとんでもない『提案』をした。
「牡丹、実は俺はまだ任務中なんだ。…で、この部屋はもう引き払って別の所に行く。だ
からもう此処に来ても俺には逢えないんだよ。それはわかる? もう此処には来ちゃいけ
ないんだ。…俺の側に居たかったら俺についておいで」
イルカの頭の中でざああ、と血の引く音がした。
(…何を素っ頓狂なコト言ってやがるこの野郎……)
「……此処に…来て…も…いない……」
「うん、わかるだろ? 任務の都合で引っ越したんだ」
「…貴方、あたしを…迎えに…来たの…?」
イルカは仕方なく成り行きを見守った。
カムラは頷く。
「うん。君が俺のいない部屋に逢いに来ていると聞いたから、俺の方から来たんだよ」
「…そうよ…貴方に……逢いたかったの……」
「可哀想に、寂しい思いをさせたね」
幽霊は子供のようにすすり泣いた。
「うん…寂し…かったの…」
男は、自分に対する『想い』だけでこの世に留まっている女の霊に辛抱強く語りかける。
「君は、寂しがりやさんだからね。……でも俺はもう仕事先に戻らなければならない。君
の為だけにちょっと抜けてきたんだ。ねえ牡丹。…君が俺の傍にいたいという気持ちはわ
かる。俺も同じだからだ。…だからね、君は気が済むまで俺といればいい。でも、生まれ
変われなくなる程長くはいけないよ? わかるね、君は賢い女性だからわかるだろう? 
君の魂が生まれ変われなくなってしまったら俺は悲しい。早く生まれ変わって来て欲しい
と思うからだ。早く生まれ変わって、また俺の傍に来て欲しいから」
幽霊は、生きていた時そのままのクセのようで、親指を少し噛んで考える。
「……あたし…も……早く…生まれ変わって…貴方の傍に……来たい……でも、もう少し
だけで…いいの……牡丹として貴方の…傍にいたい…」
「わかるよ、牡丹。…だから、一緒においで。君の気が済んだら、俺が天へ送り出してあ
げる。…そうして待つから。今度は俺が、ずっと…待つから……」
ふわあ、と彼女は微笑んだ。
「…大好き…愛しているわ…カムラさん…」
幽霊は微笑みながら消えていった。
ろうそくの火がかき消される。
蝋の臭いがあらためて鼻を突き、我に返ったイルカは息を吐きだした。
見れば、もう夜が明け始めていた。
感じていた以上に時は過ぎていたらしい。
「………申し訳、ありません」
カムラはきまり悪そうにイルカを振り返った。
「イルカさんに頼んで、強引にでも送ってしまった方がアイツの為だったんでしょうか…」
イルカは苦笑を浮かべて首を振った。
意味を為さなくなった結界を解いて窓に歩み寄り、大きく開け放って朝の空気を入れる。
「…彼女があのまま、天に還る事に同意したのならともかく…貴方にあそこまで心を残し
ているのでは…俺の力できちんと還してあげられるかは疑問です。…彼女の希望を聞いて、
心残りをなくしてからの方がいい。…貴方は正しい選択をしたのだと…思います」
カムラも苦笑する。
「お恥ずかしいところをお見せしました。…いや、アイツ本当に寂しがりで甘ったれの娘
で…でも、俺が少しだけ我がまま聞いてやればいつもそれで満足するんです。ほんの少し。
それだけで笑う、可愛い娘なんです……だから、今回も……」
苦笑を浮かべたままの男の眼から新たな涙が零れた。
「……イルカさん…貴方とはたけ上忍には本当にご迷惑をお掛けしました…でも、もうア
イツここへは来ませんから。……今夜からは俺の所へ来るでしょう……この、結界と術式
のやり方は覚えました。…来るべき時が来たら、この術式を再現して俺が彼女を送ります。
お手数ですが、呪文の伝授を願います」
イルカは頷いて、迷う魂を天に送る呪文を紙にしたためてカムラに手渡した。
亡くなってしまった恋人と束の間の逢瀬を果たした男は、イルカに何度も頭を下げながら
任地に引き返していった。
今度こそ元の主が完全に『引き払った』空き部屋の真ん中で、イルカは昨夜の出来事を思
い返す。
恋人を失った男の悲しい涙と、自分の命を失いながらも消えない想いに身悶えていた娘の
慟哭を。






 
幽霊部屋の『霊障』はあれからぴたりと収まった。
やはり彼女は愛しい恋人の言葉に従い彼に『付いて』いったらしい。
それだけでも彼を直に呼んできた効果はあったと言える。
イルカの引越しはもはや物理的な荷物の移動だけとなった。
「荷物、少ないから手伝いはいいですよ。同僚にも手を貸してくれるって奴いますし」
当然手伝う気でいたカカシは口を尖らせる。
「えええ? 何でですよ、いいじゃないですかーオレ、邪魔ですかあ?」
イルカは腰に手を当てる。
「俺は今日休みですが貴方は違うでしょう? 俺に黙って岩の国行っていた間放り出して
た子供達の面倒、見なきゃダメでしょ。任務なり訓練なり、ちゃんとやらなきゃ。あれだ
けキツイ訓練メニュー課したんだから、成果を見るのは教官の務めでしょうが」
ううう、とカカシは唸る。
「黙って行ったの怒ってるんだ〜…」
「…怒っちゃいませんよ。…少しはまあ…残念に思いましたが」
実際、あれしきの事で怒ったり傷ついてたら、この先イルカの神経は持たない。
カカシは無神経と言うわけではないのだが、そこまで細かくも無い男だから悪気もなく今
回のように一人で決めてさっさと行動してしまったりする。
「それにまあ、貴方がさっさと岩の国へ行って彼をこっちへよこしてくれたから、一応の
解決はみたわけですし」
「………でも、黙って行ったのは怒っているんでしょ…?」
「怒ってませんて。…それとも怒って欲しいんですか?」
イルカの切り返しに、カカシはぷるぷると首を横に振った。
「そんな事言ってませんよっ…やだな…もう…オレはただ…」
オレだってイルカの引越しにもっと役立ちたいのに…とぶつぶつ口の中で呟く。
「んじゃ、引越しの手伝いはいいですから、その代わり蕎麦でも奢って下さいよ。…引越
し蕎麦」
おお、とカカシは膝を打った。
「引越し蕎麦! 世間にはそういうモノもありましたねえ。わーかりましたっ! 引越し
のお祝いにゴージャスにしん蕎麦! あ、海老天蕎麦の方がいいですか?」
天麩羅蕎麦の苦手なカカシはすかさず自分の好みの蕎麦を言ってしまったが、慌ててイル
カの好みも訊く。
「いや、俺はザルでもいいのですが……にしん蕎麦かあ…そういうのもありましたねえ…
うん、あれ美味いですよね」
「んじゃ、にしん蕎麦でいいですか?」
カカシの背後で嬉しそうに揺れる尻尾のマボロシが見えた。―――ような気がイルカには
した。
「お願いします。楽しみですよ」
お蕎麦だけでは寂しいだろうから、寿司とか酒とか用意して、盛大に引っ越し祝いをしよ
う。
そう考えるだけでカカシのご機嫌はすっかり直っていた。
「じゃあオレ、ガキどものお守りに行って来ます!」
「いってらっしゃい。夕方までには俺もすっかりあちらに引越し終わってますから」
カカシを送り出したイルカはさて、と住み慣れた我が家を見回す。
荷物はもうすっかりダンボールに詰めてあった。
ダンボールの数はそう多くは無い。
家具類はこの宿舎に備え付けで置いてあったものが大半だから運ぶ必要は無いし、そうな
ると荷物は台所の物と衣類、後は巻物や本、書類に事務的な細々とした物くらいである。
質素を旨として生活していたイルカの荷物は、引越しを機会に捨てた物も結構あるので自
分でも呆れるくらい少なかったのだ。
これなら誰かの手を借りるまでもない。
借りてきたリヤカーで運べる。
「新しいウチ、か」
イルカの記憶にある限り、引越しは二回目だ。
両親が亡くなった時、一人で住むには大き過ぎ、また寂し過ぎる為に前の家からこの狭い
独身者用の宿舎に移った。
その時は住む場所を変える事に拒否感を持っていた。
両親の思い出を手放し難く思う半面、思い出す事の辛さから逃げてしまいたいと思う自分。
そんな自分の弱さに対しての嫌悪感に苛まされ、自分で自分に言い訳をしながらの引越し
だった。
今度はその時とはだいぶ心理的に違う。
これからの生活を思うとどこか浮き浮きと心躍るものがあった。
新しい環境への期待も楽しさも感じる。
事前にチェックした場所は管理人がきちんと修繕・補修を完了したと連絡してきたし、清
掃も済ませた。
新しいベッドや本棚、机も昼頃には向こうに入るはず。
布団一式も全部新しい物にした。
「引越しってのはこうでなきゃな」
うむ、とイルカは腕まくりをした。



普通、一般常識では引越しをしたら隣近所に挨拶するものだ。
だが、入れ替わりの激しい忍達が主に住んでいる宿舎では改まっての挨拶は無し、という
のが慣例だ。
隣人と偶然顔を合わせたら、それなりの挨拶はするが、それだけである。
イルカの場合、今まで住んでいた宿舎が長かったので両隣の住人には引っ越す事を告げて
おいた。黙っていなくなったのでは『死んだ』と噂を流されかねない。
荷物を全部運び出してしまうと、あんなに狭く感じていた部屋が結構広いような気がして
しまう。
古いが、イルカが丁寧に住んでいたので荒れた感じはしない。
陽が当たるあの壁の柱は、よくカカシが背を預けて座っていた。
窓辺でぼうっと頬杖をついている事もよくあった。
古い畳のあの染みは、彼がうっかりコーヒーをこぼしてしまった時のもの。
随分長くこの部屋で暮らしていたのに、部屋の中にはここ最近カカシが入り浸るようにな
ってからの思い出しか見いだせない。
「……何だかなあ……」
ふ、とイルカは笑った。
「そっか…そういう事か………」
自分の姿は自分には見えないから。
『誰か』別の人間が『そこ』にいた姿の方が容易に思い描けるのは当然だ。
今度からはあの部屋で彼のそんな姿を見るのだろう。
「…これじゃ、一緒に住んでも住まなくても同じだなあ……」
それでも、頑として自分達は住まいを同じにしようとはしないのだろうな、とイルカは苦
笑した。
同じ宿舎に住んで、殆ど『同居』のような暮らしをしても。
カカシにはカカシの『家』があり、あの部屋はあくまでもイルカの『家』なのである。
それでいい、とイルカは思った。
忍は原則として『根』を必要とする。
守るべき国。里。家。人。
どんなに放浪を重ねる忍でも、心の根底にはそれを抱えているものだ。
個人の住まいは、それの最もわかりやすい『象徴』である。
『還る場所』としての象徴。
男として確固たる『テリトリー』の存在が要るのは本能なのかもしれない。
イルカは長い間『還る場所』であってくれた部屋に別れを告げる。
「…今までありがとう。…世話になったな」
手に馴染んだ古い真鍮のドアノブをそっと押して戸を閉める。
この部屋はもう、イルカの家ではないのだ。
鍵を管理人に返して挨拶をし、イルカは新しい住まいに足を向けた。



「おー、さすがイルカ先生ですねえ。仕事が速い」
日が暮れてからやって来たカカシは部屋を見回して感心した。
まだどこか雑然とはしていたが、暮らしに要るものはもうきちんと配置されている。
「手配ミスらしくて、肝心の物がまだなんですけどね」
「肝心の物?」
イルカは小さく舌を出した。
「…ベッド。明日になるみたいです」
カカシも肩を竦めた。
「それはそれは。…ああいうでかい家具が入らないうちは落ち着きませんねえ」
カカシは台所の小さなテーブルに買ってきた寿司を置いた。
蕎麦はもちろん途中で注文して来た。カカシが汁の美味さを気に入っている老舗の蕎麦屋
で、にしんも上品な味で有名な店である。あまり出前はしない店なのだが、カカシが頼む
と快く承諾してくれた。
「あ、寿司ですか。すいません」
「お蕎麦もすぐ来ますよ」
そう言っているうちに呼び鈴が鳴り、蕎麦が来る。
蓋の隙間からだし汁のいい香りがする。その匂いで、二人の食欲は刺激を受けた。
「少し夕食には早いけど、美味いうちに頂きましょうよ」
「ですね。やあ、いい匂いだな」
イルカはダンボールから茶筒を探し出すと、いそいそとヤカンを火にかけた。
「んじゃあまあ、イルカ先生の新しいお住まいに乾杯しましょう」
カカシはこの部屋に来る前に自分の家の冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールもしっかり取っ
てきていた。
「用意いいですねー。嬉しいなあ」
素直に喜んでみせるイルカに、カカシも嬉しそうな顔になる。
「ま、何だか色々とありましたが…まずは無事転居おめでとう」
ぷしっと開けた缶ビールをカカシは掲げる。
応じてイルカも缶を開け、ぺこんと頭を下げる。
「はい。その節はお世話様でした。…そして、とうとう同じ屋根の下に来ちゃいました」
「や、ご丁寧に。ようこそ。歓迎しちゃいます」
ゴン、と缶を軽くぶつけ合い、半分ほどぐぐっとあおった二人は同時に「ぷはっ」と息を
ついた。
「……事の次第の大体は、戻って来たカムラに聞きましたけど……」
蕎麦を一口すすって、カカシは「忘れてた」と七味唐辛子を蕎麦にかける。
「結局、彼女は彼についてしまったんですね。…何と言うか…凄いですねえ…」
イルカも蕎麦に口をつけながら頷いた。
「…納得していない魂を強引に成仏させる力なんか俺にはありませんし……仕方なかった
ですね…」
「いやしかし、恋する女の執念と言うか情念と言うか…死んでも貴方から離れないわ、な
んて凄いとしか…しかもしっかり実行出来ちゃったあたりがすげえ、と思いますねえ」
イルカも複雑な顔で頷いた。
「ええまあ…そうですね。俺は成り行きで実際彼女の『声』を聞いてしまいましたが…本
当に彼の事が好きなんだな、と可哀想になりました。…俺にはきっと、幽霊になるような
根性無いですねえ…」
「根性っすか?」
「ある意味根性でしょう、アレは」
カカシはふうん、と上目遣いにイルカを見た。
「オレ、根性云々はともかく、任務でうっかり死んじゃったら、お別れの挨拶くらいは貴
方にしたいかな、と思います。……もしもオレがバケて出ても、いきなり祓ったりしない
で下さいね?」
イルカは真面目に頷いた。
「ええ。お好きなだけバケて出て下さい。俺は彼…カムラさんの気持ちがわかります。き
っと、貴方が寂しがったら一緒についてってしまいそうだ…」
「……そーだねえ…オレもイルカの幽霊なら怖くないな…ねー、もし貴方が先にうっかり
死にしたら、根性出してバケて出て下さいよ〜……」
「えー? 出来るかなあ……」
カカシの妙なおねだりに、イルカは大仰に顔を顰める。
「約束! どっちかが先に死んだら、残った方に挨拶に行く事」
「………………」
「約束」
「………努力はする、とお約束します…」
指切り、とカカシは指を出す。
「気持ちの問題ですよ、気持ちの。その牡丹とかいう小娘があの野郎を想っていた気持ち
にオレのイルカに対する真心がですね、負けるなんてなんか許せないっつーか」
「……では、そういう気持ちがあると言う事で……もしもバケて出られなくてもお互い恨
みっこなしですよ。ああいうのも適性があるのかもしれないし」
小指同士を絡ませて、いい歳をした大の男が「指きりげんまん」を真面目にやる。
約束をしたその指を、イルカが絡め取って軽くキスした。
「…やっぱ、生きている貴方が一番いいですけどね」
「……イルカ先生…」
イルカはぱっと手を離してにっこりと微笑んだ。
「さ、せっかくの蕎麦が伸びますよ」
「あーもおっ…色気よか食い気ですかあんたは…」
それでも冷めて伸びた蕎麦は不味いのでカカシも再び器に顔を突っ込む。
「今夜」
「は?」
「今夜はウチに泊まったら? ベッド明日なんでしょ?」
「……そうですねえ…そうさせてもらおうかなあ…」
ちゅる、イルカは蕎麦を飲み込んで頷いた。
「ベッドが来たら、一緒にここでの最初の夜を過ごして下さいね。…その為にここに来た
んですから」
カカシはほんの少し目許を赤らめて頷いた。
「…はい…」
「……そんな神妙な顔しないで下さいよ…まるでプロポーズでもした心地になりました」
「…オレもそんな感じがしました」
「……引越し蕎麦食いながらのプロポーズですいません」
「ムード無いですねえ…まー、アナタらしいけど?」
ぶはは、と二人で同時に笑い出す。
そう、こういう時間を出来るだけ長い間共有したいと思ったから。
カカシの息遣いを感じていたいから。そしてカカシの傍で息をしていたいと思うから。
だから、多少の障害なんかに負けないで引越しを敢行した。
「……これからもよろしく、カカシ先生」
「こちらこそ、よろしく。イルカ先生」



そして注文していたベッドが更に遅れて届いたのは三日後。
ようやくイルカの『引越し』は完了した。



 
〈エピローグ〉

 
 
「…イルカよ…」
もぐもぐ、と口に入れたご飯を咀嚼していたイルカはそれをごっくんと飲み込んでから返
事をする。
「はい、何でしょうかガイ先生」
前に心霊写真でおおいに盛り上がった(?)食堂で、またもやイルカはガイにつかまった。
ちなみに今日は、カカシは遠方に出ていていない。
「…ここ、座っていいか?」
他にも席は空いているのにわざわざ同席を申し込んでくるのだから、何か用があるのだろ
う。イルカはすぐに察して椅子を勧める。
「はい、どうぞ」
「すまん」
ガイはどこか落ちつかなげに腰を下ろした。
イルカは自分のお茶のお代わりを取って来るついでにガイの分も入れてきてやる。
「……ああ、すまんな。…お前は気が利くな。…火影様が頼りになさるのも道理」
「あ、いえそんな…お茶くらいで。で、どうなさったのですか? 何か俺に御用がおあり
で?」
ガイは茶をぐぐっと飲み干すとうむ、と大きく頷いた。
「…あのな、イルカ……その、なんだ…お前達、この間妙な写真を持っていただろう…」
「ああ、心霊写真ですか。…あれはもう…」
がばっとガイは身を乗り出す。
「解決したのかっ」
「…は、はあ…取り敢えずは…ああ、そう言えばガイ先生も何かそういう類の事でお困り
でしたね。あれはどうなさったのですか?」
確か、カカシが火影の名を出してしまったはずだから、もう解決済みだろうと思ったイル
カは気軽に尋ねた。
「………実は……火影様にお願いしてみたのだが…上忍たる者、それくらい自分で何とか
しろと…そう仰るのだ……」
ガイは見るからにガクリと肩を落としている。
そうか、除霊してくれなかったのか…と、イルカはガイを気の毒そうに見る。
「そうだったんですか…」
「…イルカ…お前の写真の方は、どうやったんだ? やはり誰かに頼んだのか」
「ええまあ……写真に写っていた彼女は、亡くなったばかりの方でしたので…所縁の方が
来て、話し合いの結果その場から連れて行って下さったんですよ。…実の所、俺は何もし
ていません」
「話し合い…」
ガイは茫然とした顔でイルカを見た。
「………俺はどうしたら良いのだ…俺の所に来るのは、話し合いなどが出来る相手ではな
い……最近は眠るのが億劫な気までするのだ…」
イルカは首を傾げる。
「ガイ先生。ガイ先生にちょっかいを出してくる…その霊は…先生が起きている時は来な
いんですか? 夜中でも?」
「ああ。…眠ると悪さをするのだ……体が動かなくなってな…声も出ない」
ふうむ、とイルカは腕を組む。
「………それはお困りでしょう。熟睡出来ないと、そのうちお体に障ります」
「うむ…困っておるのだ……」
にこ、とイルカは微笑みかけた。
「じゃあ、良かったら俺、ガイ先生のお宅に参りましょうか? 何とか出来るってお約束
は出来ませんが」
ガイはしっかりとイルカの手を両手で握った。
「本当かイルカっ! 頼むっ!! 恩に着るっ!!!」
「時にガイ先生」
「何だ?」
イルカは世間話のような口調で軽く尋ねた。
「…先生、最近殺生なさいませんでしたか?」
「………………」
さああ、とガイが蒼褪めた。
「……お心当たりがおありで?」
たたみかけるイルカに、ガイはぎこちなく頷く。
「………ややや、やはりそういう物が…関係…するのだろうか…っ…」
イルカは神妙な顔つきで頷いてみせる。
「…任務…だったのだが……」
「それはそうでしょうが……でも、相手もそう思って諦めてくれればいいんですがねえ…」
真昼間の食堂で。
にこにこと笑っている中忍の手を、真っ青な顔の上忍が脂汗を流しながら両手で握り締め
ている光景はどう見ても異様だった。
誰もが目にした途端視線をそむけ、見なかった振りをする。
「くわばら、くわばら……」
誰かがひっそりと漏らした呟きを聞き取ったイルカの片頬は思わずぴくりと引き攣った。
(……人を災厄扱いすんじゃねー…)
だが、ここのところ食堂に来るとロクな事にならないような気がする。
しばらくは弁当でも持って来ようかなあ、などとぼうっと考えるイルカの手は、まだガイ
の熱い両手に握られていた―――



草木も眠る丑三つ時。
「出るとすればこれくらいの時間が定石ですよね」
イルカは手にした塩を、ガイの座るベッドを取り囲むような形で床に一定感覚で撒いてい
る。
「何をしているのだ? イルカ」
「塩にはお清めの効果があります。悪いものが入り込めないように結界を作っていますか
ら、先生はそこに座って動かないで下さい。…それから、すみませんが俺の言うとおりに
して下さいね」
ガイは勢い込んで頷いた。
「わかった!」
イルカは明かりを消して、ろうそくに火をつけた。
気分はもうすっかり「お祓い」な雰囲気である。
「ガイ先生。腹式呼吸です。…リラックスして、深呼吸して下さい」
「うむ」
「悪いものを呼び出して、そしてちゃっちゃと追い出しますから、ご心配なく」
イルカは玄関に向かって胡座をかいて座り、ぱん、と大きく手を打ち鳴らして印を結ぶ。
そして何やら口の中で唱え出した。
ガイはイルカに言われた通り、深呼吸を繰り返す。
ざわ、と空気が変わった。
「…迷霊に告げる。在るべき処に戻りたまえ」
ろうそくの炎が生き物の如く伸び上がりうねり、その色彩を千変万化させる。
部屋中にその灯りが反射し、イルカとガイの影が躍った。
「…イルカ…っ」
「しぃっ!! 心静かに。ガイ先生は深呼吸です」
イルカはパンパンパン、と高らかに手を打ち鳴らす。
「怨敵退散!!」
部屋の中をざああっと空気が流れ、玄関とは対の方向にある窓へと消えていった。
ふうっとイルカは息をつく。
ろうそくの火は先程の風で消えてしまっていた。
イルカはすっと立ち上がって、灯りをつける。
「…イルカ…?」
イルカはガイを安心させるように微笑んで、頷いてみせる。
「これでもう大丈夫でしょう。…力の弱いヤツだったんで、眠っている人間にしか悪さが
出来なかったんですね。姿を現して、何かを訴える力も無かったんですよ。ここにはもう
来られないように呪いをしましたから、今夜からはぐっすりとお休みになれますよ。…あ
あそうだ。この塩は朝までこのままに。夜が明けたら、集めてあの窓から撒いて捨てて下
さい。それで完了です」
「わかった! イルカ、お前は凄いなあ…」
「いや、たまたま上手くいったみたいです…先生、俺がこんな事をしたって、どなたにも
言わないで下さい。だって俺はこういうのの専門家ではないから…また誰かに頼まれたら
困るから…お願いしますね?」
ガイはうむ、と大きく頷いて約束した。
「わかった! お前を困らせたりはせん。…本当に助かったぞ。礼を言う」
いえいえ、とイルカは微笑む。
「困った時はお互い様です。…では、俺はこれで失礼します。お休みなさい」
「ああ、気をつけてな。…今度一杯おごるぞ、イルカ」
「いえ、そんなお気遣い無く。じゃあ、良い夢を」

イルカは夜更けの道を急いで自宅に戻った。
今夜はもしかしたらカカシが戻るかもしれない。イルカがいなかったら心配するだろう。
「…なーんかサギ師にでもなった気分だなあ…うまく効果が出るといいけど」
くすっとイルカは笑った。
宿舎に辿り着いて上を見上げると、カカシの部屋に灯りがついている。
「……帰ってきたんだ、カカシ先生」
イルカは階段を駆け上がると、カカシの部屋のドアをそっとノックした。
カカシはすぐに顔を出して、イルカを招き入れる。
「……イルカ先生? どうしたんです、こんな時間に外に出てたんですか? 部屋真っ暗
だから寝ていると思ったのに」
イルカは笑って、今夜の顛末を話した。
「はあ? ガイんちに行って除霊? ちょっとイルカ先生っ! どうして貴方、自分から
そういう危ない事に首突っ込むんですかっっ」
カカシはイルカの肩を掴んで揺さぶった。
「い、いえ…その振り、だけですよ。それっぽく演出して、お祓いをした、とガイ先生に
思い込んでもらったんです」
「は?」
イルカは悪戯っ子のように笑った。
「ガイ先生のはね、本当に霊障なのではないと思ったんで。……生徒なんかにもね、時々
いるんですよ。金縛りにあったと思い込んでいる子が。で、またそういう状態になるんじ
ゃないかって不安が、余計に同じ状態を呼ぶんです。……実際は、身体が眠っているのに
脳が何かの拍子に起きてしまう状態になっているだけなんですよ。リラックスして、深く
眠れれば大丈夫なんです。俺がやったのは、一種の暗示です。…もう大丈夫だと思い込め
ば、金縛り状態なんかにはならないはずです」
カカシはぷっと吹き出した。
「ガイのヤツ、アカデミーの生徒並ですか」
「確かに思春期の子供に多く見られる現象ですが…ガイ先生はあれで意外と繊細なんじゃ
ないかと。……精神状態が不安定だと、眠りが浅くなる事もあるでしょう?」
「まー、アイツは万年青春状態だから、ガキと同じ現象も起きるのかな? でも、だから
と言ってイルカ先生がわざわざ夜中にアイツんち行かなくったって…」
イルカも苦笑する。
「また、カカシ先生ったら………あのね、ガイ先生が苛々したら、カカシ先生にも被害が
及ぶでしょ? 勝負を挑まれる回数が増えてもいいんですか?」
あああっとカカシは口を開ける。
「そっ…そうか…っ…それはイヤですう…ああ、オレの為だったんですか?」
「それもありましたよ。まあ、あんなにお困りなのに知らん振りも出来ませんし…」
カカシはがば、とイルカに抱きつく。
「オレの為にすいません、こんな夜中に…っ…」
「あ、いやだから…」
まーいいか、とイルカは懐いてきた男の背をぽんぽん、と撫でる。
「じゃあ、カカシ先生ももうお休み下さい。任務、お疲れ様でした」
カカシはぎゅうう、と抱きついたままである。
「……オレも、何だか今夜は眠りが浅そうです。ねえ、眠らせて下さいよ、イルカ先生…」
そう来たか。
イルカはカカシの背を撫でながらその耳元で囁く。
「…貴方にもおまじないが要るんですか?」
「ええ。イルカ先生でなきゃ出来ないオレ専用のおまじない。…儀式つきで」
イルカは「うーん」と唸ったが、やがて仕方ないな、と笑った。
「わかりました。ぐっすりと眠れるようにしてさしあげます」
カムラという男同様、イルカも恋人の我がままには弱いのである。
それにせっかく『同じ屋根の下』に越して来たのだ。
何の為に越して来たのかと言えば、こういう風にカカシとしょっちゅうイチャつく為では
ないか。
ならばせいぜいイチャつこう。
幸い相手も大いにノリ気。
「それじゃあ、俺の部屋に来ませんか…?」
耳元で囁かれるイルカの低い声に、カカシの身体はもう微妙に震え始めている。
「ア…ナタの…方に…?」
「……こういう『儀式』をするのに丁度いい物がね、今日届いたんですよ」
遅れていたセミダブルのベッドが。
「お疲れなら俺がお連れしますから」
そう言いながらイルカは自分と変わらない体格の恋人を肩に担ぎ上げる。
こんな夜中だ。
廊下で誰かに出会う確率も低いだろう。
「こういう時は、抱いて連れて行くもの……でしたよね?」
肩の上で少しじたばたしていたカカシが大人しくなった。
「そういう事ばかり覚えているんだから………」
そしてヤケになったようにイルカの頭にしがみつく。
「色気のない運搬スタイルですねっ……でもまあ、許してあげます」
細身とはいえ、身長181センチの大の男。
いくらイルカでも普通に抱きかかえるのは少し辛い。
短距離ならともかく、イルカとカカシの部屋は階も違うのだから。
「んじゃ、行きましょうか」
肩に担がれたままのカカシは目の前の黒い髪のしっぽを軽く引っ張ることで同意する。
「はいはい。引っ張らないで下さいよ」
「早く、出発」
「了解です」

ああ、悪くない。
これからうんと、こういう他愛もないやり取りを楽しむのだ。

イルカの部屋に運搬されながら、カカシはくっくっと機嫌良く笑い続けた。

      



同人誌に掲載する際に色々と削ったり書き足したりしたものをUPしなおしました。
所謂改訂版です。
前後編に分けたので1話分が長くてすみません。
この話以降、ウチのイルカカは同じ屋根の下に暮らすことに。
ふふふ。スープの冷めない距離。(<何か違う)

01/9/28〜03/1/31(04/4/25改)

 

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