HOLIDAY−3
イルカの日常が戻ってくる。 いつものように髪を上の方で結い、額当てをつけて。子供を励まし、叱り飛ばし。 今期のアカデミーの卒業試験は例の悪戯坊主絡みの事件で、近年稀に見るスリリングなもので―――イルカは大怪我するわ、しばらく通常の授業も出来ないわで散々だった。 悪戯坊主の問題児、ナルトがなんとか卒業した(イルカがそれを認めた所為だが)のと、彼に対する感情が少し整理出来たのが、イルカにとっての救いだ。 あの休日の出来事など、思い返すゆとりもなかった。 ナルト達の班を担当してくれた上忍が、今まで誰一人合格者を出した事のない人だと聞いて、もしかしたらまたナルトを受け持つ事になるのかなあ、などと心配したのは杞憂に終わって――― イルカは、三代目火影のはからいで、身体に負担のかからない任務受付の業務についていた。 右も左もわからない子供を指導する日々に比べたら天国。ここに来るのは、一応忍者と呼べる者達だけだ。 ナルト達も、任務とも呼べないような可愛らしい最初の任務を終えて、受付に報告に来ていた。 「オレ、ちゃんと任務出来たってばよ! 誉めて! 誉めて!」という顔をしたナルトに、苦笑しながら頷いてやり、あらためて彼らの担当の先生―――上忍のカカシにイルカは眼を移した。 斜に額当てを当てて、左眼を隠しているのは、その眼が写輪眼という特殊なものだからだと人づてに聞いている。だが、そんな変わった額当ての当て方よりも、カカシの銀の髪にイルカは目を奪われた。 (―――あ…、あの人の髪の色に似ている… ) あの、昼食から夕食までの半日、『デート』した青年の髪もこんな色だった。 そう思って見ると、瞳の色もなんだか似ている。背格好もこんな感じだったような…… イルカはさりげなくカカシから視線をはずした。 あの青年を思い出した時、自分でも思いもかけないほろ苦い感情が胸を刺したので。 「では、これで失礼します」 カカシは、イルカの横に座す三代目火影に挨拶して部屋を出て行った。イルカの事など、三代目の横の置物くらいにしか思っていないという態度だ。 カカシに引率された子供達もわやわやと出て行く。ナルトだけが戸口で振り返って、イルカに笑いかけながら手を振った。イルカも、ちょっと手を上げて応えてやる。 彼らの姿が視界から消えると、何だか急に疲れたような気がしたイルカは思わず大きく息をついてしまった。 「…イルカ? 無理せんでいいぞ。顔色が良くない。…もういいから、帰って休むがいい」 三代目の言葉に、イルカは首を振る。 「いいえ、すみません…大丈夫です」 「いい、いい。早く身体を治して、教職に復帰して欲しいからの。…お前はいい教師だ。里の為には、お前のような存在がどうしても必要なのじゃよ」 早く帰れ、と三代目はぱたぱた手を振ってイルカを追い出す。イルカは仕方なく、三代目の言葉に従って席を立った。 「じゃあ…本日は下がらせて頂きます」 ぺこん、と三代目に頭を下げて、イルカは受付を後にする。 イルカ自身、自分の体が本調子でない事はわかっていた。 ミズキのクナイや手裏剣を体中に受けた傷は、まだ全部が癒えたわけではない。特に、ナルトを庇って受けた大手裏剣で背中に受けたダメージは大きかった。 喉の渇きを覚え、テクテクと自販機の方へ足を向ける。コインを入れようとして、投入口で誰かの手とぶつかった。 「あっ! …失礼」 咄嗟に謝って自分のコインを引っ込めると、相手も手を引っ込めたところだった。 「こっちこそ。…どうぞ、お先に」 見ると、先程背中を見送った上忍がにこやかに立っている。 「…カカシ…先生」 「あ、えーと、貴方は受け付けにいた……」 カカシはポンっと手を打った。 「クジラ!」 「イルカですっっ!」 思わず声を大きくしたイルカは口を手で押さえて赤くなってしまった。 「あ、そうそう。イルカだ。すみませんねー、何か、海にいる可愛い動物と同じ発音のお名前だと最初に思ってしまったもんで」 イルカは脱力した。 「…クジラ…可愛いですか?」 「可愛い…と思うけど……あ、だって、クジラの小さいのがイルカだとどこかで聞いたし」 「…いえ、別にいいです…クジラでもイルカでも……それより、お先にどうぞ」 イルカは自販機を指差した。 「んー、それでは…」 カカシは遠慮せずカチャカチャ、とコインを入れて、ボタンを押した。ゴットン、と出て来た缶をハイ、とイルカに差し出す。 「えっ…」 「好きでしょ? ブラックのアイスコーヒー」 イルカは面食らって、差し出されたコーヒーを見つめてしまった。 「何で……」 カカシはもう一缶自販機でコーヒーを買うと、先に買った方をイルカの手に押し付けた。 「嫌いでしたっけ?」 「いいえっ…あの…ありがとうございます…頂きます…」 イルカは缶コーヒーを受け取って、上忍の顔を訝しげに見た。 「…ええと……あの…俺、貴方と前に話し…てないですよね…?」 少なくともコーヒーの好みまで話すような機会は皆無だと記憶している。カカシのような上忍と話して、忘れるわけがない。 カカシは自分の缶コーヒーを手の中で玩びながら、くすくす笑った。 「…冷たいなあ…覚えてないんだ……」 「はあっ?」 思わず声が裏返るイルカ。 「コーヒーの好みはブラック。女の子は清楚っぽいのが好み」 イルカは「あ」と口を開けた。 「秋桜が食い物に見える朴念仁……」 「……まさか…」 カカシは右目だけでにっこり微笑んだ。 「オレはしっかり覚えているのに、貴方は『デート』の相手を忘れてしまったんですか?」 「あ―――――――っ!」 イルカはカカシを指差して、思いっきり叫んでしまった。 「貴方ってば、とうとう晩飯も奢らせてくれなかった。…缶コーヒーくらい奢らせて下さいよ」 缶コーヒーを啜りながら。二人はベンチに腰掛けていた。 「……もしかして、あの時…もう…わかっていたんですか? 俺が木ノ葉の…忍者だと」 「んー…最初っからわかっていたわけじゃないです。初めに腕を掴んだ時、もしかしたら御同業かなー、とは思いましたけどね。………その…」 カカシは指をすい、と上げてイルカの鼻の上の傷をなぞる真似をした。 「傷痕……三代目が可愛がっている中忍の特徴だという事を思い出しまして。貴方が木ノ葉の里の方へ帰って行くのを見て、確信が持てたんです」 イルカは居心地が悪そうに座り直した。先に背中を見せた青年が、自分の帰る方向を見ていた事にイルカは気づかなかった。それが何とも気まずい。 それはすなわち、カカシとイルカの忍者としての能力差を示しているように彼には思えてしまった。 「そ…そうだったんですか……」 カカシはイルカの髪をつんっと軽く引っ張った。 「これがいつものスタイルだったんですね。…でも、項で結っているのも似合っていましたよ」 「勘弁してください……」 イルカはますます縮こまって、真っ赤になっている。 「貴方なんか、この間と隠している場所が反対じゃないですか。…さっき、似ているなー、とは思ったんですけど、まさか…本人だなんて……」 カカシは、それもそうだ、と笑った。 「…約束、覚えていますか? あの時の」 「……約束?」 「オレ達、縁があってまた会ったじゃないですか」 カカシはにこにことイルカの顔を覗き込んでいる。 「……覚えています。…また、飯を一緒に食いましょうって…そう言って別れた……」 カカシは笑みを深くした。 「良かった、覚えていてくれて。…ちなみにオレは今夜空いています」 イルカは苦笑した。 「俺もです。火影様はもう帰って良いと仰ったので、残業も無いですし……」 「あ、じゃあ決まりだ。晩飯食いに行きましょう。…再会を祝して。いいでしょう?」 「そりゃもちろん………それよりあのー、はたけ上忍。…もう、俺なんかに敬語を使わないで下さいよ」 「…う〜ん…それは貴方次第です。それより、今夜どこに行きましょうか。また鍋でも食います?」 「あ、鍋いいですね。……じゃなくて! 俺次第ってどういう事ですか」 カカシは腕組みして顎を反らせた。 「晩飯までの宿題です。オレに敬語を使って欲しくないなら考えて下さい。…じゃあ、今晩…七時頃でいいですかね」 「……はあ…」 「じゃ、七時に大通りの四つ角んトコで。待ってますよ」 上忍は上機嫌で缶コーヒーの空缶をごみ箱に放り、手を振りながら行ってしまった。 (あれ? コーヒーいつ飲んだんだろ……) イルカは、カカシが口布を下げたのを見た覚えが無かった。 (―――不思議な人だなあ……) それでも、カカシがまた自分を食事に誘ってくれたのは、カカシの方も多少なりとも自分に好意を持ってくれたのかもしれない、と思うと妙に心が浮き立つイルカであった。 人間、どこまでも現金なものである。 根が真面目な上、家にいても時計ばかり気になってそわそわしてしまったイルカは、結局ずいぶん早く家を出てしまった。待ち合わせ場所に着いたのは、約束の三十分も前。 (―――何やってんだかなあ…俺…) どうしようかと迷ったのだが、結局イルカは着替えなかった。額当てと忍装束は、この里の中ではかえって目立たない。いつもと違う格好を知り合いに見られる方が何となく恥ずかしい、という感覚がイルカにはあった。 「あらら。…オレの方が絶対早いと思ったのに…」 カカシの声に、イルカはパッと振り返った。 「はたけ上忍…」 後日、カカシの遅刻癖に悩ませられるナルト達が知ったら驚愕する出来事であろうが、カカシは待ち合わせ五分前にきちんとやって来たのだ。カカシも昼間と全く変わりない格好だった。 「こんばんはー♪ 来て下さって嬉しいですよ」 「こんばんは。…いや、何だか遅れちゃいけない、と思ったら落ち着かなくて…家で時間を待つんだったらここで待ってても同じだし」 カカシはイルカの腕を、一番最初に会った時と同じ様に掴んだ。 「…やはり、いい筋肉のつき方しているなあ…オレ、こういう感じの腕、好きなんですよね。さ、それじゃ行きましょう」 またもやイルカが返事に窮している間に、カカシはさっさとイルカを引きずって、路地を何回か曲がり、店の戸をくぐった。 「ここ、鍋美味いんですって。ダシがいいって評判で」 「そうですか…いや、こんな所に店があったなんて…」 「穴場ですよねー。おにーさん、ビール二本ねー。おつまみ適当にー。あ、鍋何にします?」 イルカは一応品書きに目を通した。 「…目移りしてしまいますね。カモとか美味そうだなあ…」 「んじゃ、カモにしましょう。カモ鍋二人前ねー」 「え、いや他のでも良かったんですけど。いいんですか?」 カカシは品書きをつん、と指先で押して元の位置に戻す。 「いいんです。イルカが食べたいもので」 イルカは、思わず赤面した。同僚や上司も彼を『イルカ』と呼ぶ。 なのに、カカシの口から自分の名前が発音されると、妙に甘く聞こえるから不思議だとイルカは思った。運ばれてきたビールを、照れ隠しのように手に取る。 「ええと、まあ、じゃおひとつ…」 我ながら芸の無いセリフだと思いながら、イルカはカカシのコップにビールを注ぐ。 「お、どうも」 続いて自分のコップに注ごうとしたイルカの手をカカシは素早く止める。 「オレにはお酌させてくれないんですか?」 「あ…だって……そんな…」 躊躇したイルカからビンを奪い、カカシは相手のコップにビールを注いだ。ゴトン、とビンをテーブルに戻し、カカシは頬杖をついてイルカを眺めた。 「その分じゃ貴方、オレの出した『宿題』を真面目に考えなかったようですね」 「…宿題……」 (そう言えば、そんな事を言ってたな…あ…でも…意味がよくわからなかったんだっけ…) 「…すみません…よくわからなかったんです…」 どこまでも正直なイルカだった。ナルト達が試されたサバイバル演習をもしイルカが受けていたら、まず間違いなく失格だろう。 それも、弁当を食べられない子を気遣って、自分も食べずにまた演習に参加して、共倒れ。 目に見えるようだとカカシは思った。 (―――あはは、でもそういうトコが面白くって、合格させちゃうかもな、オレ。あんなもん、理屈はどーとでもつけられるもんなー…) ひどい先生にナルト達も当たったものである。 そんなカカシの胸中がイルカにわかるわけがなく――彼はひたすら恐縮していた。 |
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