俺の数少ない取り得のひとつに、『忍耐強い』という項目がある。
人は俺を鈍感な人間だと思っているかもしれない――まあ、それはそれで構わないが――が、別に俺は人が思っているほど鈍感ではない…はずだ。
(でも、敏感でもないかもしれない。…ここの所は少し自信が無い)
そりゃあ、生徒の悪さには瞬間湯沸し器の如く反応して怒る。
悠長に構えていたらなめられるだけだし、その場で雷を落としておかないと効き目がないからだ。
こういう点、子供の躾は犬の躾と大差ない。
だが、他の事柄に関しては我慢強い方なのだ。
ガキの頃、両親に死に別れてからこっち辛抱の連続だったのだから、そういう方面は嫌でも鍛えられた。
多少の事には動じない(つもりだ)。
自制心だって、人一倍あると思っていた。
でもそれは、耐えなければならない衝動の強さにもよるのだと、あの人に逢って初めて知ったのだ。
俺は、朝の気配…ぼんやりした明るさとか、空気だとか…そんなものを感じて目を覚ました。
何だか、まだぼーっとしている。すっきり目が覚めない。
もぞ、と俺の胸元で何かが動いた。
……んー? 猫なんか飼ってないよなー…俺。
「おはよーございます……」
そのふにゃん、とした柔らかい声で俺の全神経は覚醒した。
「おっ…おハようゴザイます…っ! カ、カカシ先生…」
そして、何故この人を抱えたまま眠っていたのかという事も思い出す。
ここは、温泉旅館だ。
俺は、カカシ先生と温泉へ小旅行に来て…そして………
「あ…あの…」
「はぁい?」
カカシ先生は俺よりも寝起きが悪いのかもしれない。
ちゃんと目が開いていないし、眠そうにほわん、と欠伸をしている。
もっとも、眠った時間を考えればお互い十分な睡眠時間とは言えなかったが。
「だ、大丈夫…ですか?」
……我ながらマヌケな質問だ。
「だいじょお〜うぶ〜……です〜…」
何も考えずに返した答えだな、と思ったが一応ほっとする。
時計に目をやると、まだ6時だった。
昨日、あの仲居さんに頼んだ朝飯の時間まではまだ結構時間が有る。
俺はまたまどろみの中に戻っていったカカシ先生を布団に残して、そっと風呂場に向かった。
まだ暗いので明かりをつけ、部屋風呂の様子を調べる。
「すごいな…部屋風呂にもちゃんと温泉が引いてあるんだから…」
浅めの浴槽には新しいお湯がどんどん注ぎ込まれ、溢れて床の排水溝に流れている。
おかげで風呂場は部屋の中より暖かい。
俺は、とりあえず洗面所で顔を洗い、頭をはっきりさせてからこの後の段取りを考えた。
部屋に戻り、使わなかった方の(……)布団をめくり、眠っているカカシ先生をそっと抱き上げてそちらの布団に移す。
それから、夕べ使った布団やシーツを調べて、俺は安堵の息を吐いた。
ここで笑わないで欲しい。布団に妙な汚れをつけなかったか、さっきから気になっていたのだ。
カカシ先生が着ていた浴衣は…あ、これは仕方ないな。
この浴衣を敷いたままだったから、シーツに被害が及ばなかったワケで………
犠牲になってくれた浴衣を手早く丸め、俺はちょっと考えてからセコイ細工をする事にした。
卓の上には夕べ飲み損なったまま放置されていたお茶がある。それを取って来て、浴衣にわざとこぼした。
そして、風呂場の洗面器に水を張って浴衣を突っ込む。
浴衣一つ洗うのにも言い訳を作らなければ気が済まない自分の小心さが悲しい。
言い訳とは、もちろん仲居さんへの、だ。
じゃばじゃば、と浴衣を洗っていると、ふと背中に気配を感じた。
振り返ると、俺が枕元に出しておいた予備の浴衣を引っ掛けたカカシ先生が洗面所に立っていた。
「あれ? どうしたんです? カカシ先生…起こしてしまいましたか?」
振り返った俺の顔をカカシ先生はじーっと見つめて、ため息をついた。
「…ええまあ…アナタが、冷え冷えとした布団の中に突っ込んでいってくれたんで目が覚めました」
あ、と俺は口を開けてしまった。
「そ、そうですね…すみません。いやその…それは…」
あふ、と彼は小さく欠伸をした。
「…わかってる。…後始末、してくれてるんでしょ? すみませんね」
浴衣を脱いで篭に放り、カカシ先生は風呂場に入ってきた。
「あ、お風呂入ります? じゃあ俺洗面所でこれ洗いますから、ちょっと待って…」
俺がその言葉を言い終わらないうちに、カカシ先生は手桶で浴槽からお湯を汲んで勢い良くかぶる。
大浴場に比べれば格段に狭い風呂場だ。当然の結果として俺はその湯の飛沫をたっぷりと浴びるハメになってしまった。
「…待ってって言っているのに…」
少々恨みがましい視線を向けると、彼はにっと笑って俺を手招きした。
「そんなん、水に浸けとけばいいんですよ。…肝心のとこは綺麗になったんでしょ?」
俺はまた赤面しているんだろうな。
どうもカカシ先生と出会ってから赤くなってばかりだ。
「ええ…そりゃあ……まあ」
「じゃあそれは置いといて、貴方もそんな物脱いでこっちにいらっしゃい。…おはようのキスがまだですよ」
俺は降参した。
こういう状況になって、俺がこの人に逆らえるわけがない。
俺は浴衣を浸けた洗面器を洗面台に移し、そこで帯を解いて浴衣を脱いだ。
風呂場に戻ると、カカシ先生は気持ち良さそうにお湯に浸かっている。
「贅沢ですよねえ…こんな朝風呂」
俺は何だかどぎまぎして、返事も返せなかった。
だって、その…夕べ俺はこの人を―――
「何入り口で突っ立っているんです? 早くいらっしゃい」
「は、はい…」
俺は努めて平静を装い、扉を閉めて、壁際の蛇口をひねった。
一度洗った顔をまた洗う。
「イールカせんせーってばー」
カカシ先生は浴槽の縁に顎を預け、こっちを眺めている。
「…はい?」
「おはようのキスv」
……この人、まだ寝惚けているんじゃ…いや、起きているみたいだ…って事は本気か。
これはさっさとご要望にお応えしないと、拗ねるな。俺は浴槽に近づき、膝をついた。
「おはようございます」
屈んで、カカシ先生の唇に軽くくちづける。
途端に夕べの事が思い返され、俺はまた赤面した。
だめだ。きっと耳まで赤いに違いない。
だめだ。とても平静なんか装えない。
カカシ先生はキスで満足したのか、湯の中でくるんと反転して俺に背を向けてくれた。
ほっとしたのも束の間。
「イルカも入っていらっしゃい。気持ちいいよ。大丈夫、充分広い湯船だから」
はっきり言って、俺はもうその場から、カカシ先生の前から逃げ出したかった。
「…イルカ? 中途半端に濡れたままでいると風邪をひくよ?」
あああ…とてもじゃないけど一緒に風呂なんか入れない状態だってのに………
その時俺は油断していたに違いない。
でなければ、相手が俺より数段上の忍者だと言う事を失念していたのだ。
気がついた時は、俺の身体は宙を舞っていた。どぼん、という派手な音と共に、俺の身体は浴槽に落ちる。
「いらっしゃーいv」
機嫌良さそうなカカシ先生の声が頭上から降ってきた。
「…ひ、ひどいですよ、カカシ先生…乱暴な…」
「だって、なかなかこっち来ないから」
俺は身体を縮めて、出来るだけ大人しい格好で湯に浸かった。
「か、身体洗ってから入ろうと思ったんですよ」
ふうん? とカカシ先生は小首を傾げる。
「……ここでなら、洗濯するより後始末、楽ですよ?」
……………バレていた…………
俺の顔はきっとトマトより赤いに違いない。
朝っぱらからこんな…! ああ、恥ずかしいっ!!
俺は目をつぶり、無言でただただ首を横に振っていた。
「あらら、真っ赤。…やだなあ、何恥ずかしがっているんです。健康な証拠じゃないですか。…うん、元気元気」
ううう、そういう事を俺の下半身見て言わないで下さい…
ぱしゃん、と湯が撥ねる音がして、肩にカカシ先生の手がかかる。
うわああ、ダメです、せんせー…そんな風に触ったら、俺は…俺は………
その時俺は、自分がただのオスである事を改めて思い知らされた。
(相手もオスなんだって事はこの時あまり問題にはならなかったようだ)
理性とか分別とか見境とか、普段俺が結構重要視している事項がものの見事にすっ飛んでしまう事なんて、そうそうある事ではない。
―――はずなのだが、昨夜の余韻をしっかり身体が記憶していたこの時の俺は、何と言うか…もう自分が何をしているのかわかっていても止められない状態に陥っていて。
頭の隅の方で、こんな所でコトに及んだら、お互い湯あたりしてのぼせるんじゃないかとか、ぐずぐずしていたら宿の人間が布団をあげに来るんじゃないかとかいう考えがチラリチラリと掠めなかったわけではないのだが……
湯の中で触れあう肌にまた何とも言えない心地好さがあったりなんかして……微笑んでしなだれかかって来た彼が、男にあるまじき色気を発散していたとかいう事も俺の欲を煽ってくれたんだけど。
結局俺は、オスの本能というか自分の衝動に負けてしまったのだ。
「…すみません…でした…その……あ、朝っぱらから…」
風呂から上がった時に、ちょうど宿の人が顔を出して布団を片付けてくれて、俺達は朝飯が来るのを待っている所だった。
「いえ、お互い様ですよ〜」
カカシ先生は、恐縮する俺を慰めるように額にキスなんかしてくれるけど。
やっぱり俺は恥ずかしくて仕方なかった。
何だかよっぽど餓えていたみたいで、穴があったら入りたい程恥ずかしい。
「…すみませんでした」
馬鹿の一つ覚えみたいに俺は謝罪の言葉を繰り返す。
「謝らないで。いいんですよ。オレも調子に乗っちゃったんだから」
「…すみません…」
カカシ先生はにっこり微笑んだ。
「もう一回謝ったら、殴りますよ」
「すっ…すいません…っ」
有言実行。
カカシ先生は言った事はやる人だった。
「……痛かったですかー?」
そりゃあもう、上忍の一撃ですから結構ききました……しっかりグーで殴るし…
とも言えず、黙って俺は濡らした手拭いで顎を冷やしていた。
手加減してくれたのはわかっている。この人が本気で殴ったら俺はあっちの壁際まで吹っ飛び、顎は砕けていただろう。
「イルカが悪いんだからねー。オレが謝るなって言っているのにしつこく謝るから」
カカシ先生は俺の手からぬるくなった濡れ手拭いを抜き取り、洗面所でしぼって来てくれた手拭いと交換してくれた。
「…すみ…いえ、ありがとう…」
カカシ先生はフッと息をついて軽く首を振った。
「あのねえ、イルカせんせ。…オレは嫌だって言っているのに貴方が強引にコトを進めたってんなら、百万回でも謝って頂きますけど。違うでしょ。…オレが同意しているのに、何で謝るんですか」
「……申し訳ない、と思ったからですけど」
俺は素直に思った通りの事を口にした。
「…朝からその気になっちゃった事が? それとも風呂場でやったのが?」
「……はあ…り、両方です……」
ふむ、とカカシ先生は顎に手を当て、何やら考えている。
「…どーやら、まだまだオレ達はコミュニケーションが足らないようですねえ。…まあいいか、オレはイルカのそういう所も嫌じゃないから」
けど、ちゃんと殴るんですよね。
俺は、鈍痛の残る顎をおさえて苦笑する。
気づくと、カカシ先生は俺のすぐ側でこちらを覗き込んでいた。
「………オレのこと、欲しいって思ってくれたんでしょ…? 朝っぱらから」
そうですよ。
朝っぱらから、まるでサカリのついたガキみたいにどうしようもなく貴方が欲しくてたまらなくなってしまったんですよ。
この人に嘘ついたって仕方ない。俺のプライドなんて、この人の前では無意味だ。
「………はい」
カカシ先生は俺の返事を聞いてにっこり微笑んだ。
「そりゃ良かった。喰ってみたけど不味かった、なーんて言われたらオレ泣いちゃいます」
「そ、そんな…バチあたりな……」
俺のその言葉に、彼は小さく噴きだした。しばらく愉快そうにクスクス笑い、俺の髪をわしゃわしゃとかき回してくれる。
ふと笑いをおさめ、微笑みを残した眼でじっとこちらを見つめてきたりして。
…その意味は、果たして俺の思った通りの事だろうか。自信はなかったが、俺は黙って彼の唇にキスした。
唇を離すと、今度は彼の方から軽いキスをしてくれる。
「……貴方もね、よかったですよ」
「…………」
もしかして俺の顔は、トマトを通り越してザクロみたいになっているのではなかろうか。
身体中の血が、顔に昇ってしまったよーな気がする……
夕べだって今朝だって、俺は無我夢中になってしまって自分が何したのかよく覚えていない有り
様で……
「…それに、もっと躊躇するかと思いましたが…意外にあっさりと寝てくれましたしね。…もしかして、初めてじゃなかったとか?」
それは、後から思えば俺の否定を期待した問いだったのだろう。
だが俺は馬鹿正直だった。
本当に馬鹿だ。曖昧に誤魔化せば良かったんだ。こういう事は。
「え…ええと、まあ…同性と寝るのは…初めてじゃないです…」
これは結構な爆弾発言だったらしい。
カカシ先生の周囲の温度が低下し、彼が受けた衝撃を物語っていた。
これだから俺は鈍感だって言われてしまうんだろうな…
ごめんなさい、カカシ先生…貴方がそんなにショックを受けるとは思わなかったんです………
でも、一度零れ落ちた言葉は拾えるわけがなく…
俺達は向き合って座ったまま、しばらくの間固まっていた―――
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