「さあて、そろそろ腹、落ち着きましたか?」
食事を終えて、膳を下げられた食卓で何やら書き物をしていたイルカは、カカシに声を掛けられて顔を上げた。
カカシはいつも読んでいる本の陰でふわん、と欠伸をしている。
「あ、もうお休みになりますか?」
「んー? いえ、そうじゃなくって…うーわ、イルカってばこんな所に来てまで仕事している…」
イルカは恥ずかしそうに頭をかいた。
「あは、いえちょっとね…休み明けまでにやらなきゃいけないものが少しだけあって…」
カカシは窓際に据えてある安楽椅子から立ち上がって来て、イルカの手元を覗いた。
「…指導要領ですね。何か問題でも?」
「アカデミーの教師にも新人は入って来るんですよ。…教師とはいえ、術に得手不得手がある場合もありますしね。一応こういうものを作っておかないと、偏った指導をされても困るでしょう?」
「そうですね。…そうだ、イルカ先生は何が得意なんですか? 術」
「うーん…特にないです」
イルカは淡々と答える。
「…苦手な術は?」
「それも特にないです」
カカシは感心したようにふうん、と頷いた。
「…そりゃすごい」
イルカは恥ずかしそうに笑った。
「すごくなんかないですよ。…術のレベルが高くないだけじゃないかと思います。傑出した能力が無い分、一通りの術は使える。…アカデミーの教師には向いているでしょ?」
「いやでも…苦手なものが特に無いってのは…結構すごいと思うんだけど……火遁だろうが土遁だろうが水遁だろうが平気って事でしょ?」
はあ、とイルカは何でも無さそうに頷いた。
「だって、生徒に見本示せなきゃまずいじゃないですか」
一通りの術がこなせる忍者はたくさんいる。カカシ自身も、だてに「コピー忍者」などと呼ばれているわけではなく、一般的な術でこなせないものはない。基礎が無ければコピーなど不可能だからだ。
だが、個人の資質がどうしても影響する術は、こなせても少なからず得手不得手が現れるものだ。傍目に何でも無さそうに見えても、本人は結構苦労しているケースは多い。
術を全部平均的にこなせて、本人がそれを全く負担に思っていないのだとすれば……それはそれでカカシの常識から考えて結構「すごい」事だった。
仮にもイルカは中忍である。
術のレベルが上忍には及ばなくても、下忍よりは遥かに高い水準のチャクラを練れるはずだ。
(―――かなり安定したチャクラを保持している…って事だな。)
イルカの忍者としての資質が、決して低いものではないのだと悟ったカカシは嬉しくなった。何だか胸の中がわくわくする。
やはり人間、自分の持っている価値観は重要なのだ。
イルカが忍者として凡庸に見えるのは、おそらく彼の性格が作用した結果だろう。
「…ホント、いい先生に教えてもらえたみたいですね。あいつら」
カカシの言葉に、イルカは薄っすら頬を染めた。
「……努力は…したつもりですけど。やはり人にものを教えるのは…難しいです」
「ご謙遜。……ね、それまだ時間かかります?」
「あ? いえ、もう終わります」
イルカは何かをさらさら、と書き足し、確認するように口の中で何やら呟きながら紙の上の項目に指を走らせる。
「こんなもんかな。…後は、同僚にも見せてチェックしますから、俺に出来る事はここまでです。…で、何でしょうか」
「お疲れ様〜。…あのね、腹が落ち着いていたらもうひとっ風呂浴びてきませんか」
イルカはああ、と納得顔になった。
「そーですよねー。せっかく温泉入りに来たんですもんね」
カカシは楽しげにフフフ、と笑う。
「そーですよ。…でね、今度は露天風呂に行きましょう。露天は外が涼しい方が気持ちいいものでしょ?」
「へえ、ここ露天風呂あるんですか。実は俺、初めてなんです。楽しみだな」
「そりゃあいい。…おおいに楽しみにしていて下さい」
カカシの言う『楽しみ』は、風呂に行ってみてわかった。
彼らが風呂に向かうのをどこからかしっかり見ていたらしく、絶妙のタイミングでそれは運ばれて来たのだ。
「…うわあ…」
綺麗な白木の桶に砕いた氷が敷かれ、その上にこれまた上品なお造りやつまみが盛られた皿が据えられている。そして、盆には燗をした清酒。
「これでよろしかったでしょうか?」
仲居はにっこりとカカシに微笑みかけた。
「そうそう。露天風呂で一杯ね。これがやってみたかったんですよ」
「どうぞごゆっくり。…こちら、貸切でございますからね。他のお客様はいらっしゃいませんわ」
「貸切?」
「……お心遣いを頂きましたから。私どもの気持ちでございますよ」
仲居の言葉に、いったいカカシはいくら心づけを包んだのだろうかとイルカは青くなった。
当のカカシは涼しい顔をして頷いている。
「そりゃどーも。ゆっくり出来て嬉しいですよ」
「老婆心ながら、お湯につかっての御酒はあまり過ごされますとお体に障る、とだけ申し上げますわ。ほどほどにお楽しみ下さいませ。…御用の際は、そこの木槌であの小さな鐘を鳴らして下さいまし。すぐに参ります」
「はいはい」
仲居はベテランらしく、用を済ませると余計な会話はせずにさっさと立ち去った。
二人の上半身に散っている数々の傷痕に、ただの教師などではないと気づいただろうにその事には一言も触れずに。
「……コレ、ですか。夕食の前に言ってたの」
イルカは子供のように氷の欠片を指で突付いている。
「ふっふっふ…そーですよ。なかなかに贅沢でいいでしょ?」
カカシは湯の上にそっと盆を浮かべた。
イルカはそこから銚子を取って猪口をカカシに手渡す。
「じゃあ、はい。美人のお酌でなくて申し訳ないですが」
「やー、とんでもない。すいませんねえ」
カカシはのんびりと酒を口に含んだ。
「ん。いい味。…ちょっぴり辛口、かな? イルカせんせ、おひとつどーぞ」
「はあ、じゃあ…」
カカシの酌を遠慮したりすれば、たちまち機嫌を損ねるであろう事は以前の出来事でイルカも学習している。素直にもう一つの猪口を手に取って酒を注いでもらった。
「頂きます」
律儀に杯を軽く掲げ、イルカも清酒を味わった。
「あ、美味い。いい酒ですねえ、これ」
カカシは自分が誉められたように嬉しそうに笑った。
「気に入りました?」
イルカは素直に頷いた。
「後でお姐さんに銘柄訊いておきますよ。…それに、露天風呂もすっごく気持ちいいです。
身体は暖まっているのに頭涼しいからなんか爽快で」
「時々湯から出て身体を冷ますといいですよ。ずっと浸かっていると湯疲れしますから」
「わかりました」
イルカは素直にカカシの言葉に従う。
湯に浮いている盆に飛沫がかからないように気遣いながら上半身を夜風に晒し、体操するように腕を回した。
「やー、いいお湯ですねえ。疲れがとれるような気がしますよー」
そして、何気なくイルカは桶に敷き詰められている氷の欠片をつまんで、口に放り込んだ。
その子供っぽい仕草にカカシは噴きだす。
「美味しいですか?」
イルカは真面目に頷いた。
「冷たくって美味いですよ……あ、これ食えないもんじゃないですよね」
そういう疑問は口に入れる前に持て、とカカシは苦笑した。
「ま、大丈夫でしょう。…食う為のものじゃなくっても、汚い氷には見えません。…けど、そっちじゃなくて、皿の上のものをつまんだらどうです?」
だが、カカシが先に手をつけない限り、イルカはそれを口に入れないだろう。
いくらカカシが普通の友人付き合いを望んでも、そう簡単にくだけた関係になりはしない。
(―――ま、でもそういう礼儀正しいトコもいい感じだしなー…イルカは。)
既に痘痕もエクボ状態である。
カカシは箸を手に取り、何やら凝った体裁のおつまみをひとつ口に入れた。
「うん、やっぱ腕のいい板前さんがいるなあ、ここ。はい、イルカせんせ」
自分の使った箸で同じ物をつまみ、ハイ、とイルカの目の前に突き出す。
イルカはまた素直に口を開けかけたが、はっとして周りを見渡す。
カカシは可笑しそうに笑った。
「大丈夫ですって。…風呂場に女性がいきなり入って来るわけないでしょ。仲居さんは呼ぶまで来ませんよ」
イルカは薄っすらと赤面して肩を竦めた。
「…ですね」
そして、躊躇無くカカシの箸をぱくんと咥えた。
「んーと、牛肉の昆布巻き、かな。上品ですよねー、ここの味付け」
カカシの箸を口に入れる事には何の躊躇いも見せない。
カカシにはイルカの見せる遠慮深さと、無邪気さのギャップが微笑ましくも面白く思えてならなかった。
自分が口にした箸でもイルカが平気で口に入れた事も、カカシにはどこか嬉しい感じがする。
(―――ははは、何だろね、オレってば。…ガキみたい。)
間接キスで喜ぶトシでもあるまいに、とカカシはそっと自嘲した。
盆には細い銚子が5本並べられていた。一人あたり2本半。
酒に慣れている人間なら、そう多い量ではない。
だが、湯に入りながらの飲酒である為、普段よりは少々アルコールの回りが速かったらしい。
イルカは頬をいい色に染めて、上機嫌で夜空を仰いでいる。
「やー、何だか極楽ですねえ…帰りたくなくなっちゃうなー…」
「イルカ先生でもそー思います?」
カカシの目許も上気していい色に染まっていた。
「あは、俺だってそんなに生真面目なばかりじゃないですよー…」
イルカの眼は多少、酔いを示している。
ふう、とイルカは息をついた。
「…ちょっと暑くなっちゃいましたねー…氷、もう全部溶けちゃったかなあ…」
カカシはひょいと桶を覗いた。
桶に入っていた皿の中身はきれいに二人の胃袋に収まっている。お造りがぬるくならないようにとの配慮から敷いてあった氷も、流石に湯気にあたって溶け始めていた。
「あ、大丈夫。少し残ってますよ」
そこでカカシはちょっとした悪戯心を起こした。
大きめの氷の欠片を自分の口にひょいと入れ、イルカに顔を近づける。
「最後の一個ですから。俺にもちょっと味あわせて下さいね……はい、あげます」
イルカがそのカカシの動作を訝しむ暇もなく、唇が重なり、冷たい塊が口の中に押し込まれてきた。
いきなり口移しで氷を食べさせられたイルカは、眼を白黒させて掌で口を覆った。
「………」
見る間にイルカの顔が真っ赤になっていくのが明かりの乏しい露天風呂でもわかる。
(―――えーと、表情から見て、怒りで赤くなったワケじゃない、よな。…恥ずかしかったのかな…?)
そんなイルカをのんびりと観察するカカシ。
「あ、まだあった…氷」
カカシはにっこり笑ってさっきと同じ様に口に放り込んだ。
「はい、もう一個」
イルカが身を引かないようにその首筋に手をかけ、氷を含んだままカカシは口づける。
そっと氷を舌先に乗せて差し出すと、イルカはどこか遠慮がちにおずおずとそれを受け取った。
今度はカカシはすぐに離れず、唇を重ねたままイルカの反応を伺う。
湯に半分浸かった身体同士が微妙に触れ合って、くすぐったい。
何と、イルカは一旦受け取ったその氷をカカシの方へ返してきた。
カカシが離れなかったのは、氷を返せと要求しているのだと解釈したらしい。
それなら、とカカシは溶けてなくなるまで氷の往復をしてやろうと決めた。
イルカも酔いが回っている所為か、その遊びを拒みはしなかった。
2度、3度と舌先で氷のやりとりをするうち、だんだん氷は溶けて小さくなっていく。
氷が小さくなるに従って、互いの舌先が触れる面積は増えていった。
(―――……オレとディープキスしているって自覚、無いのかもなあ…イルカってば。)
しかもお互い全裸で。
非常に危ないその状況が、それ以上おかしなものにならなかったのは、氷が溶けきった途端イルカが離れたからだった。
「……酔ってますね、カカシ先生。もう上がりましょう」
カカシはけらけら笑って酔っ払いを演じた。
「はあい、イルカせんせー」
それが、その場を気まずいものにしない最良の手段だとわかっていたから。
(―――酒って便利だよなあ…)
果たしてどちらがより酔っていたのか。
弾みのようなキスをお互いに酒の酔いの所為にして。
二人は薄暗い露天風呂を後にした。
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