はつゆき−5

 

イルカは黙っている。

部屋へ戻ってから、ずっと黙っている。
部屋には、二人が露天風呂に入っている間にきちんと床が延べられていた。
イルカは黙ったまま濡れた手拭いを窓の手すりに干し、部屋の隅に寄せられていた卓の側に座り込む。
沈黙が重かった。
カカシにはこの沈黙が、先刻の自分の所業の所為だとわかっていた。
(―――やっぱ、ちょっとマズかったかな・・・?)
カカシもイルカに倣って自分の手拭いを彼の手拭いの隣に干す。
それから、卓を挟んでイルカの向かい側に腰をおろした。
「………」
イルカはもぞ、と動いたが顔を上げようとはしない。
カカシは卓の上のポットから急須に湯を注ぎ、お茶を淹れ始める。
いつもならすぐに「自分がやります」とか何とか言って、イルカはその作業をカカシにやらせまいとするだろうに、今は石のように固まって動かなかった。
「…はい、お茶。…水の方が良かったですか?」
カカシは湯呑をイルカの前へ置いた。
「いえ…ありがとうございます…」
やっとイルカの声を聞けて、カカシは切なげに微笑んだ。
「……ごめんなさい。怒らせてしまったみたいですね」
イルカはカカシの方を見ようとはしなかったが、首を横に振った。
「………怒っているわけじゃないんですか?」
イルカは小さく頷いた。
「…怒って…なんか……いません。でも……………」
イルカは下を向いたまま黙ってしまった。
カカシは辛抱強く待った。
生真面目なイルカに遊びのようなキスを仕掛けて。
悪いのは自分だと分かっている。だから、イルカが自分から「でも」の続きを切り出すのを待った。
そして長い長い沈黙の後、イルカがぽそりと呟いた。

「……もう…あんな事……しないで下さい……」

それは、何となく想像していた通りのセリフだったが。
それでもその言葉はカカシの胸に痛みを伴って突き刺さった。
(―――あは、やっぱ…な。……オレが悪い、…か。)
カカシはこりこり、とバツが悪そうに頭をかいた。
「………すみませんでした…その…つい…」
イルカはやはり顔を伏せたままで首を横に振る。
「謝らないで下さい。……仕掛けたのは貴方でも、俺も…その…あの場で拒まなかったんですから。…俺が応じた以上、貴方が謝る必要はないんです。…ただ…」
カカシの目の前で、イルカは更に萎れてしまった。
「……俺、ダメなんです……」

カカシは内心、やっぱりね、と息を吐いた。
酔ったはずみで男とキスなんかした事を、イルカは後悔しているのだろう、と思ったのだ。恋愛や性に絡む事柄に、イルカが古風で保守的であろう事は何となく察しがつく。
同性とのラブ・アフェアを楽しむタイプには見えなかったから―――

「…………俺…俺は…」
イルカの声は消えそうに小さくなった。
「…ダメなんです…粋に…遊びと割り切って……ああいう事…出来ないんです…」
おや? とカカシは眉を上げた。
これは…何となく違う雲行きだ。
「…すみません…興ざめですよね。……俺、昔からそうなんです。…いっつも…あの…ちょっと…女性と付き合う機会があったとしますよね。そしたら、俺…すぐにマジになっちゃって…相手が興ざめするんですよ。…そんなつもりじゃなかったのに、野暮な人ねって……」
カカシは沈黙する事でその言葉の先を促した。
「お…男同士なら…尚更それはゲームだと割り切って『遊ぶ』べきなんでしょう…? でも…」
そう言って、イルカは弱々しく笑った。
「でも、俺には無理です。…カカシ先生、たとえ相手が貴方でも」

カカシはそっと立ち上がってイルカの脇に膝をついた。
「………遊びでキスしたりするのは嫌いなんですね?」
優しく問われて、イルカはまた頭を振った。
「嫌いとか…そういうんじゃないんです…すみません、俺…余計な事を言いました。…だから野暮だって…言われちゃうんですね」
カカシはイルカの頬に手を添えた。
「……オレ相手でもマジになってくれるんですか? 貴方のセリフを聞いていると、そうとも受け取れますけど。…オレに対してもマジになってしまう。だからダメなんだ、と……」
そこで初めてイルカは顔を上げてカカシの眼を見た。
「………そう…です。これ以上貴方にああいう触れ方をしてしまうと…そんなの、ご迷惑なだけでしょう?」
カカシは低く囁いた。
「じゃあ、マジになればいい」
イルカの唇に柔らかい感触が当たって、離れた。
「…女運の無い人ですねえ。…今まで貴方がお付き合いした女性はみーんなハズレですよ。…男にマジになられて鬱陶しがる女なんて、貴方には向いていません。…もっとね、いい人がきっと……現れます」
「…カカシ…先生……」
カカシの眼は、イルカをからかっている様には見えなかった。
「……それまでの間、オレにマジになっていなさい」
「………………」

イルカは眼を真ん丸にした。
「…はい?」
カカシはちょっと苛立たしげに眉を寄せた。
「だーかーら、オレにマジになれって言ったんですよ」
「そっそんな…」
イルカは信じられない言葉を聞いているといった顔で、ひたすら狼狽している。
「オレ、イルカ好きだし。マジになられてうっとーしー、なんて思いませんもん」
「ででで…でも……」
カカシの唇がもう一度重なった。
今度は先刻より少し長めにおしつけ、啄ばむようにしてから離れる。
「……もし、貴方がオレに裏切られた、と感じたら……そう感じる時が来たら…そしたらオレを殺しに来なさい。…それが、オレにマジになるっていう事です」
「……カカシ…」
カカシの静かな口調に、彼の言葉は本気なのだとイルカは悟った。
「…俺に…貴方が殺せるわけないでしょう…? …返り討ちですよ」
「どうでしょうかね。…貴方、本気で人を憎んで殺しに行った事なんてないでしょう。戦いの中で相手を殺した事はあってもね。…そうです。貴方の穏やかな気性が、貴方自身の成長を妨げている。…本気で修行すれば、まだまだ伸びるはずです。……本気で来れば、オレを殺せますよ」
イルカの表情も真剣になった。
「…貴方はどうするんです…? 俺が貴方を裏切った時は。今貴方は、俺にいい女性が現れるまで、と言いましたが、それは裏切りにならないんですか?」
「そうですねえ……その時にならないとわからないけど……でも…」
カカシはにっこり微笑みかけた。
「貴方が不幸になるのは嫌だなって、今思ったから。幸せになってくれるんなら構わないかもしれない。……ああ、もちろん殺意が芽生える可能性は否定しませんけど?」
そこでカカシはふ、と息をつく。
「…人の心は変わっていくものだから…今、いくら物分りのいい事言ったって、いざとなったらやはりダメかもしれませんもんね。…だから、こういうずるい物言いをしておく事にします」
イルカはゆっくり頷いた。
ごく自然に、カカシの欲しい言葉を口にする。
「…わかりました。…じゃあ俺も覚悟しておく事にします」
あのね、とイルカの声が囁くようにカカシの耳をくすぐる。
「……さっき…風呂でね…、俺、貴方の事…思わず抱き締めたくなってしまって…結構キツかったんですよ、我慢するのが。…貴方の唇が触れている間の俺の葛藤なんて、気づいていなかったんでしょう。…むしろ裸だったから、自制出来たようなものです。…ヤバ過ぎて」
カカシはぺろ、と舌を出した。
「すいません。気づきませんでした。…酔ったはずみって事にしたいんだと思って…こっちも合わせちゃいましたから」
イルカは複雑な顔になった。
「まあ…酔っていたのは確かです。…あんな場所で…その…」
「…氷、美味しかったですか?」
「……ええ」
イルカは先刻のキスを思い出したのか、ふわんと頬を染めた。
「…お互い腹を壊さない事を祈りましょう、イルカせんせ」
ぷっとイルカは噴きだした。
つられたようにカカシも笑い出す。

ひとしきり笑った後、カカシはことん、とイルカの胸に頭を預けた。
イルカの指が、躊躇いがちにそっとカカシの髪を梳くように撫でる。
「…カカシせんせ…?」
「はい」
「その……氷抜きでしたいんですけど…いいですか?」
(―――ううむ、自分で言うだけあって、野暮なヤツ……)
こういう時は黙ってキスでも何でもすればいいのに、いちいち律儀に訊いてくる。
(ま、そこがイルカらしいとこかな…)
カカシは微笑む事で同意した。
目を閉じて、静かに降りて来る唇を待つ、少し鼓動の早まる瞬間。
(―――こんな感じ、ものすごく久し振りだな……)
暖かな唇を受け止めて、カカシは相手の背中にそっと腕を回した。
イルカの腕もそっと伸ばされてきて、カカシの身体を愛しそうに抱き締める。薄い浴衣の生地を通してイルカの体温を感じたカカシは、その先を促した。
「イルカせんせ、お布団はあっちですよ」
たちまちイルカがうろたえる気配がして、カカシは笑いをかみ殺す。
そう言いながら、回した腕をちっとも緩めないカカシに、イルカは困惑の眼差しを向けた。
「あの…」
「やだなあ、初夜ですよーv ちゃあんと、このまま抱いて連れてってくれなきゃ」
むせて、顔を背けながら咳き込むイルカの背中を、よしよし、とカカシは撫でてやった。
「しょ……って…あの…そーゆーコトもしちゃっていいんでしょうか…?」
「あのねえ、殺すだの何だのって話をしといてそりゃないでしょう。…きちんと深い仲になっておかないと、殺意も生まれにくいですよお?」
にこにこして、お茶にでも誘うノリで。
カカシの笑顔に、イルカは当惑を隠せないようだ。
「……やっぱ、男なんか嫌ですか?」
そのカカシの一言でイルカの表情は変わった。
「…嫌とは言っていません」
おや、とカカシが思う間もなく、イルカはカカシを抱え上げた。
「毒を食らわば皿までって、言いますもんね」
「…オレ…毒なんですか…?」
毒及び毒を盛った皿扱いされたカカシは自分を指差しながらイルカを見上げた。
イルカはどこか据わった目つきになっている。
「すみません。…どうも表現が違いますね。ええと…何て言うのかなこういうの…」
「いやあ…何となくイルカの心境は伝わりましたから〜…お気になさらず」

いい加減な気持ちで適当に遊ぶ事など出来ない、と自分で言い切った生真面目な男をその気にさせて―――その責任を自分はどう取るつもりなのだろうとカカシは自問した。
本気になったイルカはおそらくカカシを裏切るまい。
一線を踏み越えて、『深い仲』になって。
そして、今後の付き合いの中で、もしも互いに傷つく事があった場合、より深い傷を負うのはイルカの方だろう。


抱き上げたカカシを丁寧にそっと布団の上に降ろし、数秒祈るように目を閉じたイルカは、迷いのない目でカカシを見つめた。
壊れ物にでもするようなためらいがちなキス。
それから、堪えきれなくなったようにイルカは激しく口づけてきた。
その口づけに、イルカの『雄』を感じとったカカシの背筋は、ぞわりと波立つ。
露天風呂でのキスなんて、やはりただの遊びだ。
本気のキスはこんなにも熱くて……溺れてしまいそうになる。

―――友達…でいた方がいいんでしょうね。おそらくは……でも、オレは……『ただの友人』とか…『仲のいい先生同士』とか…ましてや『ナルトの指導上忍』なんてポジションはごめんなんです。貴方の中で、オレ自身が特別な位置にいたいんです…ごめんなさい、イルカ。…オレはものすごく我が侭で…残酷な事をしているのかもしれない…

心の中でイルカに謝りながら、カカシはイルカの背中に回した腕に力を込めた。
その背中には大きな傷。

―――ああ、他人の為に平気で自分の身体を傷つけてしまう貴方…どうか、オレの為にこの身体と心が傷を負うことがありませんように…

布団の上で暗い天井を見上げ、カカシはムシのいい願いだと思いつつ天に祈った。
イルカはしなやかで強い心の持ち主だけど。
その強さはカカシとは種類の違う強さなのだとわかっているから。
同じダメージを加えられても、カカシがその痛みを遮断してしまえる強さなのに対して、イルカのは傷みを感じつつもそれに耐えきる強さなのだ。
どちらが辛いかはともかく、ダメージが大きいのは後者の方である。
カカシの浴衣の襟元をはだけ、裾をそっと割って肌に触れていたイルカの手がふと止まった。
「…何、考えているんです?」
カカシは一瞬どきんとした。
「いえ……」
何も、とは言えなかった。
イルカが、木の葉の里で再会した日の晩の…あの日と同じ微笑みを浮かべたので。
「……迷いがあるのは貴方の方みたいですね。…今ならまだ…引き返せますよ」
(―――何故見抜けるんだろう…この人…この人は)
カカシの胸の内など、今まで察せられた人間はほんの一、二人なのに。それも、それはカカシ自身がまだ幼かった所為だったのに。
やはり、カカシには目の前の男を手に入れたいという衝動を抑える事が出来そうも無かった。
普段無欲なだけに、一度覚えた欲求は思いがけず強い。
「…引き返したりしませんよ…せっかく、アナタがその気になっているのに…」
カカシはふと、少し開いた障子の向こう側の景色に気を取られた。
暗い外の所為で黒く見えるガラス窓の向こうに、何か白いものが…
「あ…」
カカシの視線に気づいて、イルカも窓の方を見る。
「……雪だ…初雪ですね…カカシ先生…」
雪を見ているイルカの胸に、カカシは冷たくなった鼻先を押しつけた。
「道理で冷えるはずですよね。…せっかく温泉入ったのに、冷めちゃいました。イルカ先生、温めて下さい」
イルカはちょっと目を見開いて何か言いたそうに唇を開きかけ…だが、ふっと微笑んでカカシの顔をそっと自分の胸から離すと、その冷たい鼻の頭にくちづけた。
「わかりました……寒いんですね?」
その言葉に何か含みがあったのはわかっていたけれど。
カカシはただ頷き、簡単な答えを返した。
「…ええ、寒いんです」





「…ゥ……ッ…」
堪えきれず口から漏れる声を自分の掌で殺しながら、カカシは自分を抱く男は本当にあのイルカなのだろうかと埒も無い事を考えていた。
イルカにいつも感じているあの温もりは、今は息苦しいほどの熱と化している。
(―――これも…この熱さもイルカなんだ……)
あの安らかな温もりと、この心地いい熱さを知ってしまって。
これらを失う時への不安に、カカシは身を震わせた。
(―――馬鹿なことを…それも覚悟の上で、禁断の実に手を伸ばしたのはオレだ……)



明かりを消した部屋で目を閉じて、肌に触れる感触と包み込まれるような熱さだけを追い続け―――時折、ふとした拍子に目を開けると、窓の外の雪が白く舞う姿が目に入る。

(―――あの雪…今夜はまだ積もらないだろうな……)

カカシは雪の残像を瞼に残して再び目を閉じた。

真っ暗な窓に白い雪が舞うこの光景を、自分は当分忘れないだろうとカカシは思った。
否、一生のうち、何度も思い返す光景かもしれない。
明日の朝、イルカはどんな顔で自分を見るだろう。
そして自分は?
 

カカシは目の前の熱を帯びた肩に指を這わせ、暗闇の中でそっと微笑んだ。
 

 

 



『イルカカ・お初編』でしたv
やはりマジになればなるほど、明るくえっち、が難しい人達(泣)。
凛々しいのか情けないのかよくわからないイルカ先生と、マイペースに見えて、一応悩んでいるらしいカカシ先生の恋物語。
勝手にやってろ、って感じもしなくもナイ。(爆)
―――つうとこで、一応は幕。

00/10/20〜12/23

 

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