はつゆき−3

 

 

「お客様、鹿の間のお客様でございますよね」
大浴場からの帰り、イルカは廊下で仲居に声をかけられた。
「はい、そうですけど…」
仲居はにっこりと営業用スマイルを浮かべる。
「お夕食の御膳、只今お部屋にご用意させて頂きます。御酒の方、如何なさいますか?」
イルカはくるりと連れを振り返った。
カカシは頭から手拭いをかぶって顔の左側をさりげなく隠し、廊下に飾ってある絵を見ていた。
「…お酒ですって。どうします?」
ん? とカカシも仲居の方を見る。
「あー…お酒ですか…今は暑いから冷えたビールがいいなあ…」
「おビールでございますね? お連れ様は?」
「あ、俺もビールでいいっす」
ぽん、とカカシは手を打った。
「そーだ、前から一度やってみたかったんだ。…お姐さん、ちょっと」
はい、と仲居は素直にカカシの方へ耳を傾ける。
その耳へ、カカシはこそこそと何やら囁く。
「………ほほ、わかりました。では、後ほどご用意致します」
仲居は品良く手の甲を口元に当てて笑うと、丁寧に一礼して去って行った。
「…何です? カカシ先生」
ふふふ、とカカシは笑った。
「後でわかります。…さあ、行きましょう。お腹すきましたよねー」
そりゃああれだけ長風呂をすれば腹も減るだろう、とイルカは苦笑した。
結局イルカは背中をカカシに洗ってもらい、お返しにカカシの背中を流した。
カカシは丁寧にイルカの傷を避けながら背中の無事な部分をごしごしこすってくれ、しばらくちゃんと背中を洗えなかったイルカは素直に彼に感謝した。
お互いの背中の流しっこは、思ったよりずっと気持ちよかったのだ。
「…また、違った感じに見える…」
「え?」
カカシはすい、と手を挙げてイルカの髪を軽く指に絡めた。
「これこれ」
洗髪したイルカは、髪を結っていなかった。
濡れた黒髪が浴衣の肩にかかり、普段とはまったく違う雰囲気を醸し出している。
イルカは何だか気恥ずかしくて肩に掛けていた手拭いでがしがし頭を拭いた。
「あー、ダメダメ。何やってんですか。髪、からまっちゃうでしょ」
小さい子供を叱るように、めっと言いながらカカシはイルカの手から手拭いを抜き取った。
「せっかく綺麗な黒髪なんだから…」
カカシは、手拭いで濡れたイルカの髪を包むようにして拭いてくれる。息がかかるほど近くにカカシの顔があった。
イルカは自分が赤面しているのに気づいて更に赤くなる。
「あの…いいです…自分で……」
「……髪は部屋で乾かしましょうか。…若い仲居さんの噂の種になっちゃいそうだから」
誰の所為だ〜! と心で叫びながらイルカが視線を上げると、廊下の曲がり角でこちらを伺っていた若い仲居がきゃっと小さい声をあげて顔を引っ込めた。
「さっきお酒の注文を訊いてくれた仲居さんくらい落ち着いた歳の女性なら、ああいうはしたない真似はしないんでしょうけどねえ…まあ、好奇心も若さの特権ですかね」
カカシはハハハ、と屈託無く笑っている。
「あの子、貴方を見ていたんじゃないですか? ほら、最初に会った時に誘ってきた女性も貴方が目当てだったみたいだし」
イルカの言葉に、カカシはちっちと指を振る。
「アナタねー、ご自分の魅力に気づいていませんね?」
そして、へ? と眼を見開いたイルカの頬をピタピタと叩く。
「いい男ですよ、アナタ。…それにねー…たぶん今の娘は……」
カカシには、今の若い仲居が嬉々として仲間に報告する姿が簡単に想像出来た。
『ねーねー、鹿の間のお客さん達ちょっとアヤシイのよ〜!』
彼女達には事実なんかどうでもいいのだ。珍しい動物をきゃーきゃー言って見るのと大差ない。『ちょっとアヤシイ男達』を話題にして騒ぎたいだけ。
「何ですか?」
イルカはきょとんとしている。
「いや…何でもないです。くだらない事ですよ。さー、部屋へ戻ってビール飲みましょうー! 喉渇いちゃったなー……」
ビールを飲む事に関してはイルカに異論は無い。
「そうですねー、俺も喉渇きました」

部屋に戻ると、先刻の仲居が若い仲居を指導しながら夕食の膳を整えている最中だった。
「あ、お戻りでございますか。只今御仕度整いますので」
にっこりとそつなく微笑み、古株らしい仲居は手際よく皿や椀を並べていく。
「おや、これは美味そうですねー。楽しみだな。ねえ、イルカ先生」
「本当だ。懐石料理は器も綺麗で、何か優雅ですね」
あら、と仲居は二人を見る。
「先生なんですか? こちら様」
「ああ、二人とも一応ね。うるさいガキ共…いや、賑やかな子供達からしばし解放されて、いいお湯といいお料理で英気を養おうって寸法です」
カカシは愛想よく仲居に答えてやっている。どうやら機嫌がいいらしい。
「ま、さようでございますか。大変なお仕事ですものねえ。さ、どうぞ」
仲居はビールをどちらから注ごうか一瞬迷ったようだった。
さりげなくイルカはカカシの方へ手をやる。
その仕草の意味を仲居は正確に汲み、カカシのグラスからビールを注いだ。
「やだなあ、先生としてはイルカの方が先輩なのに」
「何言ってんですか。俺より年上でしょ、先生の方が」
「……大して違わないのに…」
カカシはぷう、と頬を膨らませる。
「あらあら、まあま。仲のよろしいこと」
仲居にほほほ、と笑われて、二人の青年は照れたように笑った。
「では、ごゆっくり。何かございましたらお呼び下さいませ」
きちんと手をついて頭を下げる仲居に、「よろしく」と言いながらカカシは小さな包みを手渡す。
仲居は丁寧にもう一礼し、包みを受け取った。
「お心遣い、ありがとう存じます」
襖は閉められたが、廊下と部屋を隔てる戸が閉まる音はしない。まだ料理はこれだけではないのだろう。
「…今、仲居さんに渡したの…心づけですか?」
イルカの問いに、カカシは頷いた。
「大した額じゃないですけどね。さっきちょっと頼み事もしましたし。…断らずに受け取った、という事は、それなりのサービスは期待できますよ。こういう所に来たらね、気持ちよくサービスしてもらわなきゃ、つまんないですよ」
「あ、じゃ今の俺も半分出しますよ」
ぶー、とカカシは指でバッテンを作った。
「だめです。出させてあげません。…オレの我が侭に付き合ってくれているんだから…貴方はそんな気遣いしなくていいの」
「でも…」
カカシはグラスを掲げた。
「ほら、早く飲みましょう。乾杯」
イルカもグラスを揚げ、カカシのグラスにあわせる。
チン、と綺麗な音がした。
「乾杯。…では、お言葉に甘えます」
「よろしい」
機嫌よさそうにカカシは笑い、ビールを飲み干した。
「うーまいっ! 風呂上りはコレだなー!」
イルカも美味そうにビールを傾ける。
「カカシせんせ、ダメですよ、ビールばっかり先飲んじゃ。ちゃんと食べないと。…あ、これ! わあ、先生の言った通りだ。ホラ!」
イルカは箸で天麩羅をひとつ摘まみあげる。
「これ、モミジの天麩羅ですよ」
ぱり、と天汁も塩もつけずにイルカはモミジの天麩羅をかじる。
「………」
「…美味いですか? イルカせんせ」
イルカは無言でぱりぱり、と残りを口に入れてビールで流し込んだ。
「…葉っぱは葉っぱでも…シソとかの方が美味い気がします…何かモミジって…ころもだけ食っているよ―な感じ…」
「ま、ここは紅葉で有名な土地ですから。それは彩りなのかもしれませんね。でも、話のタネにはなるでしょ。何事も経験で………ううっ…涙でそー…この茶碗蒸し…美味い〜〜」
「茶碗蒸し、お好きですか?」
「大好きです〜…でも、自分じゃ作り方わからないし、なかなか美味いの食わせてくれる店、なくって。…う〜む、懐石料理ってのはどうしてこうお上品なんでしょうかね。もうちょっと大きな器に入れてくれりゃいいのに…」
綺麗な可愛らしい器で出てきた茶碗蒸しは、確かに大人なら三口で無くなる量だった。
イルカはクスクス笑って、自分の茶碗蒸しをカカシに差し出した。
「じゃ、これどうぞ。好きな人が食べた方が、食べ物も喜びますから」
カカシは差し出された器に、薄っすら赤面した。
「いいですよ。そんなつもりじゃ…」
「遠慮なさらず。ほら、冷めると味が落ちますよ」
カカシは小さな茶碗蒸しをイルカから受け取った。
「…ありがとう。じゃ、頂きます」
「はい」
イルカはにこにこしている。
小さな匙で中身を掬い、カカシはふと思いついてそれをイルカの方に差し出した。
「はい、じゃ一口。…これと似たような味の店、見つけたら教えて下さい」
イルカは何も考えず、素直に口を開けた。
ぱく、とカカシの匙をイルカが口に入れた瞬間。
「失礼しまーす。ご飯お持ちしました―……」
さらり、と襖が開いて若い仲居が顔を出した。
そして飯の入ったおひつをその場に置いて、慌てて襖を閉める。
「……大変、失礼致しましたー…」
襖越しに仲居の声がか細く聞こえ、ついでバタバタ走り去る足音が遠く去って行った。

「………誤解、されましたかね……」
「………………」
何をどう誤解されたのか…鈍いイルカでも何となく察しはつく。
「やー、何か、変なトコばっか見られちゃってますねー…ははは……あれじゃ、何だか新婚さんの、『ハイ、アーン』みたいだったですもんねー」
「……まあ、知人に見られたわけじゃないですから……」
ボソボソと自分(とカカシ)を慰めているイルカをよそに、カカシは愉快そうに笑っている。
「うわはは、きっと今頃、厨房で大騒ぎしてますよ、あのコ。やー、目に浮かぶわ」
はあ、と肩を落とし、イルカは襖の前に置き去りにされたおひつを取りに行った。
「…ところで、味、わかりました?」
ぺろっと食べてしまった茶碗蒸しの器をカカシは持ち上げる。
イルカはハハハ、と弱々しく笑った。
「……残念ながら。全然覚えていません」
否、正確には味わうゆとりがなかったのだ。
「そっか、そりゃ残念。…さあさ、食べましょう。せっかくですから」
「…そーですね…」
イルカも開き直って、箸を手にした。
普段の貧しい食卓とは見た目も量も天と地程差のあるお膳が目の前にあるのだ。
まだ食べ盛りの青年は、食べるのに専念する事で憂いを吹き飛ばす気になったらしい。
その旺盛な食欲を、カカシは目を細めて見ていた。

 

 





 

カカシ先生が本当に茶碗蒸しがお好きなのかどうかはわかりませんが〜…茶碗蒸しが好きなのは、実は 青菜です。(^^;)

(これ書いた当時は、カカシが天ぷら苦手とかいう公式プロフィールはまだ発表されていなかったのですよね。^^; 年齢も)

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