縹色変化−1
イルカは自室の机の抽斗をそっと開けてみる。 緑色の髪飾りが、小さな箱に収まっていた。 二十代も半ばの男の仕事机の抽斗には似合わぬ女物の髪留め。 誰か想い人に贈る為に用意されたものならば然程不自然ではないが、それはイルカ自身に『贈られた』 ものである。 貰った後、気になったので同僚の女性教師にその髪留めを見せてみたところ、イルカの予想外に高価な 品物であった事が発覚。 以来、イルカはそれを見る度に複雑な心境になる。 綺麗な緑色だと思っていたら、何と翡翠の細工物だったのだ。 「…いったい幾ら払ったんだろ、カカシ先生…」 祭りの屋台でイカ焼きを買おうとしただけなのに、テキ屋の親父の言葉に乗って、カカシはイルカにそ の翡翠の髪留めを買ってくれた。 もちろんその時のイルカは女性に変化していたから、イルカ以外の人間にとっては『恋人に髪飾りを贈 る』というカカシの行為はまったくおかしなものではなかったのだが。 「イカ焼き一つくらいがおまけじゃ割りにあわない値段だったんじゃ…」 イルカはため息をついた。 「こんな高いもの貰えない…けど、今更要らないとも言えないし」 別に、イルカはこの髪留めを処分したいわけではない。 本当に綺麗な色の、いい細工物なのだ。 用途を考えると自分には無用の物だと言う事、予想以上に高価だった事がイルカにとって引っ掛かるだ けで。 第一、これはカカシに貰ったものだ。 妙な感情だったが、一度カカシの手で自分の髪に挿された髪飾りが、手放した後見知らぬ女の髪に挿さ れるかと思うと何となく嫌だった。 「バカじゃねーか? …俺…」 イルカは再びため息をつき、抽斗を閉めた。 ひいふう、とイルカは壁に掛けられた暦を指差して数える。 そして安堵に口角を緩めた。 「…っしゃあ! 何とか間に合うな!」 地道な努力は彼、うみのイルカの得意とするところである。 この十一ヶ月、彼は頑張った。 残業手当の出る仕事は自ら進んでやり、こなしてなんぼの任務も教職と受付業務の合間に引き受け。 普通節約する場合、一番にレベルを落とす対象である食事に関しては、カカシと食べる事が多い為にそ うそう落とすわけにもいかないので、イルカは他の事で頑張らざるを得ない。 食料品の割引セールをチェックして走る事にも慣れた。 もういい加減買い換えたいと思った下着も繕って無理矢理使用している。 そして、目標額まで後一歩のところまで貯金は貯まった。 それもこれも、カカシに浴衣を一揃い贈る為。 女物だったとはいえ、昨年はカカシに浴衣を贈られている。 今年は自分がカカシに贈るのだと、イルカは昨年から一年計画で積立貯金をしてきた。 浴衣と共に贈られた髪留めが高価な品だったのだと知ってからは、その目標金額は更に高くなった。 カカシには彼に似合う、いい布地の浴衣を仕立ててあげたい。 自分の物は適当な安物でも構わないから、カカシにはいい物を着せるのだ。 彼の銀色の髪には、どんな色が映えるだろう。 イルカはあれこれ想像しているうちに、女性に変化したカカシが浴衣を着ている図まで思い浮かべてし まって赤面した。 カカシは女性に変化するのに全くと言っていい程躊躇を見せない。それも自分の能力に対する自信の現 われなのだろうが、昨年の彼と同じ様に、イルカが女性物の浴衣を彼に贈っても素直に喜んで着そうだ。 ぷるぷる、とイルカは首を振る。 「ちゃんと男物の浴衣を着せよう…」 「…今日も残業? ここんとこ、多くありません?」 イルカの机の端に浅く腰を預け、カカシは微かに不機嫌さを滲ませる声を出した。 もう教員控え室に彼ら以外の人影は無い。 当然のことながら、カカシはイルカの残業にいい顔を見せなかったし、任務を受けて来るとあからさま に顔を顰めた。 カカシ自身が指導教官の仕事の傍ら、別の任務を受けて来るのだからイルカに向かって「やめろ」とま では言わなかったが。 「すいません。…あの、8時頃までには切り上げますから」 申し訳なさそうに頭を下げるイルカに、カカシは肩を竦める。 「いや、オレはアナタが心配なだけですよ。…もしかしてアンタ、オレに隠し事してません?」 「…………どうしてですか?」 一見普段通りの顔で見上げてくるイルカに、カカシは軽くため息をついた。 「…まあ、この話は後でしましょう。…やらなきゃならん仕事なら、さくさくと終わらせてとっとと帰 ってらっしゃい。寄り道しないで帰るんですよ。…晩飯はオレが用意しておくから」 「…すいません。…じゃあ、お願い致します」 カカシは時計をちらりと一瞥してから、黙って手を振ると教員控え室を後にした。 「………なーんか、引っ掛かるんだよねえ…あの人、お人好しだから、心配だよ。…妙な厄介事に巻き 込まれてなきゃいいんだけど…」 どうもイルカが、金が目的で自分から残業や任務を引き受けているフシがある、と気づいていたカカシ は、顔を曇らせた。 まさか、彼が自分に贈り物をしたいが為にせっせと貯金に励んでいるなどとは思いもしない。 「…同僚に拝み倒されて借金の保証人になっちゃったとか…ああ、ありえる…」 ここはひとつ、こっそり調べてみようとカカシは決心した。 金絡みのいざこざで、イルカがカカシを頼るわけがない。 「イルカったら、そーゆーとこはプライド高いモンなー…男の矜持っていうか…ああ、でもそーゆート コも好きだー」 えへ、と顔を緩ませた上忍は、食料の調達をする為に商店街に足を向けた。 圧倒的にイルカの家で夕食を摂る事が多くなった今、カカシは自分の家に置いておいても無駄だと、米 や缶詰などの食料をせっせとイルカの台所に運んでいる。 一方的にイルカの懐を食い荒らしているわけではないのだが、イルカが節約しているのなら改めて協力 しよう。 黙って米を買い足し、食材を冷蔵庫に詰め込んでおけばいいのだ。 「んでもって、今夜はカツ丼でも買って、イルカが帰ってきたら簡単なお吸い物でも作ってもらおっと。 …あ、美味い漬物も買お。…サラダくらいはオレが作るか。野菜も食べなきゃねー…ちゃんと精をつけ てもらわにゃ。…残業に目をつぶるんだから、夜のお相手くらいしっかりしてもらわなきゃねー…ハハ ハ…」 残業で疲れて帰るイルカが聞いたら顔を引き攣らせそうな事を呟いたカカシは、頭の中で楽しく『夜』 のシミュレーションを始めたのだった。 カカシが夕食の買物しつつ、楽しく妄想に耽っていた頃。 残業中のイルカは同僚の訪問を受けていた。 「おー、やっぱいたな、イルカ。あのさ、お前もカンパに協力してくれないか?」 「……突然なんなんだ? わ、悪いけど俺あんまり余分な金は無いんだが。…一体何のカンパだよ?」 イルカは思いっきり不審げな顔をした。 以前も『カンパ』と言われて素直に金を出したら、何と宴会のカンパだった事があるのだ。おまけにイ ルカ自身はその宴会に仕事で参加出来なかった。 「実は、里の憩いの場『木の葉湯』の存亡がかかっている!」 「…はあ?」 『木の葉湯』とは、里の中にある古い銭湯だ。 イルカも何度も利用した事がある。 「あそこが何? まさか、潰れそうなのか?」 うむ、と同僚は頷いた。 「経営不振というわけじゃなさそうなんだが、何せあそこは古い。色々とガタが来ているらしいんだな。 …この間からボイラーの調子も悪いらしくてな。でも買い替えとか、修理とかする金は無いらしいんだ。 あそこのオヤジ、もーここんとこめっきり老けこんじゃったんだぜ? どうもうまく金策出来なかった んだとさ。このままじゃ廃業しかねえって」 「あー…押しが弱いモンなー…あそこのオヤジ。ツケで入ってた奴らも結構いたんじゃないか?」 「う…うん、まあな。…でも里の馴染みの銭湯が無くなるのは寂しいし、不便だろ? だから皆で少し ずつでも出し合ってさ、オヤジ助けてやろうってハナシになったわけ」 コイツもツケで入ってやがったな、とイルカは思ったが、苦笑して頷いた。 「そーゆー事か。…うん、俺もでっかい風呂に入るのは好きだから…銭湯無くなるのは寂しいなあ。わ かった、協力するよ」 同僚はぱんぱん、とイルカの肩を叩く。 「お前ならそう言ってくれると思っていたぜ! ちなみに、一口千両(※一万円相当)な。お前、独身な んだから五口は入れてくれよ?」 イルカは「え」と口を歪ませた。 「せ、千両? それ以下ってナシ?」 「ナシ。男に二言はねーだろ? 協力するって言ったよな?」 「うへ…カンベンしてくれよ〜…せめて、一口にしてくれえ」 「女房子供年寄り食わせているわけでもねえのに、ケチくせー事言うなよ。五口!」 うう、とイルカは唸る。 ニョーボコドモ合わせた様なでかい口を持っている恋人ならいるのだが。 「ニョーボコドモいなくて悪かったなあ…二口!」 「ショボイ奴だな、じゃあ三口! 三千両! 情けは人の為ならずって言うだろうが! きっとお前に イイ報いがある! な?」 「…そういうお前は幾ら出したんだよ〜…」 「……俺か? 俺はほら、去年ヨメさん貰ったからさ〜…色々と物入りで。…まあ、二口だ…」 イルカに上目遣いで睨まれて、男はハハハ、と頭を掻いた。 「その代わり、こうしてカンパのお願いに走り回ってんだよ。労働提供だな、うん。…なあ、銭湯のオ ヤジが悲観して首でも吊ったら寝覚め悪かろ? 人助け人助け」 イルカははああ、とため息をついた。 「わーったよお…三千両出せばいいんだろー?」 「さすがだ、イルカ先生!」 「……今の話、一つでも嘘があったらてめえただじゃおかないからな…マジ、俺は今切り詰め生活して んだからな…」 財布から千両紙幣を三枚取り出しながら唸るイルカに、同僚の男はにこやかに頷いた。 「お前から金を騙し取る度胸なんかねえよ。…お前、怒ると結構おっかねーもん。…じゃあ、確かに。 ああ、カンパに協力したお礼に、一回くらいは無料で入浴させてくれるかもな」 「…そりゃ嬉しいね……」 イルカは手が止まっていた作業に戻り、もうひとつため息をついた。 「たっかい銭湯代だなあ…一回三千両かよ…」 何だって毎度きちんと料金を払って入浴していた自分が、ツケで入っていた奴らの罪悪感の為に三千両 も出さねばならないのだろう。 だが、銭湯の主人の気の弱そうな笑顔を思い出すと、やはり気の毒だと思ってしまう。何だかんだ言っ ても、やはりお人好しなイルカだった。
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