揚羽蝶変化―2

 

「うはあ、紫陽花の時より混んでないですかね。…イルカ、ちゃんとつかまってないと流
されちゃいますよ。…いや、この方がいいか」
カカシはつい、とイルカの肩を抱き寄せて自分の胸に抱え込む。
そしてぶつかりそうになる人の波から、腕でイルカを庇った。
「……ホントに女の子になった気分です…」
こんな風に庇われて歩いた事など、今までのイルカの人生ではついぞ無かった。
子供の頃だって、祭りの人波に流されるイルカを父は笑って見送ってくれた。
『男なら自力で戻って来い』
母は心配そうな顔でおろおろとしていたが、父はしっかり妻の肩を抱いて、母親が必要以
上にイルカに手を貸す事を許さなかった。
そして、もみくちゃにされてボロボロになって戻ってきた息子の頭を、『よしよし』と大き
な手で軽く撫でる。
思い返せば、いつもそんな具合だった。
そして、『あの日』以来、もみくちゃになってボロボロのイルカの頭を優しく叩く手だけが
失われた。
だけど、何もかも失ったわけではない。
こうして、折に触れ甦る甘酸っぱい記憶がある。
イルカを大事に思ってくれる手が今ここにある。
自分は幸せ者だとイルカは思った。
「あは、そーでしょ。変な感じでしょう。…オレもこの間そう思ったんですよ。イルカ先
生、自然にオレの事庇ってくれたから、自分じゃあまり覚えていないんでしょうね。アナ
タだって、人の流れからオレをずっと守ってくれてたんですよ。もー、嬉しいやらこそば
ゆいやら……」
はた、とイルカは気づいた。
カカシだって、『庇われる』事など今までなかったはずだ。
自分以上に落ち着かない気分になったのかもしれない。
自然に笑いが零れる。
「……ええ、変な感じです。…でも、悪い気分じゃないですね」
カカシも笑う。
「でしょ? たまにはこんなのもいい感じ。…あ、かき氷だ。食べます?」
「あ…はい」
「どれにする? イチゴとか?」
「…じゃあ私、小豆のがいいです」
「あずきですかあ? 今の感じだと、イチゴシロップの方が似合いそうなのになあ……」
「似合う似合わないで食べるもの決めるんですかあ?」
「…アンタこの間、似合わんからその格好でビール飲むなって言ったでしょーが」
「う……今の私が小豆食べるのはおかしくないはずです!」
単にカカシとしては、赤い氷を今のイルカが口に運ぶ光景は可愛かろうな、と思っただけ
だったのでそれ以上の反論は止めた。
「…へいへい、了解。…おばちゃん、抹茶に小豆のひとつ。…あとね、レモン」
男が折れた様子がおかしかったのか、かき氷を作るおばさんの肩は小刻みに震えていた。
「はい、小豆出来たよ。…お兄ちゃん、自分の好みを女の子に押し付けちゃダメよお。よ
くいるのよね。『女の子はこうあるべき』って理想を彼女に押し付けちゃうヒト。可愛い女
の子だから可愛いもの食べなきゃ、なんてナンセンスよお。…はい、レモン」
カカシは代金を払いながら頷いた。
「うん、気をつけるよ、おばちゃん。…でもさあ、可愛いものって、可愛い娘にこそ似合
うじゃないさ。似合う姿が見たいって思うのは男のエゴ?」
「そーねえ…わからなくもないわねえ……でもまあ、程々にしないと嫌われるわよ。…彼
女の方も、少しは彼氏の希望を聞いてあげる事ね」
『聞いてます! チャクラ使って女装までしてます俺は!』とも言えず、イルカは曖昧に
微笑んで誤魔化した。
ついでに言えば、どっちかと言うと普段はイルカの方が『彼氏』的立場である。
(…それもベッドの上だけだけど……ああ、いつもおさんどんしてんの俺だし……嫌じゃ
ないからいいけど……つうか、男同士で彼氏も彼女もねえよ…)
可愛い女の子の思考とは程遠い事を頭の中で呟いて、イルカは小豆と氷を口に運んだ。
氷片手に、カカシはイルカの肩を抱いて参道から抜け出す。
参道からそれた脇の植え込みは、休憩所にもなっているようだった。
「あそこ。ほら、座れますよ。石のベンチがある」
カカシはポケットからハンカチを出して、イルカの座る所にひいた。
「……すいません。今日は本当にきちんとエスコートして下さるんですね。それしても、
貴方も結構手馴れているじゃないですか?」
カカシは含み笑いをした。
「ふふん。…だーって、オレはイチャパラで勉強してるもーん」
「…さいですか……」
何も自分相手に実践しなくても…と思いつつ、イルカは少し離れた参道を行き交う人々を
眺めるとはなしに眺めていた。
「……みんな、楽しそうだ……平和ですね。…」
「忍者やめたくなっちゃう?」
イルカは微笑んだ。
「…いいえ。今の俺に、忍び以外の選択肢などないんです。…貴方は、別の生き方なんて
知らないでしょう? 俺もです。…里の中で普通に見えたって、俺は…この目の前を歩く
大部分の人達とは違う常識の中で生きているんですよ。…仕事だと割り切れば、殺人さえ
躊躇いません。……そんな感覚、普通の人は持ってないでしょ。…各国に隠れ里があるお
かげで、一般の人は戦にかり出される事も無いわけだし……」
「忍び同士の争いでおさまらなくなった戦は悲惨ですよお。…木ノ葉じゃないけど、他の
国で例を見てます。…刃物なんて、包丁か鋤しか持った事の無い人同士が殺しあう。女も
子供もお構いなし。…狂気です。……ねえ、イルカ先生。そうなった時は、戦いの専門家
であるオレ達より、ここでのんびり笑っている人達の方が恐いんですよ。……精神のスイ
ッチが狂っちゃうから、歯止めが効かない」
イルカは想像してみて、顔を顰めた。
「なるほど……ではやはり今の所、隠れ里は必要ですね。…バランスの為にも」
「ええ。何が『普通の感覚』なのかなんて、不変じゃないんですよね。時と場合によって
変わっちゃう。……ま、平和が好きでそれが一番だと思っている人間の方が多いから、世
間一般的にはこの光景が『普通』なだけ」
カカシは目の前の参道を手で示した。
「…でも、乱世でしか生きられない人種がいるのも確かです。…そういうヤツは、こうい
う光景に反吐がでるんでしょーね。…あ、オレはね、こういう平和も結構好きですよ。こ
ーやってイルカ先生と一緒にイカ食ったり氷食ったりして遊べるのは、ここが平和だから
ですからね」
イルカは黙って、半分食べた小豆の氷をカカシに差し出した。
カカシも半分食べたレモンの方をイルカに渡して、交換する。
ついでに、ちゅっとイルカの唇にキスして。
「んー…小豆と抹茶とレモン……ヘンな取り合わせ〜…」
眉を顰めるイルカに、カカシは微笑う。
「ついでだから、交換したの食べる前にもっと口ん中混ぜちゃおう」
氷を食べて、冷たくなった舌同士が絡む。
「ん…ん…」
女の姿で男のカカシとキスするのは初めてのイルカは、妙に脈拍が乱れるのを感じて唇を
逸らした。
「…初めてキスした時も、舌冷たかったですよね…氷、口移しして…」
「…うん。……美味しかったよ」
カカシは真面目な顔で、イルカを覗き込んだ。
「…ねえ、オレ…何かアナタに押し付けてます? 無理強い…してます?」
イルカは驚いて見上げた。
「なに言ってるんですか…? どうして…」
「だってオレ、アナタに嫌われたくない………イルカは優しいから…オレのワガママに付
き合ってくれるけど…最初の時から、そうでしょう。…オレは、自分の気持ちをアナタに
押し付けた……」
イルカは微笑んだ。
「何だ、さっきのおばさんの言った事、気にしているんですか? あれは一般論でしょ。
…大丈夫。貴方、知っているじゃないですか。俺は、結構頑固者ですから。嫌な事は嫌だ
と言います。……俺の方こそ、貴方に甘えていますね……」
カカシはキョトンとした。
「イルカ先生、オレに甘えてくれてるの? え? え? いつ?」
イルカは苦笑した。
「いっつも、ですよ」
イルカは溶けかけたレモン味の氷を口に入れた。
「…………いつも、です……」
カカシは半分納得出来ていない顔で「ふうん?」と唸った。
イルカは詳しくは告げず、笑った顔のまま氷を食べる。
きっと、イルカの気持ちをそのまま告げたら、カカシは不機嫌になるか、また最初の口論
が復活するかどちらかだろう。
カカシは、上忍とか写輪眼とかいう事に拘らない関係をイルカに求めている。
対して、イルカの方には常に自分と彼の階級差とか、そういう一般的な通念が頭の隅に存
在し、消えることは無い。
だから、イルカは『ここまで』と自分で決めた境界線に従ってカカシと付き合ってきたつ
もりだった。
それでもイルカの態度の大半は傍から見ればだいぶ不遜なものなのだと、同僚の言によっ
て思い知らされた。
「なーんか、納得いかないなー…もしかして、オレの考えている『甘え』と、イルカ先生
の『甘え』って、違うんじゃ?」
イルカは袖のアゲハ蝶を舞わせて腕を上げ、カカシの頭を撫でた。
「たぶん、正解です。カカシせんせ」
「うー…もっとわかりやすい形で甘えてくれませんかね。…オレ、イルカに信用してもら
ってないんでしょうか。オレの愛を疑っちゃ嫌ですよ」
「いや、カカシ先生を疑っちゃいません。…俺は…貴方の気持ちを試す気はないです。…
…こうして、横にいてくれるだけで嬉しい。だから……」
言いよどんで、イルカは口を閉ざした。
気持ちを言葉にするのは難しい。
言った側から、言葉が変質してしまうような気がする。
自分の気持ちがちゃんと言葉になっているのかもあやしくなって。
「…だから……ええと……」
始まりなんか、どうでもいいのだ。
今が大事。
今の自分は、カカシといる事に幸せを感じている。
カカシの存在を、言動の全てを『許せる』。
それがイルカの気持ちだった。
でも、それらを全て口にするのはどこか傲慢だと思うので、黙ってしまう。
カカシはフッと笑みを漏らした。
「オレは、アナタに甘えて、甘やかしてもらうの、好きですよ。…でも、やり過ぎて嫌わ
れたくないから。……嫌な事は本当にそう言って下さいね? そんで、アナタももっと甘
えて下さい。…ね?」
男同士なのだから、もっとクールな付き合いでもいいとイルカは思うのだが、カカシが『甘
い交際』を望むのならそれに付き合おう。
もう、イルカは腹を括っていた。
「…了解です。……先生、小豆が泳いでますよ?」
「おわっ……ち、もーいい。飲んじゃえ」
溶けた氷水をあおって、カカシは息をついた。
「……感謝していますよ…オレに、こんな時間をくれたアナタに…」
「嫌ですよ。お礼なんて言わないで下さい…何だか、もう終わりみたいじゃないですか」
カカシは慌てたようにバタバタと手を振った。
「や、そういう意味じゃ……あ、何笑ってんの、イルカ先生」
「だって…カカシ先生ったら……」
カカシはぷくっとふくれた。
「もー。オレ、大マジなのに〜〜…」
「わかってますって」
「……もっかい、キスしていい?」
「うー…軽いのなら。さっきみたいのは何か、変な気分になっちゃうから…」
「あは、それはオレも」
イルカは顔を仰向け、カカシの柔らかいキスを味わった。
……と。
「あーっ! ホラホラ、やっぱ彼女じゃーんっ!」
いきなり黄色い声。
「…あ?」
頓狂な声の方角にカカシが顔を向けると、先刻すれ違った二人組みの女の子が灯篭の向こ
うできゃあきゃあ騒いでいた。
「うわー、いいなあ、あたしもこんなシチュエーションで彼氏とキスしたーいっっ…」
「……オネーサン達……デバガメってんじゃないよ…女の子がはしたない…」
忍びの気配ならすぐ悟れただろうが、こう雑多な人の気配の中、普通の女の子二人の気配
は薄すぎてかき消されてしまう。
流石のカカシも、げんなりと肩を落とした。

 



 

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