揚羽蝶変化―1
「はい、報告書」 「はい。…任務、ご苦労様でした」 カカシが差し出した報告書を、型通りの受け答えでカウンター越しにイルカが受け取る。 「カカシ先生、報告書書くの慣れてきましたねえ。ミスが少なくなって。…今回のは完璧 ですよ」 書類を確認し、にこにことイルカはファイルに綴じる。 「あん? そんなにミスってましたかね、オレ」 「下忍チームを率いての任務と、貴方が今まで多くこなしてきた任務じゃ報告書の形式が 違いますからね。書く欄がたくさんあって最初は戸惑ったんじゃないですか?」 カカシはこりこり、と頭をかいた。 「ん〜〜…ええ、まあ…」 そこでにこりと微笑む。 「そーだ。じゃあ完璧な報告書のご褒美下さい♪」 「頭撫でて欲しいんですか?」 イルカの1メートル後ろで作業をしていた中忍の男が凍りつく。 上忍に向かって何て事を言うのだろうと、恐る恐る振り返った。 と、当のカカシは上機嫌で笑っている。 「えー? それだけですかー? ショボイなあ、イルカ先生」 「じゃあラーメンでも奢って欲しいとか」 「……ナルトですかい、オレは……」 イルカはクスクス笑った。 「冗談ですよ。何がいいんです?」 「あのねえ…」 カカシはイルカの方に屈み、耳元で囁く。 気になった男は耳を欹てて聞き取ろうとしたが、内容はわからなかった。 だが、イルカが微笑んだのは気配でわかる。 「……いいですよ。…って言うか、前約束したじゃないですか」 「まーね。でも、オレの計画につきあって欲しいんですよね」 「……また面妖な事を計画してるんじゃないでしょうね…」 「あ、ひどい。またって何? またって」 会話の端切れを聞いていた男も興味は引かれたが、何となくそれ以上は聞いてはいけない 気がして自分の作業に注意を戻した。 イルカがプライベートでカカシ上忍とつきあっているのは皆それとなく気づいている。 それにしても上忍に対して随分と遠慮のない物言いをするものだと、男は妙に感心した。 忍びとしての階級を越えて友人付き合いしているらしい二人に、ほのかな羨望を覚える。 「俺の許容範囲の事ならつきあいましょう。…では、また後で」 カカシはそのイルカの答えに満足したらしく、「じゃあ」と手を振って出て行った。 男は苦笑を漏らした。 「……何だか、面白い関係だなあ、あんた達」 イルカは振り返り、やはり同じ様に苦笑を浮かべる。 「…そー見えます?」 「見える。…あっちは上忍で…たぶんあんたより年上だろう? なのに、何となく主導権 はあんたにあるみたいに見えてさ」 イルカは少し眼を見開いた。 「…そっか…俺、カカシ先生に甘えちゃってるなあ……ありがとう。気をつけるようにし ます」 大真面目に応えたイルカに、男の方が面食らった。 「いや…深い意味はないから……うまい事付き合っているんなら気にしなくても…」 イルカはもう聞いてはいなかった。 顎に手を当て、ブツブツ呟いている。 「……うん、そうだよ…いい気になっちゃいけないよな…気をつけなくちゃ……」 「イールカせんせーい! あーそびーましょー」 宿舎の薄い扉を律儀にノックする音が聞え、次いで返事を待たずに扉が開け放たれて、嫌 というほど聞き慣れた男の声がする。 何だかあまりノックに意味は無いな、と思いつつイルカは襖越しに返事をした。 「上がって下さい。今、仕度しますから」 「はい。あ、そーそー。着替えるんなら、これに着替えて下さいね。ほら、可愛いでしょ、 これ」 「え……?」 イルカは振り返って、カカシの手で広げられているものを見た。 紺地に、色鮮やかなアゲハ蝶が舞っている。 「……浴衣…?」 しかも、女物。 「貴方…これを俺に着ろって…?」 うふ、とカカシは笑いを漏らす。 「ええ。だって、夏祭りですよ。浴衣の方が可愛いじゃないですか」 確かに今日は先日行った『紫陽花祭り』を開催していた神社の夏祭りで、一緒に行こうと 約束していた。 「今度はイルカが変化する番ですよ。この間はオレが女だったから、散々イルカにたかっ ちゃったでしょ? 今日はね、オレがアナタをエスコートして、イカ焼きを奢るんです。 アナタ、財布持たなくていいですよ」 紫陽花祭りの時は人込みではぐれまいとして、カカシが女性に変化してイルカにくっつい て歩いた。 そして、エスコートしていたイルカは結果的に祭りでの飲み食いを全て負担したのだが… 「まさか…それが『計画』……?」 イルカの問いに、カカシはこっくりと頷く。 「付き合って下さいね♪」 にこにこしているカカシに、イルカは返す言葉を失った。 彼は別に嫌がらせをしているわけでも、面白がってからかっているわけでもない。 単に、この間の『お返し』をしたいだけなのだ。 仕方なくイルカは彼の『計画』に付き合う事にした。 「……わかりました…ちょっと待ってて下さい……」 「わーい♪ あ、変化はこの間の、お母さんのお若い頃をイメージしたヤツでいいですよ。 あれ可愛かったから」 「……はいはい…」 せっかくカカシが上機嫌なのだ。 たまには文句を言わずに付き合うべきだろう―――イルカの脳裏には、昼間の同僚との会 話が残っていた。 普通、カカシとイルカの立場を考えれば、イルカには文句を言う権利も逆らう権利も無い のだ。 でも、いつもカカシはイルカの意向を聞いてくれる。 「イルカせんせ、素直〜…何かありました?」 イルカは微笑んで浴衣を受け取る。 「別に何にもないですよ? …じゃあ、これお借りします」 カカシが持ってきたのは浴衣だけだったので(いかにも世慣れない男のやりそうなポカで ある)イルカは母親の遺品から使えそうな帯を探し、変化してから着付けた。 「…はい、お待たせしました」 からりと襖を開けて出て来たイルカに、カカシは喜んだ。 「あ、やっぱ似合う。いい感じですよぉ、イルカ先生」 「……でも、帰ってくるまで変化解けませんね、俺…」 カカシは悪戯っぽく笑った。 「イルカちゃん、女の子が『俺』はおかしいですよ?」 紫陽花祭りの時のイルカのセリフをそのまんま引用するカカシ。 負けずにイルカは引用し返した。 「んじゃあ、アタシ?」 二人は同時に噴き出した。 「…好きにして、イルカちゃん……」 木の葉の隠れ里からは少々距離のあるその街では、顔見知りに会う可能性は低い。 だからこそ、イルカもカカシの『計画』に付き合う気になったのだが。 「カカシ先生は着ないんですか? 浴衣」 「持ってないし、浴衣にグラサンは変っぽくない?」 カカシはごく普通の綿パンツに黒っぽいシャツ。 例によってサングラスで目元を覆い、前髪で顔の左側をカバーしている。 「う〜ん、変かなあ…」 イルカは今ひとつ自分の服装センスに自信が無い。 カカシが変というならそうなのかもしれない、と思う。 「それよりホラ、腕」 変化したイルカの外見はほんの十六、七の少女だ。 背の高いカカシの、肩までしか身長が無い。 はい、とカカシに腕を差し出され、イルカは遠慮がちにそこに手を掛けた。 何となく気恥ずかしいが、カカシの腕につかまってしまった方が歩き易い事は確かだ。 カカシが年齢不明の外見の為、カップルとしておかしくは見えない。 「さ〜てさて、いるかなあ? あのイカ焼きオヤジ…」 「カ、カカシ先生……」 カカシの歩く速度に、イルカは半ば泳ぐように引きずられてついて行く。 「も、ちょっと速度落として……浴衣の裾が…」 カカシははた、と足を止める。 「あ、すいません…そっかー、女の子速度ってヤツか」 「………忍びの女の子にはそういう気遣い普通要りませんけどね。…すいませんが、今は ちょっと…裾がからんじゃって…」 イルカは申し訳なさそうに小さな声で言って、俯いた。 「いえいえ。気遣いが足らなくてごめんねー。じゃ、ゆっくり行きましょうね」 「すいません」 時々、すれ違う女の子達が上気した顔でカカシを振り返る。 目元を隠し、前髪で顔を覆っていても、鼻筋や口元の感じは彼の造作の端正さをうかがわ せる。 そして彼女達は、彼の腕に縋りついているイルカを羨ましそうに見るのだ。 「あ〜ん、今の人、カッコイイ〜」 「うー、やっぱ彼女つきかー…あ、妹かな」 「全然似てないじゃん。彼女だよ。第一、あのトシで妹連れて縁日来る? フツー」 「あん、人のキボーをぶち壊してぇ。…でも彼女可愛かったね。あれくらい可愛くなきゃ ダメか〜…」 会話を全部聞き取ってしまったイルカは顔を赤く染めていた。 カカシは屈んで、イルカの耳元に囁いた。 「お似合いだってさ。オレ達」 「そんな事言ってなかったでしょうが」 「オレがカッコよくて、イルカちゃんが可愛いんだから、お似合いって意味ですよ」 「変化している俺には何の意味もないのでは…」 男同士で『お似合い』とか他人に言われたらかえって引くが、イルカは一応そう反論して みる。 「いいえ。表面だけ変化したって、中身に魅力が無ければ可愛くは見えないはずですよ。 …特に、同性に可愛いと言わせるなんて大したもんです」 イルカは顔を伏せてカカシの腕に絡めた手をきゅ、と握り込んだ。 何だか嬉しいような恥ずかしいような複雑な心地で顔を上げられない。 「あっ! いたいた。…ホラ、イルカ先生。イカ焼きオヤジ。…また半分こします?」 イルカは黙ってこっくりと頷いた。 カカシのように女性の演技をするのは気恥ずかしい。 従って、人前ではイルカは極端に無口になる。 「おやっさーん。イカ焼きいっこ下さいな〜」 「あいよっ! 男前のあんちゃん、デートかい。羨ましいねえ」 「へへへえ、まあね。祭りだから、絶対一緒に来たかったんだ。ね?」 笑いかけるカカシに、イルカはますます俯いてしまう。 「おやおや。恥ずかしがりな彼女だね。お嬢ちゃん、顔を上げて笑ってな。可愛いのにも ったいない。……お、そうだ。なあ、兄ちゃん、彼女に贈り物をする気はないかい?」 「ん? どういう事?」 「待ってな」 親父は後ろを向いて、ごそごそと道具箱から箱を引っ張り出してきた。 「俺の前の商売物なんだけどよ。武器とかの他に小間物も売ってたんだよ。ホラ、見てみ な。…彼女に似合いそうな髪留めもある。彼女、その結ってる髪を上げた方が別嬪度UP だって。な?」 イルカは髪を無雑作に項で一纏めにしているだけだった。 本物の女性なら、彼氏とのデートにもう少し気を遣った髪形をするだろうが、そこはそれ、 男のイルカはそこまで外見に気を配らない。 「あ、そーだね。ね、ホラ。どれがいい? 好きなの選んで」 カカシは乗り気になって、イルカに箱の中を示す。 イルカはぷるぷる、と首を横に振った。 「んー、相変わらず遠慮深いね。じゃあ、オレが選ぶよ?」 「あの、でも……」 イルカはやっと声を出す。 「よし、これ。この緑の。上品でいいな、これ。はい、後ろ向いて」 カカシはイルカの髪を纏め直し、くるりと巻いて髪留めでアップにした。意外と器用な手 つきである。 「ん、似合う」 「おー、あんちゃん、やるねえ。ホラな、やっぱ浴衣はすっきり項が見えている方が色っ ぽいだろーが。お嬢ちゃん、似合うよ」 イルカはおずおず顔を上げてカカシを見た。 「…すいません…ありがとうございます…」 か細い声で礼を言うイルカに、イカ焼きの親父は相好を崩す。 「くううっっ…今時珍しい控えめなお嬢ちゃんじゃねーか。おじさん、感動しちゃうよ。 あんちゃん、髪留め買ってくれたおまけに、イカ焼きはおじさんがご馳走してやるぜ」 「おや、いいの?」 「いいって。俺がこの嬢ちゃんに一番似合うだろうと思ってた髪留めを選んでくれたのも 嬉しいしな。…で、髪留めはこれでどうだい」 親父は算盤をそっとカカシに示す。 「…ふうん、オレこういうものの値段知らないけど…ま、いいか」 カカシは親父の言い値で髪留めを買った。 「ありがとよー。また来てくれよー」 カカシは愛想よく、パタパタと手を振りながらその場を離れた。 「…………あの、カカシせんせ…もしかして髪留め…高かったんじゃ……」 カカシは首を傾げた。 「いや、オレ本当にこういう物の相場を知りませんから、高いのか安いのかは……でも、 ちゃっかりイカ代も上乗せしてあるかもしれませんねえ…商売上手なんだか、下手なんだ か…」 「それにしても、髪留めとは……」 イルカの言葉の意味を汲んで、カカシは笑った。 「お風呂入る時にでも使って下さい」 「………はあ…」 一瞬、サクラにでもあげようかと考えたイルカだったが、カカシは『イルカに』買ってく れたのだ。 女物の飾りでも、これはカカシの気持ちだから、カカシの好意なのだから、大事に受け取 るべきだ――― 「ありがとうございます。…大事にしますよ」 カカシは嬉しそうに笑って、イカ焼きを差し出した。 「先にかじっていいよ。…好きなだけ」
|
◆
◆
◆