数多の憂いも何処へやら
by 月士遥日さま
「あっ。」 熱心に筆を走らせているイルカを暫し眺めていたカカシがその場を離れると、ふいにイルカが短く声を上げた。 「どうしました?イルカ先生」 「血が…」 「ああっ…、スミマセンっ…!」 イルカの目線の先を見てカカシは慌てて謝った。先に自分が何気なく手を付いていた書類の上に、自分の血の拇印が薄っすらと残されていたのだ。 「ごめんなさい、書き直しですね。オレやります」 「あ、いえ、書類は別にいいんですけどね。…アナタの手を…」 見せてください、と、イルカが利き手を差し伸べた。 血の滲んだそれを見せることにカカシは少々躊躇ったが、書類を汚してしまったカカシが今イルカに逆らえるはずもない。カカシは黙って右手を差し出した。 「傷、ですね。…アナタの」 カカシの手を握って指先をまじまじと見詰め、椅子に掛けたイルカが視線を上げて訊いてくる。 「ええ…、まあ…、傷というか……」 「分かっています。血印を使ったんでしょう?」 「はい。スイマセン…。オレ、そのことすっかり忘れてて…。」 普段よりも幾分かきつく感じられるイルカの口調に、カカシは空いた左手を所在無く彷徨わせて項垂れた。おそらくカカシは遠回しに書類のことを責められているとでも思ったのだろう。だが、もちろんイルカにはそんなつもりなど毛頭無い。 カカシは、握られた手を緊張した面持ちで眺めている。 その手には今は手甲が嵌められていない。少し前に任務から戻ったカカシはまるで当然のようにイルカの部屋に帰ってきて居間で装備を解き、その時に手甲も一緒に外したのだ。 そしてカカシは、書類に囲まれて隣室に篭もっていたイルカに「ただいま」を告げにきた。 もちろんイルカは、無事に任務を終えて戻ったカカシに安堵し、「おかえり」を返した。 数週間振りに里に帰還した恋人をゆるりと持て成したい気持ちはやまやまだったが、イルカは強く自制して書類に手を戻した。 カカシが就く任務はほぼ例外なく危険なものばかりであったが、イルカが受け持つ仕事もまた、常に時間に追われる大変な仕事であったのだ。 カカシの拇印が書類に付いてしまったのは、そのすぐ後のことだった。 カカシの親指の腹の傷からは薄い紅色の血小板がじくじくと滲み出している。 指先というのは神経が特に過敏にできている。 それなのに、カカシはこの傷の存在をすっかり忘れてしまっていたと言う。 それほどまでにカカシは『痛み』という感覚に慣れているのだろう。 痛みであるとか苦痛であるとか、それがもし避けられないものであるならば感覚など感じないほうが利口で幸せなのだろうと思う。 けれども、痛みに鈍感でいられるほどに極められた忍としての彼を思うとイルカの胸はやはり軋んだ。 「…とりあえず、消毒しましょうね。」 しっかりと握っていた手を心持ち緩めたイルカに、ようやくカカシはホッとしたように緊張を解いた。そして、いつもであるなら『こんな傷くらい平気です』などと決まり文句のように言うカカシは、ただ大人しく「ハイ」と答えた。 その叱られた飼い犬のような風情が何とも可愛らしくて、イルカは思わず吹き出してしまった。 「イルカ先生〜…ひどいなぁ…。なに笑ってるんですか…もう…。」 拗ねた口調のカカシが甘えたようにイルカを睨む。 大人の、ましてや男が取る態度としては不似合いとしか云いようのないそれも、カカシがやると何故か違和感なく…むしろ可愛らしく感じられるから不思議だ。 イルカはカカシの手を自分の口元に引き寄せた。 「…ンッ、イルカせんせ…」 その指先に誓いのように口付けて傷に舌を這わせ、余分に滲み出た血液をそっと舐め取る。 「…んん…、…それじゃ消毒になんないでしょ、イルカ先生。アカデミーで子供たちに教えませんでした?」 意趣返しとばかりにクスクス笑うカカシの頬に軽く朱が差している。 「もちろん。教えましたよ? …『何事も臨機応変に対処しなさい』ってね。…『既存の物事に囚われずに柔軟な姿勢で全てを見るように』と。…『けれども、先人のこころを尊ぶように』と。そう子供たちには教えています。」 そのまた意趣返しにイルカは笑い、静かに椅子から立ち上がってカカシと同じ目線に立った。 イルカの手の中にあるカカシの指がさっと強張る。 「…? 緊張していますか? カカシ先生」 「はい…、あの、緊張というか、アナタと居ると…ドキドキするんです…」 ドキドキするというよりも、胸がざわつく。…そう表現したほうが適切なのかもしれない。 決して不吉な意味ではなしに。 ―――臨機応変に―――。 カカシの師も生前によくそう言っていたものだった。 …だからといって古きを捨て、新しきを求めろと言っているわけじゃない。 師はそうも言っていた。 カカシの手を握るイルカの手は暖かく、瞳は常に真っ直ぐで。 だからイルカの一番近くにいたナルトもまた機知に富んでいるのだろう。ナルトの正体が何であれ、ナルトを今まで育んできたのはナルトを導いた誰かの手でしかないのだから。 カカシと同じ高さに立ったイルカの鼻腔に、僅かに煙と埃の臭いが届く。 …勿論、血の臭いも。 いつも手甲に覆われているカカシの手の甲は白く、初めてカカシの素手を見た時、まるで禁忌を垣間見たかのように鮮烈だったことをイルカは今でもはっきりと覚えている。 その白い甲の真ん中には今は引き攣れた傷跡が残されている。 「………、イルカ先生…」 イルカはその傷跡に口付けを落とし、指先までを唇で辿った。 カカシの親指の傷には新たな血が滲み出していた。 「…血印って、オレもアカデミーで毎年子供たちに教えるんですよ。」 「…ええ。」 忍が血印を使う機会は少なくない。特殊な術を使う際や自分が本人であることを証明する時などに、自ら指の腹を刃物で切るか又は噛み切って血液を流し、その血液を使用するのが一般的だ。 「まず手本を見せてから、実際に子供たち自身の親指の腹を噛み切らせるんですけど…。最初は皆痛がってね。やっぱりなかなか上手くいかないわけですよ。…でも、だんだんその痛みに慣れてしまうんですね、いつの間にか。そして…どんどん痛みに対して鈍感になっていく。」 それが悪いと思っているわけじゃないんです、と、イルカは繋いだ。 「…でも、オレ時々思うんですよ。…ほら、献血ってあるでしょう? あれと同じように、あらかじめ自分の血液を注射器で抜いたものを容器に小分けにして常備していれば…。そうすれば、いちいち指の腹を自ら噛み破らなくっても済むようになるんじゃないか、…って…。」 「………ええ。そうですね…。」 本当は。 血液は鮮度を保つのが難しいからそれは不可能だ。 …いや、可能は可能なのだが、金銭と手間が掛かりすぎてしまう。イルカにそれが分からぬはずはなく、彼は全てを承知の上で言っているのだろう。 痛みに躊躇っていては忍は務まらず、そして皆自らの身体に傷を負うことに無頓着になっていく。 それと同時に、誰かの身体に傷を付けることにも躊躇しなくなっていく。 イルカが感じている懸念は勿論カカシにも理解できた。 「あ…、スイマセン、なんか語っちゃって。あの、カカシ先生も…その、初めての時は痛かったですか?」 「あははっ、なんかその質問ってちょっとエッチっぽくないです?」 沈んだ空気を散らすように話題を変えたイルカの意図を汲み、カカシも軽い調子で返す。 「…っ、いえッ、あの、オレは血印のっ、」 「ハハッ。分かってますって〜。」 真っ赤になって予想通りの反応を返すイルカにカカシの心も軽くなる。 「ええ、オレもね、痛かったですよ、すごく。…最初は加減が分かんなくてね。無茶苦茶出血しちゃったりしまして…。イルカ先生はどうでした?」 「オレは…。オレも…最初は痛かったです。…すごく痛かった。…血印の試験があったんですよ。軽く指先に傷を付けて簡単な印を結んだ後に所定の位置に拇印を押すっていう、ただそれだけの試験だったんですけど…、でもオレはふざけて、わざと加減を無視して皮膚を深く噛み切って。見る見るうちに尋常じゃないほど血が出ちゃって、クラスの皆は『またか』って目をして笑うし、先生には叱られるよりも呆れられちゃって…。」 過去の失敗を話すイルカの声音は必要以上に明るく、カカシにはイルカの過去の何某かの傷が癒えていないことが痛いほどに伝わってきた。 「オレ、ガキの頃、ホントに落ちぼれで。クラスの皆に虐められこそしなかったけど、…いえ、虐められたり仲間外れになりたくなかったばっかりにオレはわざと道化を演じていたんですね。…そしてそのうち、それはオレの役割になってしまって。…挽回しようにも、そのレッテルはいつまでも付いて回って…。馬鹿みたいでした。オレは。」 「…そんなことないですよ。オレも同じです、イルカ先生。オレ…昔、ちょっとした事情で人の噂にのぼってしまったことがあって…。その噂のほとんどはオレにとって苦しい物で…、…だから、オレはわざと人の声を聞かなくなったんです。誰かの言葉にいちいち傷付く自分を鈍感にしたかった…。誰しもきっと、少なからずそうやって…色んな方法で自分の心を護っているんだと思います。…でも…結局オレには………いつしか大切な声までもが聞こえなくなっていました…。」 イルカを励ますつもりで話した自分の過去もまた完全には癒えていなかったのだということにカカシは今頃になって初めて気が付いた。 心に負った傷はそう簡単に癒えるものではないのだ。 …否、例え癒えたと思い込んでいても、それはある日突然鮮明に蘇り、過去と同じ強さで自分を苦しめ、時には次第にその強さを増していく。 「あっ、でも今はもうちゃんと聞こえますよ、大切な人の声。」 今にも、『余計なことを思い出させてしまってスミマセン…!』と土下座せんばかりのイルカの表情に気付き、カカシは声のトーンを上げた。 「イルカ先生の声なんか特に大きく…、っ……!?」 突然抱き締められた腕の強さにカカシは息を詰めた。 髪にイルカの指がするりと絡み、所々もつれた銀髪をイルカの指が撫で梳く。 「…汚れてますよ…?オレの髪」 「綺麗です。…とっても。」 確かにカカシの髪は埃で汚れてはいたが、その、けぶるように淡く儚い風情は少しも損なわれることはない。 暫く髪を弄ぶうち、撫でられる心地良さにか、カカシが瞼を下ろした。 瞼から視線を下ろせばカカシの唇はふわりと微笑むように閉じられていて、イルカはそれを掬い上げるように深く唇を重ね合わせた。 掻き抱くように互いの腕が交差する。 相手の傷を癒そうとしては自分の傷を抉る。誰かが自分たちの先の会話を聞いたら、それこそ『傷の舐め合い』だと嘲笑うことだろう。 けれども、それでも。 互いを強く求めるこの気持ちはどうすることもできない。 イルカの指先が薄手の上衣の上からカカシの胸に触れ、小さな突起に向かって円を描きながら徐々に円を狭めるように撫でる。 「は……、ぁ…あ……」 掠れた吐息の中、じきに指先が辿り着くことになるそこは快楽への期待に尖り、着衣越しに己を主張している。 「アア…」 指先が突起の周りの色付いた輪の辺りに達すると、カカシは力が抜けたようにイルカに縋り付いた。 「…カカシ先生、ここは…? 触っても?」 「……ッ…は…、」 円の中心に軽く触れて尋ね、カカシが頷き終える前にそれを捏ね回す。 「…っア…!はぁあ……イルカ…せんせ…ああ…」 表皮の感覚だけに全ての意識が吸い寄せられ、カカシの思考は空洞になる。 「噛んでもいいですか…?」 「…ハ…イ」 虚ろに頷くカカシの着衣をたくし上げると、そこに覗いた二粒の突起が鮮やかにイルカの目に飛び込んだ。 突起の付け根を強く噛みながら、紅いそれを口唇できつく吸い上げる。 「ぅう…ッ…、あ…はァ………」 イルカの肩にカカシの爪が食い込み、イルカの舌は血液の微かな甘みを感じ取る。 「ハァ…ッ、ぁあ…っ…、待っ、て」 腰元から下着の中に性急に滑り込んでくるイルカの手が、不意にカカシを現実へと引き戻した。 「イ…ルカ、先生、その仕事は…、終らせなくていいんですか…?」 「…えっ…?………あ…、あー、そういやそうでしたね…。」 ハッとした態で頬を掻くイルカに、カカシは綻ぶように微笑んだ。 イルカは本当に仕事のことを失念していたのだろうか。 それとも、これも彼ならではの優しさだろうか。 どちらにしろ、カカシは、本当に至急の仕事であるならばそちらを優先してもらいたかったというだけのことで、断じて水を差したかったわけではない。 「まあ、でも、何事も臨機応変にってことで…。仕事は後で急いでやります。…その、元々時間の余裕を見てありますし」 だから続きをしましょう。…そう言って照れくさそうに笑うイルカに、カカシもニコニコと同意した。 仕事に差し支えさえ無いのなら、この火照った身体を今すぐどうにかして欲しかった。 …が、 「でも、まずは本当に消毒してからにしましょうね。薬箱取ってきます」 カカシの身体をひょいと脇に退け、イルカはスタスタと行ってしまった。 「え!?ちょっ…!?イルカ先生…!」 人を煽るだけ煽っておきながら何故今更消毒などと言い出すのか、カカシは情けないほどに眉を寄せた。 イルカ宅の薬箱は寝室に置いてある。 カカシがイルカの後を追ったのは言うまでもない。 しかし。 カカシが自分を追って来るだろうことはイルカも予測済みだ。 まさにこれからという時に『急ぎの仕事』を思い出させられた逆恨みも相俟って、先程までの数多の憂いも何処へやら、カカシを最短記録で昇天させてやろうとベッドで待ち構えているイルカであった。
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月士遥日様から頂いた、イルカカらぶらぶSS。 ああもう、イルカカってやっぱいい………v 私の押し付け絵にSSつけて下さったのです。 描いた絵にSSつけて頂くのって、初めてだったので嬉しかったですね。 絵がヘタレなのはこの際横に置いといて! 甘えたさんなカカシが可愛いしイルカ先生が余裕だし! も〜幸せ………vv 本当にありがとうございました!! 02/03/10 |