先生と歩く
とてもよく晴れた日に。 澄んだ青い空に可愛らしい白い雲がのんびりと浮かび、爽やかな風が草の匂いを運んで来 たりすると、思い出す光景がある。 ―――あの時傍にいたあの人はもういないのに、この風景と風の匂いは変わらない。 ゆっくり、ゆっくりと。 先生は歩いていく。 先生は背が高くて足も長いのに、オレよりもゆっくりと歩く。 オレは少しイライラして、どうしてもっと早く歩かないのかと先生にきいてみた。 先生は、びっくりしたような顔をしてオレを見下ろして。 そして、ふんわりと微笑った。 「どうしてそんなに急がなきゃいけないんだい?」 ……どうしてって。 だって。 ―――どうしてだろう。 オレは上手く言い返せなくて口篭もってしまった。 「……時間がもったいないから」 ようやくしぼり出した言葉は、まともそうなくせに何だかあまり説得力も無い言葉で。 それでも先生はうん、と頷いた。 「そうだね。そうかもしれない」 でもね、と先生は微笑う。 「急いで前ばかり見て走っていたら、他の事は何も見えなくなってしまうだろう?」 「…ほかのこと?」 先生は道端にしゃがむと、オレをおいでおいで、と手招きする。 その手に近寄ったオレは、先生の膝にひょいと抱き込まれてしまった。 「せんせいっ!」 先生はオレの抗議の声など無視して、片腕できゅっとオレの肩を抱く。 「ほらね、見てごらんカカシ。……こんな道端にも、綺麗な花が咲いている。花の蜜を求 めて、虫達が飛ぶ。季節になれば、田んぼの水の中にもたくさんの命が生まれて育つ。… それだけじゃなくて、もっともっとたくさん、ゆっくり歩けば歩くほど、急いでいては見 られないものがある」 オレはむすっと唇を尖らせる。 「そんなの、改めて見なくても知ってるでしょ? 先生」 「でも、先生は見たい」 オレは先生の顔を見上げる。 綺麗な水色の眼が、オレを見ていた。 「里の中の命は、人も犬も猫も鳥も虫も草も花も、みんな大事だから。…見て、心の中に 全部しまって、最期の時まできちんと覚えていたい」 それにね、と先生は空を見上げる。 「綺麗なものは、それだけで見る価値があるよ。ほら、カカシ…あの雲は?」 オレも空を見上げる。 青い空に白い雲。 「…積雲」 そーじゃなくて、と先生は苦笑する。 「何に見えるかって訊いてるんだよ」 「何に?」 先生の笑顔はちょっと悪戯っ子みたいになった。 「…カメに似てない?」 カメか。 言われてみればそう見えなくもないかも。 「もしかして先生、天気のいい日にずっと屋根の上で寝てるのって…雲が何に見えるとか 観察してるの?」 「そういう時もある」 ―――ヒマな人だ…… オレは身を捩って、先生の膝から抜け出す。 「先生は、もう色々知ってるし、強いし、だから雲がカメに見えるとか雑草に蜂が止まっ たとか見てても全然平気だろうけど! オレはそんなヒマないんだからっ! 雲なんかポ ケっと見てる間に、他のヤツは一つでも多くの術を覚えているかもしれない!」 先生は、それでも微笑ってオレを見てた。 「そうだね、カカシ…お前の言う事も間違ってはいない。…お前は今、真綿が水を吸い込 むように色々と吸収できる時期だから、急いで色々と覚えてしまいたいと思うだろう。… でもね、カカシ。よく噛まないで飲み込んだ食べ物はお腹がちゃんと消化できないから、 結局あまり身体の栄養にはならないものだよ」 「……あせるなって言いたいの?」 先生はにっこりと笑った。 「…カカシは賢いねえ」 草っ原を渡る風は、賑やかな子供達の声も切れ切れに運んでくる。 ―――アカデミーの子供達だ。…まだ、幼い声。 甲高い子供達の声に混じって、低いけどよく通る声も風に乗って聞こえてきた。 ああ、あの人だ。 きっと、野草の見分け方とか、そういう授業なのだろう。 子供達は天気のいい日に教室から出られたのが嬉しくてはしゃいでいる。 楽しげに浮き立つ子供達の『気』が、草の上に寝転ぶオレの所まで届いてくすぐったい。 こちらに近づいてくる。 オレに気づくかな、あの人は。 「こーら、男子! 勝手に遠くへ行くな! 女の子達もおしゃべりしない! それから指 示していない花を勝手に摘んじゃいけません!」 えー、せんせーのケチー、と女の子達のブーイング。 雑草でも可愛らしい花をつけるものはたくさんあるから、つい手折りたくなるのだろう。 オレは気配を殺しながらもついこっそり笑ってしまった。 彼も女の子達に負けず劣らずそういう野草の花を摘みたいはずだと言う事を知っていたか ら。 花屋で売っているきちんとした花より、そういう野草を少し摘んできてちょっとした所に 生けるのが案外彼は好きなのだ。 台所の流しの横とか、手洗いの中の小さな棚とか、出窓とか。 そういう何気ない所に可愛い花をつけた野草が生けてあるのを何度か見たことがある。 それも、きちんとした一輪挿しを持っていないのか、花瓶は牛乳ビンとか、清酒のワンカ ップを綺麗に洗っての再利用。 あの人らしいと言うのか、繊細なのか大雑把なのかわからない男だ。 もちろん、彼はその野草が何なのか知って摘んできているから、しばらく花を楽しんだ後 は乾燥させて薬なり毒なりにしてしまう。 『これは食べられる』とか言って、ワケのわからん雑草が料理になって出てきた事も数知 れない。 「授業が終わったらここで解散にしてやるから! そーしたら好きに遊びなさい!」 はーい、と子供達のいいお返事が合唱になる。 そーか、ココで解散か。 いいコト聞いちゃったなあ…じゃ、オレも大人しく授業終わるまで待っていよう。 「ほら、よそ見しない! タンポポは薬になるとこの間言いましたね。何に効くか覚えて いる人〜はい、小梅!」 元気良く手を挙げた女の子がハキハキと答える。 「タンポポはおなかに効きます! それから、えっと、えっと、お熱も下がります!」 はい、よく出来ました。 整腸作用に解熱ね。あと、利尿作用もあります。……アレもよくおひたしだとかきんぴら になって食卓に出てくるんだよね…てんぷらは苦手だって言ったらやめてくれたけど。腹 にいいとか言って、たんぽぽコーヒーも飲まされたっけ………ふ……オレやっぱ、あの人 になら簡単に毒殺されそうだよな…… 「よし、正解です。……絶対に食っちゃいけない野草もありますから、そっちを先にきち んと覚えておくことー! 間違って食うと、腹を壊すだけじゃ済まない物もありますから 注意しましょう」 「せんせー、それって毒草? 死んじゃう?」 「死んじゃいます」 先生は涼しい声で答える。 途端、ぎゃーとかわーとかやかましい声が響き渡った。 パンパン、と手を打つ音。 「はいはい、静かに。だからちゃんと覚えましょう。毒草、薬草はクナイや手裏剣と同じ です。扱いひとつで人を傷つけ、殺し、そして生かす。…覚えておけば、絶対に君達を助 けてくれます。…ただし、ひとつ忘れないように。草も花も、生き物です。君達と同じ、 ひとつの生命である事を忘れて、むやみやたらに摘み荒らしたりしないように」 はーい、と子供達の声。 オレも心の中で「はーい」と返事をする。 はーい、先生。 オレの『先生』も同じコトを言ってました。 草も花も虫も『生命』だと。みんな、大事だと。 嬉しそうに花びら撫でて、おもむろにソレむしって、『今夜はコレ炒めて食べようね』なん て言ってニコニコしてた。 『大事にする』ってのは『無駄にしない』って意味もあるんだな。 あ……オレの『先生』と先生って、変な所がよく似てるかも。 他の人なら見逃してしまうような些細な事や物で喜んで、飽きずに眺めていたり。 そういや、何となく会話が説教臭くなるトコとか、貧乏性なところとか、妙に世話焼きた がるところとか…あー、それでいて、手を出したらオレの為にならないと判断するや絶対 に手を貸してくれないところもそっくり。 「………似ている…って…?」 まさか、オレは『先生』とあの人のそういう共通点を無意識に感じ取って―――? 「………………………」 オレは笑った。 それはない。 『だから』あの人が好きになったわけじゃない。 落ち着いて考えれば、共通点より相違点の方が多いんだから。 オレがボーっと考え事をしているうちに授業は終わったようだ。 子供達の賑やかな気配が遠くなっていく。 彼はまだ近くにいるみたい…だけど…んんん? ちょっと! そっちじゃないって! オレはこっちですせんせー…ああ、行っちゃう…? あーれ、気配殺しすぎたかなー…あの人、気付いてくれなかったのかなー…仕方ない、起 きるか。 オレはよっこいしょ、と頭を起こす。 と、彼は微笑んでこちらを見ていた。 手には、野の花々。 ―――何だ、花摘みしてたんですか…… 「…それ、今夜のおかず?」 「そうですね。…三分の一程は」 コレはアク抜きしておひたしにすると案外イケますよ、と笑ってる。 オレに驚かないとこみると、やっぱりいるの知ってたな? 「後の花はしばらく眼を楽しませてもらおうと思って。……俺はもう直帰するつもりで出 てきましたが。貴方は? 一緒に帰ります?」 ええ、一緒に帰ろうと思って待ってました。 そんなの、知ってるくせに訊くんだから。 「帰りますよ。…一緒に」 ゆっくり、ゆっくりと。 先生は歩いていく。 その腕には野の花。 穏やかな微笑を浮かべ、時折空を仰いでは白い雲を眺め。 オレも彼と一緒にゆっくり歩く。 急ぐ事ばかりが時間の使い方ではないと、今ならわかるから。 何を大事にしたくて彼がゆっくり歩いたのか、今なら痛いほどわかるから。 急ぐ必要のない時は、ゆっくり歩いてこの時間を大事にしよう。 どうせ、急ぐ時は死ぬほど急がされる。 「おっと、てんとう虫。何で地べたにいるんだお前ー踏んじまうだろ」 彼は小さな赤い虫をひょいと摘まんで、葉っぱの上に乗せてやる。 緑の葉に、赤いその虫がしがみついている様は何とも可愛く、綺麗に見えた。 オレ達はしばしその小さな光景を一緒に眺める。 静かで、優しい時間。 やがて腰を伸ばした彼は、笑ってオレに手を差し伸べた。 「…行きましょうか、カカシさん」 『世界』が綺麗で愛しいものに見えるのは、貴方が隣りに在るからかもしれない。
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同人誌『先生と歩く』(03年6月発行)に書き下ろしたSS。 四代目とカカシくん+イルカカ。 ・・・これってどっちだろうと思ったんですが・・・ やっぱイルカカかしらとも思いますが、掲載誌が四代目本だった からこちらにUP。 ・・・一度も『イルカ』とは書いてないし。(笑) 2004/5/6 |