「………ごめんね、ミナトちゃん。………少しの間、このままでいて………」
どうしたんだろう、サクモさん。
「サクモ、さん?」
サクモさんは、黙って僕を抱き込んだ。
僕はどうしたらいいのか、わからず―――取りあえず彼の腕の中に大人しく納まって、彼の胸元に頭を預けてみる。
とくん、とくん、とサクモさんの鼓動が伝わってくる。
―――良かった。心拍数は正常だ。
体温も、これくらいなら正常と言えるだろう。(まだ少し低い気がするけど、低体温の原因がチャクラ切れだから仕方ない)
彼の具合が酷く悪いわけでは無いと判断した僕は、身体の力を抜いた。
こういう優しい抱擁を、僕はこの木ノ葉に来てから初めて知った。
生まれた村では、僕は奇妙な子供でただの厄介者だったから、可愛がってくれる大人はいなかったし。村から僕を引き取ってくれたお寺の和尚様は、頭を軽く撫でてくれる事は稀にあったけど、それ以上の接触は無かったからだ。
木ノ葉の人は、僕を気味悪がらないから。
僕以上に(外の人にとっては)異様な能力を持っている人がたくさんいる忍の里では、僕は普通の子供でいられる。
不安がって泣いた僕を、腕に抱いて慰めてくれたお師様。
初対面の時に、抱きしめて歓迎してくれたツナデ様。
白い牙、と呼ばれて他の里の人達に恐れられているサクモさん(サクモさんの事も最初、サクモ様って呼んでいたのだけど、ご本人が嫌がるので『さん』になったのだ)も、僕にいつも優しくしてくれる。
こうした抱擁も、初めてじゃない。僕の誕生日を祝福してくれたり、僕が落ち込んでいる時に慰めてくれたり。
そうした度ごとに、サクモさんは優しく抱きしめてくれた。
………サクモさんは今、どうして僕を抱いているのだろう。
サクモさんは、『少しの間、このままでいて』欲しいと言った。
―――彼のこの抱擁は、いつものような『与える』抱擁じゃなく、『求める』抱擁だ。
不安にかられた僕が、お師様の温もりを求めたように。
彼も、僕に何かを求めているのだろうか。
温かくて、ほのかな石鹸のいい匂いがする彼の腕の中にいるのは、決して不快ではなく………むしろ、何だか癒されているような感じで、心地の良いものではあったけれど。
僕は彼が心配になった。
こんな事を言ったら失礼だけど、サクモさんは、小さな子供がぬいぐるみを抱きしめて心の安定をはかろうとするかのように、僕を抱きしめている。
何か、あったんだろうか。
「………あ」
さっきから時々僕の髪を撫でていたサクモさんの指が、止まっているのに気づく。
「………サクモ…さん?」
反応が無い。
………どうしよう。
サクモさん、御飯を食べないで眠ってしまった。
僕を、腕に抱いたまま。
動くに動けず途方に暮れていると、玄関から戸を開ける音が聞こえてきた。
お師様が、帰ってきてくれたのだ。
よ、良かった………この絶妙のタイミングに、ホッと身体の力が抜ける。
以前は玄関で豪快に帰還を告げてくれたお師様も、カカシ君っていう赤ちゃんがいる事を慮って、最近は結構静かに家にあがってくる。
部屋の戸口で僕の有様を見たお師様は、渋面を作ってため息をついた。
「………今、帰ったぞ」
「お、お帰りなさい、お師様。………あの………これは………」
「ああ、言わんでもいい。…わかっとるわ。………まァたやっとるんか、この人は」
………え? 何ですか? 『また』って。
思わず眼で問う僕に、お師様はフッと苦笑いを浮かべた。
「………サクモさんも今日、帰ってきたのか?」
はい、と僕は頷いた。
「チャクラ切れを起こして、お風呂場で動けなくなったんです。………たぶん、まだそれ程回復はしていないと思います」
「そうか。………なるほどのォ」
お師様は、僕を抱きしめている彼の腕に手を掛け、低くあやすように彼の耳に何か囁いた。
と、サクモさんの腕が緩む。
「大丈夫だ。下がれ、ミナト」
「はい」
僕が身を引くと、お師様は眠っているサクモさんの状態を素早く確認した。
「…床の用意は?」
「すぐ、します」
「頼む」
奥の部屋に急いで布団を敷き、居間に戻る。
「お師様」
お師様は、サクモさんの上半身を支えていたが、僕の顔を見て彼を抱き上げた。ああ、やっぱ軽々だなあ。
「そんな顔をするな、ミナト。サクモさんなら、大丈夫だからの。………ま、本当なら二、三日医療棟にぶち込んでやりたいところじゃが。単なるチャクラ切れなら、寝かせておけば何とかなる」
「………はあ」
僕が納得していないのを察したのだろう。
お師様は笑って「後で教えてやるから」と言い残し、彼を奥に運んでいった。
―――お師様は、何を知っているのだろう。
僕は大きく息を吐く。
取りあえず、僕は僕の仕事をしよう。
お師様の為にもう一度お風呂を沸かし返して、お酒と食事の支度。
それから、そろそろカカシ君のミルクを作らなきゃ。
入浴を済ませたお師様は、いつものように晩酌を始めた。
僕は、カカシ君を膝に抱いてミルクを飲ませながら、自分の口にも夕食を運ぶ。
チラッと視線を上げると、お師様と目が合った。ふ、とそのお師様の目が和む。
「………ヤツは何か言ってたか?」
「え…あ、サクモさんですか? あの…チャクラ切れだから、休めば大丈夫だと………」
「お前を抱きかかえる前にそう言ったのか?」
僕は首を振った。
「…いえ。それは、お風呂場で言われたんです。……サクモさんは、僕を抱き寄せた後、少しの間このままでいて欲しい、と。………あの………お師様………」
お師様は、ぐっと杯を飲み干して息をつく。
「…ああ。ワシも前にやられた事があるんじゃ。ワシの時は、べったり背中に張り付かれたのだが。………たまに、だがな。あの人は心ン中で気持ちの折り合いがつかなくなって、物凄く不安定な状態になる事があるようでの。………大抵は、任務で精神的にキツイ事があった時だと思う。………以前ワシにくっついて来た時は、確か一般人の女子供まで手にかけなければならなくなった時だったか。何故殺さなければならないか、わかってはいても苦しい。…任務中は、心を殺せても……忘れられるワケではないからな」
………ああ、それは。
サクモさんの胸中を思うと、僕の胸まで痛くなる。さぞ、辛い思いをなさった事だろう。
「忍同士で闘う時は、平然としておるんだがのぉ。…相手も武器を持って、こちらを殺しに来ているってぇ場合は、奴さん独りで敵の部隊を殲滅しても眉一つ動かさん。…たぶん、何かのスイッチが入っちまっている状態なんだと思うが」
わかる、ような気がした。
それは彼にとって、『里』を、『仲間』を護る行為だからだ。
おそらくは、僕も同じ事が出来る、と思う。
―――お師様を。ツナデ様を。サクモさんやカカシ君を。木ノ葉の皆を護る為なら、自分の命を懸け、そして敵の命を絶つという覚悟。
「………今回は、いったい何があったのかわからんが。………ま、訊いても素直に吐くような人でもないしの。………とにかく、そういう状態の時、サクモさんは他人の体温とか、チャクラの波動とか…そういうもので精神の安定をはかろうとするようなのだな。………まー、言ってみればそれ以上の意味は無いんだが。すっ転んだガキんちょが、かーちゃんに抱きつくのと大差無い」
………随分な言われよう………いや、僕もさっき似たような感想は抱いたけど。
でも、『何かを求めている』ように感じたのは、間違ってはいなかった…わけだ。
ハハ、とお師様は笑って僕の顔を見る。
「………お前なら、大丈夫だと思ったんだろうの」
「………え?」
「誰かれ構わず、むやみやたらに抱きつくのはよせ、と言っておいたんじゃ。…ま、何だ。サクモさんはあの通りのツラだろうが。抱きつかれた方は、誤解する可能性大じゃろう? 誘ったと思われて、押し倒されたりしたらコトだしな」
「そ…そうですね」
………それはとっても危ないと、僕でも思う。
そういう状態になるのは、任務の後だろうし。任務の後なら、今日みたいにチャクラ切れのバテバテでロクに動けないって事もあるはず。
ヘンな人に抱きつかないでくれて、良かった。
「まー、そういうわけじゃ。………お前は少々驚いただろうが、もしかすると奴さんの精神安定剤としてはお前くらいがちょうど適任だったのかもしれんの」
「………僕で、サクモさんの助けになれるというのでしたら………」
ああして少しの間抱きつかれるくらい、全然構わないのだけれど。
「滅多にあることではないから、そう心配そうな顔をするな。…むしろ、頻繁にやっとるのは、チャクラ切れの方だ。…まったく、ムチャばかりする………」
彼の冷たくなった身体を思い出して、僕は思わずゾッとした。
「そ、そっちの方が心配じゃないですか。…下手をすれば命にかかわるのでは………」
「あー………まあ、のぅ。でもま、あの人には大抵の場合、献身的な部下…つーか、親衛隊のような連中が任務に同行しておるから、滅多なことはないと思うが」
「親衛隊………?」
「ほれ、お前がカカシをここに連れてきた時、その前にサクモさんの事を知らせに来た中忍がおっただろう。あれのような奴等よ。…任務の後、サクモさんの調子が悪そうな時は、彼が大丈夫か、そっと家までついて来ておるらしい。…家に帰ったつもりが、いつの間にか医療棟のベッドで寝ていた事もあるらしいぞ。………本人がそう言って笑っておったわ。まったく、呑気な人だ」
つまり、家にはたどり着いたけどそこで倒れちゃったりして、それを見ていた部下さん達が勝手に医療棟に運んじゃうわけですね。………ああ、サクモさんったら………
「………彼が、何の為に、誰の為に身を削っておるのか。………一緒に任務に就けばわかる事じゃ。………だから、皆心配するし、彼を放ってはおかない。…彼が倒れる寸前まで力を使う分、その任務で殉職する人間が減るのだから」
胸を、何かで突かれたような感じがした。
強い、強い、人。
あの優しい両手で、幾人もの敵を屠り、その何倍もの仲間の命を繋ぐ。
そうして抱え込んだ、命の重さ。
彼が、時折他人に縋りつきたくなるのを、誰が責められるだろう。
さっき彼が言った、『満月でも新月でも月は月』という言葉が唐突に思い出される。
角度や条件が異なれば違って見えるものでも、本質と真の姿は変わらないという意味だ。
僕に向けられた言葉だったけど、あれはサクモさんの事でもある。
一騎当千の圧倒的な力を持つ、忍の顔。
奪った命の重さに挫けそうになる、ごく普通の人間としての顔。
でも、どちらも彼。
僕の知る、優しい『はたけサクモ』という人だ。
「ミナト、哺乳瓶の中が泡だけになっておるぞ」
お師様に言われて、ハッとして手元を見る。
いつの間にか、カカシ君はミルクを飲み終わっていた。慌てて縦に抱いて、カカシ君の背中を擦る。
「ふむ、手馴れてきたのう」
「…はい、だいぶ」
「カカシの世話をするのは、面倒くさいか?」
「は? いいえ、そんな事は。…だってカカシ君、可愛いですし」
「その親は、風呂場でぶっ倒れたり、突然抱きついてくるような面倒くさいヤツだが」
僕は思わず笑ってしまった。
「サクモさんがそれをするのが、ウチで良かったなって思います」
そうか、とお師様は苦笑した。
「あの親子をここに引き止めたのはワシだが、実際に世話をしておるのは、お前だ。…お前の負担になっておるのなら………と思ったのだが」
僕はぶんぶんっと首を横に振った。
「いいえっ! 僕、そんな事ちっとも! 僕………その、嬉しいんです。僕でも人の役に立てているって思えるし、家族が出来たみたいで………」
カカシ君は、僕の膝の上でウトウトしている。
カカシ君がもっと大きくなったら、サクモさん達はここを出て行ってしまうのだろう。
将来はきっと、この子がサクモさんの支えになっていくはずだ。
僕の役目は、それまでなのだとしても。
―――でも、それまでは。
「………大丈夫、なのだな?」
「ハイ!」
お師様の念押しに、僕は大きく頷いた。
そして次の日の夕方近く、やっとサクモさんは眼を覚ました。
「寝溜めが出来るなんて、器用な人だのぉ」と彼をからかいながらも、お師様はツナデ様を呼びに行った。
皆に世話をかけてしまって、とサクモさんは申し訳なさそうに謝るけれど。
貴方が謝ったり、申し訳ないと思う必要なんか、どこにも無いと僕は思う。
だって、里の為に戦って、疲れてしまっただけなのに。
僕に出来ることなら、何でもして………あ、そうだ。サクモさんのお世話がしたかったら、僕も彼に甘えなきゃいけないのだった。
彼は、『君が甘えてくれるなら、僕も君に甘えよう』と言ってくれたのだから。
………でも『甘える』って、どうやったらいいんだろう。
何かおねだりしてもいいのだろうか。
術を教えてください、とか。修行を見てください、とか?
………それはいきなり図々しいかなあ。
うーん、結構難しい問題かも。
後でお師様にお伺いしてみようかな。
今は、取りあえず。
ツナデ様に思いっきり苦そうな薬湯を飲まされて、涙目になっているサクモさんに、彼の好きな果物でも持っていってあげよう。
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