逃げ水 8
「へえ、案外綺麗にしてあるじゃないか。お前の事だから、掃除はさぼってると思ってた よ。エライエライ」 退院してきたイルカは、部屋に入るなりそう褒めてくれた。 頑張って掃除しておいて良かった、とカカシはホッとする。 イルカはまだ松葉杖を使っているから、歩行に邪魔になりそうな物もリビングから撤去し ておいたし。 「お前がいない間ほったらかししたらゴキちゃん出ちゃうでしょー。オレだってゴキと同 居はヤダもん」 「ま、そりゃそーだな。でも、前より綺麗に見えるぞ。お前もやれば出来るんじゃないか」 「そりゃどーも」 イルカはゆっくりと部屋の中央まで入り、辺りを見回す。 「……帰って…来たんだな…何だかすごく…何年も帰れなかったような気がする…」 と小さく呟き、床をコン、と松葉杖で叩いた。 「イルカ〜、まだちゃんと治ったワケじゃねえんだからさ、ウロウロするなよ。座ってろ って。お茶飲む? コーヒーの方がいいか?」 イルカは苦笑した。 「お、何だかお前甲斐甲斐しくなったねえ。サクラさんじゃないけど、びっくりだ。…ん じゃ、お言葉に甘えてコーヒー。キリマン」 カカシは肩越しに振り返って舌を出した。 「…言ったじゃん、愛は人を変えるのよって。……オレ、イルカのこと愛しているから。 キリマンジャロね。おっけー」 冗談めかした口調だった。 だが、カカシは冗談なんか言っていない。 イルカにもそれはわかっていた。 あの夜、病院の屋上で抱き合って交わした言葉とくちづけは真剣なものだったから。 あれきり、他人の目がある大部屋だった事もあり、彼らはキスひとつしていない。 こちらに背を向けてコーヒーメーカーをセットしているカカシの後姿を、イルカはじっと 眺めた。 その視線を感じたのか、カカシはぎくしゃくと振り返る。 「……何? …んな、見るなよ。キンチョーするじゃん」 イルカはちょいちょい、と指を曲げてカカシを呼ぶ。 「何?」 「いいから、来いって」 カカシはカチン、とコーヒーメーカーのスイッチを入れてから、イルカの座っているソフ ァまで来た。 「何だよ」 イルカは更に来い、という手振りをする。 ん? と上半身を屈めるカカシの手を、イルカは掴んで引っ張った。 「おわっ」 簡単にバランスを崩し、カカシはイルカの上に覆い被さるような格好でつんのめった。 咄嗟にソファの背を片手でつかみ、イルカの膝に座ってしまうというような事態だけは避 ける。 「何すんだ、こら。危ないなあ〜…オレだってさ、軽いわけじゃねえんだから……」 カカシは言葉を途中で途切れさせ、息を呑む。 イルカが彼の身体に手を回して抱き寄せ、その鼻先を彼のシャツにうめたので。 「……お前の匂いだな…」 身体の中にずきんと甘い疼きが生まれ、カカシはそのまま息を止めた。 シャツ越しに触れるイルカの息遣いに狼狽し、返事も出来ない。 「…あのな…お前、俺に血をくれただろ……」 低いイルカの声が、鳩尾の辺りから直に響くようで。 カカシはそっと息を吐き出し、自分を落ち着かせようとした。 「……うん…」 「…お前の血がずっと俺の身体の中に流れている…俺のものになったのだと思ったら、何 だかもの凄く嬉しかった…」 イルカはきゅ、と腕に力を入れた。 「……嬉しかったんだ……」 カカシはおずおずとイルカの頭を片手で抱く。 「生きていて良かった…と、思った。あの事故でもし死んでいたら、俺は自分の気持ちに も気づかないまま死ぬ所だった…」 ありがとうな、とイルカの声がカカシの中にじんわりと染み入る。 カカシとイルカの血液型が同じだったのは偶然だ。 だが、カカシは改めてその偶然に感謝した。 そのおかげで彼はイルカの命をこの世に繋ぎ止める事が出来たし、どうやらイルカの中に 深く消えない絆を―――この顔の傷と同様に―――刻みつける事になったらしい。 そしてカカシは、あの事故はイルカの心にも変化をもたらしていたのだと知った。自分と 同じ様に――― 「イルカ…」 カカシが呼ぶと、イルカは腕の力を緩めた。 「キス、していい?」 「バカ。改めて訊くなよ」 カカシは唇を尖らせる。 「何でだよお。んじゃ、今度から何も言わずにするぞ」 イルカは少しあきれたような顔をした。 「……そういう問題じゃなくてだなあ、今の雰囲気なら訊くまでもないだろうが」 「…なら素直にいいって言えよ」 イルカは微笑い、拗ねたカカシの唇を軽くついばんだ。 カカシはそのまま床に膝立ちになり、ソファにかけたままのイルカと唇を合わせる。 久し振りのキス。 唇を合わせているうちに、先程カカシの中に生まれた甘い疼きが、強く大きくなった。 カカシは慌てて身を離す。 「カカシ…?」 カカシは赤くなって、ぎくしゃくとイルカの腕から逃れようとした。 「…ダ、ダメだ…オレ、これ以上は…その……」 イルカはそのカカシの様子に眼を細めた。 「……したくなった…?」 カカシはいきなりソファの上のクッションをつかみ、イルカの顔に叩きつける。 「イルカのバカヤロー! そーだよっ! してえよ! 何ヶ月お前とヤってねえと思って んだよっ! …でも…」 イルカは咄嗟に横を向き、クッションの直撃を避けていた。 クッションを片手で退けて、眉を寄せる。 「でも、何だよ。それで何で俺をぶっ叩くんだよ、お前は。…変なヤツだな」 「だって! イルカは……うわわっ」 言いよどんだカカシの身体を容赦なくイルカは抱き寄せた。 「俺が何?」 カカシは赤くなって俯く。 「…お前は…真昼間から…そう言う事……するの嫌なんじゃ…ないかって…」 だから、とモゴモゴ呟くカカシのシャツのボタンをさっさとイルカが外し始める。 「イルカぁ?」 カカシは素っ頓狂な声を上げてうろたえた。 イルカは少しムッとしたように唇を曲げて、カカシを軽く睨んだ。 「…お前ね、俺を何だと思ってんだ? 俺はお前と同い年のただの男だぞ? 好きだって 自覚した相手と久々にキスして、俺がなーんにも感じてないとでも思ったのか? 何ヶ月 もヤってねえのは俺だって同じだぞ。ここは俺とお前の家で、誰の目も憚る事はない。俺 がその気になって何がおかしいんだ」 「だって…お前…まだ脚とか…完治してねえし…」 イルカはぷっと噴きだした。 「前はよく、人の上に乗っかってたクセに。…お前が動けばいいだけだろ?」 「……う…」 カカシは真っ赤になって顔をそむけた。 その間にもイルカの手はカカシのシャツをはだけさせ、肌にじかに触れる。 カカシはその感触に身体を震わせた。 もう、ダメだ。 ―――堕ちるしかない。 「…ソファでする気?」 やっとの事、搾り出したカカシの声は掠れていた。 「どこでもいいよ」 応えるイルカの声はどこまでもいつも通り、憎らしいほど平然としているのに。 その手は休む事を知らず、カカシを翻弄する。 コーヒーのいい匂いがリビングに広がる中、カカシは自棄のように自分で残りの衣類を床 に脱ぎ捨て、イルカの服も剥ぎ取りにかかった。 「も、どーなっても知らねえからな」 潤んだ眼で呟くカカシの身体を、イルカはゆっくりと撫でて微笑った。 「うん。…大丈夫さ」 そしてカカシが知ったのは、『幼馴染み』から『恋人』になった男も自分に負けず劣らずの 結構なケダモノだと言う事だった――― (あーも、我ながら信じらんねー…) イルカは苦笑して久々に見る自分の部屋の天井をぼんやり眺めていた。 退院したて、しかもまだ治りきっていない身体で。 ソファで1回。 ベッドで2回。 互いに一度火がついた身体は飽くことを知らず。 これ以上はマズイかもしれない、と頭の隅で考えながらも途中でやめる事は出来なかった。 幼馴染みの親友。 同性で、結婚も出来ない相手に惚れてしまった。 だが、イルカは後悔していない。 何が何でも自分の血を残したいとは、イルカは思っていないから。 子孫を残す為に適当な相手と結婚するくらいなら、子を作れなくても愛しい相手と暮らし たい。 少なくとも今はそう思う。 病院で同室だった中年の刑事が、孤児のナルトを引き取ったのを見てから、ああいうのも 一つの選択肢だと思えるようになったのも大きな原因だった。 カカシはきっと、そんな先の事など考えてはいないだろう。 だけど、このまま一緒に暮らしていくなら、いずれはぶつかる問題だ。 (…お前次第だけどな…お前が誰かとちゃんと結婚したいって言ったら…俺に止める権利 はないけどな…) まかり間違えばあの事故で自分の人生は終わっていたのだから。 それを考えれば、子孫を残せるかどうかなど、小さな事だった。 今カカシを抱いて、改めてその思いは強くなった。 自分の手に、愛撫に、過敏なほど反応し、応えるカカシが愛しくてたまらない。 イルカは傍らで寝息を立てているカカシの髪を撫でた。 その安らかな寝顔に、イルカは安堵する。 嫌な夢はもう見ないのだろうか。 自分がいない間、独りできちんと眠れていたのだろうか。 少し、痩せていた。 元々ほっそりしていたカカシだったが、久し振りに触れた彼の身体は更に肉が落ちていた。 きっと、あまりきちんとした食事をしていないのだろう。 「痩せちまって…やっぱ、俺がちゃんと食わせてやんなきゃダメか…」 イルカの独り言に、眠っていたはずのカカシが応えた。 「……イルカと一緒ならオレだってちゃんと食うよ…」 「カカシ?」 カカシは眼を薄っすらと開けた。 「独りで食うメシ、ちっとも美味くねえんだもん…」 イルカは微笑む。 「…明日、卵焼き…ダシ巻きの、作ってやるよ」 自分の好物の名前にカカシは一瞬ふわっと微笑を浮かべたが、急に真面目な顔になって頭 を起こす。 「……オレね、オレも料理覚えるよ。…もっと、お前に負担かけないように色々覚えるか ら…」 「…カカシ?」 「オレ、ちっとも可愛くなんかないけど。…イルカにいっぱい手間かけさせちまうけど…」 「カカシ…」 カカシは一生懸命訴える。 「でも、オレ…オレ、頑張るから。だから、イルカ…」 イルカも思い出していた。 以前、自分が言ってしまった言葉を。 『料理を作ってくれる、手間の掛からない可愛い嫁さんがいい』 ―――あんな軽口を気にして。ずっと、覚えていたなんて。 イルカはカカシに軽くキスした。 遠い将来の事は、見えていながら追いつけない逃げ水のようだ。 今この時から見れば、過去も未来も全ては幻。 ならば、一番大事にすべきは今、この瞬間。 「……そのままでいいよ」 「…イルカ…?」 「お前は、そのままで可愛いよ」 イルカの言葉がきちんと頭に浸透する数秒の間押し黙っていたカカシは、徐々に赤くなっ ていった。 カカシが伸ばした手を、イルカがしっかりと握った。 「…お前、俺のパートナーになってくれるんだろ?」 微笑みかけるイルカに、カカシは黙ったまま何度も頷いた。 イルカを自分に『返して』くれた、全てのものに感謝しながら――― |
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思えば、『間』1話目でカカシのおねだりに応じてダシ巻卵焼きを作ってやっていた時点でイルカさん終わってたような。(笑) だらだら書いていた大学生編、後日談・完。 同性同士で結婚できるのはオランダでしたっけ・・・? 海外移住して結婚するのも手です、イルカさん。(<本当にやりそう・・・;) 蛇足ながら申し上げますと、忍者のカカシさんはこのお気楽世界のラブラブな結末を「あの時点で」夢で見ていて知ってるんです。(<ムゴイ)
長々お付き合いありがとうございました!! 2001/9/10〜2003/5/17 |